新章 第二話 私は、ここにいる
第二話 私は、ここにいる
吾輩は、道に迷ったのである。
もっとも、道に迷うということは、道があると信じている者にしかできない。最初から道などない場所に生まれた者は、どこへ行こうと迷子にはならぬ。迷子として届け出るためには、まず住所が必要であり、住所を得るためには、住民として登録されていなければならない。
ところが、吾輩がこれから訪ねようとしている場所には、住所がない。
住所がないから地図にない。
地図にないから、道案内ができない。
道案内ができないから、そこへ行く方法を教えることもできない。
まことに、よくできた仕組みである。
誰が設計したのかは知らぬが、少なくとも、迷子を減らすために設計されたものではなさそうだ。
吾輩は腸内人民共和国中央行政区の案内所で、窓口の細菌に尋ねた。
「腸壁の片隅へ行きたいのですが」
窓口の細菌は、顔を上げた。
「どちらの区画でしょうか」
「腸壁の片隅です」
「ですから、どちらの区画でしょうか」
「腸壁の片隅という区画です」
窓口の細菌は、しばらく吾輩を見ていた。
その目つきには、吾輩の知識不足を憐れむような色があった。役所というものは、質問を理解できないとき、質問した者の理解力を疑う傾向があるらしい。
「そのような区画は、地図にございません」
「しかし、そこに住んでいる者がいるそうです」
「地図にない場所に住民がいるというのは、制度上、たいへん難しい問題です」
「住民がいるから、地図に載せるのではありませんか」
「地図に載っていない以上、住民の存在を確認することができません」
「では、どうすれば確認できますか」
「正式な住所をお持ちください」
「住所を得るには?」
「住民登録が必要です」
「住民登録には?」
「住所が必要です」
吾輩は帽子を持っていなかったので、帽子を脱ぐことはできなかった。しかし、もし帽子があれば、このとき脱いでいたに違いない。感服したからではない。これほど見事に同じ場所を回り続ける論法を、吾輩はほかに知らなかったからである。
「ところで」と窓口の細菌は、急に親切な声を出した。「ご相談の内容によっては、別の窓口をご案内できます」
「ありがたい。では、存在しているのに存在を確認してもらえない者については、どちらへ行けばよいでしょう」
窓口の細菌は、少しもためらわずに答えた。
「そのようなご相談は、現在、受け付けておりません」
親切というものは、ときに、扉の前まで連れてきてくれるだけのことである。
扉を開けるところまでは、約束していない。
吾輩は礼を述べ、案内所を出た。
礼を述べる必要があったのかどうかは、いまだに分からない。
しかし、礼を述べなかった場合、吾輩の態度が不適切であったという記録だけは、正確に残るかもしれなかった。
### 一
腸内人民共和国の交通網は、たいへん発達している。
蠕動交通網と呼ばれるこの交通機関は、腸そのものの動きに合わせて、人民を運ぶ。駅が揺れ、停留所が揺れ、ときには路線そのものが揺れるので、利用者には相応の忍耐が求められる。
ただし、人民がどれほど忍耐を求められているかについて、交通局は統計を取っていない。
忍耐は目に見えず、目に見えないものは測定が難しく、測定が難しいものは予算をつけにくいのである。
吾輩は停留所の係員に尋ねた。
「腸壁の片隅へ行く便はありますか」
「ございません」
「近くまで行く便は?」
「ございません」
「途中まででも?」
「途中というものが設定されておりません」
「では、歩くほかありませんね」
「徒歩での移動は、利用者ご自身の責任でお願いいたします」
「道がないのですが」
「道がない場所への移動につきましては、当局は関知いたしません」
吾輩は、交通局の将来に不安を覚えた。
もっとも、交通局は吾輩の不安を知る由もない。吾輩が交通局の利用者名簿に載っていないからである。
こうして吾輩は、誰にも案内されず、誰にも見送られず、中央行政区の立派な舗装路を離れた。
道は次第に狭くなった。
役所の建物は遠ざかり、商店の看板は古び、壁の表面には、長いあいだ掃除されていないような薄い膜が重なっていた。
やがて、発酵横丁の賑わいも聞こえなくなった。
そこでは、売り子たちが元気よく声を張り上げていたはずである。
「本日限りの特売!」
「新鮮な食物繊維!」
「お買い上げの方には、行政指導に基づく安心をおつけします!」
あの界隈では、安心にも値札がつく。
しかし、ここでは、値札をつけるほどのものがないらしい。
店はあった。
住居もあった。
細菌たちも、もちろんいた。
ただ、それらは中央行政区の地図に載る種類のものではなかった。
吾輩は古びた標識を見つけた。
文字の大半は剝がれていたが、かろうじて「腸壁地区」と読める。その下には、誰かが手書きで付け足したらしい文字があった。
――ここに、暮らしています。
誰が書いたのかは分からない。
いつ書かれたのかも分からない。
それでも、その文字は残っていた。
吾輩は、なぜだか足を止めた。
立派な石碑に刻まれた文字よりも、誰かが忘れられないようにと書き残した文字のほうが、時として、読む者の足を止めるものである。
石碑には、建てた者の名前がある。
この標識には、名前がなかった。
### 二
腸壁地区の掲示板には、行政局からのお知らせが貼られていた。
**住民の皆様へ**
当地区の生活環境につきましては、総合的な調査の結果、おおむね良好であることが確認されました。
なお、調査票に記載のない事項につきましては、統計上の比較が困難であるため、今回の調査結果には反映されておりません。
今後とも、皆様のご理解とご協力をお願いいたします。
吾輩は二度読んだ。
一度目には、何が書いてあるのかを理解しようとした。
二度目には、何が書かれていないのかを理解しようとした。
前者は容易だった。
後者は、なかなか難しかった。
良好であると確認された生活環境のなかで、誰かが困っている可能性はないのか。
比較が困難であるために反映されなかった事項は、いったい、どこへ行ったのか。
おそらく、役所の書類には、こうした問いを収納するための欄がないのであろう。
欄がなければ、書くことができない。
書くことができなければ、提出することができない。
提出されなければ、受理されない。
受理されなければ、問題として存在しない。
吾輩は、役所というものが、現実を記録する場所であると同時に、現実を記録できる形に整える場所でもあることを、少しずつ理解し始めていた。
だが、理解することと、納得することとは別である。
吾輩はまだ、納得していなかった。
そのとき、壁の向こうから声がした。
「……そこに、誰かいるの?」
声は小さかった。
風の音に似ていた。
いや、風の音よりも、もっとためらいがちだった。
吾輩は振り返った。
「いるとも」
そう答えてから、吾輩は少し考えた。
「少なくとも、吾輩はここにいる」
すると、壁の陰で何かが動いた。
古い配管と、壁のわずかな隙間。
その奥から、小さな細菌が姿を現した。
吾輩よりも、いくらか小さい。
身体の輪郭は薄く、長いあいだ日陰にいた者のように、どこか周囲の色に溶け込んでいる。
もちろん、細菌に日焼けの習慣があるわけではない。
この表現は、あくまで吾輩の印象である。
吾輩は、見たものをすべて事実として記録するほど、統計局を信用していない。
「あなたは、役所の人?」
小さな細菌が尋ねた。
「違う」
「統計局の人?」
「違う」
「監査局?」
「違う」
「じゃあ、何をしに来たの?」
吾輩は胸を張ろうとした。
ところが、胸を張って説明できるほど、吾輩の目的は明確ではなかった。
「名無しの七号だ」
小さな細菌は、じっと吾輩を見た。
「……私と似てるね」
その言葉は、思いがけないところに落ちた。
吾輩は、自分の名前がないことを、これまで不便だと思っていた。
呼ばれるときには番号で呼ばれ、書類には分類番号を記され、何かを申請するたびに、名前の欄を空白にしてよいかどうかを尋ねなければならない。
しかし、この小さな細菌の言う「似ている」は、そういう不便のことではないようだった。
吾輩は尋ねた。
「君も、名前がないのか」
「名前はあるよ」
「では、何が似ているのだ」
「誰も呼ばないところ」
吾輩は、返す言葉を見つけられなかった。
名前がないことと、名前を呼ばれないことは、同じではない。
名前がなくても、番号で呼ばれる者はいる。
名前があっても、その名前を呼ぶ者がいないこともある。
そして、名前を呼ばれない者が、必ずしも名前を欲しがっているとは限らない。
吾輩は、そうしたことを、まだ知らなかった。
### 三
小さな細菌は、壁の陰から出てきたものの、吾輩のすぐそばには寄ってこなかった。
吾輩もまた、近づかなかった。
人に近づくという行為は、親切のつもりであっても、相手にとっては侵入になることがある。
この程度のことは、役所の研修資料にも書いておくべきである。
ただし、そのような研修を実施するには、まず「相手との距離」という項目を調査票に設けなければならない。
調査票に設けるには、担当部署が必要である。
担当部署をつくるには、予算が必要である。
予算を獲得するには、成果を数値で示さなければならない。
かくして、相手に近づきすぎないための制度をつくる仕事が、相手に近づきすぎる結果になりかねない。
吾輩は、制度というものが、時折、たいへん皮肉な生き物になることを知った。
「ここで暮らしているのか」
吾輩が尋ねると、小さな細菌はうなずいた。
「ずっと?」
「ずっと、というほど長くはないよ」
「では、いつから?」
「それは……よく覚えていない」
「住民登録は?」
小さな細菌の目が、わずかに動いた。
吾輩は、しまったと思った。
役所の人間ではないと名乗ったばかりなのに、最初にした質問が役所の人間のようであった。
「ごめん。つい、癖で」
「いいよ。みんな、最初にそれを聞くから」
「みんな?」
「ここへ来る人は、たまにいるんだ」
「何をしに?」
「調査とか、確認とか、視察とか」
「君の話を聞きに来る者はいないのか」
小さな細菌は、しばらく黙っていた。
「話を聞きに来る人はいるよ」
「ならば、問題はないではないか」
吾輩がそう言うと、小さな細菌は、初めて少し笑った。
その笑いは、吾輩の言葉を面白がっているというよりも、何かを諦めた者が、諦めている自分に気づいてしまったときの笑いに似ていた。
「話は聞いてくれるんだよ。でも、話したことが、私の話として残るとは限らない」
吾輩は、手帳を取り出した。
記録することは、吾輩の仕事であった。
いや、正式には仕事ではない。誰からも命じられていないし、記録したところで給料が出るわけでもない。
しかし、記録することで何かを理解できるのではないか。
そう思っていた。
吾輩は、手帳の新しい頁を開いた。
表紙には、こう書いてある。
『記録されなかったことについて』
我ながら、ずいぶん大げさな題名である。
記録されなかったことを記録するというのだから、これは一種の矛盾である。
しかし、世の中には、矛盾を解消するよりも、矛盾を保存しておいたほうがよい場合もある。
吾輩は尋ねた。
「困っていることはあるか」
小さな細菌は、すぐには答えなかった。
「食べ物は足りているか」
「うん」
「住む場所は?」
「ここがある」
「交通は不便ではないか」
「もともと、あまり出かけないから」
吾輩は、ひとつずつ書き留めた。
食料について、重大な不足は確認されず。
住居について、現状の居住場所を維持。
交通について、本人から特段の申し出なし。
書き終えて、吾輩は満足した。
これならば、報告書として提出できる。
事実に反しているところはない。
余計な推測も含まれていない。
文章も簡潔である。
吾輩は、なかなかよい仕事をしたと思った。
「こんなところで、どうだろう」
小さな細菌は、手帳をのぞき込んだ。
「それ、私の話?」
「そうだ。君が答えたことを、正確に書いた」
「うん。間違ってはいないよ」
「ならば、よいではないか」
「でも……」
小さな細菌は、そこで言葉を止めた。
吾輩は待った。
しばらく待ったが、続きを促すべきかどうか分からなかった。
「でも、何だね」
「分からない」
「何が?」
「何を言いたかったのか、自分でも分からなくなっちゃった」
吾輩は手帳を見た。
そこには、整然とした文字が並んでいた。
食料。
住居。
交通。
どれも、吾輩が尋ねた項目である。
小さな細菌が、最初から話したかったことが、どこにも書かれていないとしても、不思議ではなかった。
吾輩は、相手に話を聞いたつもりでいた。
しかし、実際には、吾輩の用意した質問に、相手の言葉を当てはめていただけなのかもしれない。
「すまない」
吾輩は言った。
「君が話したかったことを、吾輩はまだ聞いていないようだ」
小さな細菌は、手帳から目を離した。
「そうなのかな」
「そうかもしれない」
「じゃあ、もう少し考えてもいい?」
「もちろんだ」
吾輩は手帳を閉じた。
そのとき、小さな細菌の肩から、何かがすっと抜けていくように見えた。
安堵、と呼べばよいのだろうか。
あるいは、もう答えなくてもよいと知った者の、ささやかな休息だったのかもしれない。
吾輩は、その様子を記録しようとした。
そして、やめた。
なぜやめたのか、自分でも説明できない。
ただ、いま記録すれば、目の前の安堵まで、吾輩の所有物になってしまうような気がしたのである。
### 四
「どうして、吾輩に声をかけたのだね」
しばらくして、吾輩は尋ねた。
小さな細菌は、壁の向こうを見た。
「誰かが、こっちを見てくれるかもしれないと思ったから」
「吾輩が?」
「うん」
「吾輩は、君を探していたのではないのだよ」
「知ってる」
「では、どうして?」
小さな細菌は、少し考えてから答えた。
「誰かが探しに来るのを待っていたら、いつまでも会えない気がしたんだ」
吾輩は、返事をしなかった。
中央行政区では、人民を探すための制度が整っている。
登録簿を照合し、地図を確認し、担当部署へ照会し、必要があれば調査員を派遣する。
その手続きが適切に行われれば、人民を発見できることになっている。
しかし、この小さな細菌は、誰かが自分を探しに来ることを、とうに諦めかけていたのかもしれない。
だから、吾輩が来たのは偶然だった。
地図にない場所を訪ね、案内されずに歩き、古びた標識を見つけ、たまたま声を聞いた。
それだけのことである。
それだけのことが、誰かにとっては、今日という一日を少し違うものにする。
吾輩は、その事実を、手帳に書き留めるべきかどうか考えた。
書けば、記録になる。
記録になれば、報告できる。
報告すれば、制度が動くかもしれない。
しかし、報告するために、目の前の出来事を分かったことにしてしまうなら、吾輩は何をしているのだろう。
「君には、名前があるのか」
吾輩は、もう一度尋ねた。
「あるよ」
「教えてくれるか」
小さな細菌は、首を横に振った。
「今日は、いい」
吾輩はうなずいた。
「そうか」
それ以上、尋ねなかった。
名前を教えないことは、吾輩への拒絶かもしれない。
まだ信用していないという意味かもしれない。
あるいは、名前を口にすることが、今日は少し疲れるだけなのかもしれない。
どれが正しいのか、吾輩には分からなかった。
分からないからといって、どれかひとつに決める必要はない。
少なくとも、今は。
小さな細菌は、吾輩の手帳を指さした。
「そこには、何を書くの?」
「まだ決めていない」
「あなたも、分からないんだね」
「そうだな。吾輩も、まだ分からない」
そう答えると、小さな細菌は、少しだけ笑った。
今度の笑いは、さきほどよりも自然だった。
吾輩は、手帳を開いた。
そして、こう書いた。
――本日、ある細菌と出会った。
――その細菌は、自分の名前を明かさないことを選んだ。
――吾輩は、その選択を尊重することにした。
ここまで書いて、吾輩は筆を止めた。
何かが足りない。
しかし、何が足りないのかは分からなかった。
やがて、吾輩は最後に一行を付け足した。
――記録しないことを、選んだ日。
それは、役所に提出するための記録ではなかった。
誰かに説明するための文章でもなかった。
吾輩自身が、今日という日を忘れないための言葉だった。
### 五
帰り際、小さな細菌が言った。
「七号さん」
吾輩は振り返った。
「何だね」
「また、来る?」
「来てもよいかね」
「うん」
小さな細菌は、そこで少し迷った。
「でも、次も、何を話したいか分からないかもしれない」
「構わない」
「話さないかもしれないよ」
「それでも構わない」
「……変な人だね」
「細菌だがね」
小さな細菌は、声を立てて笑った。
吾輩も、つられて笑った。
もっとも、吾輩の返答が特別に面白かったとは思わない。
笑いというものは、必ずしも、面白いことがあったときにだけ生じるものではないらしい。
緊張がほどけたとき。
言葉を探さなくてもよくなったとき。
自分の存在を、いちいち証明しなくてもよいと感じたとき。
そういうときにも、笑いは生まれる。
吾輩は、そうした笑いを、統計局がどう分類しているのか知らない。
しかし、できることなら、その分類を調べるために、もう一度この場所を訪ねるようなことはしたくなかった。
帰り道、吾輩は掲示板の前で足を止めた。
そこには、先ほどと同じお知らせが貼られていた。
生活環境は、おおむね良好。
重大な問題は、確認されていない。
調査票に記載のない事項は、統計上の比較が困難。
文字は、どれも正確だった。
少なくとも、文字そのものに嘘はなかった。
けれども、正確な文章が並んでいることと、そこに暮らす者の姿が正しく伝わっていることは、別の話である。
吾輩は、その違いを説明できるほど賢くはない。
ただ、ひとつだけ、確かに分かったことがある。
小さな細菌は、吾輩に何かを解決してほしいと言ったわけではなかった。
立派な制度をつくってほしいとも、統計を訂正してほしいとも言わなかった。
ただ、誰かが自分のほうを見てくれるかもしれないと思った。
そして、実際に誰かが来た。
その誰かは、たいして役に立たなかった。
質問を間違え、相手の話を整理したつもりになり、最後には自分でも何を書けばよいのか分からなくなった。
それでも、少なくとも今日、吾輩は、相手の名前を無理に聞き出さなかった。
相手が黙っていることを、回答拒否と記録しなかった。
話がまとまらないことを、意思が存在しない証拠にしなかった。
それがどれほどの意味を持つのかは、分からない。
分からないまま、吾輩は中央行政区へ戻ることにした。
### 六
翌日、統計局から一通の通知が届いた。
吾輩が提出した調査報告書について、審査結果が出たという。
通知書には、たいへん丁寧な文章が並んでいた。
**調査対象の確認について**
提出された報告書を審査した結果、調査対象者の住民登録番号が確認できなかったため、当該事例については正式な調査件数に含めないことといたしました。
なお、記録された内容につきましては、参考資料として保管いたします。
今後とも、正確な統計の作成にご協力をお願いいたします。
吾輩は、通知書を机の上に置いた。
そして、しばらく眺めていた。
統計局の判断には、一応の理屈がある。
登録番号がなければ、既存のデータと照合することができない。
照合できなければ、重複の有無も確認できない。
重複の有無が分からなければ、正確な集計が難しくなる。
だから、調査件数には含めない。
手続きとしては、整っている。
問題は、その手続きが整っているあいだにも、小さな細菌が暮らしているということだった。
統計局の書類からは、昨日の笑い声が聞こえない。
名前を明かさなかったことも、黙って考えていた時間も、誰かが自分を見てくれるかもしれないと思った、その小さな期待も。
書類には、それらを記す欄がない。
吾輩は、通知書の余白に、鉛筆で一行を書いた。
――調査件数には含まれなかったが、出会ったことは事実である。
書き終えると、吾輩は鉛筆を置いた。
これで何かが変わるわけではない。
統計局が再審査を始めるわけでも、地図に新しい区画が追加されるわけでもない。
ましてや、小さな細菌に、明日から立派な住民番号が与えられるわけでもない。
吾輩は、役所の書類の余白に一行を書いたくらいで、世界が変わると思うほど楽天家ではない。
しかし、余白というものは不思議な場所である。
本文に書けなかったことが、そこには書ける。
正式な欄に収まらなかった言葉が、そこには残る。
そして、ときには、余白のほうが本文よりも、その書類の正体をよく表していることがある。
吾輩は通知書を畳み、引き出しにしまった。
その引き出しには、これまでに出会った、記録になりきらなかった出来事がいくつも入っている。
名前を言わなかった者。
答えを決められなかった者。
質問そのものが違うと、静かに教えてくれた者。
それらを、吾輩はまだ、ひとつの結論にまとめることができない。
まとめられないからこそ、捨てずにいるのかもしれなかった。
### 七
夜になった。
腸内人民共和国の灯りが、ひとつ、またひとつと消えていく。
発酵横丁では、売れ残った食物繊維を片づける者がいた。
中央行政区では、明日の会議資料を整える者がいた。
統計局では、最新の集計結果が発表され、人民の総意が確認されたと報告された。
その一方で、腸壁の片隅では、小さな細菌が、いつもの場所に座っていた。
今日も、名前を呼ぶ者はいない。
自分が住民として数えられているのかどうかも分からない。
明日になれば、何かが変わるのかもしれない。
何も変わらないのかもしれない。
それでも、小さな細菌は、昨日よりほんの少しだけ、壁の外側を気にしていた。
もしかすると、また誰かが通りかかるかもしれない。
もしかすると、その誰かは、今度こそ自分の話を聞いてくれるかもしれない。
いや、そう期待することさえ、少し怖い。
期待すれば、来なかったときに寂しくなる。
待っていれば、待つ時間が生まれる。
待つ時間が生まれれば、何も起こらない一日を、何も起こらなかった一日として過ごさなければならない。
だから、小さな細菌は、期待しすぎないことにした。
ただ、明日もここにいようと思った。
それだけだった。
吾輩は、そのことを知らない。
知らないまま、机の前に座り、手帳を開いていた。
新しい頁には、まだ何も書かれていない。
吾輩は、そこに一行だけ記した。
――確認されなかったことと、存在しなかったことは、同じではない。
書き終えたあと、吾輩はしばらく、その文字を見つめていた。
これは、立派な結論ではない。
誰かを救うための標語でもない。
ましてや、人民全員の賛同を得られるような文言でもない。
ひょっとすると、明日には、この一行さえ間違いだったと気づくかもしれない。
それでも、今日の吾輩には、これ以上のことは書けなかった。
書けないことを、書けないまま残しておく。
分からないことを、分からないままにしておく。
そして、そこに誰かがいる可能性を、勝手に消してしまわない。
それが、吾輩にできる、最初の仕事なのかもしれなかった。
腸内人民共和国は、今夜も平穏である。
統計局によれば、重大な問題は確認されていない。
人民の総意は、すでに集計されている。
けれども、腸壁の片隅には、今日もひとりの細菌がいる。
その細菌は、まだ名前を呼ばれていない。
それでも、そこにいる。
そして、明日も、そこにいるだろう。
吾輩は、手帳を閉じた。
名前を持たない者が、名前を持たない者に出会った。
そのことが、どれほどの意味を持つのか。
吾輩には、まだ分からない。
ただ、ひとつだけ、確かなことがある。
**数えられなかった一匹にも、明日がある。**




