第十九話 監査人の椅子には、座布団が三枚必要だった
人民大会議場に、新しい椅子が運び込まれた。
それは、たいへん立派な椅子だった。
背もたれは高く、肘掛けには細かな彫刻が施され、座面には深紅の布が張られていた。脚には金色の装飾までついている。
椅子を見たミツオケラ十三世は、満足げにうなずいた。
「なるほど。監査人というものは、やはり立派な椅子に座るのだな」
ブラウ太郎が、椅子の周囲をぐるりと回った。
「どうしてです?」
「どうしてとは何だ」
「監査するのに、椅子の豪華さが必要なんですか」
「必要に決まっている。人民のために厳しい仕事をするのだぞ。疲れては困る」
「疲れない椅子なら、食堂にも置いてください。あそこの椅子は、長老が座ると毎回、悲鳴を上げます」
「わしのせいではない」
バク長老が茶をすすった。
「椅子のほうが、人民共和国の財政状況をよく理解しておるのじゃ」
「椅子にまで皮肉を言わせるな!」
議長菌が木槌を鳴らした。
「静粛に。これは、監査制度の独立性を象徴する、たいへん重要な椅子であります」
名無しの七号が手を挙げた。
「質問があります」
「どうぞ」
「椅子の購入費用は、どの予算から出たのでしょうか」
議長菌は、資料を確認した。
「監査制度整備準備費です」
「その準備費を決めたのは、誰ですか」
「中央行政局です」
「監査される予定の部署ですね」
「はい」
「では、この椅子の購入についても、監査の対象になりますか」
議長菌は、椅子を見た。
ミツオケラ十三世も、椅子を見た。
ブラウ太郎は、椅子の脚を指さした。
「ちなみに、これ、四本とも金色ですね」
「それがどうした」
「監査の独立性を確保するために、脚を一本ずつ別の部署に管理させたほうがよかったんじゃないですか」
「椅子が倒れるだろう!」
「では、独立性には安定性も必要ということですね」
名無しの七号が、真剣な顔で記録した。
――監査用椅子の購入をめぐり、独立性と安定性の両立が課題となった。
「その記録は消せ!」
ミツオケラ十三世が叫んだ。
「消去の理由を記録する必要があります」
「君は、いつからそんなに面倒な菌になったのだ!」
「記録を担当するようになってからです」
バク長老が笑った。
「よいことじゃ。仕事が人を育てておる」
*
監査人を選ぶための会議は、翌日から始まった。
最初の議題は、監査人を誰が任命するか、である。
中央行政局は、専門知識を持つ者を選ぶべきだと主張した。
行政改革委員会は、改革の経緯を理解している者が適任だと主張した。
人民刷新協議会は、与党から独立した者を選ぶべきだと主張した。
ミツオケラ党は、人民共和国の安定を理解している者が適任だと主張した。
議長菌は、それぞれの意見を丁寧に整理した。
「つまり、専門知識があり、改革の経緯を理解し、与党から独立し、人民共和国の安定を理解している者を選ぶ、ということでよろしいでしょうか」
「そうだ」
各代表がうなずいた。
「では、そのような人物を推薦してください」
全員が、黙った。
しばらくして、中央行政局の代表が言った。
「専門知識があり、行政運営を理解している者なら、我々の部署におります」
「それでは、行政局から独立していません」
ブラウ太郎が言った。
「では、人民刷新協議会から推薦していただいては」
「改革の経緯を理解している者を選ぶなら、行政改革委員会の推薦が必要でしょう」
「それでは、改革を推進した側が監査人を選ぶことになります」
名無しの七号が言った。
「では、与党から推薦していただくのはどうでしょう」
「与党から独立していることが条件です」
バク長老が茶を置いた。
「おぬしたちは、誰かに推薦してもらわねば、人を選ぶこともできんのか」
議長菌は、少し考えた。
「推薦を受けずに選ぶ場合、選定の根拠を説明する必要がございます」
「ならば、人民に推薦してもらえばよい」
バク長老が言った。
会議室が静かになった。
ミツオケラ十三世が、慎重に口を開いた。
「人民から直接推薦を受けるのか」
「そうじゃ」
「しかし、人民は専門知識を持っているとは限らん」
「専門知識を持つ者だけが、人を選ぶべきなのかのう」
「監査には、専門的な判断が必要だ」
「それはそうじゃ。じゃが、専門家を誰が選ぶかという問題まで、専門家だけに任せてよいのか」
ミツオケラ十三世は、口を閉じた。
バク長老は続けた。
「医者に病気を診てもらうことと、どの医者に診てもらうかを決めることは、別の話じゃ。医者が優秀だからといって、医者が患者のすべてを決めてよいわけではない」
「なるほど」
ミツオケラ十三世はうなずいた。
そして、すぐに言った。
「では、人民の代表が専門家を選ぶ。その代表を選ぶのは、中央行政局でよいか」
「なぜ、そこで戻る!」
ブラウ太郎の声が、議場に響いた。
*
そこで、名無しの七号が、一つの案を提出した。
「監査人を一つの部署が選ぶのではなく、複数の方法で候補者を集めてはどうでしょう」
「複数の方法?」
「専門家団体からの推薦。人民からの推薦。抽選による市民代表。そして、監査の対象となる制度に直接関わっていない者の候補者名簿です」
議長菌が書き留めた。
「候補者を複数の経路から集める、と」
「はい。そのうえで、任命の基準と理由を公開する。監査人の任期を限定し、再任を無条件には認めない。監査に必要な予算を、監査対象の部署が自由に削減できないようにする」
ブラウ太郎が腕を組んだ。
「それなら、少しは前進するかもしれない」
「さらに、監査人自身の利害関係も公開します。過去に監査対象の部署で働いていたか。監査対象の制度の設計に関わっていたか。関係がある場合、どの案件から外れるのか」
「よいな」
バク長老がうなずいた。
「ただし、一つ忘れておる」
「何でしょうか」
「その制度を作る者たちも、候補者を選ぶ者たちも、みな間違えるということじゃ」
七号は、少し考えた。
「だからこそ、選定の経緯を記録し、異議を申し立てる方法を残す必要があります」
「うむ。間違えない者を探すのではなく、間違えたときに止められる仕組みを作るわけじゃな」
ミツオケラ十三世は、資料を読み直した。
「よし。検討を進めよう」
議長菌が確認した。
「監査人の選定方法について、検討を進めることを決定した、と記録してよろしいでしょうか」
「よい」
「検討の期限は」
「必要な期間を確保する」
「具体的には」
「……三十日だ」
「担当部署は」
「中央行政局と行政改革委員会の共同とする」
名無しの七号が手を挙げた。
「監査対象となる部署が、選定方法の検討を主導することについて、独立性の確認が必要です」
ミツオケラ十三世は、天井を仰いだ。
「では、期限までに選定方法を決めるための独立した検討会を設置する。その検討会の構成員は、今回の会議で決めず、別途、公募と抽選を組み合わせて選ぶ」
議長菌は、目を丸くした。
「総書記閣下。大変複雑な手続きになります」
「知っている」
「事務負担も増加します」
「知っている」
「関係部署から、慎重な意見が出る可能性がございます」
「それも知っている!」
ミツオケラ十三世は、机を軽く叩いた。
「だが、簡単に決められることと、簡単に決めてよいことは違うのだ!」
議場が静まり返った。
ブラウ太郎は、にやりと笑った。
「総書記。今の発言、なかなかよかったですよ」
「そうだろう」
「ただし、記録しただけで満足しないでくださいね」
「君は、最後に必ず一言多いな!」
「そこが私の専門性です」
*
数日後、監査人選定の検討会に参加する市民代表を選ぶため、抽選が行われた。
抽選箱は、人民大会議場の中央に置かれた。
立会人は三名。
抽選箱の封印を確認する者が二名。
抽選番号を読み上げる者が一名。
抽選結果を記録する者が一名。
抽選結果の記録が正しいか確認する者が一名。
その確認を確認する者については、まだ決まっていなかった。
「確認する者を確認する者が必要ではないか」
議長菌が言った。
「その者を確認する者も必要になるぞ」
ブラウ太郎が言った。
「では、どこかで止めなければなりません」
「止める基準を決めるのは誰だ」
「……」
議長菌は、抽選箱を見つめた。
バク長老が、ゆっくりと言った。
「抽選箱を開ける前から、もう抽選が始まっておるのう」
そのとき、抽選箱の横で、若い菌が手を挙げた。
「すみません」
「何でしょうか」
「抽選箱の封印を確認する者の選び方について、質問があります」
議長菌は、顔を引きつらせた。
「……どうぞ」
「封印を確認する者は、誰が選んだのですか」
会場の空気が凍った。
ミツオケラ十三世は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「その質問には、後ほど回答する」
「いつでしょうか」
「確認のうえ、回答する」
「確認の期限は」
「……三日以内だ」
若い菌は、満足したようにうなずいた。
「ありがとうございます」
ブラウ太郎が小声で言った。
「七号。君の弟子か?」
「違います」
「では、誰の弟子だ」
「たぶん、この制度の弟子です」
バク長老が吹き出した。
*
その日の夕方、名無しの七号は、監査人選定の検討会に関する記録を整理していた。
机の上には、候補者名簿、推薦理由、利害関係の申告書、選定手続きの記録が並んでいた。
彼は、一枚ずつ確認した。
候補者の経歴に記載漏れはないか。
推薦理由は公開できる内容か。
選定の基準は、事前に決められていたか。
特定の候補者だけに有利な条件が追加されていないか。
そして最後に、彼は一つの書類で手を止めた。
それは、監査人選定の検討会に対する意見書だった。
差出人は、以前、苦情を苦情として扱ってもらえなかった住民だった。
意見書には、短く、こう書かれていた。
――監査人を選ぶ仕組みが大切なのは分かります。しかし、私が困っている問題は、まだ解決していません。
――制度がよくなることを望みます。でも、制度がよくなるまで、私の生活が止まるわけではありません。
――私の問題について、次に誰が何をするのか、教えてください。
七号は、紙を置いた。
監査人を誰が選ぶか。
選定の方法は公正か。
任命された者は独立して判断できるか。
どれも大切な問題だった。
だが、目の前の住民は、監査制度が完成するまで待っていられるわけではない。
彼は、記録を二つに分けた。
一つは、監査制度の整備に関する記録。
もう一つは、その住民の未解決案件に関する記録。
そして、二つの記録を別々の担当者に送るのではなく、双方の進捗を相互に確認できるよう、関連する案件番号を付けた。
制度を直すことと、目の前の問題に対処すること。
どちらか一方を、もう一方の代わりにしてはいけない。
七号は、そのことを記録に残した。
翌朝、彼はミツオケラ十三世に報告した。
「総書記。監査制度の整備とは別に、未解決案件への対応を続ける必要があります」
「当然だ」
「しかし、これまでの記録では、制度の改善を進めたことが、個別案件の対応を終えた理由として扱われる場合がありました」
「……」
「今後は、制度改善の進捗と、個別案件の解決状況を別々に記録し、それぞれに担当者と期限を設ける必要があります」
ミツオケラ十三世は、しばらく考えた。
「よし。そうしよう」
七号は、うなずいた。
「ただし、担当者と期限を設けたことをもって、解決したとは記録しません」
「分かっている」
「次回確認日が設定されたことをもって、対応が進んだとも記録しません」
「分かっていると言っている!」
「実際に何が行われたかを確認します」
「……七号君」
「はい」
「君は、私を信用していないのか」
七号は、少し困った顔をした。
「総書記を信用することと、総書記の仕事を確認することは、両立すると思います」
ミツオケラ十三世は、黙った。
それから、ふっと笑った。
「君は、私が間違えることを前提にしているのだな」
「私も間違えますから」
「なるほど」
ミツオケラ十三世は、窓の外を見た。
「では、私が間違えたとき、君がそれを記録できるようにしておこう」
「ありがとうございます」
「ただし、記録する前に一度、私に確認を取ってくれ」
「それでは、独立性が……」
「冗談だ!」
七号は、まばたきした。
「今の発言は、記録しますか」
「しなくてよい!」
「承知しました。冗談としての発言であり、記録対象外とするとのご指示がありました」
「七号!」
その声を聞きつけたブラウ太郎が、廊下から顔を出した。
「何です? また記録の問題ですか?」
「違う!」
「では、記録の問題ではないという記録を作りますか?」
「全員、出ていけ!」
バク長老の笑い声が、廊下の奥まで響いた。
*
その週の人民大会議では、監査人選定の検討会に関する進捗が報告された。
候補者の推薦経路は複数用意された。
任命の基準は公開されることになった。
任期と再任条件についても、案が作成された。
監査対象の部署が予算や人事を一方的に左右できないようにする仕組みも、検討項目に加えられた。
いくつかの点では、確かな前進だった。
しかし、制度の外側にいる人々の問題が、すべて解決したわけではなかった。
監査人が選ばれても、監査の結果をどう実行するかという問題が残る。
結果が公表されても、指摘された問題が直ちに直るとは限らない。
そして、監査の仕組みが公正であっても、その仕組みが誰かの声を聞き逃す可能性は残る。
ミツオケラ十三世は、報告書の最後に目を通した。
そこには、いつもの文言があった。
――本件について、必要な対応を実施した。
彼は、ペンを取り、その一文に線を引いた。
代わりに、こう書いた。
――本件について、監査人の選定方法に関する検討を進めた。制度の実施状況および個別案件の解決状況については、引き続き確認を要する。
議長菌が、恐る恐る尋ねた。
「総書記閣下。これでは、報告書が未完成のように見えますが」
「未完成なのだ」
「しかし、報告書は完成させなければなりません」
「報告書は完成させろ。問題まで完成したことにするな」
議長菌は、目を見開いた。
ブラウ太郎は、静かに拍手した。
バク長老も、茶碗を置いてうなずいた。
名無しの七号は、その発言を記録した。
今度は、ミツオケラ十三世も止めなかった。
*
会議が終わったあと、監査人用の立派な椅子は、会議室の隅に移された。
まだ監査人は決まっていない。
椅子だけが先に用意されていたのだ。
ブラウ太郎は、椅子に近づき、座面を軽く叩いた。
「この椅子、どうします?」
「監査人が決まるまで、保管しておく」
議長菌が答えた。
「その保管費用は、どこから出るんです?」
「監査制度整備準備費です」
「監査人が決まらなかったら?」
「引き続き、保管いたします」
「一年たったら?」
「保管いたします」
「十年たったら?」
「適切に管理いたします」
ブラウ太郎は、椅子に深く腰を下ろした。
「なるほど。人民共和国で一番長く勤めるのは、監査人ではなく、監査人用の椅子かもしれませんね」
「勝手に座るな!」
議長菌が叫んだ。
「私は今、椅子の耐久性を監査しているんです」
「そのような監査は認められておりません!」
「では、誰が認めるんです?」
議長菌は、口を開きかけて、閉じた。
バク長老が、楽しそうに笑った。
「ブラウ太郎。おぬし、ついに椅子の権利まで主張し始めたか」
「権利ではありません。耐久性です」
「座った者が、みな立ち上がらなくなったらどうする」
「そのときは、椅子のほうを監査対象にします」
ミツオケラ十三世は、とうとう笑い出した。
笑いながら、彼は思った。
この国には、まだまだ問題がある。
制度を直すには時間がかかる。
正しい仕組みを作ろうとしても、その仕組みが新たな問題を生むことがある。
それでも、誰かが「おかしい」と言ったとき、その声を最初から間違いだと決めつけないこと。
自分たちの判断も、確かめ直せるようにしておくこと。
そして、制度を整える仕事に夢中になって、目の前にいる人の困りごとを忘れないこと。
それだけは、今日から始められる。
彼は、立派な椅子を見つめた。
「ところで、あの椅子は本当に必要だったのだろうか」
議長菌は、胸を張った。
「はい。監査人の威厳を保つために必要です」
「威厳か……」
ミツオケラ十三世は、少し考えた。
「では、監査人が間違いを認めたときには、椅子の背もたれを少し低くするのはどうだ」
「総書記閣下!」
「冗談だ」
「その冗談は、記録に残しますか」
名無しの七号が尋ねた。
「……残しておいてくれ」
ミツオケラ十三世は答えた。
「いつか、本当に必要になるかもしれんからな」
誰も、すぐには笑わなかった。
それから、ブラウ太郎が吹き出した。
「総書記! まさか、反省のたびに椅子を改造する気ですか!」
「いや、制度としては検討の余地が……」
「検討するな!」
人民大会議場に、笑い声が広がった。
立派な椅子は、まだ誰のものでもなかった。
監査人も、まだ決まっていなかった。
人民共和国の問題も、すべてが解決したわけではなかった。
だが、その日の議事録には、初めて、こう記されていた。
――制度の整備が進んだことと、人民の問題が解決したことは、同一ではない。
その一文を、誰も削除しなかった。
もちろん、その一文が本当に守られるかどうかは、まだ分からない。
だからこそ、次の確認日が設定された。
そして、確認日が来たとき、誰かが必ず尋ねることになっていた。
――で、実際には、何が変わったのですか。




