第二十話 ひろこさんは、まだ何も決めていない
今回は、ひろこさんの食卓から始めます。
ミツオケラたちは、自分たちの政権基盤が揺らぐ気配を察知しますが、肝心のひろこさんが何を考えているのかは、誰も知りません。
腸内細菌と、迷走神経と、脳、
「食べたい」という感覚を物語の中心に置く回となります。
松木ひろ子さんは、冷蔵庫の前で立ち止まっていた。
扉を開けたまま、しばらく中を眺めている。
卵がある。
豆腐もある。
昨日の残りの野菜もある。
冷凍庫には、いつ買ったのか本人にもよく分からない食品が、霜をまとって静かに眠っていた。
「うーん……」
ひろ子さんは唸った。
この「うーん」が、腸内人民共和国の運命を左右することになるとは、もちろん本人は知らない。
そもそも、本人が知っていたら、冷蔵庫の前で唸るのをやめたかどうかも分からない。
人間というものは、自分の人生に重大な影響を及ぼす決断をするときでさえ、しばしば冷蔵庫の電気代を気にする。
「何にしようかな」
ひろ子さんは、結局、卵を取り出した。
それから、野菜も取り出した。
最後に、豆腐を手に取った。
その瞬間。
腸内人民共和国の中央統計局で、警報が鳴った。
ピイイイイイイイイッ!
「何事だ!」
ミツオケラ十三世が、執務室から飛び出してきた。
「食料資源の配分予測に、誤差が発生しました!」
「誤差だと?」
「はい! 従来の予測モデルでは、今回の食卓における資源配分は、もう少し我が党に有利な展開となるはずでした!」
「もう少しとは、どの程度だ」
「そこまでは分かりません!」
「分からないのに、我が党に有利だと分かっていたのか!」
「長年の経験に基づく予測であります!」
「それを世間では、願望と呼ぶのではないか!」
中央統計局長は、返答に窮した。
腸内人民共和国では、返答に窮した官僚が、さらに大きな会議を提案する習慣がある。
今回も例外ではなかった。
「緊急人民大会議を開催すべきです!」
「よし、開催しよう!」
十三世は即座に決断した。
自分たちの予測が外れたとき、予測そのものを見直すより、会議を開くほうが早い。
これは、腸内人民共和国が長年培ってきた、伝統的な危機管理手法であった。
*
緊急人民大会議。
議場の正面には、巨大な標語が掲げられていた。
《食卓の安定なくして、国家の安定なし》
その下には、小さな字でこう書かれていた。
《なお、食卓の決定権は本人にあるものとする》
小さな字を書いたのは、ブラウ太郎だった。
大きな字を書いたのは、ミツオケラ党の広報部である。
両者の文字の大きさには、それぞれの政治的立場がよく表れていた。
「同志諸君」
ミツオケラ十三世は、演壇に立った。
「本日、我が国の食料資源配分に、予測困難な変動が発生した」
「具体的には?」
ブラウ太郎が尋ねた。
「卵、野菜、豆腐が、同じ食卓に登場する可能性が高まった」
「それは食事ではないのか」
「そうだ」
「食事をしたら、食事が出てきた。何が問題なのだ」
「問題は、従来の資源配分予測が通用しなくなる可能性だ!」
「つまり、君たちの予測が外れたのだな」
「言い方というものがある!」
議長菌が木槌を鳴らした。
「発言は、建設的にお願いします」
「では、建設的に申し上げよう」
ブラウ太郎は立ち上がった。
「ひろこさんが何を食べるか、我々には完全には分からない。ところが、我々は長いあいだ、ひろこさんの食生活を、あたかも我が党の政策によって決まるもののように扱ってきた」
議場が静まった。
「ひろこさんがいつものものを食べれば、我が党の支持が安定したと発表する。違うものを食べれば、一時的な変動と説明する。食事の間隔が変われば、統計上の例外として処理する」
「何が悪い!」
十三世が反論した。
「国民の生活を分析するのは、政府の重要な仕事だ!」
「分析することと、支配していると思い込むことは違う!」
ブラウ太郎の声が、議場に響いた。
「ひろこさんの食欲を、君たちの支持率に換算するな!」
議長菌は、木槌を持ったまま固まった。
発言を制止すべきかどうか、議事規則を確認しようとしたが、該当する条文は見つからなかった。
そもそも、そのような発言が出ることを想定していなかったのである。
*
そのころ、ひろこさんは食事を終えていた。
食器を流しに運び、湯飲みにお茶を入れた。
「今日は、これでよかったかな」
そう呟いて、椅子に座った。
食事に、政治的な意図はなかった。
少なくとも、ひろこさん自身には。
昨日は忙しかった。
その前の日は、帰宅が遅かった。
今日は冷蔵庫に残っているものを使いたかった。
それだけのことだった。
しかし、腸内人民共和国では、その「それだけのこと」が、しばしば国家的な問題になる。
中央通信社は、速報を流した。
《本日の食卓について、政府は「多様な資源配分の可能性を示すもの」と評価》
野党系の通信社は、別の見出しを掲げた。
《政府、食卓の選択を成果として発表。選択した本人への聞き取りは未実施》
さらに別の新聞は、こう報じた。
《豆腐の登場により、政界再編の可能性》
豆腐に政治的意図があったかどうかについて、豆腐本人からのコメントは得られなかった。
*
ミツオケラ党の本部では、迷走神経対策会議が開かれていた。
迷走神経は、腸と脳を結ぶ重要な経路のひとつである。
しかし、この会議では、神経の働きについての理解よりも、神経を通じて何を伝えられるかという政治的な期待のほうが、はるかに大きかった。
「我々は、ひろこさんの脳に、もっと明確なメッセージを届ける必要がある」
十三世が言った。
「どのようなメッセージですか」
側近が尋ねた。
「我が党の政策に沿った食欲だ」
「それは、具体的には何を意味するのでしょうか」
「我が党に有利な食欲だ」
「それは、どのような食欲なのでしょうか」
「質問が多い!」
十三世は机を叩いた。
「とにかく、ひろこさんに我が党の重要性を理解していただくのだ!」
バク長老が、隅の席でお茶を飲んでいた。
「ひとつ、よろしいかな」
「何だ、長老」
「迷走神経は、君たちの政党専用回線ではないぞ」
「もちろんだ!」
「では、何を伝えているのか、君たちは知っているのかね」
「我々の存在意義だ!」
「それは君たちが伝えたいことであって、実際に伝わっている内容とは限らん」
十三世は口を開きかけた。
しかし、何も言えなかった。
バク長老は続けた。
「腸と脳のあいだには、さまざまな情報のやり取りがある。食事の内容だけでなく、身体の状態も、生活のリズムも、気分も関わる。そもそも、人が何を食べたいと思うかを、我々だけで説明できるわけではない」
「では、我々は何もできないというのか!」
「そうは言っておらん」
「では、何ができる!」
「まず、自分たちに分からないことがあると認めることだ」
議場の空気が重くなった。
分からないことがある。
それは、腸内人民共和国において、きわめて扱いにくい情報だった。
政府は、分からないことを嫌う。
分からないことがあると、分類する。
分類できなければ、別途管理する。
別途管理したものが増えすぎると、管理状況を確認する委員会を設置する。
委員会が何を管理しているのか分からなくなると、管理対象の適正化を検討する。
その検討結果は、まだ出ていなかった。
*
「それでは、ひろこさんに直接、尋ねてみてはどうでしょう」
名無しの七号が、記録係の席から言った。
全員が振り向いた。
「直接?」
「はい。ひろこさんが何を食べたいと思っているのか。何を食べやすいと感じているのか。どんな生活を送っているのか。こちらの都合で決めつける前に、本人のことを知るべきではないでしょうか」
「ひろこさんは、我々の政策について詳しくない!」
十三世が言った。
「そのために、専門家である我々が判断するのだ!」
「では、ひろこさんは、自分の食卓についても判断できないのですか」
「そうは言っていない!」
「では、本人の選択を尊重するということでよろしいですね」
「それは……」
十三世は、言葉を探した。
本人の選択を尊重する。
それは、誰も反対しにくい言葉だった。
しかし、その意味を本当に受け入れると、政府の役割は変わる。
政府は、すべてを決める者ではなくなる。
人々の選択を観察し、必要な情報を提供し、環境を整え、間違いがあれば修正する。
そして、自分たちの思いどおりにならない結果を、ただちに失敗と呼ばない。
十三世にとって、それは革命よりも難しいことだった。
「……本人の選択は、尊重する」
彼は、ようやく言った。
「ただし、政府としての見解は別途公表する」
ブラウ太郎が額を押さえた。
「そこだけは、どうしても手放せないのか」
「政府にも、政府の自由がある!」
「政府の自由を、ひろこさんの食欲に上乗せするな!」
議長菌が木槌を鳴らした。
「その発言は、記録に残します」
「ぜひ残してくれ。できれば、削除できない形式で」
名無しの七号は、黙って記録した。
*
数日後。
ひろこさんは、スーパーの売り場で足を止めた。
豆類の棚だった。
特に大きな理由があったわけではない。
以前、買ったものが使いやすかった。
料理に加えることもできる。
値段も、まあ、悪くない。
ひろこさんは商品を手に取り、表示を見て、かごに入れた。
それだけだった。
腸内人民共和国では、再び警報が鳴った。
ピイイイイイイイイッ!
「またか!」
十三世が叫んだ。
「食料資源の将来予測に、新たな変動が発生しました!」
「今度は何だ!」
「豆類の継続的な流入可能性です!」
「可能性とは何だ!」
「まだ食べられていないため、確定しておりません!」
「では、確定してから報告しろ!」
「確定してからでは、予測になりません!」
「言い訳をするな!」
ブラウ太郎は、窓の外を眺めていた。
「ひろこさんは、まだ何も決めていない」
「何を言っている。豆を買ったではないか!」
「買ったことと、食べることは違う。食べることと、毎日食べることも違う。今日の選択が、明日も続くとは限らない」
「では、どうすればいい!」
「見守るんだよ」
「見守る?」
「そうだ。本人の生活には、本人の都合がある。こちらが一度の変化を見て、勝手に歴史の転換点だと宣言するのをやめるんだ」
十三世は不満そうだった。
「しかし、何も発表しなければ、政府の存在感が薄れる」
「政府の存在感を維持するために、ひろこさんが食べているわけではない」
「……君は、我が党を否定するのか」
「いや。君たちが自分で自分の存在意義を証明しようとして、ひろこさんの食卓を乗っ取ることを否定しているんだ」
バク長老が、静かに頷いた。
「それに、食卓は一度変われば終わりというものでもない。食べる日もあれば、食べない日もある。忙しい日もあれば、余裕のある日もある。身体の状態だって、いつも同じではない」
「では、政策目標はどうするのだ」
「政策目標を、ひろこさんの選択そのものに置かないことだ」
長老は湯飲みを置いた。
「我々が考えるべきなのは、変化が起きたとき、誰かが一方的に損をしないこと。分からないことを、分かったふりで押し切らないこと。そして、ひろこさんが何を選んでも、それを自分たちの勝利や敗北に換算しないことだ」
十三世は、長いあいだ黙っていた。
やがて、ぽつりと言った。
「……それでは、選挙の公約が作れないではないか」
「ここは選挙の話ではない」
「我々にとっては、すべてが選挙なのだ!」
「だから、疲れるのだよ」
*
その夜。
ひろこさんは、買ってきた豆類を使うかどうか、もう一度考えた。
少し迷ったあと、今日は別のものを食べることにした。
豆類は、棚にしまわれた。
腸内人民共和国では、中央統計局が緊急報告書を作成した。
《豆類の流入予測について》
報告書は、十二ページに及んだ。
結論は、三行だった。
第一に、豆類が購入された事実は確認された。
第二に、実際に食べられたかどうかは、現時点では確認できない。
第三に、今後の動向については、継続的な観察が必要である。
最後に、担当者は付記した。
《なお、本人への聞き取りは実施していない》
名無しの七号は、その一文を見て、赤鉛筆を手に取った。
「ここは、変えたほうがいい」
「なぜですか」
担当者が尋ねた。
「聞き取りを実施していないことが問題なのではない。聞き取りをしていないのに、本人の意思を推定したことが問題なんだ」
「では、どのように書けば」
七号は、少し考えた。
そして、こう書いた。
《本人の意思については、本人の意思として確認されるまで、政府の見解をもって代替しない》
担当者は、その文章を読んだ。
「……長いですね」
「短くすると、また誤解されるからな」
「では、標語にしますか」
「なぜ何でも標語にする」
「政府の方針だからです」
七号は、赤鉛筆を置いた。
この国では、ひとつの文章を正しく書くことより、その文章を標語にして掲げることのほうが、しばしば優先される。
それでも、記録には残った。
*
翌朝。
ひろこさんは、いつものように目を覚ました。
今日、何を食べるかは、まだ決めていない。
昨日と同じものを食べるかもしれない。
違うものを選ぶかもしれない。
予定どおりに食べられないかもしれない。
それは、ひろこさんの暮らしの一部だった。
腸内人民共和国は、まだその意味を十分には理解していなかった。
ミツオケラ十三世は、執務室で新しい政策文書を眺めていた。
表紙には、こう記されている。
《本人の選択を尊重するための基本方針》
その下に、広報部が大きな文字で標語を追加していた。
《本人の選択を、政府が尊重する》
ブラウ太郎は、それを見て言った。
「主語が政府になったな」
「何が悪い!」
「本人の選択を尊重する話なのに、政府が主役になっている」
「政府が尊重するのだから、政府が主語で当然だ!」
「……君たちは、本当に自分が好きだな」
バク長老は、今日もお茶を飲んでいた。
「まあ、最初からうまくはいかんさ」
「長老は、いつも悠長ですね」
「悠長なのではない。腸内の政治も、ひろこさんの暮らしも、明日になればまた変わる。それを忘れないようにしているだけだ」
長老は、湯飲みを置いた。
「変わるかどうかを、こちらが決めるのではない。変わったときに、こちらがどう振る舞うかを決めるのだ」
その言葉は、議事録に記録された。
ただし、中央広報部は「政府の新たな方針」として発表しようとした。
名無しの七号が、それを止めた。
「長老の発言を、政府の手柄にしないでください」
「しかし、政府の方針に採用するのだから……」
「採用することと、最初から自分たちが考えていたことにするのは違います」
広報部は、しばらく考えた。
そして、発表文の末尾に、小さくこう付け加えた。
《本方針の着想は、バク長老の発言に基づく》
小さな一文だった。
けれども、誰かの言葉を、誰かの言葉として残す。
その程度のことからしか、変化は始まらないのかもしれなかった。
そのころ、ひろこさんは台所に立っていた。
冷蔵庫を開ける。
卵がある。
野菜もある。
豆類も、まだ棚にある。
「今日は、何にしようかな」
ひろこさんは、また少し考えた。
腸内人民共和国の中央統計局は、予測報告書の作成を開始した。
しかし、今回は、結論を急がなかった。
ひろこさんが何を選ぶのか。
それは、まだ分からない。
そして、分からないことは、必ずしも危機ではなかった。
少なくとも、そう考えようとする者が、腸内人民共和国にも現れ始めていた。
ミツオケラ十三世は、窓の外を眺めながら呟いた。
「……しかし、できれば、我が党に有利なものを食べていただきたい」
ブラウ太郎が、即座に言った。
「まだ言うか!」
議場に、笑い声が起きた。
その笑い声が、迷走神経を通じてひろこさんの脳に届いたかどうかは、誰にも分からない。
ただ、ひろこさんは、その朝、少しだけ機嫌がよかった。
理由は、分からなかった。
それでよかった。




