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松木ひろ子さんの、腸内人民共和国【第百二十七回 ミツオケラ人民大会議】 «Bellum et Pax»  作者: 東曌


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第一話 七%の歴史的使命


 腸内共和国の朝は、いつも放送から始まる。


 夜明けというものが、この国に本当に存在するのかどうかは、誰も知らない。


 腸内には太陽がない。


 あるのは、松木ひろ子の生活習慣と、食事の内容と、気分と、そして、ときどき訪れる説明のつかない環境変化だけである。


 しかし、国家放送局は毎朝六時になると、明朗な音楽を流した。


 タン、タタタン、タン。


 人民の皆さん、おはようございます。


 本日も、腸内共和国は安定しています。


 安定しているということは、たいへんよいことであります。


 安定しているからこそ、私たちは安心して不安になることができるのです。


 以上、国家放送局でした。


 放送が終わると、共和国の中央広場に設置された巨大な掲示板に、新しい標語が貼り出された。


 「七%には、七%の責任がある。」


 その下には、小さな文字で、こう書かれていた。


 「責任を果たすためには、権限が必要である。」


 さらにその下には、もっと小さな文字で、こう書かれていた。


 「権限を制限することは、責任を妨害することに等しい。」


 通りかかったバク長老は、掲示板の前で立ち止まった。


「……なるほどな」


 長老は、しばらく文字を眺めていた。


「責任があるから権限が必要で、権限が必要だから制限してはいけない、と」


 隣にいた若い菌がうなずいた。


「そのとおりです。今朝の標語は、たいへん論理的だと評判ですよ」


「そうか」


 バク長老は、ゆっくりと首を傾けた。


「では、責任を果たしていない者の権限は、どうなるのだ?」


 若い菌は、笑顔のまま固まった。


「……そのような仮定は、共和国の安定を損なうおそれがあります」


「なるほど。仮定することも許されぬわけか」


「許されないとは申しません。ただ、慎重な配慮が必要なのです」


「便利な言葉だな、慎重な配慮というのは」


 バク長老は歩き出した。


 若い菌は、胸元から小さな手帳を取り出し、何かを書き込んだ。


 その手帳の表紙には、こう記されていた。


 『共和国の安定を損なう発言に関する参考記録』


 バク長老は、振り返らなかった。


     *


 午前九時。


 中央委員会の大会議室では、ミツオケラ十三世が演説の準備をしていた。


 机の上には三冊の資料が並んでいる。


 一冊目は『七%の歴史的使命』。


 二冊目は『七%の責任と権限』。


 三冊目は『七%に対する疑念が共和国に与える影響について』。


 どれも表紙は立派だった。


 どれも本文は、ほとんど同じだった。


 ミツオケラ十三世は、三冊目を開いた。


「諸君」


 部屋にいた側近たちが一斉に立ち上がった。


「本日の演説では、七%という数字について、改めて人民に説明する」


「はい、書記長」


「まず、七%という数字は、少数である」


「はい」


「少数であるということは、数の上では多数に及ばないということである」


「まったくそのとおりです」


「しかし、数の上で多数に及ばないということは、必ずしも政治的な判断能力において劣っているということではない」


「深遠なお言葉です」


「むしろ、少数であるがゆえに、歴史的使命を担うことができる場合もある」


「歴史的であります」


「そして、歴史的使命を担う者には、歴史的責任が生じる」


「責任重大であります」


「責任重大である者には、それに見合った権限が必要である」


「当然であります」


 ミツオケラ十三世は、満足そうにうなずいた。


「よろしい。では、最後に確認しよう」


 側近たちは姿勢を正した。


「なぜ七%が共和国を指導するのか」


 全員が声をそろえた。


「歴史的使命があるからであります!」


「では、なぜ歴史的使命があるのか」


「共和国を指導する責任があるからであります!」


「では、なぜ指導する責任があるのか」


「歴史的使命があるからであります!」


 ミツオケラ十三世は、両手を広げた。


「すばらしい。諸君、これが一貫性というものである」


 誰も拍手をしなかった。


 拍手をする必要がなかったからだ。


 ここでは、正しいことに対して拍手をするのではない。


 拍手が必要とされたことが、正しいことになるのである。


     *


 その日の午後、共和国の教育局は、全菌向けの特別講義を開催した。


 題目は、


 「七%の歴史的使命――少数者はいかにして人民を導くのか」


 講師は、中央委員会宣伝教育部の主任菌であった。


 会場には、さまざまな菌が集められていた。


 ビフィズス菌のビフ太郎も、出席していた。


 ブラウ太郎もいた。


 バク長老は、出席通知を受け取ったものの、会場のいちばん後ろに座っていた。


 壇上の主任菌は、巨大な図表を示した。


 円グラフの九十三%が灰色に塗られ、残る七%だけが鮮やかな赤色になっている。


 赤い部分には、大きく「歴史」と書かれていた。


 灰色の部分には、「その他」と書かれていた。


「ご覧ください」


 主任菌が言った。


「この円グラフこそ、共和国の現実を示すものであります」


 ビフ太郎が手を挙げた。


「質問してもよろしいでしょうか」


「もちろんです。共和国は人民の質問を歓迎しております」


「ありがとうございます。このグラフの赤い部分が、歴史を表しているということですが……」


「はい」


「では、灰色の部分は、歴史ではないのですか」


 主任菌は、にこやかに答えた。


「たいへんよい質問です」


 そして、少しも間を置かずに続けた。


「灰色の部分は、歴史を支える基盤であります」


「つまり、灰色の部分も歴史なのですね」


「いえ、正確には、歴史そのものではなく、歴史を成立させるための基盤であります」


「その違いは、どこにあるのでしょう」


「それを理解するためには、まず歴史的使命について理解する必要があります」


 ビフ太郎は、口を閉じた。


 主任菌は、満足そうにうなずいた。


「ご理解いただけたようで、何よりです」


 ビフ太郎は、まだ何も理解していなかった。


 ただ、質問を続けると講義が長くなることだけは理解した。


     *


 講義の途中、主任菌は第二の図表を掲げた。


 そこには、共和国の歴史が五つの段階に分けて記されていた。


 第一段階、混沌の時代。


 第二段階、統一への胎動。


 第三段階、ミツオケラ党の指導確立。


 第四段階、人民の安定。


 第五段階、さらなる安定。


 バク長老は、その図表を眺めていた。


「おかしなものだな」


 隣のブラウ太郎が、小声で尋ねた。


「何がです?」


「この国の歴史には、問題が解決された時代はあっても、問題が発生した時代がない」


「第一段階は混沌の時代と書いてありますが」


「混沌というのは、問題が存在したという意味ではない。問題がまだ正しく認識されていなかった、という意味に変えられている」


 ブラウ太郎は、図表を見直した。


「たしかに……」


「そして第三段階以降は、すべて安定だ」


「第二段階は?」


「胎動だ」


「胎動?」


「安定が始まる前の、安定への胎動だそうだ」


 ブラウ太郎は、思わず吹き出しそうになった。


「では、この国には不安定な時代が存在しないのですね」


「存在したことはあるのだろう」


 バク長老は、静かに答えた。


「ただし、記録に残すほどのことではなかったのだろうな」


 そのとき、壇上の主任菌が声を張り上げた。


「歴史とは、単なる出来事の羅列ではありません!」


 会場が静まった。


「歴史とは、人民が進むべき方向を示すものであります。したがって、歴史の記述には、一定の方向性が必要なのです!」


 拍手が起こった。


 今度は、拍手が必要だった。


     *


 講義が終わると、ブラウ太郎は廊下でビフ太郎を見つけた。


「どう思った?」


 ビフ太郎は、少し考えてから答えた。


「難しかった」


「講義の内容が?」


「いや。簡単なことを、あそこまで難しく説明する技術が」


 ブラウ太郎は笑った。


「なるほど。君も少しずつ政治がわかってきたな」


「政治というのは、正しい答えを出すことではないのかもしれないね」


「では、何だと思う?」


「質問した者が、自分の質問を恥ずかしく思うようにすること」


 ブラウ太郎は、笑うのをやめた。


 ビフ太郎の言葉は、冗談の形をしていた。


 しかし、その冗談には、笑って済ませられないものがあった。


 ふたりは廊下の窓から、中央広場を見下ろした。


 広場では、宣伝部の菌たちが新しい看板を設置していた。


 そこには、こう書かれていた。


 「七%を疑う前に、七%の苦労を考えよう。」


 ビフ太郎はつぶやいた。


「七%は、そんなに苦労しているのかな」


「少なくとも、七%の苦労について説明する部署は、ずいぶん大きいようだね」


 ブラウ太郎が言った。


「それだけでも、相当な仕事量だ」


     *


 夕方、ミツオケラ十三世は、書記長執務室で報告書を読んでいた。


 報告書には、特別講義における人民の反応がまとめられていた。


 理解した者、七十二%。


 おおむね理解した者、二十一%。


 理解に努める意向を示した者、六%。


 その他、一%。


 合計、百%。


 ミツオケラ十三世は、満足そうにうなずいた。


「よろしい。人民の理解は、ほぼ完全だ」


 宣伝教育部の主任菌が頭を下げた。


「ありがとうございます」


「ところで、この一%の『その他』とは何だ」


「講義中に居眠りをしていた菌が、数体おりまして……」


「居眠り?」


「はい」


「理解したのか」


「確認はできておりません」


「では、なぜ理解していない者として分類しなかったのだ」


 主任菌は、一瞬、言葉に詰まった。


「それは……理解していないと断定するだけの証拠がなかったためであります」


 ミツオケラ十三世は、報告書を机に置いた。


「なるほど。よい判断だ」


 主任菌は、ほっとした。


「理解していないと断定する証拠がない者を、理解していない者に分類してはならない。これは科学的態度である」


「おっしゃるとおりです」


「しかし、理解したと断定する証拠もないのだろう?」


「はい」


「それなのに、なぜ理解した者が七十二%もいるのだ」


 主任菌の表情が変わった。


「それは、講義終了後のアンケートにおいて……」


「アンケートの質問は何だった?」


「『共和国の歴史的使命について、理解が深まりましたか』であります」


「選択肢は?」


「『深まった』『おおむね深まった』『今後も理解を深めたい』の三つです」


 ミツオケラ十三世は、ゆっくりとうなずいた。


「つまり、理解が深まらなかった者を選ぶ選択肢は、なかったのだな」


「……はい」


「それは、よいことだ」


 主任菌は顔を上げた。


「よいこと、でありますか?」


「当然だ。理解が深まらなかったという回答が存在しなければ、理解が深まらなかったという問題も、統計上は発生しない」


 ミツオケラ十三世は、満足そうに笑った。


「数字というものは、正しく使わなければならない」


 主任菌は、深く頭を下げた。


「勉強になります」


 その夜、宣伝教育部は、報告書の題名を変更した。


 旧題は、『特別講義における人民の反応について』。


 新題は、『歴史的使命に対する人民の理解が順調に深化していることについて』。


 報告書の内容は、ほとんど変わらなかった。


 しかし、題名が変わったことで、報告書はたいへん前向きな文書になった。


     *


 その頃、中央広場の片隅では、名無しの七号が、掲示板の前に立っていた。


 七号は、例の標語を見つめていた。


 七%には、七%の責任がある。


 責任を果たすためには、権限が必要である。


 権限を制限することは、責任を妨害することに等しい。


 七号は、手元の小さな紙片に、何かを書き込んだ。


 そして、その下に、もう一行を付け加えた。


 「では、残る九十三%には、どのような責任があるのか。」


 書き終えると、七号は紙片を折りたたみ、懐にしまった。


 そのとき、背後から声がした。


「何を書いている?」


 振り返ると、議事記録局の職員が立っていた。


「いえ、何も」


「何も書いていないのか」


「書いてはいます」


「では、何を書いている?」


「質問です」


「質問?」


「はい」


 職員は、七号の手元を見た。


「質問というのは、回答を求めるものだ」


「そうですね」


「回答を求めるのであれば、所定の手続きに従わなければならない」


「手続きは、どこで確認できますか」


「質問の内容による」


「では、九十三%の責任について質問する場合は?」


 職員は、少し考えた。


「その質問は、どの部署の管轄になるのだろうな」


「ご存じないのですか」


「知らないのではない。確認が必要なのだ」


「どこに確認すればよいのでしょう」


「それを確認する部署に、まず確認しなければならない」


 七号は、うなずいた。


「わかりました」


 職員は安心したように微笑んだ。


「理解が早いな」


 七号は、懐の紙片を押さえた。


 理解したわけではなかった。


 ただ、質問を正式な質問にするまでに、ずいぶん時間がかかりそうだということは理解した。


     *


 その夜、中央委員会では、定例会議が開かれた。


 議題は、もちろん「七%の歴史的使命について」である。


 ミツオケラ十三世が議長席に座ると、議事菌が立ち上がった。


「本日の議題は、七%の歴史的使命について、人民の理解をさらに深めるための方策を検討することであります」


「よろしい。報告を」


 宣伝教育部の主任菌が、資料を読み上げた。


「現在、共和国の人民は、七%が共和国を指導することについて、概ね理解を示しております。しかし、一部には、七%の責任と権限の関係について、なお十分な理解に至っていない者も存在する可能性があります」


「具体的には?」


「具体的な人数は、把握できておりません」


「なぜだ」


「理解に至っていない者を特定するためには、理解に至っていないという回答を得る必要があります。しかし、そのような回答を求めることは、歴史的使命に対する疑念を広げるおそれがあるためであります」


 ミツオケラ十三世は、うなずいた。


「なるほど。疑念を調べることによって、疑念を広げてしまうのか」


「はい」


「それは、たいへん厄介な問題だ」


 会議室の空気が引き締まった。


「では、どうするべきか」


 誰も答えなかった。


 しばらくして、ある委員が手を挙げた。


「書記長。理解していない者を探すのではなく、理解していることを確認する制度を整えてはいかがでしょうか」


「具体的には?」


「講義への出席を義務化し、終了後に理解度を自己申告させるのであります」


「自己申告?」


「はい。人民が自らの理解を申告するのであれば、こちらが疑念を探し出す必要はありません」


 ミツオケラ十三世は、笑みを浮かべた。


「よい。人民の自発性を尊重する制度だ」


 別の委員が続けた。


「さらに、理解が深まった者には、歴史的使命への協力証明書を発行してはいかがでしょうか」


「証明書を?」


「はい。証明書を持つ者は、共和国の安定に貢献していることが明らかになります」


「証明書を持たない者は?」


「まだ、理解を深める余地があるということであります」


 ミツオケラ十三世は、満足げにうなずいた。


「すばらしい。理解した者は理解したと証明され、理解していない者は理解を深める機会を得る。誰も不利益を受けない制度だ」


 議事菌が記録した。


 「全委員一致で、人民の理解を促進するための新制度の導入を決定した。」


 会議は、予定よりも早く終わった。


 誰も、ひとつの疑問を口にしなかった。


 そもそも、七%が指導する理由について、人民が理解する必要はあるのだろうか。


 あるいは、指導する側が、その理由を説明する必要があるのだろうか。


 会議の議題は「七%の歴史的使命」であって、「七%の歴史的使命が存在するかどうか」ではなかった。


 議題に含まれていない問いは、会議では扱えない。


 会議で扱われなかった問いは、会議の記録には残らない。


 記録に残らなかった問いは、後世の歴史家から見れば、最初から存在しなかった問いになる。


     *


 翌朝。


 共和国のあちこちに、新しい掲示板が設置された。


 掲示板には、赤い文字でこう書かれていた。


 「歴史的使命理解促進週間、開幕。」


 その下には、三つの標語が並んでいた。


 「理解することは、協力することである。」


 「協力することは、理解を深めることである。」


 「理解を深めることを拒むことは、協力の機会を失うことである。」


 ビフ太郎は、それを読んで、ため息をついた。


「どう思う、ブラウ太郎」


「よくできていると思うよ」


「本当に?」


「うん。どこから読んでも、最後には同じ場所に戻ってくる」


「どこだろう」


「最初から決まっている結論だよ」


 ビフ太郎は、もう一度、掲示板を見た。


 そのとき、通りの向こうから、宣伝部の菌が走ってきた。


「お知らせです! 歴史的使命理解促進週間の参加率は、すでに九十八%に達しました!」


「まだ始まったばかりなのに?」


 ビフ太郎が尋ねた。


「はい! 参加登録は、昨夜のうちに完了しております!」


「参加するかどうか、本人に確認したのかい?」


「もちろんです!」


「いつ?」


「参加登録を完了した後であります!」


 宣伝部の菌は、誇らしげに胸を張った。


「残る二%についても、今後、理解を深める機会を提供してまいります!」


 そう言って、彼は走り去った。


 ビフ太郎は、ブラウ太郎を見た。


「参加したくないと言ったら、どうなるのかな」


「参加したくない理由を説明する機会が与えられるんじゃないかな」


「その説明は、受け入れられると思う?」


「それは、説明の内容によるだろうね」


「受け入れられなかったら?」


「理解を深める機会が、もう一度与えられる」


 ふたりは、しばらく黙っていた。


 やがてブラウ太郎が、ぽつりと言った。


「親切な国だね」


 ビフ太郎は、うなずいた。


「ああ。納得するまで、何度でも納得する機会をくれるんだから」


     *


 昼過ぎ。


 名無しの七号は、議事記録局の窓口に立っていた。


「質問を提出したいのですが」


 窓口の菌は、書類を差し出した。


「質問申請書に記入してください」


 七号は、申請書を受け取った。


 そこには、質問の内容を書く欄のほかに、次の項目があった。


 質問の目的。


 質問によって期待される共和国への貢献。


 質問に関する既存の公式見解を理解しているか。


 質問が共和国の安定に与える影響について。


 七号は、最後の項目で手が止まった。


「この質問が共和国の安定に与える影響は、まだわかりません」


 窓口の菌は、書類を覗き込んだ。


「それでは、記入が不十分です」


「わからないことを、わからないと書いてはいけないのですか」


「わからない場合は、わからない理由を記入してください」


「わからない理由も、まだわかりません」


「それでは、申請を受理できません」


 七号は、しばらく考えた。


 そして、質問の目的の欄に、こう書いた。


 「わからないことを、わからないままにしないため。」


 窓口の菌は、その文面を読んだ。


「たいへん前向きな目的ですね」


「ありがとうございます」


「しかし、この質問の目的が共和国にどのような貢献をもたらすのか、具体的に記入してください」


「質問に答えが出れば、共和国について理解が深まるかもしれません」


「それは、公式見解を理解するということでしょうか」


「公式見解が正しければ、そうなると思います」


「では、公式見解が正しくない可能性については?」


 七号は、窓口の菌を見つめた。


「その可能性も、質問したいのです」


 窓口の菌は、ゆっくりと申請書を閉じた。


「申し訳ありませんが、その場合は、質問の内容を先に確認する必要があります」


「内容は、今ここに書いてあります」


「はい。しかし、その内容が適切な質問に該当するかどうかは、別の問題です」


「誰が判断するのですか」


「質問審査委員会です」


「委員会は、どのような基準で判断するのですか」


「質問の適切性に関する基準です」


「その基準は、どこで読めますか」


「基準の公開については、別途申請が必要です」


 七号は、申請書を受け取った。


「では、まず基準の公開を申請します」


 窓口の菌は、にこやかにうなずいた。


「たいへん結構です。こちらの用紙をご利用ください」


 差し出された用紙の表題は、


 『質問審査基準公開申請書』


 であった。


 七号は、その用紙を受け取った。


 そして、裏面に小さく書かれた注意事項を読んだ。


 ――公開申請を行うにあたっては、公開を希望する基準の名称を正確に記入すること。


 七号は、思わず笑いそうになった。


 まだ名前も知らないものを、正確な名前で指定しなければならないらしい。


 彼は用紙を折りたたんだ。


 そのとき、ふと気づいた。


 この国では、質問をすることが禁止されているわけではない。


 質問をしてもよい。


 質問を提出してもよい。


 質問について説明を求めてもよい。


 質問を受理してもらうための基準について、公開を申請してもよい。


 ただし、そのどれもが、必ず次の手続きを必要とする。


 質問する自由は、存在している。


 しかし、質問が届く自由については、まだ何も説明されていなかった。


     *


 夜。


 ミツオケラ十三世は、書記長執務室の窓から中央広場を眺めていた。


 広場には、歴史的使命理解促進週間の大きな旗が掲げられている。


 赤い旗には、白い文字で、こう記されていた。


 「七%の使命は、九十三%の未来である。」


 ミツオケラ十三世は、その文字を眺めながら、側近に尋ねた。


「なかなかよい標語だと思わないか」


「たいへん優れた標語であります」


「七%の使命が、九十三%の未来につながる。つまり、我々の使命は、我々自身のためではないということだ」


「人民のためであります」


「そうだ。我々は、人民のために指導している」


「そのとおりであります」


「人民のために指導する以上、人民が我々の指導を理解してくれることが望ましい」


「もちろんです」


「しかし、理解するためには、まず我々の説明を聞いてもらわなければならない」


「はい」


「説明を聞いてもらうためには、説明を聞く機会を設けなければならない」


「はい」


「そして、説明を聞く機会を設けるためには、その機会への参加を促さなければならない」


「まったく、そのとおりです」


 ミツオケラ十三世は、満足そうにうなずいた。


「つまり、我々が指導を続ける限り、人民には我々の説明を聞く機会が必要になる」


「はい」


「それは、我々の責任だ」


「歴史的責任であります」


 ミツオケラ十三世は、窓の外を見た。


 彼の顔には、悪意はなかった。


 少なくとも、本人はそう信じていた。


 彼は、共和国が混乱することを恐れていた。


 多数の意見が衝突し、方針が定まらず、昨日決めたことが今日覆され、今日決めたことが明日否定される。そんな国を想像すると、彼は落ち着かなくなった。


 だから、決める者が必要だった。


 決めたことを守らせる者が必要だった。


 守らせる者を疑わせない仕組みが必要だった。


 そして、その仕組みを維持するためには、人民がそれを理解しているという証拠が必要だった。


 彼は、順序立てて考えていた。


 ひとつひとつの考えは、彼の中では合理的だった。


 しかし、彼はまだ気づいていなかった。


 その合理性が、いつの間にか、ある問いを考えなくて済むための仕組みになっていたことに。


 ――なぜ、自分たちが決めるのか。


 その問いだけが、彼の思考の外側に置かれていた。


     *


 同じ夜、名無しの七号は、自室で小さな帳面を開いていた。


 帳面には、これまでに気づいたことが書き留められている。


 第一話で、議事録に記された一文。


 「全会一致は、全員の自由な意思を意味するのか。」


 そして、今日の一文。


 「七%には、七%の責任がある。では、九十三%には、どのような責任があるのか。」


 七号は、二つの文章を見比べた。


 どちらも、答えは書かれていない。


 けれども、答えがないからこそ、書き残しておく必要がある気がした。


 彼は、帳面のいちばん下に、新しい文章を書いた。


 「ある集団が、自分たちの権力を説明するために、どこまでも説明を増やしていくとき、その説明は、いったい誰のために存在しているのだろう。」


 書き終えた七号は、ペンを置いた。


 外では、国家放送局の夜間放送が始まっていた。


『人民の皆さん、本日の歴史的使命理解促進週間は、順調に進展しております』


『共和国の安定は、人民の理解によって支えられています』


『人民の理解は、共和国の指導によって深まります』


『したがって、共和国の安定と人民の理解は、互いに支え合う関係にあります』


 七号は、目を閉じた。


 放送は、最後にこう告げた。


『明日もまた、皆さんとともに、歴史的使命を理解してまいりましょう』


 七号は、暗い部屋の中で、小さくつぶやいた。


「……理解することと、同意することは、同じなのだろうか」


 答える者はいなかった。


 腸内共和国の夜は、静かだった。


 そして、その静けさは、翌朝の放送によって、再び安定と呼ばれることになっていた。

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