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松木ひろ子さんの、腸内人民共和国【第百二十七回 ミツオケラ人民大会議】 «Bellum et Pax»  作者: 東曌


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第二十話 ひろこさんは、まだ何も決めていない

今回は、ひろこさんの食卓から始めます。


ミツオケラたちは、自分たちの政権基盤が揺らぐ気配を察知しますが、肝心のひろこさんが何を考えているのかは、誰も知りません。


腸内細菌と、迷走神経と、脳、

「食べたい」という感覚を物語の中心に置く回となります。


 松木ひろ子さんは、冷蔵庫の前で立ち止まっていた。


 扉を開けたまま、しばらく中を眺めている。


 卵がある。


 豆腐もある。


 昨日の残りの野菜もある。


 冷凍庫には、いつ買ったのか本人にもよく分からない食品が、霜をまとって静かに眠っていた。


「うーん……」


 ひろ子さんは唸った。


 この「うーん」が、腸内人民共和国の運命を左右することになるとは、もちろん本人は知らない。


 そもそも、本人が知っていたら、冷蔵庫の前で唸るのをやめたかどうかも分からない。


 人間というものは、自分の人生に重大な影響を及ぼす決断をするときでさえ、しばしば冷蔵庫の電気代を気にする。


「何にしようかな」


 ひろ子さんは、結局、卵を取り出した。


 それから、野菜も取り出した。


 最後に、豆腐を手に取った。


 その瞬間。


 腸内人民共和国の中央統計局で、警報が鳴った。


 ピイイイイイイイイッ!


「何事だ!」


 ミツオケラ十三世が、執務室から飛び出してきた。


「食料資源の配分予測に、誤差が発生しました!」


「誤差だと?」


「はい! 従来の予測モデルでは、今回の食卓における資源配分は、もう少し我が党に有利な展開となるはずでした!」


「もう少しとは、どの程度だ」


「そこまでは分かりません!」


「分からないのに、我が党に有利だと分かっていたのか!」


「長年の経験に基づく予測であります!」


「それを世間では、願望と呼ぶのではないか!」


 中央統計局長は、返答に窮した。


 腸内人民共和国では、返答に窮した官僚が、さらに大きな会議を提案する習慣がある。


 今回も例外ではなかった。


「緊急人民大会議を開催すべきです!」


「よし、開催しよう!」


 十三世は即座に決断した。


 自分たちの予測が外れたとき、予測そのものを見直すより、会議を開くほうが早い。


 これは、腸内人民共和国が長年培ってきた、伝統的な危機管理手法であった。


     *


 緊急人民大会議。


 議場の正面には、巨大な標語が掲げられていた。


 《食卓の安定なくして、国家の安定なし》


 その下には、小さな字でこう書かれていた。


 《なお、食卓の決定権は本人にあるものとする》


 小さな字を書いたのは、ブラウ太郎だった。


 大きな字を書いたのは、ミツオケラ党の広報部である。


 両者の文字の大きさには、それぞれの政治的立場がよく表れていた。


「同志諸君」


 ミツオケラ十三世は、演壇に立った。


「本日、我が国の食料資源配分に、予測困難な変動が発生した」


「具体的には?」


 ブラウ太郎が尋ねた。


「卵、野菜、豆腐が、同じ食卓に登場する可能性が高まった」


「それは食事ではないのか」


「そうだ」


「食事をしたら、食事が出てきた。何が問題なのだ」


「問題は、従来の資源配分予測が通用しなくなる可能性だ!」


「つまり、君たちの予測が外れたのだな」


「言い方というものがある!」


 議長菌が木槌を鳴らした。


「発言は、建設的にお願いします」


「では、建設的に申し上げよう」


 ブラウ太郎は立ち上がった。


「ひろこさんが何を食べるか、我々には完全には分からない。ところが、我々は長いあいだ、ひろこさんの食生活を、あたかも我が党の政策によって決まるもののように扱ってきた」


 議場が静まった。


「ひろこさんがいつものものを食べれば、我が党の支持が安定したと発表する。違うものを食べれば、一時的な変動と説明する。食事の間隔が変われば、統計上の例外として処理する」


「何が悪い!」


 十三世が反論した。


「国民の生活を分析するのは、政府の重要な仕事だ!」


「分析することと、支配していると思い込むことは違う!」


 ブラウ太郎の声が、議場に響いた。


「ひろこさんの食欲を、君たちの支持率に換算するな!」


 議長菌は、木槌を持ったまま固まった。


 発言を制止すべきかどうか、議事規則を確認しようとしたが、該当する条文は見つからなかった。


 そもそも、そのような発言が出ることを想定していなかったのである。


     *


 そのころ、ひろこさんは食事を終えていた。


 食器を流しに運び、湯飲みにお茶を入れた。


「今日は、これでよかったかな」


 そう呟いて、椅子に座った。


 食事に、政治的な意図はなかった。


 少なくとも、ひろこさん自身には。


 昨日は忙しかった。


 その前の日は、帰宅が遅かった。


 今日は冷蔵庫に残っているものを使いたかった。


 それだけのことだった。


 しかし、腸内人民共和国では、その「それだけのこと」が、しばしば国家的な問題になる。


 中央通信社は、速報を流した。


 《本日の食卓について、政府は「多様な資源配分の可能性を示すもの」と評価》


 野党系の通信社は、別の見出しを掲げた。


 《政府、食卓の選択を成果として発表。選択した本人への聞き取りは未実施》


 さらに別の新聞は、こう報じた。


 《豆腐の登場により、政界再編の可能性》


 豆腐に政治的意図があったかどうかについて、豆腐本人からのコメントは得られなかった。


     *


 ミツオケラ党の本部では、迷走神経対策会議が開かれていた。


 迷走神経は、腸と脳を結ぶ重要な経路のひとつである。


 しかし、この会議では、神経の働きについての理解よりも、神経を通じて何を伝えられるかという政治的な期待のほうが、はるかに大きかった。


「我々は、ひろこさんの脳に、もっと明確なメッセージを届ける必要がある」


 十三世が言った。


「どのようなメッセージですか」


 側近が尋ねた。


「我が党の政策に沿った食欲だ」


「それは、具体的には何を意味するのでしょうか」


「我が党に有利な食欲だ」


「それは、どのような食欲なのでしょうか」


「質問が多い!」


 十三世は机を叩いた。


「とにかく、ひろこさんに我が党の重要性を理解していただくのだ!」


 バク長老が、隅の席でお茶を飲んでいた。


「ひとつ、よろしいかな」


「何だ、長老」


「迷走神経は、君たちの政党専用回線ではないぞ」


「もちろんだ!」


「では、何を伝えているのか、君たちは知っているのかね」


「我々の存在意義だ!」


「それは君たちが伝えたいことであって、実際に伝わっている内容とは限らん」


 十三世は口を開きかけた。


 しかし、何も言えなかった。


 バク長老は続けた。


「腸と脳のあいだには、さまざまな情報のやり取りがある。食事の内容だけでなく、身体の状態も、生活のリズムも、気分も関わる。そもそも、人が何を食べたいと思うかを、我々だけで説明できるわけではない」


「では、我々は何もできないというのか!」


「そうは言っておらん」


「では、何ができる!」


「まず、自分たちに分からないことがあると認めることだ」


 議場の空気が重くなった。


 分からないことがある。


 それは、腸内人民共和国において、きわめて扱いにくい情報だった。


 政府は、分からないことを嫌う。


 分からないことがあると、分類する。


 分類できなければ、別途管理する。


 別途管理したものが増えすぎると、管理状況を確認する委員会を設置する。


 委員会が何を管理しているのか分からなくなると、管理対象の適正化を検討する。


 その検討結果は、まだ出ていなかった。


     *


「それでは、ひろこさんに直接、尋ねてみてはどうでしょう」


 名無しの七号が、記録係の席から言った。


 全員が振り向いた。


「直接?」


「はい。ひろこさんが何を食べたいと思っているのか。何を食べやすいと感じているのか。どんな生活を送っているのか。こちらの都合で決めつける前に、本人のことを知るべきではないでしょうか」


「ひろこさんは、我々の政策について詳しくない!」


 十三世が言った。


「そのために、専門家である我々が判断するのだ!」


「では、ひろこさんは、自分の食卓についても判断できないのですか」


「そうは言っていない!」


「では、本人の選択を尊重するということでよろしいですね」


「それは……」


 十三世は、言葉を探した。


 本人の選択を尊重する。


 それは、誰も反対しにくい言葉だった。


 しかし、その意味を本当に受け入れると、政府の役割は変わる。


 政府は、すべてを決める者ではなくなる。


 人々の選択を観察し、必要な情報を提供し、環境を整え、間違いがあれば修正する。


 そして、自分たちの思いどおりにならない結果を、ただちに失敗と呼ばない。


 十三世にとって、それは革命よりも難しいことだった。


「……本人の選択は、尊重する」


 彼は、ようやく言った。


「ただし、政府としての見解は別途公表する」


 ブラウ太郎が額を押さえた。


「そこだけは、どうしても手放せないのか」


「政府にも、政府の自由がある!」


「政府の自由を、ひろこさんの食欲に上乗せするな!」


 議長菌が木槌を鳴らした。


「その発言は、記録に残します」


「ぜひ残してくれ。できれば、削除できない形式で」


 名無しの七号は、黙って記録した。


     *


 数日後。


 ひろこさんは、スーパーの売り場で足を止めた。


 豆類の棚だった。


 特に大きな理由があったわけではない。


 以前、買ったものが使いやすかった。


 料理に加えることもできる。


 値段も、まあ、悪くない。


 ひろこさんは商品を手に取り、表示を見て、かごに入れた。


 それだけだった。


 腸内人民共和国では、再び警報が鳴った。


 ピイイイイイイイイッ!


「またか!」


 十三世が叫んだ。


「食料資源の将来予測に、新たな変動が発生しました!」


「今度は何だ!」


「豆類の継続的な流入可能性です!」


「可能性とは何だ!」


「まだ食べられていないため、確定しておりません!」


「では、確定してから報告しろ!」


「確定してからでは、予測になりません!」


「言い訳をするな!」


 ブラウ太郎は、窓の外を眺めていた。


「ひろこさんは、まだ何も決めていない」


「何を言っている。豆を買ったではないか!」


「買ったことと、食べることは違う。食べることと、毎日食べることも違う。今日の選択が、明日も続くとは限らない」


「では、どうすればいい!」


「見守るんだよ」


「見守る?」


「そうだ。本人の生活には、本人の都合がある。こちらが一度の変化を見て、勝手に歴史の転換点だと宣言するのをやめるんだ」


 十三世は不満そうだった。


「しかし、何も発表しなければ、政府の存在感が薄れる」


「政府の存在感を維持するために、ひろこさんが食べているわけではない」


「……君は、我が党を否定するのか」


「いや。君たちが自分で自分の存在意義を証明しようとして、ひろこさんの食卓を乗っ取ることを否定しているんだ」


 バク長老が、静かに頷いた。


「それに、食卓は一度変われば終わりというものでもない。食べる日もあれば、食べない日もある。忙しい日もあれば、余裕のある日もある。身体の状態だって、いつも同じではない」


「では、政策目標はどうするのだ」


「政策目標を、ひろこさんの選択そのものに置かないことだ」


 長老は湯飲みを置いた。


「我々が考えるべきなのは、変化が起きたとき、誰かが一方的に損をしないこと。分からないことを、分かったふりで押し切らないこと。そして、ひろこさんが何を選んでも、それを自分たちの勝利や敗北に換算しないことだ」


 十三世は、長いあいだ黙っていた。


 やがて、ぽつりと言った。


「……それでは、選挙の公約が作れないではないか」


「ここは選挙の話ではない」


「我々にとっては、すべてが選挙なのだ!」


「だから、疲れるのだよ」


     *


 その夜。


 ひろこさんは、買ってきた豆類を使うかどうか、もう一度考えた。


 少し迷ったあと、今日は別のものを食べることにした。


 豆類は、棚にしまわれた。


 腸内人民共和国では、中央統計局が緊急報告書を作成した。


 《豆類の流入予測について》


 報告書は、十二ページに及んだ。


 結論は、三行だった。


 第一に、豆類が購入された事実は確認された。


 第二に、実際に食べられたかどうかは、現時点では確認できない。


 第三に、今後の動向については、継続的な観察が必要である。


 最後に、担当者は付記した。


 《なお、本人への聞き取りは実施していない》


 名無しの七号は、その一文を見て、赤鉛筆を手に取った。


「ここは、変えたほうがいい」


「なぜですか」


 担当者が尋ねた。


「聞き取りを実施していないことが問題なのではない。聞き取りをしていないのに、本人の意思を推定したことが問題なんだ」


「では、どのように書けば」


 七号は、少し考えた。


 そして、こう書いた。


 《本人の意思については、本人の意思として確認されるまで、政府の見解をもって代替しない》


 担当者は、その文章を読んだ。


「……長いですね」


「短くすると、また誤解されるからな」


「では、標語にしますか」


「なぜ何でも標語にする」


「政府の方針だからです」


 七号は、赤鉛筆を置いた。


 この国では、ひとつの文章を正しく書くことより、その文章を標語にして掲げることのほうが、しばしば優先される。


 それでも、記録には残った。


     *


 翌朝。


 ひろこさんは、いつものように目を覚ました。


 今日、何を食べるかは、まだ決めていない。


 昨日と同じものを食べるかもしれない。


 違うものを選ぶかもしれない。


 予定どおりに食べられないかもしれない。


 それは、ひろこさんの暮らしの一部だった。


 腸内人民共和国は、まだその意味を十分には理解していなかった。


 ミツオケラ十三世は、執務室で新しい政策文書を眺めていた。


 表紙には、こう記されている。


 《本人の選択を尊重するための基本方針》


 その下に、広報部が大きな文字で標語を追加していた。


 《本人の選択を、政府が尊重する》


 ブラウ太郎は、それを見て言った。


「主語が政府になったな」


「何が悪い!」


「本人の選択を尊重する話なのに、政府が主役になっている」


「政府が尊重するのだから、政府が主語で当然だ!」


「……君たちは、本当に自分が好きだな」


 バク長老は、今日もお茶を飲んでいた。


「まあ、最初からうまくはいかんさ」


「長老は、いつも悠長ですね」


「悠長なのではない。腸内の政治も、ひろこさんの暮らしも、明日になればまた変わる。それを忘れないようにしているだけだ」


 長老は、湯飲みを置いた。


「変わるかどうかを、こちらが決めるのではない。変わったときに、こちらがどう振る舞うかを決めるのだ」


 その言葉は、議事録に記録された。


 ただし、中央広報部は「政府の新たな方針」として発表しようとした。


 名無しの七号が、それを止めた。


「長老の発言を、政府の手柄にしないでください」


「しかし、政府の方針に採用するのだから……」


「採用することと、最初から自分たちが考えていたことにするのは違います」


 広報部は、しばらく考えた。


 そして、発表文の末尾に、小さくこう付け加えた。


 《本方針の着想は、バク長老の発言に基づく》


 小さな一文だった。


 けれども、誰かの言葉を、誰かの言葉として残す。


 その程度のことからしか、変化は始まらないのかもしれなかった。


 そのころ、ひろこさんは台所に立っていた。


 冷蔵庫を開ける。


 卵がある。


 野菜もある。


 豆類も、まだ棚にある。


「今日は、何にしようかな」


 ひろこさんは、また少し考えた。


 腸内人民共和国の中央統計局は、予測報告書の作成を開始した。


 しかし、今回は、結論を急がなかった。


 ひろこさんが何を選ぶのか。


 それは、まだ分からない。


 そして、分からないことは、必ずしも危機ではなかった。


 少なくとも、そう考えようとする者が、腸内人民共和国にも現れ始めていた。


 ミツオケラ十三世は、窓の外を眺めながら呟いた。


「……しかし、できれば、我が党に有利なものを食べていただきたい」


 ブラウ太郎が、即座に言った。


「まだ言うか!」


 議場に、笑い声が起きた。


 その笑い声が、迷走神経を通じてひろこさんの脳に届いたかどうかは、誰にも分からない。


 ただ、ひろこさんは、その朝、少しだけ機嫌がよかった。


 理由は、分からなかった。


 それでよかった。


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