新章 第三話 全会一致のつくり方
第三話 全会一致のつくり方
吾輩は、全会一致というものが、たいへん苦手である。
反対意見がひとつもないというのだから、聞いただけでは、実に結構なことである。人民が互いに理解し、十分に話し合い、誰もが納得したうえで、ひとつの結論にたどり着く。そういう光景を想像すれば、吾輩も思わず拍手をしたくなる。
しかし、吾輩はこれまでの経験から、拍手というものが、必ずしも賛成を意味しないことを知っている。
会議が長すぎて、手を叩いて終わりを促している者もいる。
昼食の時間が近づいたため、議題の内容にかかわらず賛成する者もいる。
隣の細菌が拍手を始めたので、何となく手を叩く者もいる。
そして、何より不思議なのは、拍手をしなかった者まで、会議録の上では賛成者に数えられる場合があることだ。
吾輩は、こうした現象を研究するために、中央行政区の人民議会へ出向くことにした。
もちろん、研究を命じられたわけではない。
吾輩は役職を持たない。
役職を持たない者には、仕事がない。
仕事がない者には、仕事を命じる者もいない。
したがって、吾輩が何をしようと、少なくとも勤務規則に違反する心配はないはずである。
ただし、規則には、仕事をしていない者が仕事をしているように見えることを禁じる条項がある。
この条項については、まだ解釈が定まっていない。
吾輩は、そこに希望を見いだしている。
### 一 議会は人民のためにある
人民議会は、腸内人民共和国でもっとも立派な建物のひとつである。
正面玄関には、金色の文字で、こう刻まれていた。
**人民の声を、人民のために。**
たいへん立派な標語である。
ただ、吾輩は以前から、標語というものには、実行されていないことほど大きな文字で書かれる傾向があるのではないかと疑っている。
「整理整頓」と書かれた机の上が散らかっていることは珍しくない。
「時間厳守」と掲げた会議が定刻に始まらないこともある。
そして、「人民の声を、人民のために」と掲げた議会では、人民が声を出すために、まず発言申請書を提出しなければならなかった。
申請書には、発言者の氏名、住民登録番号、所属地区、発言予定時間、発言の要旨、発言の目的、発言によって生じる可能性のある影響を記入する欄がある。
吾輩は、受付の細菌に尋ねた。
「発言の目的が、まだ分からない場合はどうすればよいのでしょう」
「目的を明確にしてから、お申し込みください」
「発言してみなければ、自分が何を言いたいのか分からない場合は?」
受付の細菌は、困ったように眉を寄せた。
「その場合は、発言内容を整理していただく必要があります」
「整理するために発言したいのですが」
「発言するためには、整理が必要です」
吾輩はうなずいた。
またしても、よくできた仕組みである。
この国では、何かを始めるために、始める前から完成していなければならないことがある。
吾輩は発言を諦め、傍聴席へ向かった。
傍聴席にも規則があった。
拍手は、議長が許可した場合に限る。
野次は禁止。
議事の進行を妨げる行為は禁止。
議員への質問は禁止。
議員への直接の呼びかけは禁止。
そして、傍聴者は、議会の意思決定に影響を与えてはならない。
吾輩は、最後の条項を読んで、感心した。
人民の声を聞くための議会に、人民が意思決定へ影響を与えてはならないというのである。
なるほど。
声を聞くことと、声によって何かが変わることは、別の問題なのだ。
吾輩は、そうした区別を次々と発明できる細菌たちの頭脳に、ある種の敬意を抱き始めていた。
### 二 議題は、すでに決まっている
その日の議題は、「腸壁地区の生活環境改善に関する基本方針」であった。
議長が木槌を叩くと、議場は静かになった。
「本日の議題は、すでに関係各局との調整を終え、統計局の調査結果に基づき、事務局で整理されております。各議員におかれましては、建設的なご意見をお願いいたします」
建設的な意見というのは、どのような意見なのだろう。
吾輩は考えた。
建物を建てる意見であろうか。
道路を整備する意見であろうか。
それとも、すでに決まった方針を、いっそう立派に見せる意見であろうか。
議長は続けた。
「なお、本議題につきましては、事前調整において、おおむね全会一致の方向性が確認されております」
吾輩は耳を疑った。
まだ議論が始まっていないのに、全会一致の方向性が確認されている。
これは、実に先進的な政治手法である。
走る前からゴールに着いているのだから、競走に負ける心配がない。
議場の前方には、統計局長が座っていた。
彼は、たいへん落ち着いた声で報告を始めた。
「腸壁地区における生活環境については、各種調査の結果、総合的に良好な状態が維持されていることが確認されております」
吾輩は、第二話で見た掲示板を思い出した。
総合的に良好。
重大な問題は確認されていない。
調査票に記載されていない事項については、比較が困難。
あの文章が、いま、立派な議場の中で、さらに立派な声によって読み上げられている。
「一部に、行政サービスに対する改善要望が見られましたが、全体に占める割合は小さく、統計的には重大な偏りとは認められません」
統計局長は、そこで一度、資料をめくった。
「したがいまして、本方針については、人民の総意に沿うものであると考えられます」
議場のあちこちで、うなずく姿が見えた。
吾輩も、つられてうなずきそうになった。
資料は整っている。
説明も明快である。
数字も並んでいる。
それに、何より、ここにいる細菌たちは、吾輩よりもずっと立派な身分を持っている。
彼らが正しいと言うのなら、正しいのかもしれない。
吾輩は、自分の考えを疑った。
そして、すぐに気がついた。
吾輩は、統計局長の説明に納得したのではない。
納得しているように見える細菌たちを見て、自分も納得すべきなのではないかと思ったのである。
これは、なかなか厄介な問題だ。
自分の頭で考えたつもりでも、実際には、他人の顔色を見て考えを決めていることがある。
自我というものは、思ったよりも独立心が強くないらしい。
### 三 反対意見は、どこへ行く
議長は、質問を受け付けた。
最初に立ち上がったのは、中央行政区選出の議員だった。
「統計局のご説明に賛同いたします。調査方法も適切であり、報告内容にも疑義はございません」
議員は着席した。
次の議員も立ち上がった。
「私も、基本的な方向性について異論はありません」
三人目は、こう述べた。
「細部については今後の検討課題もございますが、現時点では、方針全体に賛成いたします」
四人目も、五人目も、似たようなことを言った。
吾輩は、会議というものが、同じ言葉を別の口から聞くために開催される場合もあるのだと知った。
やがて、議長が告げた。
「それでは、反対意見のある方は、挙手をお願いいたします」
誰も手を挙げなかった。
議場は静まり返った。
その静けさは、たいへん美しかった。
誰も争わない。
誰も怒らない。
誰も相手を否定しない。
まるで、人民全員がひとつの心を持っているかのようである。
しかし、吾輩は、傍聴席の端にいる小さな細菌に気づいた。
彼は手を膝の上に置いたまま、指先を何度も握り直していた。
顔はうつむいている。
反対したいのかもしれない。
ただ、反対することが怖いのかもしれない。
あるいは、反対したいのかどうかさえ、自分で分からなくなっているのかもしれない。
吾輩は、彼の気持ちを想像した。
そして、その想像を、すぐに疑った。
吾輩は彼のことを知らない。
彼が何を考えているのか、何を恐れているのか、なぜ手を挙げないのか、何ひとつ確かめていない。
ただ、彼の指先が動いているのを見て、物語をつくり始めたのである。
これは、吾輩自身が、統計局と同じ過ちを犯しかけているということではないだろうか。
目に見えるものから、見えない心を推測する。
推測したものを、事実のように扱う。
そして、自分が理解したと思った瞬間に、相手の本当の声を聞く必要がなくなってしまう。
吾輩は、急に恥ずかしくなった。
そのとき、小さな細菌が、ゆっくりと顔を上げた。
議場の前方を見ている。
しかし、手は挙がらない。
議長は、満足そうにうなずいた。
「反対意見は、ございませんね」
その言葉を聞いて、小さな細菌の指先が止まった。
吾輩には、その理由が分からなかった。
分からないまま、議長の声だけが、議場の天井に響いていた。
### 四 全会一致の条件
議長は、採決に入る前に、全会一致の意義について説明した。
「全会一致とは、人民が互いの立場を理解し、共通の利益を確認したうえで、同じ結論に至ることであります」
吾輩は、その説明に反対する理由を見つけられなかった。
たしかに、そのとおりであろう。
誰もが納得し、誰もが同じ結論に至る。
それは、理想的な状態に違いない。
問題は、その理想に到達したかどうかを、誰が、どのように判断するかである。
議長は、続けた。
「全会一致を実現するためには、意見の相違を乗り越える努力が必要です」
これも正しい。
「そのため、各議員には、議会の秩序を尊重し、建設的な議論に努めていただきます」
これも、正しいように聞こえる。
「なお、議事の円滑な進行を妨げる発言につきましては、議長の判断により、整理させていただく場合がございます」
吾輩は、少し首を傾げた。
意見の相違を乗り越えるために議論をする。
しかし、議論の進行を妨げる発言は整理される。
では、意見の相違が、議事の円滑な進行を妨げるほど大きい場合は、どうなるのだろう。
意見の相違を乗り越える前に、意見そのものが整理されてしまうのではないか。
吾輩は、そう尋ねたくなった。
しかし、吾輩は傍聴者である。
傍聴者は、議員に質問してはならない。
質問してはならない者が質問した場合、議会の秩序を乱したことになる。
議会の秩序を乱した者は、退場を求められることがある。
退場を求められた者は、議場の外に出なければならない。
議場の外に出た者の意見は、議事録に残らない。
吾輩は、結局、何も尋ねなかった。
自分の沈黙を、賢明な判断だと思いたかったのである。
しかし、賢明さと臆病さは、外から見れば、よく似ている。
本人にさえ、区別がつかない場合がある。
### 五 吾輩、発言する
採決が始まる直前、吾輩は立ち上がった。
なぜ立ち上がったのか、自分でもよく分からない。
ただ、あの小さな細菌の指先が、頭から離れなかった。
「恐れ入ります」
吾輩は言った。
議長がこちらを見た。
「傍聴者の方は、発言できません」
「承知しております。ひとつだけ、質問をしてもよろしいでしょうか」
「発言申請は提出されましたか」
「いいえ」
「それでは、発言できません」
「では、質問ではなく、独り言として申し上げます」
議場のあちこちから、小さな笑い声が漏れた。
吾輩は、少し安心した。
笑いが起きれば、まだ話が通じる余地があるような気がしたからである。
しかし、議長は笑わなかった。
「傍聴席での独り言も、議事の妨げとなる場合がございます」
「なるほど」
吾輩は座ろうとした。
ところが、その瞬間、口が勝手に動いた。
「全会一致というのは、反対する者がいないという意味でしょうか。それとも、反対する者がいても、それを反対として数えないという意味でしょうか」
議場が静かになった。
吾輩は、自分が何をしたのか理解した。
質問をしてしまったのである。
しかも、発言申請書を提出せずに。
これは、行政手続き上、相当に不利な立場である。
議長は、落ち着いた声で答えた。
「ご質問の趣旨は理解いたしました。しかし、本議会においては、適切な手続きに基づいて意見を集約しております」
「反対する者がいるかどうかは、どのように確認するのですか」
「挙手によって確認しております」
「挙手しなかった者は、賛成と判断されるのですか」
「反対の意思表示がなければ、議事の進行に従っていただいたものと理解いたします」
「では、反対したくても手を挙げられない者がいた場合は?」
議長は、わずかに間を置いた。
「そのような事態が生じないよう、議会では、自由な意思表示を尊重しております」
吾輩は、うなずいた。
答えになっているようで、答えになっていない。
しかし、議長の説明に誤りがあるとも言い切れない。
自由な意思表示を尊重しているという方針と、誰もが自由に意思表示できているかという現実は、別の問題だからである。
吾輩は、さらに尋ねようとした。
そのとき、議長の隣に座っていた事務局員が、吾輩に向かって一枚の紙を掲げた。
そこには、こう書かれていた。
**傍聴規則違反のおそれがあります。発言をお控えください。**
吾輩は、座った。
結局、吾輩もまた、沈黙を選んだのである。
自分の声を封じられたからなのか。
面倒なことに巻き込まれたくなかったからなのか。
それとも、ここで騒ぎを起こしても、何も変わらないと思ったからなのか。
吾輩には、分からなかった。
ただ、座席に腰を下ろした瞬間、妙な安堵を覚えた。
これ以上、責任を負わずに済む。
これ以上、自分の言葉を説明しなくて済む。
これ以上、間違える危険を冒さなくて済む。
その安堵に気づいたとき、吾輩は、自分の中にも小さな議会があることを知った。
そこでは、いつも何人もの自分が話し合っている。
正しいことを言いたい自分。
嫌われたくない自分。
誰かを助けたい自分。
面倒を避けたい自分。
そして、何もせずに済ませたい自分。
議長を務めているのは、どうやら、いちばん声の大きい自分らしい。
### 六 反対者は、いなかった
採決が行われた。
議員たちは、賛成の札を掲げた。
反対の札は、ひとつも上がらなかった。
議長が宣言した。
「本方針は、全会一致で可決されました」
拍手が起こった。
今度は、傍聴席にも拍手が許された。
吾輩は、手を叩かなかった。
拍手をしないことで、何かを示したかったのかもしれない。
しかし、誰も吾輩を見ていなかった。
議場では、すでに次の議題の準備が始まっていた。
全会一致の記録が作成され、議員たちは互いに労をねぎらい、統計局長は報告書をまとめていた。
議事録には、こう記されることになるだろう。
――出席議員全員の賛同を得て、本方針は可決された。
その一文は、間違いではない。
少なくとも、採決の瞬間に、反対の札は上がらなかった。
だが、吾輩は、議場の端にいた小さな細菌のことを考えていた。
彼は、結局、一度も手を挙げなかった。
賛成したのか。
反対したのか。
そもそも、議題について何か意見があったのか。
吾輩には分からない。
彼の沈黙を、反対の証拠にすることはできない。
もちろん、賛成の証拠にすることもできない。
沈黙は、ただ沈黙として、そこにあった。
ところが、議事録の上では、沈黙は賛成の側へ整理されてしまう。
吾輩は、そうした整理の仕方に、どうにも落ち着かないものを感じた。
それは、正義感と呼べるほど立派な感情ではない。
もっと小さく、もっと個人的な、胸のあたりに引っかかった小骨のようなものである。
吾輩は、その小骨を、無理に取り除かないことにした。
痛みがあるというだけで、すぐに原因が分かるとは限らない。
### 七 君は、賛成だったのか
議会を出ると、夕方の光が、中央行政区の建物を薄く照らしていた。
吾輩は、帰ろうとして、あの小さな細菌を見つけた。
彼は、正面玄関から少し離れた植え込みのそばに立っていた。
吾輩は近づいた。
「先ほどは、何か言いたいことがあったのかね」
小さな細菌は、吾輩を見た。
「どうして?」
「君の指先が、ずっと動いていたからだ」
彼は、自分の指を見た。
「ああ」
しばらくして、彼は言った。
「よく分からないんだ」
吾輩は、黙っていた。
「反対したかったのかもしれない。でも、何に反対したかったのか、ちゃんとは分からない」
「そうか」
「議題のことも、よく知らなかったし」
「では、なぜ手を挙げようと思ったのだろう」
小さな細菌は、困ったように笑った。
「みんなが賛成していたからかな」
吾輩は、思わず尋ねた。
「みんなが賛成していると、反対したくなるのかね」
「そういうわけじゃないよ」
彼は、すぐに首を振った。
「ただ……みんなが賛成しているのを見ていたら、自分が何を考えているのか、分からなくなったんだ」
その言葉を聞いて、吾輩は、議場で感じた自分の安堵を思い出した。
吾輩もまた、議長の言葉を聞き、議員たちの表情を見て、自分の考えを確かめようとしていた。
自分の意見がないわけではない。
しかし、他人の意見があまりにも整然と並んでいると、自分の考えのほうが間違っているように感じられる。
自分の中にある、まだ形になっていない疑問は、立派な資料の前では、ひどく頼りなく見える。
だから、黙ってしまう。
そして、黙っているうちに、自分が何を言いたかったのかさえ、分からなくなる。
「君は、賛成だったのかね」
吾輩が尋ねると、小さな細菌は、しばらく考えた。
「分からない」
「反対だったのか」
「それも、分からない」
「では、どうしたい?」
小さな細菌は、顔を上げた。
「もう少し、考えたい」
吾輩は、うなずいた。
「それでよいのではないか」
彼は、少し驚いたような顔をした。
「でも、議会では、もう決まったよ」
「そうだな」
「みんな、賛成したことになった」
「そうだな」
「じゃあ、今さら考えても、意味がないんじゃないかな」
吾輩は、すぐには答えられなかった。
決まったことを、後から考え直す。
それは、たしかに面倒なことである。
一度決めたことを疑い始めれば、もう一度調べなければならない。
もう一度話し合わなければならない。
場合によっては、最初の決定を取り消さなければならない。
そうなれば、関係者全員の時間が無駄になる。
しかし、決めたあとで考えることが無意味ならば、決定した者は、永遠に正しいことになってしまう。
吾輩は、そこまで考えて、ようやく口を開いた。
「意味があるかどうかは、まだ分からない。ただ、君が考えることまで、議会が決めたわけではないだろう」
小さな細菌は、黙っていた。
やがて、彼は言った。
「そうだね」
それは、賛成の返事ではなかった。
反対の返事でもなかった。
ただ、彼が自分の考えを、もう少し自分のものとして持ち帰ろうとしているように、吾輩には思えた。
もっとも、これも吾輩の勝手な想像である。
吾輩は、そのことを忘れないようにした。
### 八 全会一致のあとで
その夜、吾輩は手帳を開いた。
今日の出来事を、どのように記録すべきか。
人民議会では、全会一致の決議が成立した。
議員たちは賛成の札を掲げ、反対の札は上がらなかった。
手続きに、目立った不備は確認されなかった。
これだけを書けば、正確な報告書になる。
しかし、それだけでは、吾輩が見たものを記録したことにはならないような気がした。
吾輩は、もう一度考えた。
小さな細菌は、反対したかったのだろうか。
それとも、反対することが怖かったのだろうか。
あるいは、誰もが賛成しているように見えたために、自分の考えを持つ必要さえないと思ったのだろうか。
どれも、ありそうな話である。
だが、ありそうな話であることと、実際にそうだったことは、同じではない。
吾輩は、手帳に書いた。
――本日、全会一致の議決を傍聴した。
――反対の札は上がらなかった。
――しかし、全員が心から納得していたかどうかは、確認できなかった。
そこで、吾輩は筆を止めた。
最後の一文を、もう少し詳しく書くべきだろうか。
議会では、反対意見を表明する手続きが定められていた。
発言時間も、質問の方法も、採決の仕方も、すべて規則に従っていた。
それでも、ある細菌は、自分の考えが分からなくなったと言った。
吾輩は、彼の言葉を、記録に加えようか迷った。
名前を聞いていない。
住民登録番号も知らない。
議会でどのような立場にあったのかも、詳しくは知らない。
彼の言葉を記録することで、本人の望まない形で、その言葉が利用される可能性もある。
吾輩は、鉛筆を置いた。
そして、こう書いた。
――ひとりの傍聴者が、自分の考えを確かめるため、もう少し時間が必要だと語った。
それだけで十分かどうかは分からない。
しかし、少なくとも、彼の沈黙を、賛成と書くことはしなかった。
吾輩は、手帳を閉じた。
全会一致とは、全員の意見が一致することである。
だが、全員が同じ結論を口にしたとしても、そこへ至る心の道筋まで同じとは限らない。
ある者は納得して賛成する。
ある者は、反対する理由が見つからずに賛成する。
ある者は、周囲に合わせて賛成する。
ある者は、何も言わないまま、賛成したものと扱われる。
それらを、ひとつの言葉でまとめることはできる。
しかし、ひとつの言葉にまとめたからといって、それぞれの心が、ひとつになるわけではない。
吾輩は、そんなことを考えた。
そして、ふと気づいた。
吾輩自身もまた、全会一致を望んでいたのではないだろうか。
誰かが自分に賛成してくれれば、安心できる。
自分の考えが正しいと、皆が認めてくれれば、迷わずに済む。
誰も反対しなければ、自分の責任も軽くなるような気がする。
吾輩は、他人の自我が押しつぶされることを心配しながら、自分自身は、他人の賛同に守られたがっていたのである。
これは、あまり愉快な発見ではなかった。
しかし、自分の愉快でないところを発見できたというのは、ひょっとすると、愉快なことなのかもしれない。
吾輩は、まだ、そのあたりの理屈を整理できていない。
整理できていないから、今日はそのままにしておく。
### 九 人民の総意
翌朝、統計局の掲示板に、昨日の議会についての報告が掲載された。
**人民の総意、全会一致で確認**
腸壁地区の生活環境改善に関する基本方針は、人民議会において全会一致で可決されました。
本決議は、人民の総意を反映したものであり、今後の行政施策の基礎となります。
吾輩は、その文章を読んだ。
誤りはない。
議会では、実際に全会一致で可決されたのだから。
しかし、吾輩は、昨日の小さな細菌を思い出した。
彼は、まだ考えているだろうか。
自分が賛成だったのか、反対だったのか。
あるいは、賛成と反対という二つの選択肢だけでは、自分の気持ちをうまく表せないのではないか。
吾輩は、掲示板の前に立ったまま、しばらく動かなかった。
そのとき、後ろから声がした。
「何を見ているんですか」
振り返ると、統計局の若い職員が立っていた。
「人民の総意を見ている」
吾輩は答えた。
職員は、掲示板を見て、誇らしそうにうなずいた。
「今回の決議は、たいへん円滑にまとまりました」
「それは結構なことだ」
「やはり、人民の皆様が同じ方向を向いているというのは、安心できますね」
「そうだな」
吾輩は、少し考えた。
「ところで、君は、同じ方向を向いている者たちが、同じものを見ていると思うかね」
職員は、きょとんとした。
「同じ方向を向いていれば、同じものを見るのではありませんか」
「たとえば、皆が前を向いていたとしても、前にあるものを見ている者もいれば、隣の者の背中を見ている者もいるだろう」
職員は、しばらく考えた。
「……そういう場合も、あるかもしれません」
「では、全員が同じ方向を向いているというだけで、全員が同じ考えだと言えるだろうか」
職員は、困ったように笑った。
「難しい問題ですね」
「うむ。吾輩も、そう思う」
職員は、時計を見た。
「申し訳ありません。これから会議がありますので」
「会議か」
「はい。統計の正確性を確認する会議です」
「それは、重要だな」
「ええ。正確な統計がなければ、正しい政策は立てられませんから」
職員は、礼儀正しく頭を下げ、歩き去った。
吾輩は、その背中を見送った。
彼は、悪意のある細菌ではない。
むしろ、真面目で、仕事に誇りを持ち、人民のために働こうとしているのだろう。
だからこそ、吾輩は少しだけ不安になった。
悪意がなければ、問題は起こらないのだろうか。
善意から生まれた制度は、必ず善い結果をもたらすのだろうか。
正確さを求める者が、何を正確に測っているのかを忘れてしまったら、どうなるのだろう。
吾輩は、答えを持っていなかった。
ただ、掲示板に記された「人民の総意」という言葉が、昨日よりも少しだけ大きく見えた。
### 十 全員が同じでなくても
その日の夕方、吾輩は腸壁の片隅へ向かった。
小さな細菌が、いつもの場所にいた。
「七号さん」
彼は、吾輩に気づくと、声をかけた。
「議会のこと、考えてみた?」
「考えたとも」
「それで、どうだった?」
吾輩は、正直に答えた。
「まだ、よく分からない」
彼は笑った。
「そっか」
「君は?」
「私も、まだ分からない」
「そうか」
しばらく、二匹は黙っていた。
中央行政区の方角から、遠く、議会の鐘の音が聞こえた。
何か新しい議題が始まったのかもしれない。
あるいは、昨日の決議を実行するための会議が開かれているのかもしれない。
いずれにしても、あちらでは、また誰かが立派な言葉を使っていることだろう。
こちらでは、二匹の細菌が、何も決めずに座っていた。
「ねえ、七号さん」
「何だね」
「みんなと同じ意見じゃなくても、ここにいていいのかな」
吾輩は、すぐには答えられなかった。
この問いに、簡単な答えを与えることはできる。
もちろん、いいに決まっている。
意見が違っても、人民は人民である。
賛成しても、反対しても、黙っていても、考えがまとまらなくても、そこにいる権利が失われるわけではない。
そう答えることはできる。
しかし、吾輩は、その答えを口にする前に、ひとつのことを考えた。
「ここにいていい」と言うとき、吾輩は、いったい誰の立場から許可を与えようとしているのだろう。
吾輩には、この場所を所有する権利も、彼の存在を認める権限もない。
彼は、吾輩が許可しなければ、ここにいられないわけではないのだ。
吾輩は、少し考えてから言った。
「君は、吾輩と同じ意見である必要はないよ」
「うん」
「それに、吾輩の許可がなければ、ここにいられないわけでもない」
彼は、吾輩を見た。
「じゃあ、どうしてそんなことを聞いたんだろうね、私は」
「さあ」
吾輩は答えた。
「誰かに、そう言ってほしかったのかもしれないな」
彼は、何も言わなかった。
しばらくして、小さくうなずいた。
吾輩は、彼の気持ちを理解したと思わないことにした。
理解したと思うと、もう尋ねなくてもよいような気がしてしまうからである。
分からないまま、そばにいる。
それは、答えを出すよりも、いくらか難しいことだった。
けれども、今日の吾輩には、そのくらいがちょうどよいように思えた。
腸内人民共和国では、今日も人民の総意が集計されている。
会議は予定どおりに進み、議事録は正確に作成され、全会一致の決議は、次の行政施策へと引き継がれていく。
その仕組みを、吾輩は全面的に否定するつもりはない。
大勢で暮らすためには、決めなければならないことがある。
決めなければ、進められないこともある。
しかし、決めたことと、全員の心が同じになったことを、混同してはならないのだろう。
決議が成立しても、疑問は残る。
賛成が多数を占めても、迷いは残る。
全会一致になっても、まだ言葉にならない声が、どこかにあるかもしれない。
吾輩は、手帳を取り出した。
そして、今日の記録の最後に、一行を加えた。
――全会一致とは、全員が同じ結論に至ったという記録である。全員が同じ心を持ったという証明ではない。
書き終えて、吾輩は鉛筆をしまった。
この一文が正しいかどうか、吾輩には分からない。
明日になれば、また考えが変わるかもしれない。
それでよいのだと思う。
少なくとも、吾輩は、今日の自分の考えを、永遠の真理として掲示板に貼り出すつもりはない。
そんなことをすれば、統計局と同じになってしまう。
いや、統計局だって、毎日懸命に仕事をしているのだ。
彼らを笑うことはできても、彼らだけが間違っていると決めつけることはできない。
吾輩自身もまた、正しいと思った瞬間に、誰かの声を聞かなくなるかもしれないのだから。
夕暮れの腸壁地区で、小さな細菌が、ぽつりと言った。
「明日も、ここに来る?」
「来るとも」
吾輩は答えた。
それは、全会一致で決まったことではない。
議会の承認も、統計局の確認も、監査局の許可も受けていない。
ただ、吾輩がそうしたいと思ったのである。
その気持ちが明日も変わらないかどうかは、明日にならなければ分からない。
だからこそ、明日も来る意味があるのかもしれなかった。
**みんなが同じ答えを出した日にも、ひとりひとりの問いは、まだ終わっていない。**




