第十六話 誰のための改革なのか
中央記録管理局の壁には、新しい標語が掲げられていた。
《改革は、人民の声によって検証される》
以前の標語は、《人民の声を、改革の力に》だった。
どちらも、よく似ていた。
ただし、以前の標語では、人民の声は改革を前へ進めるための燃料だった。新しい標語では、人民の声は改革の正しさを確かめるための測定器になっていた。
壁に貼られた二枚の標語を見比べながら、ブラウ太郎は言った。
「言葉が少し変わったな」
名無しの七号は、手帳を開いた。
「変わりましたね」
「どう思う?」
「前の標語では、人民の声を聞いたあと、改革する側が進むことになっていました。今度の標語では、人民の声を使って、改革する側が自分たちの進み具合を測ることになっています」
「つまり?」
「どちらも、人民の声を使う側は、改革する側です」
ブラウ太郎は、しばらく標語を見つめた。
「君は、言葉を短くするほど、逃げ道を塞ぐな」
「長くすると、逃げ道が増えることがありますから」
「なるほど。では、君の手帳には何と書く?」
名無しの七号は、少し考えてから記した。
《人民の声を改革のために使うことと、人民の問題を解決することは、同じではない》
そして、その下に、もう一行を加えた。
《改革のために声を集めた者は、その声が集められた後に何が起きたのかについても、説明する責任を負う》
書き終えると、七号は手帳を閉じた。
「これで、標語より長くなりました」
「標語に勝つ必要はない」
ブラウ太郎は言った。
「標語が短くしたものを、記録がもう一度、長くすればいい」
そのとき、中央記録管理局の奥から、改革評価室の職員が現れた。
「ブラウ太郎代表、七号記録員。改革実施状況の検証会議が始まります」
「出席者は?」
「中央委員会改革推進部、中央記録管理局、地方調整局、人民刷新協議会、それから独立委員会の関係者です」
「人民は?」
職員は一瞬、言葉に詰まった。
「人民の方々については、別途、聞き取り調査を実施する予定です」
ブラウ太郎は、職員を責めなかった。
「その聞き取り調査の対象者は、誰が選ぶ?」
「改革評価室です」
「質問項目は?」
「改革評価室が作成します」
「回答を分類するのは?」
「同室です」
「結果を評価するのは?」
「改革推進部と共同で……」
ブラウ太郎は、そこで手を上げた。
「わかった。君が悪いと言っているのではない。手続きを確認しているんだ」
職員は、ほっとしたような、かえって困ったような顔をした。
「はい。手続きとしては、従来の規定に従っています」
「それが問題なのかもしれない」
職員は、返事をしなかった。
その沈黙には、怠慢よりも困惑があった。
彼は、与えられた仕事を正しく進めようとしていた。規定に従い、期限を守り、書類を整え、上司の承認を受ける。そうしなければ、改革そのものが止まってしまうことを知っていた。
しかし、規定に従うことと、規定が正しいことを確かめることは、別の仕事だった。
彼の机には、まだ前者の仕事しか割り当てられていなかった。
「会議室へご案内します」
職員は言った。
ブラウ太郎と名無しの七号は、彼の後について歩いた。
廊下の壁には、改革の進捗率を示す掲示板があった。
《改革実施率 八十一・二%》
その数字は、先週よりも高くなっていた。
改革の担当者が決まり、期限が設定され、記録の照合手順が整えられ、保留案件には再確認日が設けられた。
それらは、どれも必要な改善だった。
実際、以前なら何年も所在不明のままになっていた記録が、いくつも見つかっていた。担当部署がわからずに止まっていた案件が、再び動き始めてもいた。
改革は、まったくの見せかけではなかった。
だからこそ、難しかった。
八十一・二%という数字を、嘘だと言い切ることはできない。
しかし、その数字をもって、人民の問題が八十一・二%解決したと言うこともできない。
正しい数字であっても、答えていない問いがある。
そして政治の世界では、答えていない問いが、いつの間にか答えられた問いとして扱われることがあった。
それは、誰かが数字を偽造したからとは限らない。
数字が、あまりにも便利だったからである。
---
## 一 聞き取り調査の開始
改革評価室の会議室には、長い机が置かれていた。
机の上には、調査票、録音装置、同意書、回答分類表が整然と並んでいた。
壁のスクリーンには、今回の調査目的が表示されている。
《改革による人民の実感の変化を把握し、今後の制度改善に資する》
その下には、三つの調査項目があった。
一、改革によって、手続きは改善されたか。
二、改革によって、回答は得られやすくなったか。
三、改革によって、人民の満足度は向上したか。
改革評価室長のセッショウ菌が、説明を始めた。
「今回の調査では、改革対象案件から無作為に抽出した人民の方々に聞き取りを行います。調査結果は、改革の実効性を測定する基礎資料として使用されます」
「無作為抽出というのは、どういう意味ですか」
名無しの七号が尋ねた。
「特定の意見に偏らないよう、対象案件の一覧から一定の方法で選びます」
「対象案件の一覧に載っていない人は?」
セッショウ菌は、調査票を一枚めくった。
「今回の調査は、改革対象案件を母集団としていますので、一覧に登録されていない方は対象外となります」
「つまり、以前の制度で記録から漏れた可能性のある人々は、今回の調査でも漏れる可能性がある?」
「その可能性は、理論上はあります」
「それを確認する調査は?」
「今回の調査には含まれておりません」
名無しの七号は、手帳を開いた。
セッショウ菌は続けた。
「もちろん、今後の課題として検討することは可能です」
ブラウ太郎が静かに尋ねた。
「セッショウ室長。今回の調査で、改革の対象になった案件について聞くことはできますね」
「はい」
「では、改革の対象にならなかったために、いまも困っている人については?」
「今回の調査の目的からは、外れます」
「では、その人が今回の調査に協力して、自分の問題を話したとします。その話は、どう扱われますか」
「調査対象外の案件として記録し、必要に応じて関係部署へ情報提供することになります」
「必要に応じて、というのは?」
「内容を確認したうえで、所管部署を特定し、対応の必要性を判断します」
「誰が判断しますか」
「改革評価室です」
ブラウ太郎は、机の上の調査票を見た。
そこには、《自由意見欄》という項目があった。
「この欄に、制度の評価ではなく、自分の問題を解決してほしいと書いた場合は?」
セッショウ菌は、少しだけ姿勢を正した。
「自由意見として受け付けます」
「その後は?」
「内容を分類します」
「分類された後は?」
「必要に応じて関係部署へ送付します」
「送付された後は?」
「関係部署で確認します」
「確認された後は?」
「対応可能なものについては、対応が行われます」
ブラウ太郎は、うなずいた。
「つまり、制度を評価するための調査に協力した人が、自分の問題を解決してほしいと訴えた場合、その問題は、もう一度、通常の手続きに戻るのですね」
「原則としては、そうなります」
「その人は、今回の調査に協力したことで、何か変わりますか」
セッショウ菌は答えなかった。
改革評価室の職員が、隣の席で小さく息を吐いた。
彼らは、制度の仕組みを説明できた。
しかし、その仕組みを通過した人が、どこへたどり着くのかについては、まだ説明できなかった。
---
## 二 最初の証言者
聞き取り調査は、翌日から始まった。
最初の対象者は、地方配給調整区に暮らすバク科の小さな住民だった。
彼の名前は、バク吉という。
数年前、彼は地域の食物繊維配給について意見書を提出していた。
配給量そのものへの不満ではなかった。
彼の居住区では、配給所までの距離が長く、移動に時間がかかる住民が少なくなかった。配給量が規定どおりであっても、受け取りに行けない者がいる。
彼は、その問題を訴えていた。
当時の回答には、こう書かれていた。
《配給制度は規定に従って適正に運用されている。地域事情については、関係部署において検討する》
それから長い時間が過ぎていた。
バク吉は、聞き取り調査の席に座ると、最初にこう尋ねた。
「私が話したことは、どこかに残りますか」
調査員は、うなずいた。
「はい。記録を作成します」
「その記録は、誰が読みますか」
「改革評価室の担当者と、必要に応じて関係部署が確認します」
「私も読めますか」
調査員は、手元の説明書を確認した。
「個人情報の保護に配慮したうえで、ご本人の発言記録を確認していただくことは可能です」
「私が間違って伝わっていると思ったら、直せますか」
「事実関係に関する訂正の申し出は受け付けます。評価や解釈に関する部分については、調査担当者の判断によります」
バク吉は、しばらく考えていた。
「私の言葉を、私が直せないこともあるのですね」
「記録の正確性を保つための手続きです」
「なるほど」
彼は、納得したというより、説明を理解したという顔をした。
調査員は、最初の質問を読み上げた。
「今回の改革によって、手続きは改善されたと感じますか」
「はい」
調査員は、回答欄に丸をつけた。
「ありがとうございます。具体的には、どのような点が改善されましたか」
「以前は、どこに問い合わせればよいのかわかりませんでした。今は担当部署の名前がわかります。問い合わせ番号もあります。返事が来るまでの目安も示されました」
「では、改革は役に立ったと?」
「はい。役に立ちました」
調査員は、満足度の欄にも印をつけようとした。
そのとき、バク吉が言った。
「ただ、私の問題は、まだ解決していません」
調査員の手が止まった。
「そうなのですか」
「ええ。配給所までの距離は変わっていません。移動が難しい者への代替手段について、検討するという返事はいただきました。しかし、いつ検討されるのか、誰が決めるのかは、まだわかりません」
「では、改革については満足していない、ということでしょうか」
バク吉は首を横に振った。
「それも違います」
調査員は困った顔をした。
「改善された部分には満足している。でも、問題は解決していない、ということですか」
「そうです」
「その二つは、同時に成り立つのですね」
「もちろんです」
バク吉は、少し笑った。
「あなた方の制度では、どちらか一つを選ばなければならないのですか」
調査員は、回答分類表を見た。
そこには、満足、どちらともいえない、不満という三つの選択肢が並んでいた。
自由記述欄もある。
しかし、集計表の中心に置かれているのは、三つの選択肢だった。
「いえ、自由意見として、両方を記録することはできます」
「では、そうしてください」
バク吉は言った。
「私は、改善されたことを否定したくありません。担当者が決まり、返事が来るようになったことは、本当に助かっています。以前より、ずっとよくなりました」
彼は、一度言葉を切った。
「でも、私が最初にお願いしたことは、まだ終わっていません。それまで終わったことにされたら、私はまた、最初から説明しなければならなくなるでしょう」
調査員は、回答欄の横に、小さく書き込んだ。
《手続き改善を評価。ただし、原案件は未解決》
その文字は、集計表のどの欄にも、ぴったりとは収まらなかった。
---
## 三 満足した人民と、満足していない人民
二人目の証言者は、以前に提出した意見書について、すでに回答を受け取っていた。
彼女は、回答に満足していた。
意見書の内容は、地域の配給基準を変更してほしいというものだった。
調査の結果、彼女の地域では、基準変更によって別の地域の住民に不利益が生じることが判明していた。関係部署は、変更を見送る理由を具体的に説明し、代替案を提示していた。
彼女は、その説明を読んだうえで、変更を求めることを取り下げていた。
「最初は、腹が立ちましたよ」
彼女は言った。
「こちらが困っているから意見を出したのに、できません、だけで終わるのかと思いましたから」
「その後、説明があったのですね」
「はい。こちらの事情だけでなく、ほかの地域の事情も示されました。私が知らなかったこともありました。代わりの方法も提案してくれました」
「現在、問題は解決したと感じますか」
「私が求めていた基準変更は実現していません。でも、なぜ変更できないのかは理解できましたし、別の方法で困っていた部分は改善されました」
調査員は、記録を進めた。
「つまり、解決した、と」
「いいえ」
彼女は、はっきり言った。
「私は、変更を求めることをやめました。それは、最初の要求が実現したという意味ではありません。ただ、説明を受けて、自分で判断したのです」
調査員は、ペンを止めた。
「では、未解決という分類になりますか」
「それは、あなた方が何を解決と呼ぶかによります」
彼女は穏やかに続けた。
「私にとって大事だったのは、要求が通ることだけではありませんでした。なぜ通らないのかを知り、別の方法を選べることも大事だったのです」
彼女は、満足していた。
しかし、要求そのものは実現していなかった。
彼女は、満足しているからといって、すべてが解決したことにされるのを望んでいなかった。
三人目の証言者は、逆だった。
手続きは改善されていた。
回答も早くなった。
担当部署も明確になった。
しかし、彼は、以前より不満を募らせていた。
「以前は、どこに行っても相手にされませんでした」
彼は言った。
「今は、どこに行けば相手にされないのかが、よくわかるようになりました」
調査員は、顔を上げた。
「それは、どういう意味でしょうか」
「窓口はあります。受付番号もあります。担当者もいます。返事も来ます。返事には、次の窓口が書いてあります。次の窓口へ行くと、また受付番号が発行されます」
「それでも、問題が解決しない?」
「ええ」
彼は、手元の書類を広げた。
「こちらが求めているのは、配給方法の変更です。しかし、こちらの窓口では制度の運用しか確認できない。あちらの窓口では制度の変更しか扱えない。制度変更の窓口では、運用上の事情を確認してからでないと判断できないと言われる」
彼は、書類を一枚ずつ並べた。
「どの窓口も、仕事はしているのでしょう。返事も、間違ってはいないのでしょう。けれど、私の問題は、窓口から窓口へ移動するたびに、別の問題として扱われるのです」
調査員は、書類の受付番号を確認した。
「これらの記録は、すべて同じ案件に関係していますね」
「私にとっては、最初から同じ問題です」
「制度上は、別の所管に分かれているため……」
「ええ。わかっています」
彼は、疲れたように笑った。
「私も、何度も説明しましたから」
その言葉は、調査員を責めるものではなかった。
むしろ、調査員が自分の言葉を理解しようとしていることを、彼は認めていた。
だからこそ、その後に続く言葉が重かった。
「あなたは、私の話を聞いてくれています。でも、あなたが聞き取りを終えたあと、私の問題は、どこへ行くのでしょう」
調査員は、すぐには答えられなかった。
その質問は、調査票のどこにもなかった。
---
## 四 調査員のための調査票
聞き取りが十件を超えたころ、改革評価室では、回答の一次集計が始まった。
手続きが改善されたと答えた者は、多かった。
回答が得られやすくなったと答えた者も、多かった。
満足度については、地域や案件によってばらつきがあった。
しかし、自由記述欄には、同じような言葉が何度も現れた。
《返事は来たが、問題は終わっていない》
《説明は理解したが、未解決の部分が残っている》
《改善された点は評価する。ただし、今後の対応が不明である》
《今回の調査に協力した後、私の案件がどうなるのか知りたい》
集計担当者は、それらの回答を一つの分類にまとめようとした。
《制度改善への期待》
セッショウ菌は、分類案を見て、首を傾げた。
「この分類は、少し広すぎるのではないか」
担当者が説明した。
「回答者の多くは、改善された点を認めながら、残された課題を指摘しています。今後の制度改善への期待という点で共通しています」
「共通しているのは、期待なのか?」
「はい。少なくとも、改革に対して完全に否定的ではありません」
「問題が解決していないという事実と、改革に期待しているという感情は、同じではないだろう」
担当者は、分類表を見直した。
「では、別の分類を設けますか」
「そうした方がいい」
セッショウ菌は言った。
「改善の評価、問題の解決状況、今後の対応への期待。この三つは、分けて記録しよう」
担当者は、すぐに修正を始めた。
その仕事ぶりを見ながら、セッショウ菌は、ふと気づいた。
彼らは、調査対象者の声を、以前より丁寧に扱おうとしていた。
だが、彼ら自身が、その丁寧さを評価される仕組みはなかった。
聞き取り件数は集計される。
回答率も集計される。
記録の作成件数も集計される。
しかし、聞き取りの結果、未解決案件が実際に動いた件数は、どこにもなかった。
彼らは、声を聞いたことを記録していた。
声を聞いた後に何が起きたかは、別の部署の仕事だった。
セッショウ菌は、ブラウ太郎に連絡を取った。
「少し相談したいことがあります」
---
## 五 コウシン太郎の古い設計図
そのころ、コウシン太郎は、人民刷新協議会の資料室で、古い制度設計書を読み返していた。
彼が探していたのは、案件管理制度の初期設計に関する文書だった。
改革評価室から送られてきた集計資料を読んだとき、彼は見覚えのある分類方法に気づいた。
それは、かつて彼が中央委員会の政策スタッフだったころ、作成に関わったものだった。
案件の状態を、次の四つに分ける。
一、受付済み。
二、確認中。
三、回答済み。
四、処理完了。
当時の彼は、この分類を合理的だと考えていた。
どの案件がどこにあるのかを把握できる。
担当者が明確になる。
期限を設定できる。
回答が滞っている案件を発見できる。
そして、処理完了の件数を集計すれば、制度全体の動きを把握できる。
実際、その制度は、一定の成果を上げていた。
以前は、受付されたかどうかもわからなかった意見が、番号を持つようになった。
担当者が不明なまま放置されていた案件に、責任者が割り当てられるようになった。
回答までの期間も、以前より短くなった。
コウシンは、その成果を否定するつもりはなかった。
問題は、その分類が、いつからか、別の意味を持ち始めたことだった。
《回答済み》は、返事が出されたことを意味する。
しかし、返事の内容が問題を解決したことを意味しない。
《処理完了》は、手続きが終わったことを意味する。
しかし、人民が求めたことが実現したことを意味しない。
その違いは、設計書にも書かれていた。
彼は、古い文書を開いた。
《処理状態と案件解決状態は、必要に応じて区別して管理する》
その一文の横には、彼自身の書き込みがあった。
《初期運用では、まず案件の流れを把握する。解決状況の詳細管理は、運用が安定した段階で追加する》
その下には、別のメモが残っていた。
《追加時期は、次期改修で検討》
コウシンは、目を閉じた。
彼は、解決状況の管理を忘れていたわけではない。
最初から、必要だと考えていた。
ただ、最初の制度を動かすために、後回しにした。
運用を安定させるために、後回しにした。
データの形式を統一するために、後回しにした。
担当者の負担を増やさないために、後回しにした。
そのたびに、理由はあった。
どれも、まったく不合理ではなかった。
しかし、後回しにされたものには、期限がなかった。
期限がないものには、担当者がつかなかった。
担当者がいないものは、進捗率に反映されなかった。
進捗率に反映されないものは、制度全体の課題として認識されにくかった。
そして、制度全体の課題として認識されないものは、次の改修でも後回しにされた。
コウシンは、設計書の余白に、新しい一文を書いた。
《後回しにした事項は、後から誰が、いつ、どの条件で再検討するのかを定めなければ、制度上、存在しないものと同じになりうる》
彼は、ペンを置いた。
「また、同じことをやっている」
声に出すと、その言葉は思ったよりも小さかった。
彼が恐れていたのは、改革が失敗することだけではなかった。
改革が、成功したことにされることだった。
失敗なら、見直すことができる。
しかし、成功したことにされれば、問題を指摘する者の方が、改革を妨害する者として扱われかねない。
彼は、すぐにブラウ太郎へ連絡した。
---
## 六 改革を測る者たち
三日後、臨時協議会が開かれた。
出席者は、ブラウ太郎、コウシン太郎、名無しの七号、セッショウ菌、中央委員会改革推進部の代表、中央記録管理局の代表、そしてミツオケラ十三世だった。
会議の議題は、聞き取り調査の中間結果と、調査後の案件追跡についてだった。
最初に、セッショウ菌が報告した。
「現時点では、聞き取り対象者の多くが、受付番号の付与、担当部署の明確化、回答までの見通しの提示について、改善を認めています。一方で、原案件が未解決のまま残っている事例や、回答済みであっても今後の対応が不明な事例が確認されています」
改革推進部の代表が、うなずいた。
「つまり、改革は一定の成果を上げているが、残された課題もある、ということですね」
「はい。ただし、現時点では、未解決案件の全体数や、調査結果が実際の対応につながった割合は、把握できていません」
「それは、今回の調査の範囲外だったからでは?」
「そのとおりです」
「であれば、今後の課題として整理すればよいのではないでしょうか」
その言葉に、コウシン太郎が顔を上げた。
「今後の課題として整理するだけでは、足りません」
改革推進部の代表は、彼を見た。
「何が足りないのでしょう」
「担当者と期限です」
コウシンは、机に一枚の資料を置いた。
「私たちは、以前から、制度の不備を見つけるたびに、今後の課題として整理してきました。しかし、課題として整理することと、課題を解決することは違います。今回も、調査の結果、未解決案件が見つかった。ならば、その案件を誰が引き取り、いつまでに、どこまで確認するのかを決める必要があります」
「それでは、聞き取り調査の目的が拡大してしまいます」
「目的を拡大するのではありません。調査によって新たに確認された問題が、調査終了と同時に行き場を失わないようにするのです」
改革推進部の代表は、少し考えた。
「しかし、調査に協力したすべての人の案件について、必ず解決を保証することはできません」
「私も、保証しろとは言っていません」
コウシンの声は、静かだった。
「解決できないことと、どこへ行ったかわからなくなることは違います。対応できないなら、その理由を示す。追加の確認が必要なら、その担当者と期限を示す。制度上、対応できないなら、その判断を誰が行ったのかを記録する。そういうことです」
「つまり、解決を保証するのではなく、解決に至る過程を追跡可能にする?」
セッショウ菌が尋ねた。
「そうです。ただし、追跡可能にしただけで満足してはいけない。追跡した結果、何が起きたのかを、本人に返す必要があります」
名無しの七号が、手帳に書き込んだ。
《調査で発見した問題を、調査の外へ捨ててはならない》
ミツオケラ十三世は、ずっと黙っていた。
やがて、彼は口を開いた。
「コウシン太郎。君は、かつて同じような仕組みを設計したのだな」
「はい」
「そして、その仕組みは、一定の成果を上げた」
「はい」
「だが、解決状況の管理は後回しにされた」
「そうです」
「その後回しにされた部分が、今回の改革でも、別の形で現れたということか」
コウシンは、少しだけうつむいた。
「そう考えています」
「君は、当時、なぜ期限を設けなかったのだ」
会議室が静かになった。
コウシンは、答えを急がなかった。
「解決状況を管理するためには、何をもって解決とするかを決める必要がありました。しかし、案件によって事情が違います。要求が実現すれば解決するものもあれば、要求が実現しなくても、説明と代替案によって本人が納得するものもある。反対に、回答を受け取っても納得できず、追加の説明を求める人もいます」
「それで?」
「統一的な基準を作るには時間がかかると考えました。まずは、案件の受付と回答を管理できるようにしようとしたのです」
「合理的な判断ではないか」
「当時の判断としては、そうだったと思います」
コウシンは、そこで顔を上げた。
「ただし、私は、解決状況の管理を追加する条件と期限を設けませんでした。基準が難しいことを理由に、基準を作る責任まで先送りしたのです」
ミツオケラ十三世は、彼を見つめた。
「君は、制度を動かすために、未完成の部分を残した」
「はい」
「そして、未完成の部分が、制度の完成後も残った」
「はい」
「それを、今度は誰かが改革しなければならない」
「そうです」
コウシンは、短く答えた。
「その誰かが、私であるなら、今度は期限と責任者を決めたいと思います」
ミツオケラ十三世は、何も言わなかった。
彼の前には、改革実施率八十一・二%の報告書が置かれていた。
その数字は、正しかった。
しかし、正しい数字を見つめているだけでは、正しい政治ができるわけではなかった。
---
## 七 ブラウ太郎の正義
協議会の休憩時間、ブラウ太郎は、廊下の窓際に立っていた。
コウシン太郎が近づいてきた。
「何を考えている?」
「君と同じことかもしれない」
「私の考えは、まだまとまっていないが」
「私もだ」
ブラウ太郎は、窓の外を見た。
「私は、これまで、制度が人民の声をどう扱ってきたかを批判してきた。意見を分類し、集計し、処理済みにする。そうして、人民が本当に何を求めていたのかが見えなくなる。だから、もっと丁寧に聞け、記録しろ、説明しろ、と言ってきた」
「それは、必要なことだ」
「そうだ。だが、私は、いま聞き取り調査の結果を見て、ひとつ気づいた」
コウシンは、黙って聞いていた。
「私もまた、人民の声を分類しようとしている」
「分類しなければ、全体の傾向を把握できない」
「わかっている。分類は必要だ。だが、分類する者が、分類できたものだけを現実だと思い始めたら、何が起きる?」
コウシンは答えた。
「分類できなかったものが、例外として扱われる」
「そして、例外が増えると?」
「例外の方を、整理すべき問題だと考えるようになる」
ブラウ太郎は、うなずいた。
「私たちは、以前の制度が人民の声を歪めたことを批判してきた。しかし、いま私たちが作る分類表も、同じ危険を持っている」
彼は、手に持った資料を見た。
「未解決案件。説明済み案件。対応継続中案件。本人が要求を取り下げた案件。どれも必要な分類だ。だが、その分類が、本人の経験そのものに取って代わってはいけない」
「どうすればいい?」
コウシンが尋ねた。
ブラウ太郎は、少し考えた。
「本人が、記録のどこに違和感を持っているのかを残すことだろう。制度の分類と、本人の説明を、ひとつに溶かしてしまわないことだ」
「本人の説明が、事実と異なる場合は?」
「その場合は、事実確認の結果を別に記録する。本人の説明を、そのまま事実認定に使う必要はない。だが、事実認定と異なるという理由で、本人がそう感じたことまで消す必要もない」
コウシンは、ゆっくりとうなずいた。
「つまり、記録には、少なくとも三つのものが必要だ。確認できた事実、制度側の判断、本人の認識」
「そして、三つが一致しない場合には、一致しないこと自体を残す」
ブラウ太郎は、そこで少し笑った。
「ずいぶん面倒な制度になりそうだ」
「簡単な制度を作るために、複雑な現実を切り捨てるよりはいい」
「それは、君が言うのか」
ブラウ太郎の言葉に、コウシンも笑った。
「だから、今度は私が言うのだ」
二人は、しばらく黙っていた。
やがて、ブラウ太郎が言った。
「私は、君の過去を忘れたわけではない」
「忘れなくていい」
「君が作った制度によって、記録から漏れた人がいるかもしれない。君が先送りした仕事によって、いまも待っている人がいるかもしれない」
「その可能性は、否定できない」
「だが、君が今、責任を取ろうとしていることまで、否定するつもりもない」
コウシンは、少しだけ驚いた顔をした。
「それは、許すということか?」
「違う」
ブラウ太郎は、はっきりと言った。
「責任を取ることと、許されることは、別だ。責任を取ったからといって、過去が消えるわけではない。過去が消えないからといって、責任を取る機会まで奪う必要もない」
コウシンは、長く息を吐いた。
「君は、ときどき、私が自分で言うべきことを先に言う」
「君が言わないからだ」
「そうかもしれない」
ブラウ太郎は、資料を閉じた。
「ただし、私自身も、同じ基準で見られなければならない」
「君も?」
「私たちは、制度を批判する側にいるとき、自分の正しさを証明する必要がないと思いがちだ。権力を持つ側が説明すべきだ、と言う。それは正しい。しかし、批判する側の言葉によって、誰かの問題がどのように扱われたのかについては、私たちも説明しなければならない」
彼は、会議室の扉を見た。
「私は、改革を評価する者たちに、人民の声を聞けと言ってきた。今度は、私自身が、その声をどう扱ったのかを問われる番なのだろう」
その言葉は、彼自身に向けられていた。
批判者が制度の外にいる間は、制度の欠陥を指摘することができる。
しかし、批判者が制度の設計に参加したとき、彼の言葉もまた、誰かの暮らしに影響を与える。
その瞬間から、正義は、主張するだけでは足りなくなる。
自分が何を変えたのか。
何を変えられなかったのか。
そして、自分の正義によって、誰の声が聞こえやすくなり、誰の声が聞こえにくくなったのか。
それを確かめる責任が生まれる。
---
## 八 調査に協力しない権利
臨時協議会が再開すると、セッショウ菌は、新しい提案を提出した。
「聞き取り調査の対象者について、調査協力への同意手続きを見直したいと考えています」
改革推進部の代表が尋ねた。
「現在の手続きに問題があるのですか」
「重大な不備が確認されたわけではありません。ただ、今回の調査では、人民の方々が、自分の問題を解決してほしいという期待を持って協力してくださる場合があります」
「それは、自然なことでは?」
「はい。ただし、その期待と、調査への協力が、制度上、混同されるおそれがあります」
セッショウ菌は、説明を続けた。
「調査に協力したからといって、案件の解決が保証されるわけではありません。一方で、調査に協力しなかったからといって、案件の対応で不利益を受けることがあってもなりません」
名無しの七号が言った。
「調査への協力と、問題解決の手続きを分けるということですね」
「そのとおりです」
セッショウ菌は、新しい同意書を示した。
そこには、次の項目が追加されていた。
《調査への参加は任意です》
《参加しないことによって、原案件の審査や対応に不利益が生じることはありません》
《調査の目的、記録の利用範囲、閲覧できる者、保存期間について、事前に説明を受けることができます》
《発言記録の確認を申し出ることができます》
《調査に協力した後でも、将来の利用について、定められた範囲で同意を撤回することができます》
《調査中に新たな問題が確認された場合は、本人の同意を得たうえで、原案件の担当部署へ引き継ぎます》
ブラウ太郎は、最後の項目を指さした。
「本人の同意を得たうえで、というのは重要だな」
セッショウ菌がうなずいた。
「調査で話した内容を、本人の知らないところで別の部署へ渡すことがあってはなりません。とくに、調査の目的と異なる用途に使う場合には、慎重である必要があります」
「では、引き継ぎを望まない人は?」
「調査記録としてのみ扱い、本人の意思に反して原案件へ連絡しないことを原則とします。ただし、法令上の義務など、別の取り扱いが必要な場合は、その範囲を事前に説明します」
「よいと思う」
ブラウ太郎は言った。
「ただし、同意書を作るだけで終わらせてはいけない。本人が、本当に断れると感じられることが必要だ」
改革推進部の代表が尋ねた。
「具体的には、どうすればよいでしょう」
名無しの七号が答えた。
「調査員が、協力を断られた件数も記録することです」
「断られた件数を?」
「はい。調査に協力しなかった人が、なぜ断ったのかを無理に聞く必要はありません。ただ、協力しなかった人が何人いたのかは記録する。協力した人の声だけを集めて、それを人民全体の声だと呼ばないためです」
セッショウ菌は、手元の資料に書き込んだ。
「協力率を示す場合には、対象者数、協力者数、回答を得られなかった人数を区別する。理由を確認できていない場合には、理由を推定して分類しない」
「そうです」
名無しの七号は続けた。
「そして、協力しなかった人を、改革に関心がない人だと決めつけないことです」
「そのような分類は、現在の調査票にはありません」
「現在の調査票になくても、別の資料を作るときに現れるかもしれません」
セッショウ菌は、うなずいた。
「その点も、運用上の注意事項に加えましょう」
改革推進部の代表は、少し困ったような顔をした。
「調査の手続きが、ずいぶん複雑になりますね」
ブラウ太郎が答えた。
「調査される側が、自分の声をどう扱われるかについて、何も知らなくてよいという制度の方が、簡単だったのでしょう」
代表は、反論しなかった。
---
## 九 解決を約束しない制度
その日の午後、ミツオケラ十三世は、中央委員会の小会議室に、関係者を集めた。
彼の前には、三つの資料が置かれていた。
一つ目は、改革実施率八十一・二%の報告書。
二つ目は、聞き取り調査の中間集計。
三つ目は、コウシン太郎が提出した「原案件追跡管理制度」の提案書だった。
ミツオケラ十三世は、最初の報告書を閉じた。
「これまで、われわれは、改革の進捗を示すために、何を測ればよいかを考えてきた。担当者が決まったか。期限が設けられたか。記録の照合ができたか。回答が出されたか。それらは、必要な指標だった」
彼は、二つ目の資料を手に取った。
「しかし、人民の声を聞いた結果、別のことがわかった。制度の手続きが改善されても、問題が解決していない人がいる。問題が解決していなくても、説明を受けて納得した人がいる。回答が出されても、次に何が起きるのかわからない人がいる」
彼は、顔を上げた。
「これらを、ひとつの満足度にまとめることはできない」
誰も反論しなかった。
「われわれが改革の進捗率を公表するとき、その数字が何を示し、何を示していないのかを、同時に説明する必要がある。八十一・二%は、改革実施のために設定した手続きの進捗率である。人民の問題が八十一・二%解決したという意味ではない」
彼は、そこで一度、言葉を切った。
「この区別を曖昧にすることは、改革を早く進めることにはならない。むしろ、未解決の問題を見えにくくする」
コウシン太郎が、提案書を開いた。
「そこで、原案件追跡管理制度を提案します」
彼は、制度の概要を説明した。
聞き取り調査によって、未解決の問題が確認された場合、本人の同意を得て、既存の案件番号と関連づける。
既存の案件番号が見つからない場合は、新しい追跡番号を付与し、元の記録が確認できていないことを明示する。
各案件には、次の項目を設ける。
一、本人が現在求めていること。
二、これまでに確認できた事実。
三、関係部署の判断と、その理由。
四、未解決の事項。
五、次の対応を行う担当者。
六、次回確認日。
七、対応できない場合の理由と、その判断を行った責任者。
八、本人への説明状況。
九、本人が記録の内容に異議を申し立てている場合、その内容。
十、案件の終了を判断した理由。
改革推進部の代表が尋ねた。
「十番目の、案件の終了を判断した理由についてですが、本人が満足したかどうかを基準にするのでしょうか」
「それだけではありません」
コウシンは答えた。
「本人の要求が実現した場合もあれば、実現できない理由が確認され、代替案が提示された場合もあります。本人が要求を取り下げる場合もあります。あるいは、必要な対応を行ったうえで、なお意見の相違が残る場合もあるでしょう」
「それでは、終了の基準が複雑になります」
「複雑になります」
コウシンは、ためらわずに答えた。
「しかし、現実が複雑だからといって、記録を単純にしすぎることはできません」
ミツオケラ十三世が尋ねた。
「本人が納得していない場合でも、案件を終了できるのか」
コウシンは、少し考えた。
「できる場合はあると思います。たとえば、制度上、実現できない要求について、必要な事実確認と説明を尽くした場合です。ただし、本人が納得していないことを隠してはなりません。制度上の対応を終えたことと、本人が納得したことは、別に記録する必要があります」
ブラウ太郎が付け加えた。
「そして、本人が納得していないからといって、制度が必ず間違っているとも限らない。制度が正しいからといって、本人の困難が消えるわけでもない」
ミツオケラ十三世は、ゆっくりとうなずいた。
「つまり、案件の終了とは、人民の不満がなくなったことを宣言するものではない。制度として、どこまで対応し、何が残っているかを明らかにするものだということか」
「そうです」
コウシンは答えた。
「そして、必要であれば、再び開くことができなければなりません」
その言葉に、ミツオケラ十三世は、過去の記録を思い出した。
《処理完了》
その三文字の向こう側に、何人もの人民がいた。
彼らの中には、問題が解決した者もいただろう。
説明を受けて納得した者もいただろう。
回答を受け取っただけで、まだ待っている者もいたかもしれない。
そして、記録が見つからなくなった者も。
彼らを、ひとつの言葉でまとめてしまったのは、制度だった。
しかし、その制度を作り、承認し、運用してきたのは、制度そのものではない。
自分たちだった。
「この制度を、試行的に導入しよう」
ミツオケラ十三世は言った。
「ただし、導入したことをもって、改革が成功したとは言わない。試行の結果、どのような問題が起きたのかも記録する。制度の運用を評価する者と、原案件の対応を行う者は、可能な範囲で役割を分ける。そして、試行結果を人民に公表する」
改革推進部の代表が、慎重に尋ねた。
「試行期間は、どの程度に設定しますか」
「六か月」
「対象案件数は?」
「まずは、百件」
「百件で、全体の傾向を把握できるでしょうか」
「できないかもしれない」
ミツオケラ十三世は答えた。
「だから、百件で全体がわかったとは言わない。まずは、運用できるかどうかを確かめる。その後、対象を拡大する必要があるかを判断する」
彼は、提案書の最後に署名した。
その署名は、すべての問題を解決する約束ではなかった。
むしろ、解決できていない問題を、再び見失わないための約束だった。
---
## 十 名無しの七号の質問
会議の終わりに、ミツオケラ十三世は、出席者へ尋ねた。
「ほかに意見はあるか」
誰も、すぐには発言しなかった。
やがて、名無しの七号が手を上げた。
「一つ、確認したいことがあります」
「述べなさい」
「原案件追跡管理制度によって、聞き取り調査で見つかった問題が、担当部署へ引き継がれることになりました。担当者も、期限も、次回確認日も記録されます」
「そのとおりだ」
「では、人民が、自分の問題がその後どうなったのかを知ることはできますか」
コウシンが答えた。
「本人に対して、定期的に状況を説明する手続きを設ける予定だ」
「予定、ということは、まだ決まっていないのですね」
コウシンは、一瞬、口を閉じた。
「そうだ。説明の頻度や方法については、今後、具体化する必要がある」
七号は、手帳に何かを書いた。
「もう一つあります」
ミツオケラ十三世がうなずいた。
「続けなさい」
「聞き取り調査に協力した人は、自分の声が改革評価に使われることに同意します。しかし、その後、調査によって見つかった問題が、どのように扱われたかについても、知ることができるのでしょうか」
「本人への説明を行う予定だ」
「その説明を受けた本人が、説明の内容に納得できなかった場合は?」
「異議を申し立てることができるようにする」
「その異議は、誰が確認しますか」
「原案件の担当部署とは別の者が確認する仕組みを検討する」
名無しの七号は、顔を上げた。
「ありがとうございます。では、最後に、もう一つだけ」
会議室の何人かが、苦笑した。
七号の「もう一つ」は、しばしば、議題そのものを変えてしまう。
「私たちは、これまで、人民の声が制度に届くかどうかを調べてきました。今度は、制度に届いた声が、実際に何を変えたのかを調べることになります」
彼は、手帳を閉じた。
「そのとき、調べるのは、制度の側だけでしょうか。それとも、調査を行う私たち自身も、調査の対象になるのでしょうか」
ミツオケラ十三世は、すぐには答えなかった。
ブラウ太郎も、コウシン太郎も、口を開かなかった。
七号は続けた。
「私たちが、人民の声を正しく分類したと思っても、人民がそう思っているとは限りません。私たちが、必要な説明をしたと思っても、説明を受けた人が、何を理解し、何を理解できなかったかは、別の問題です」
彼は、机の上の調査票を見た。
「調査に協力してくれた人が、私たちの報告書に自分の経験が載ったことを知ったとしても、それだけでは、自分の問題がどうなったのかはわかりません」
「だから、何が必要だと思う?」
ミツオケラ十三世が尋ねた。
「報告書の中に、調査に協力した人の声を載せるだけではなく、その声を受けて、制度が何をしたのかを記録することです。そして、制度が何もしなかった場合も、なぜ何もしなかったのかを記録することです」
「それは、原案件追跡管理制度に含まれている」
コウシンが言った。
「はい。ただし、それだけではありません」
七号は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「私たち自身が、その記録を正しく扱ったかどうかを、後から確かめられるようにする必要があります。調査の質問は適切だったか。記録の分類は、本人の言葉を歪めなかったか。引き継ぎは、本人の同意に従って行われたか。報告書で、未解決の問題を見えにくくしていないか」
会議室は静まり返っていた。
「制度を評価する者も、評価される必要があるということか」
ミツオケラ十三世が言った。
「はい」
「その評価を行う者は、誰だ」
七号は、少しだけ首を傾けた。
「それを、今から考えなければならないのだと思います」
ミツオケラ十三世は、長い沈黙の後、うなずいた。
「そのとおりだ」
彼は、改革推進部の代表へ向き直った。
「試行制度の中に、調査手続きそのものを検証する項目を加える。聞き取りに協力した者が、記録の確認や訂正を求めた場合、その申し出がどう扱われたかを残す。調査の結果として提案された改善が、実際に行われたかどうかも確認する」
「承知しました」
「ただし、確認した者が、必ずしも正しいとは限らない」
ブラウ太郎が言った。
ミツオケラ十三世は、彼を見た。
「その点も含めて、検証する必要があるということか」
「はい。評価する側が、自分の評価を最終判断として独占しないことです」
ミツオケラ十三世は、机の上に手を置いた。
「では、われわれは、改革を評価する仕組みを作るだけでなく、その仕組みが正しく働いているかを確かめる仕組みも作らなければならない」
「そして、その仕組みを確かめる仕組みについても、同じ問いが生まれるでしょう」
ブラウ太郎は答えた。
「その問いを、どこかで止めなければならないのでしょうか」
改革推進部の代表が、半ば冗談のように言った。
「そうでなければ、永遠に制度を作り続けることになります」
「そうかもしれない」
ブラウ太郎は、否定しなかった。
「しかし、制度を作り続けることと、制度を完成したことにしてしまうことの、どちらが危険なのかは、考える必要がある」
誰も、笑わなかった。
---
## 十一 報告書の外側
協議会が終わると、ブラウ太郎と名無しの七号は、中央記録管理局へ戻った。
机の上には、独立委員会が公表した報告書が置かれていた。
その報告書によって、記録移管の際に説明できないまま残った二百十二件の存在が、公に知られることになった。
それは、大きな一歩だった。
しかし、二百十二件の内容が、すべて明らかになったわけではない。
その中に、どのような意見が含まれていたのか。
誰が提出したのか。
どのような事情で、記録の所在が確認できなくなったのか。
いまも、わからないことが残っていた。
そして、報告書の公表後も、人民の暮らしは続いていた。
ある者は、報告書を読んで、初めて自分だけが困っていたのではないと知った。
ある者は、報告書が公表されたのだから、もう問題は解決するだろうと期待した。
ある者は、報告書を読んでも、自分の問題について何も書かれていないことに失望した。
ある者は、そもそも報告書の存在を知らなかった。
報告書は、必要だった。
しかし、報告書だけでは、人民の暮らしを変えることはできなかった。
ブラウ太郎は、報告書の余白に、短い文章を書いた。
《報告書は、何がわかったかを示す。しかし、わかったことが、何を変えたかは、別に確かめなければならない》
名無しの七号が、その文章を読んだ。
「また、次の仕事が増えましたね」
「そうだな」
「調査委員会の調査が終わり、改革の検証が始まり、今度は検証する者の検証です」
「そうだ」
「いつになったら、終わるのでしょう」
ブラウ太郎は、少し考えた。
「終わる仕事もあるだろう。記録の照合が終わる。回答が終わる。必要な手続きが終わる。そうしたものは、終わったと記録してよい」
「では、終わらないものは?」
「人民の問題が、すべて同じ形で終わることはない。ある人にとっては解決でも、別の人にとっては未解決ということもある。制度が変わっても、予想していなかった問題が生まれることもある」
「それでは、政治は永遠に未完成ですね」
「おそらくな」
ブラウ太郎は、報告書を閉じた。
「だが、未完成であることと、何も進んでいないことは違う。以前は見えなかった問題が見えるようになった。以前は記録に残らなかった人の言葉が、記録されるようになった。以前は、誰が責任を持つのかもわからなかった案件に、担当者がつくようになった」
彼は、机の端に置かれた新しい案件追跡票を手に取った。
「それは、進歩だ」
「では、十分ですか」
「十分ではない」
ブラウ太郎は、はっきりと答えた。
「進歩したからこそ、次に何が足りないのかが見えるようになったのだ」
名無しの七号は、うなずいた。
「それなら、記録しておきます」
「何と?」
七号は、手帳を開いた。
《進歩は、問題がなくなったことを意味しない。問題を、以前より正確に見つけられるようになったことを意味する場合もある》
その下に、彼はもう一行を書き足した。
《ただし、見つけられるようになった問題を、見つけたという理由だけで放置してはならない》
書き終えると、七号は手帳を閉じた。
---
## 十二 本人への返事
それから二週間後、原案件追跡管理制度の試行が始まった。
最初の百件は、改革評価室が聞き取りを行った案件のうち、本人が引き継ぎに同意したものから選ばれた。
各案件には、追跡番号が付与された。
担当部署が決まり、次回確認日が記録された。
旧記録との照合が必要な案件には、その旨が明記された。
記録が見つからない案件については、見つからないことを、解決済みの理由にしてはならないと定められた。
そして、本人に対して、現在の状況を説明する文書を送ることになった。
最初に文書を受け取ったのは、バク吉だった。
封筒には、これまでの受付番号と、新しい追跡番号が記されていた。
文書には、彼の問題について、これまで確認できた事実が整理されていた。
配給所までの距離。
移動が難しい住民の存在。
現行制度で認められている代替手段。
これまでに検討された案。
そして、まだ決まっていない事項。
最後には、次の確認日と担当者の名前が記されていた。
バク吉は、文書を読み終えると、しばらく机の上に置いたままにしていた。
その文書は、彼の問題を解決してはいなかった。
配給所までの距離が短くなったわけでもない。
新しい配給方法が決まったわけでもない。
しかし、彼が何を求めていたのかは、以前より正確に記録されていた。
彼が受け取った回答と、まだ受け取っていない回答も、区別されていた。
そして、次に誰が何をするのかが、書かれていた。
数日後、バク吉は、追跡管理窓口へ返事を送った。
《記録された内容について、これまでの経緯は、おおむね正確です。ただし、私は配給所までの距離だけを問題にしているのではありません。移動が難しい者が、配給を受けるために、毎回、誰かの助けを必要としていることが問題です。この点も、次回の確認で扱ってください》
窓口の担当者は、その返事を受け取ると、記録を更新した。
《本人による記録内容の確認あり。補足意見あり。次回確認事項に追加》
そして、次回確認日を変更せずに、担当部署へ通知した。
それは、小さな出来事だった。
しかし、以前の制度では、本人の補足意見は、自由記述欄に記録された後、分類表の中へ吸収されていたかもしれない。
今回は、本人の補足意見が、次の対応に引き継がれた。
まだ、結果はわからない。
担当部署が、どのような判断を下すのかもわからない。
だが、少なくとも、彼の声は、聞き取り調査の報告書の中だけに閉じ込められなかった。
そのことを、バク吉は、少しだけ心強く感じた。
---
## 十三 解決しなかったことを、記録する
原案件追跡管理制度の試行開始から一か月後、中央委員会は、中間報告を公表した。
百件のうち、担当部署と次回確認日が設定された案件は九十六件。
旧記録との照合が必要な案件は三十一件。
本人の追加説明を受けた案件は二十四件。
担当部署への引き継ぎ後、具体的な対応が始まった案件は十八件。
この数字は、改革推進部にとって、好ましいものだった。
新しい制度によって、以前より多くの案件が、具体的な対応へつながり始めていた。
しかし、同じ報告書には、別の数字も記されていた。
百件のうち、問題の解決まで確認できた案件は、まだ四件だった。
改革推進部の内部会議では、この数字の扱いが議論された。
「四件という数字だけが強調されれば、制度が機能していないと受け取られるおそれがあります」
ある職員が言った。
「一か月という期間では、解決まで至らない案件も多いでしょう。担当部署が動き始めたことも、成果として示すべきです」
別の職員が答えた。
「それは、そのとおりです。ただし、対応が始まったことと、問題が解決したことを、同じ成果として集計してはいけません」
「では、どう表現すればよいのでしょう」
議論は、なかなかまとまらなかった。
最終的に、報告書には、三つの数字が並べて記載された。
《担当部署への引き継ぎ後、具体的な対応が始まった案件:十八件》
《本人への状況説明が行われた案件:六十二件》
《問題の解決まで確認できた案件:四件》
その下には、注意書きが加えられた。
《これらの数字は、それぞれ異なる状態を示している。対応開始や状況説明をもって、問題が解決したと判断してはならない。また、現時点で解決が確認されていないことは、将来にわたって解決しないことを意味しない》
報告書の公表後、さまざまな意見が寄せられた。
「四件しか解決していないのなら、改革は失敗ではないか」
「十八件で対応が始まったのなら、十分な進歩ではないか」
「百件の選び方に偏りはないのか」
「未解決案件の中に、どのような問題があるのか、もっと具体的に示すべきだ」
「本人の同意を得ているとはいえ、個別の問題を公表することで、当事者が不利益を受けることはないのか」
どの意見にも、考えるべき点があった。
ミツオケラ十三世は、それらの意見を読んだ。
以前の彼なら、まず、改革に対する支持がどれほどあるかを確認したかもしれない。
今回は、違った。
彼は、報告書の最後に記された一文を見つめた。
《現時点で解決が確認されていないことは、将来にわたって解決しないことを意味しない》
その文章は、改革に希望を残していた。
しかし、希望を残すことと、未解決の現実を軽く扱うことは、紙一重だった。
「この一文は、必要だろうか」
彼は、側近に尋ねた。
側近は答えた。
「必要だと思います。現時点の数字だけで、将来の結果を断定することはできません」
「そうだな」
ミツオケラ十三世はうなずいた。
「だが、この一文が、問題の解決を待つ人々に、もう少し待てと言うための言葉になってはならない」
側近は、黙っていた。
「次の報告では、未解決案件の件数だけでなく、前回の報告から何が変わったのかを示そう。担当者が変わったのか。対応が進んだのか。進まなかった理由は何か。期限が延びた場合には、なぜ延びたのか。そして、本人には何を説明したのか」
「承知しました」
「数字が改善しなかった場合も、同じように公表する」
側近は、少し驚いた。
「数字が改善しなかった場合も、ですか」
「そうだ」
ミツオケラ十三世は答えた。
「改革の成果を示すためだけに、数字を使うのではない。改革が進んでいない場所を見つけるためにも、数字を使うのだ」
彼は、報告書を閉じた。
「人民に希望を持ってもらうことは、大切だ。しかし、希望を持ってもらうために、現実を薄めてはならない」
---
## 十四 平和な会議室の戦争
その夜、ブラウ太郎は、人民大会議の記録を読み返していた。
第一話の記録には、満場一致という言葉があった。
第二話には、七%の歴史的使命という言葉があった。
第三話には、九十三%の沈黙という言葉があった。
第四話には、反対派も党の一部という言葉があった。
そして、記録移管の調査が始まってからは、処理済み、対象外、別途管理、確認中、未解決という言葉が並んでいた。
どの言葉も、制度の中では必要だった。
しかし、どの言葉も、使い方によっては、現実を覆い隠すことができた。
満場一致は、全員が自由に賛成したことを意味するとは限らない。
歴史的使命は、正しさを証明するものではない。
沈黙は、同意を意味しない。
反対派が存在することは、反対が政治を変えられることを意味しない。
処理済みは、問題が解決したことを意味しない。
そして、改革という言葉もまた、改革が実現したことを自動的に証明するものではない。
ブラウ太郎は、机の上に一枚の紙を置いた。
そこには、次のように書かれていた。
《制度の目的は、制度の正しさを証明することではない。人民が抱える問題に、どこまで応答できたかを確かめることである》
彼は、その文章を読み返した。
それから、少し考えて、最後に一文を付け加えた。
《ただし、制度が応答できなかった場合、その事実を記録することもまた、応答の一部である》
書き終えたところで、コウシン太郎が部屋に入ってきた。
「まだ仕事をしているのか」
「君もだろう」
「私は、古い制度設計書を整理していた」
「また、自分の過去と向き合っていたのか」
「そうだ」
コウシンは、机の向かいに座った。
「以前は、制度を動かすことが重要だった。動かなければ、何も変わらない。だから、多少の不備があっても、まず動かそうとした」
「その判断自体が、間違いだったとは限らない」
「そうだ。だが、動かすことに集中するあまり、動かした後に何を確かめるのかを、十分に決めなかった」
「いま、その不足を埋めようとしている」
「そうだ」
コウシンは、しばらく黙っていた。
「しかし、今度は、確認することばかりが目的にならないかと心配している」
ブラウ太郎は、彼を見た。
「どういう意味だ?」
「私たちは、記録を残し、担当者を決め、期限を設定し、進捗を公表する仕組みを作っている。それらは必要だ。しかし、仕組みが整うほど、仕組みを守ること自体が目的になる危険がある」
「つまり、人民の問題を解決するために作った仕組みが、仕組みを正しく運用したことを証明するための仕事に変わる?」
「そうだ」
コウシンは、うなずいた。
「私は、以前、その変化を十分に警戒していなかった。今度は、警戒している。しかし、警戒しているだけで防げるとは思えない」
ブラウ太郎は、窓の外を見た。
遠くの会議棟では、まだ灯りがついていた。
「君は、制度を作ることが好きだったのかもしれないな」
コウシンは、苦笑した。
「否定できない」
「制度を作れば、問題が整理される。責任者が決まる。手順ができる。誰が何をすればよいかが明らかになる。混乱が減る。君は、それを見て、仕事が前へ進んだと感じていた」
「そのとおりだ」
「それ自体は、悪いことではない」
ブラウ太郎は続けた。
「だが、制度が整うほど、制度に入らないものが見えにくくなることがある。制度に入らない人。制度が想定していない困難。分類できない経験。そうしたものを、制度の外に置いたまま、制度だけが完成していく」
コウシンは、ゆっくりとうなずいた。
「君も、同じことを考えているのか」
「私は、君とは別の道から来た。しかし、同じ場所に立っているのかもしれない」
ブラウ太郎は、机の上の紙をコウシンに渡した。
コウシンは、そこに書かれた二つの文章を読んだ。
「これは、報告書に載せるのか?」
「まだ決めていない」
「載せれば、きれいな標語になる」
「そうだな」
「そして、標語になった瞬間、誰かが、それを守っているかどうかを測ろうとする」
ブラウ太郎は、笑った。
「君は、本当に、標語を信用しなくなったな」
「以前は、標語を作る側にいたからだ」
コウシンは、紙を返した。
「標語は、必要だ。方向を示すことができる。しかし、標語を掲げたことをもって、方向へ進んだと考えてはならない」
二人は、しばらく黙っていた。
その沈黙は、対立ではなかった。
しかし、完全な合意でもなかった。
彼らは、同じ問題を見つめながら、どこまで制度を整えればよいのかについて、まだ答えを持っていなかった。
それでも、以前とは違うことが一つあった。
二人とも、自分の考えが正しいという理由だけで、相手の疑問を退けようとはしなかった。
その小さな変化は、まだ制度の進捗率には反映されていなかった。
---
## 十五 改革の評価者たち
翌週、原案件追跡管理制度の試行に関する説明会が開かれた。
会場には、人民の代表、地方の担当者、中央委員会の職員、記録管理局の職員、そして改革評価室の調査員が集まっていた。
説明会の最後に、参加者から質問を受け付ける時間が設けられた。
最初の質問は、担当者の負担についてだった。
「案件ごとに記録を作り、本人への説明を行い、次回確認日を設定するとなると、担当者の仕事が増えます。限られた人員で、すべての案件に対応できるのでしょうか」
コウシン太郎は答えた。
「すべての案件に、同じ頻度で同じ量の対応を行うことは難しいかもしれません。案件の緊急性や複雑さに応じて、対応方法を調整する必要があります。ただし、仕事量が多いことを理由に、未解決の案件が見えなくなってよいわけではありません」
次の質問は、本人の満足度についてだった。
「本人が満足しなければ、いつまでも案件を終了できないのでしょうか」
ブラウ太郎が答えた。
「本人の満足だけを、終了の唯一の基準にすることはできません。しかし、制度上の対応を終了することと、本人が納得したことを、同じものとして扱うこともできません。何が終了し、何が残っているのかを、分けて説明する必要があります」
三つ目の質問は、制度への不信についてだった。
「記録を作る側が、都合の悪いことを記録しなければ、結局、同じことが起きるのではありませんか」
会場が静かになった。
名無しの七号が、マイクを手に取った。
「その危険はあります」
彼は、率直に答えた。
「記録を作る制度を整えたからといって、記録が必ず正確になるわけではありません。記録を作る者が、自分に都合のよい内容を残すこともあり得ます。だから、本人が記録を確認できること、訂正を申し出られること、確認できない事実を未確認のまま残すこと、そして、記録の作成や分類の方法そのものを検証できることが必要です」
質問者は、さらに尋ねた。
「では、その検証をする人が、都合の悪いことを記録しなかったら?」
七号は、少し黙った。
「その場合には、検証する人についても、同じ問いを立てる必要があります」
「では、その次は?」
「その次も、同じです」
会場のあちこちから、小さなざわめきが起こった。
七号は続けた。
「ただし、誰も信用できないから、何も記録しないということにはなりません。誰かが間違える可能性があるからこそ、記録を一人だけが独占しないようにする。判断の理由を残す。異議を申し立てられるようにする。後から確認できるようにする。完全に間違いをなくすことはできなくても、間違いが隠されたままになる危険を減らすことはできます」
質問者は、ゆっくりとうなずいた。
「それでも、完全ではないのですね」
「はい」
七号は答えた。
「完全ではありません」
彼は、マイクを置く前に、もう一度だけ言った。
「だからこそ、完全だと宣言しないことが重要なのだと思います」
その言葉を聞いて、ミツオケラ十三世は、第一回の人民大会議を思い出した。
あのとき、議場には満場一致の賛成があった。
異議はなかった。
反対はなかった。
記録上、何の問題もなかった。
しかし、何の問題もなかったという記録が、問題のなかった現実を証明するわけではなかった。
あのとき、彼は、満場一致を政治の成功だと考えていた。
いまは、少し違う。
異議が存在しないことと、異議を言う必要がないことは違う。
記録に問題がないことと、問題が記録されていることは違う。
改革が完了したことと、人民の問題が解決したことも違う。
そして、これらの違いを認識したからといって、彼が正しい政治家になったと証明されるわけでもなかった。
彼が今できるのは、違いを記録し、その違いを消さない仕組みを作ることだけだった。
その仕組みが、次の時代にどう使われるかは、まだわからない。
---
## 十六 百二十七回目の大会議
月末、ミツオケラ人民大会議が開かれた。
議場の正面には、以前と同じ演壇があった。
議長菌も、同じ席に座っていた。
ミツオケラ十三世は、中央委員会の報告を読み上げた。
「旧記録移管の検証によって、これまで説明できなかった記録の存在が明らかになった。独立委員会の報告書は、その事実と、なお確認できていない事項を区別して公表した。改革推進部は、改革の実施状況を示すとともに、手続きの改善が、人民の問題の解決と同じではないことを認めた」
彼は、一度、議場を見渡した。
「さらに、聞き取り調査によって、手続きが改善されても、未解決の問題が残っていることが確認された。そのため、原案件追跡管理制度の試行を開始した。これにより、調査によって見つかった問題が、調査終了と同時に失われないようにする」
議場の一部から、拍手が起こった。
以前なら、ミツオケラ十三世は、その拍手を、改革に対する支持の証拠として報告書に記載したかもしれない。
今回は、拍手の数を数えなかった。
彼は続けた。
「ただし、この制度によって、すべての問題が解決するわけではない。担当者が決まっても、対応が進まないことがある。期限を設けても、必要な事実が確認できないことがある。説明を行っても、本人が納得しないことがある。そして、制度を評価する者自身が、制度の限界を見落とすこともある」
議場は、静かだった。
「われわれは、改革を行ったことだけをもって、改革が成功したと宣言しない。改革によって何が変わり、何が変わらず、何が新たに問題となったのかを、引き続き確認する」
彼は、演説原稿から目を上げた。
「私は、以前、少数者であることに、歴史的使命があると考えていた。少数者だからこそ、多数者が見落とすものを見つけられる。少数者だからこそ、長期的な視点を持てる。そうした考えには、一定の意味があるかもしれない」
議場の空気が変わった。
七%の歴史的使命。
それは、ミツオケラ党の権力を支える言葉だった。
「しかし、少数者であること自体が、正しさを証明するわけではない。多数者であることも、正しさを証明するわけではない。少数者の意見が正しいこともあれば、間違っていることもある。多数者の判断が適切なこともあれば、誤っていることもある」
彼は、ゆっくりと続けた。
「重要なのは、誰が正しいと宣言したかだけではない。その判断に、どのような根拠があり、どのような異議があり、何が確認され、何がまだわかっていないのかを、後から確かめられることである」
議長菌が、演壇の横で身じろぎした。
その演説は、これまでの大会議とは少し違っていた。
ミツオケラ十三世は、自分の政治を、完全なものとして描こうとはしなかった。
しかし、それだけで、彼が過去の責任を果たしたことになるわけではなかった。
演説の後、議員たちから質問が寄せられた。
「未解決案件が残る場合、いつまで追跡を続けるのか」
「追跡管理制度の担当者が、原案件の担当部署に十分な権限を持たない場合、どうするのか」
「本人が記録に同意しない場合、制度はどこまで対応できるのか」
「制度の運用が、担当者の事務負担を過度に増やした場合、どう調整するのか」
「追跡管理制度そのものを検証する者は、誰が選ぶのか」
どの質問にも、すぐに答えられるものはなかった。
ミツオケラ十三世は、質問を受け付け、記録するよう議長菌に指示した。
そして、次回の大会議までに、回答できる事項と、追加の検討が必要な事項を区別して報告することを約束した。
議長菌は、議事録に記した。
《本件について、中央委員会は、次回大会議までに回答を提出する》
その後、彼は、少し考えて、もう一文を書き加えた。
《回答が提出されたことをもって、質問者の問題が解決したものとみなしてはならない》
議長菌自身が、その文言を提案したことに、議場の何人かが驚いた。
議長菌は、顔色を変えなかった。
彼もまた、制度の一部だった。
制度の一部であることは、制度の欠陥を見抜けないことを意味しない。
ただし、欠陥を見抜いたことと、欠陥を直したことは違う。
彼は、その違いを、議事録に残した。
---
## 十七 平和の条件
大会議の終了後、ミツオケラ十三世は、議場に一人で残っていた。
演壇には、報告書と質問記録が置かれていた。
議場の窓から、夕方の光が差し込んでいた。
彼は、かつて自分が書いた演説原稿を思い出した。
《われわれは、人民の総意を代表する》
その言葉を、彼は長い間、疑わなかった。
人民の総意を代表することが、政治の目的だと考えていた。
しかし、いまは、別の問いが浮かんでいた。
人民の総意とは、誰が、どのように確認するのか。
声を集める者が、集めた声を分類する。
分類する者が、重要な意見を選ぶ。
重要な意見を選ぶ者が、政策を決める。
政策を決める者が、その政策の成果を評価する。
そして、評価した者が、人民の総意を代表していると宣言する。
その流れの中で、人民自身は、どこまで自分の声を確かめられるのだろう。
ミツオケラ十三世は、手元の紙に、短く書いた。
《人民の総意を、誰か一人が独占してはならない》
書き終えた後、彼は、もう一文を加えた。
《しかし、誰も人民の総意を独占しないことだけで、人民の問題が解決するわけでもない》
彼は、ペンを置いた。
この二つの文章の間には、広い距離があった。
権力を独占しないこと。
意見を独占しないこと。
記録を独占しないこと。
そして、実際に困っている者の問題を、解決するために動くこと。
それらは、互いに関係していた。
しかし、一つを実現すれば、ほかも自動的に実現するわけではなかった。
政治は、矛盾を消す仕事ではないのかもしれない。
矛盾があることを認め、どの矛盾を、誰が、どのような理由で引き受けるのかを、明らかにする仕事なのかもしれない。
彼は、窓の外を見た。
腸内人民共和国の外側では、松木ひろ子さんの日常が続いていた。
食事をし、働き、休み、また食事をする。
その暮らしの変化が、共和国の環境を変えていく。
共和国の内部では、彼らが、歴史的使命や政治的正義について議論していた。
しかし、共和国の政治がどれほど壮大になっても、その政治が存在する理由は、人民の暮らしから離れることはできない。
ミツオケラ十三世は、演壇の灯りを消した。
---
## 終章 次の一手
数日後、中央記録管理局に、一通の新しい意見書が届いた。
差出人は、これまで記録に登場したことのない、小さな住民だった。
意見書は、短かった。
《私は、改革評価の聞き取りに協力したいと思います。ただし、私の話を聞いた後、私の問題がどうなったのかを、私にも知らせてください。調査の報告書に載せるだけではなく、私の問題について、何を確認し、何ができて、何ができなかったのかを説明してください》
中央記録管理局の担当者は、その意見書を読み、受付番号を付与した。
その後、担当部署を確認し、本人へ受付通知を送った。
通知には、担当者名と、次回の連絡予定日が記されていた。
以前なら、受付通知が送られた時点で、手続きの一つは完了していた。
今回は、担当者が、追跡管理票にもう一つの項目を追加した。
《本人への次回説明を実施したか》
その項目の横には、まだ何も記されていなかった。
これから、説明を行う必要があった。
説明を行った後、本人がどう受け止めたのかを確認する必要があった。
本人が記録の内容に異議を申し立てた場合、その異議をどう扱うのかも決めなければならなかった。
そして、説明したことをもって、問題が解決したとみなしてはならなかった。
担当者は、追跡管理票を閉じずに、机の上へ置いた。
未完了のまま、次の仕事へ進むためだった。
その日の夕方、ブラウ太郎と名無しの七号は、中央記録管理局の記録棚の前に立っていた。
新しい追跡管理票は、旧記録と関連づけられ、別の場所にも複製が保管されていた。
一つの記録が失われても、もう一つの記録が残るようにするためだった。
しかし、二つの記録が残っていても、その内容が正しいとは限らない。
二人は、そのことを知っていた。
「少しは、前に進んだでしょうか」
名無しの七号が尋ねた。
ブラウ太郎は、記録棚を見つめた。
「進んだと思う」
「でも、まだ解決していない問題がある」
「そうだ」
「制度の欠陥も、まだ残っている」
「そうだ」
「私たち自身も、間違えるかもしれない」
「そうだ」
七号は、少しだけ笑った。
「では、進歩したことと、問題が残っていることは、同時に成り立つのですね」
「そうだ」
ブラウ太郎も笑った。
「その二つを、同時に記録できるようになったことは、以前よりよいことかもしれない」
七号は、手帳を開いた。
そして、最後に、こう書いた。
《改革を行った者は、改革の成果を説明する責任を負う》
少し考えてから、その下に、もう一行を加えた。
《改革によって問題が解決したと考える者は、その問題を抱えていた本人が、何を経験したのかを確かめる責任を負う》
さらに、彼は、三行目を書いた。
《そして、確かめた結果が自分の考えと異なっていた場合、その違いを消さずに残す責任を負う》
手帳を閉じると、七号はブラウ太郎を見た。
「これで、第三部は終わりでしょうか」
ブラウ太郎は、しばらく考えた。
「調査は終わった。報告書も公表された。改革の検証も始まった。しかし、人民の問題は続いている」
「では、終わりではない?」
「ひとつの仕事は終わった。別の仕事が始まった。それだけのことだ」
二人は、記録棚の前を離れた。
その背後には、過去の議事録が並んでいた。
満場一致の記録。
七%の歴史的使命。
九十三%の沈黙。
保留された意見。
記録にない人々。
正しい記録を作った者。
独立委員会の報告書。
改革実施率八十一・二%。
そして、これから記録されるはずの、未解決案件の追跡票。
それらは、共和国の歴史だった。
しかし、歴史とは、記録された出来事だけではない。
記録されなかった出来事もある。
記録されたのに、意味を誤解された出来事もある。
記録を読んだ者が、都合よく解釈した出来事もある。
だからこそ、記録を残すことは必要だった。
そして、記録を残した後に、それを確かめ続けることも必要だった。
腸内人民共和国は、まだ平和ではなかった。
しかし、以前よりも、自分たちが何を知らないのかを記録しようとしていた。
その変化が、平和につながるかどうかは、まだわからない。
---
### 次回予告
改革評価室は、聞き取り調査の対象を拡大することを提案する。
しかし、調査対象を増やせば増やすほど、聞き取った声に返事をする仕事も増えていく。
返事を早くするために、説明が簡略化される。
説明を丁寧にするために、対応が遅れる。
対応を優先すれば、記録が追いつかなくなる。
記録を整えれば、現場の時間が削られる。
誰もが正しいことをしようとしているのに、制度は再び、別の矛盾を生み始める。
そのとき、ミツオケラ十三世は、新しい改革の目標を掲げる。
《すべての人民の声に、必ず返事をする》
だが、ブラウ太郎は問う。
「返事をすることと、応答することは同じなのか」
コウシン太郎は、かつて自分が作った制度の、さらに奥にある問題に気づく。
そして、名無しの七号は、記録棚に並んだ何百もの追跡票を見ながら、ある疑問を口にする。
**「人民の声に返事をする制度ができたとき、返事を受け取れなかった人は、どこへ行けばよいのでしょうか」**
改革を掲げる時代から、改革の結果を引き受ける時代へ。
腸内人民共和国の次の戦いが、始まる。




