第十一話 調査する者を、誰が調査するのか
一 開かれない扉
旧記録移行検証委員会が最初にぶつかった壁は、記録の欠落ではなかった。
記録を見せてもらえないことだった。
委員会の初会合から四日後、中央記録管理局に対し、最初の資料提出要請が送られた。
提出を求めた資料は、旧制度から新制度への移行に関する会議録、対象外記録の一覧、移行後の再確認に関する報告書、そして旧番号と新番号の対応表である。
いずれも、今回の調査に不可欠な資料だった。
ところが、三日後に届いた回答は、わずか一枚だった。
《ご要請の資料につきましては、関係者の権利保護および情報管理上の観点から、現在、開示範囲の適正性について確認を行っております。確認が完了次第、提出可能な資料の範囲を改めてご案内いたします》
委員長は、その文書を読み終え、眼鏡を外した。
「確認が完了するのは、いつですか」
事務局の担当者が答えた。
「記載されておりません」
「確認を行っているのは、どの部署ですか」
「中央記録管理局の記録保護審査室です」
「その審査室は、今回の調査対象に含まれますか」
担当者は、手元の資料を確認した。
「現時点では、調査対象として明示されておりません」
委員長は、しばらく黙っていた。
「つまり、調査対象となる部署が保有する資料を、同じ組織の別の部署が審査し、その結果が出るまで、調査委員会は資料を受け取れないということですね」
「そのように理解しております」
「その審査に期限はない」
「現時点では、設定されておりません」
委員長は、文書を机の上に置いた。
「これは、ずいぶんと慎重な制度ですね」
名無しの七号は、思わず顔を上げた。
委員長の声には、皮肉が混じっていた。
「調査する側が資料を求める。調査される側が、その資料を出してよいかどうかを審査する。その審査を待つ間、調査する側は調査を進められない。そして、待つ期間を誰も決めていない」
委員長は、もう一度回答文書を手に取った。
「これで、誰も規則に違反していないのかもしれません。しかし、誰も規則に違反していないのに、調査だけが止まることはあるのです」
記録管理の専門家である委員が、静かにうなずいた。
「制度が止まっているのではなく、制度が定めた手続きどおりに動いた結果、調査が止まっている。そう説明される可能性がありますね」
「そうです」
委員長は答えた。
「問題は、手続きがあるかどうかではありません。その手続きが、必要な調査を実行できるように設計されているかどうかです」
名無しの七号は、議事録にその言葉を書き留めた。
そして、その下に小さく付け加えた。
《手続きが調査を守ることもあれば、手続きが調査から人々を守ることもある》
彼は書き終えてから、少し考えた。
ここでいう「人々」とは、誰のことだろう。
記録を管理する者か。
記録を調べようとする者か。
それとも、記録が見つからず、自分の意見がどう扱われたのかを知ることのできない者か。
同じ制度の中にいても、守られているものは、必ずしも同じではなかった。
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## 二 調査対象の適正化
中央委員会では、調査委員会への対応について、非公開の協議が開かれていた。
ミツオケラ十三世の前には、中央記録管理局が作成した報告書が置かれていた。
表紙には、こう記されていた。
《旧記録移行検証委員会への資料提出に関する調整方針》
報告書の冒頭には、次のような説明があった。
《調査委員会の円滑な運営を確保するためには、調査対象の範囲を明確化し、関係部署の負担を適切に管理する必要がある》
それ自体は、もっともな話だった。
調査対象が際限なく広がれば、六か月の任期で調査を終えることは難しい。
関係の薄い資料まで集めれば、作業は膨大になる。
個人情報や機密情報を含む資料を扱う以上、一定の審査も必要になる。
ミツオケラ十三世は、そこまでは理解できた。
問題は、その次のページだった。
調査対象の一覧には、中央委員会、中央記録管理局、旧制度移行事務室、各地域の記録担当部署が記載されていた。
しかし、ブラウ太郎と名無しの七号が独自に集めてきた記録は、含まれていなかった。
受領証の控え。
旧番号の記載された通知文書。
回答が届かなかったという証言。
処理済みと記された案件について、実際の処理内容を確認できなかったという申立て。
それらは、調査対象の一覧には存在しなかった。
「この一覧は、誰が作成したのだ」
ミツオケラ十三世が尋ねた。
中央記録管理局の局長が答えた。
「事務局と関係部署が協議し、調査の効率性を考慮して作成したものです」
「調査委員会は、この一覧を承認したのか」
「現時点では、正式な承認は受けておりません」
「では、なぜ、調査対象の一覧として提出されている」
局長は、わずかに姿勢を正した。
「調査委員会が調査を開始するにあたり、まずは関係部署が保有する公的記録を対象とすることが適切であると判断いたしました。個人が保管する資料については、出所や真正性の確認に時間を要するため、必要性を検討したうえで、追加的に扱うことを想定しております」
「つまり、調査対象に含めるかどうかを、調査対象となる側が先に判断したのか」
「調査の範囲を限定すること自体は、効率的な運営のために必要であると考えております」
局長の説明には、明らかな悪意は感じられなかった。
むしろ、仕事を進める者としての合理性があった。
公的記録から調べる。
資料の真正性を確認する。
調査範囲を絞る。
順序としては、間違っていないようにも思えた。
しかし、ミツオケラ十三世には、気になる点があった。
「公的記録に問題があるかどうかを調べるために、公的記録だけを調査対象にするのか」
局長は答えた。
「公的記録を基礎として調査することが、最も客観的であると考えております」
「公的記録に存在しないものを調べる必要がある場合は?」
「その必要性が認められた段階で、追加資料として検討いたします」
「その必要性は、誰が認めるのだ」
局長は、言葉を止めた。
ミツオケラ十三世は、報告書を閉じた。
「調査対象の範囲を決める必要はある。しかし、その範囲を、調査対象となる部署だけで決めてはならない。委員会に、この一覧の作成経緯を説明し、採用するかどうかは委員会自身に判断してもらおう」
局長はうなずいた。
「承知いたしました」
その返事を聞きながら、ミツオケラ十三世は、自分が一つの判断をしたことを理解していた。
しかし、それだけで十分だろうか。
中央委員会が、調査委員会に判断を委ねる。
それは、独立性を尊重したことになるのか。
それとも、独立性を尊重するという判断そのものが、中央委員会の許可によって成立しているのか。
彼は、その問いを、まだ口にすることができなかった。
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## 三 調査される側が作った地図
翌日の委員会で、問題の一覧が提出された。
委員長は、説明を聞き終えると、一覧を机に置いた。
「この資料は、調査の参考資料として受け取ります。ただし、調査対象を確定する文書としては扱いません」
中央記録管理局から出席していた担当者が、少し驚いた表情を見せた。
「委員会としては、調査の効率性を考慮し、一定の範囲を設定することが必要ではないかと考えております」
「その必要性は、理解しています」
委員長は答えた。
「しかし、調査の効率性を理由に対象を限定する場合、その限定によって何が見えなくなるのかも検討しなければなりません」
ブラウ太郎が発言を求めた。
「私は、ひとつ確認したいことがあります」
彼は、一覧の中ほどを指さした。
「この一覧には、中央記録管理局が保有する資料と、各地域の公的記録が含まれています。一方で、意見提出者が保管する受領証や回答通知は、追加資料として扱うとされています」
担当者が答えた。
「はい。個人保管の資料については、真正性の確認が必要になるためです」
「その確認が必要であることには、異論はありません。しかし、公的記録についても、作成者、作成時期、改訂履歴、記載内容の根拠を確認する必要がありますね」
「当然、そのような確認は行います」
「では、公的記録だから先に信用するということではないのですね」
「信用するというより、調査の基礎として扱うという意味です」
ブラウ太郎は、少しだけうなずいた。
「その違いは重要です。公的記録を調査の基礎にすることと、公的記録を基準として、それに一致しない証言を二次的なものとすることは違います」
彼は、机の上に一枚の紙を置いた。
「たとえば、ある意見提出者が受領証を持っている。しかし、中央の台帳には、その番号が見つからない。その場合、台帳にないから受領証が誤りだと判断するのか。それとも、受領証があるから台帳が誤りだと判断するのか」
委員長が答えた。
「どちらとも、直ちには判断できません。双方の記録がどのように作られ、管理され、照合されてきたのかを調べる必要があります」
「そのとおりです」
ブラウ太郎は、紙を机の中央へ移した。
「だから、調査対象を公的記録だけに限定してはならないのです。公的記録と、そこから漏れた可能性のある記録。その両方を比較できなければ、漏れがあったかどうかを確かめることすらできません」
名無しの七号は、発言を求めた。
「もうひとつ、問題があります」
委員長がうなずいた。
「どうぞ」
「この一覧には、調査対象となる記録の種類は書かれています。しかし、調査対象から除外された記録の種類と、その理由は書かれていません」
会議室が静かになった。
名無しの七号は、続けた。
「何を調べるのかが書かれているのに、何を調べないのかが書かれていない。これでは、調査の範囲がどこまでなのか、外から検証できません」
記録管理の専門家が、手元の資料を見直した。
「確かに、除外基準は明示されていませんね」
「さらに、一覧の作成者は、調査対象となる部署です」
名無しの七号は言った。
「その部署が、自分たちの持っている記録を基礎にして、調査の範囲を提案する。それ自体が直ちに不正だとは思いません。しかし、委員会がそれをそのまま採用した場合、委員会は自分で調査範囲を決めたことになるのでしょうか。それとも、調査される側が決めた範囲を追認したことになるのでしょうか」
委員長は、すぐには答えなかった。
そして、一覧の一番下に目を落とした。
そこには、小さな文字で、次の一文が書かれていた。
《本一覧に記載のない資料については、調査上の必要性が確認された場合に限り、追加の対象として検討する》
委員長は、その文を読み上げた。
「この文書では、一覧に記載されていない資料を追加するために、調査上の必要性が確認されることを求めています。しかし、必要性を確認するためには、その資料が存在することや、調査に関係する可能性があることを、委員会が知っていなければなりません」
ブラウ太郎が続けた。
「ところが、一覧にない資料は、委員会が存在を知らない可能性があります。知らないものについて、必要性を確認することはできません」
「つまり」
委員長は言った。
「この規定は、一覧にない資料を追加する手続きを設けているように見えて、実際には、委員会がすでに必要性を認識している資料しか追加できない構造になっている可能性がある」
名無しの七号は、ゆっくりとうなずいた。
「知らないものを、必要だと判断することはできません。だからこそ、知らないものが存在する可能性を調べる手続きが必要です」
会議室には、しばらく沈黙が流れた。
委員長は、資料の表紙に戻り、そこに書かれた題名を見つめた。
《調査対象一覧》
調査の地図であるはずの文書が、いつの間にか、地図の外側を見えなくする壁になっていた。
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## 四 コウシン太郎の封筒
その日の午後、コウシン太郎のもとに、中央委員会の旧文書保管室から封筒が届いた。
封筒には、赤い分類印が押されていた。
《制度運用指針・旧版》
彼は封筒を開け、数枚の文書を取り出した。
一枚目の表題を見た瞬間、指が止まった。
《調査対象の適正化に関する運用指針》
作成者欄には、コウシン太郎の名前が記されていた。
彼は、椅子に深く腰を下ろした。
この文書を覚えていた。
いや、正確には、文書を作成したことは覚えていたが、その最終版がどこで、どのように使われたのかは、はっきり覚えていなかった。
当時、彼は制度運用の効率化を担当していた。
調査や点検の対象が広がりすぎると、現場の負担が増える。
限られた人員で、限られた時間内に、必要な確認を終える。
そのためには、調査対象を明確にする必要がある。
彼は、そう考えていた。
実際、指針の前半には、もっともなことが書かれていた。
《調査対象は、調査目的との関連性を踏まえて設定する》
《対象範囲を変更する場合には、その理由を記録する》
《調査対象外とする事項については、除外の根拠を明確にする》
ここまでは、問題ないように思えた。
しかし、後半へ進むにつれて、文言が変わっていた。
《調査対象の追加は、既存の調査計画に重大な影響を及ぼさない範囲で行う》
《対象範囲の変更については、関係部署との調整を経て決定する》
《調査の円滑な実施を妨げるおそれがある事項については、別途管理とすることができる》
コウシン太郎は、最後の一文を何度も読んだ。
《別途管理とすることができる》
どこかで見た言葉だった。
いや、見たどころではない。
彼自身が、何度も使ってきた言葉だった。
調査の円滑な実施。
関係部署との調整。
既存の計画への影響。
それぞれには、合理的な理由がある。
しかし、その理由が積み重なると、調査に不都合な事項ほど、調査の外側へ移されていく可能性がある。
しかも、別途管理とした事項を、いつ、誰が、どのような条件で調査へ戻すのか。
この指針には、その定めがなかった。
コウシン太郎は、文書の末尾を確認した。
最終改訂日は、旧制度から新制度への移行準備が本格化する直前だった。
承認欄には、当時の担当部署の印が並んでいた。
その中に、彼の署名もあった。
「私は……」
声が、そこで途切れた。
彼は、この指針を作ったとき、調査を妨げるつもりだったのだろうか。
そうではない。
少なくとも、彼自身の記憶では、調査を効率的に進めるためだった。
関係のない資料に時間を取られないようにする。
無制限に範囲が広がらないようにする。
部署間の調整を円滑にする。
その目的は、今でも理解できる。
しかし、制度は、作った者が意図した目的だけに従って動くわけではない。
誰かが、その文書を使って調査対象を限定する。
別の誰かが、その限定を前例として受け入れる。
さらに別の誰かが、前例に従って新しい規程を作る。
その繰り返しの中で、最初の目的は薄れ、残された言葉だけが強くなる。
そして、誰もが「規程に従った」と説明できるようになる。
コウシン太郎は、指針を封筒へ戻さなかった。
机の上に置いたまま、委員会事務局へ連絡した。
「旧文書を一件、追加提出します」
「どのような文書でしょうか」
「調査対象の範囲を決める際の運用指針です。私が作成に関与したものです」
「今回の調査に関係する文書ですか」
コウシン太郎は、答える前に一度、息を吸った。
「関係する可能性があります。少なくとも、調査対象をどのように決めてきたのかを検証するうえで、委員会が確認すべき文書だと考えます」
「承知しました。提出手続きをご案内します」
通話が終わると、彼は封筒を見た。
これまでの自分なら、まず関係部署との調整を始めただろう。
文書の位置づけを確認し、調査範囲との関連性を整理し、提出の必要性を説明する資料を作ったかもしれない。
それは、手続きを守るためだった。
だが、今回、彼は気づいていた。
調査の対象となる可能性がある文書を、調査される側の都合で先に選別してしまえば、委員会は、その存在すら知らないままになる。
だからこそ、まず提出する。
そのうえで、委員会が必要性を判断する。
それが、自分の過去に対して、彼ができる最初のことだった。
しかし、彼はまだ、封筒の中にある指針のすべてを読み終えていなかった。
最後のページには、別紙の存在を示す記載があった。
《調査対象の変更に係る承認手続きについては、別紙二を参照》
だが、別紙二は見当たらなかった。
コウシン太郎は、文書管理番号を控えた。
また、記録が一つ足りなかった。
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## 五 委員会は、自分の範囲を決められるか
翌日の委員会では、三つの問題が同時に議論された。
第一に、中央記録管理局が資料提出を保留していること。
第二に、調査対象の一覧が、委員会の承認を経ずに作成されていたこと。
第三に、調査対象の範囲を限定する過去の運用指針が見つかったこと。
委員長は、議論を整理してから言った。
「まず、資料提出について、期限を設けて再要請します。提出できない資料については、資料名、保有部署、提出できない理由、審査の担当者、審査の期限を明記するよう求めます」
記録管理の専門家が付け加えた。
「提出できない理由が、個人情報の保護や機密性に関するものである場合、その理由を確認したうえで、部分的な開示、匿名化、閲覧場所の制限など、代替手段が可能かどうかも検討すべきです」
「ただし」
ブラウ太郎が言った。
「代替手段の検討そのものを、調査対象となる部署だけに任せてはなりません。どの部分を開示できないと判断したのか、その判断を委員会が検証できる仕組みが必要です」
委員長は、うなずいた。
「その点を含めて、再要請文に記載します」
次に、調査対象一覧の扱いが議論された。
委員長は、一覧を参考資料として受け取り、正式な調査対象の決定は委員会が行うと説明した。
さらに、対象から除外する事項についても、その理由を記録することが提案された。
名無しの七号は、その提案を聞きながら、ひとつの疑問を抱いていた。
「委員長」
「はい」
「委員会が調査対象を決めるのであれば、委員会自身が、調査対象を広げることを拒まれた場合には、どうするのでしょうか」
委員長は、少し考えた。
「具体的には、どういう場合を想定していますか」
「たとえば、調査を進めるうちに、最初の調査計画にはなかった記録の存在がわかったとします。しかし、その記録を調べると、中央委員会の別の部署や、今回の調査計画に含まれていない運用にまで確認が必要になる。そうなったとき、調査範囲を広げるには、中央委員会の承認が必要なのでしょうか」
会議室が静かになった。
委員長は、設置規程を開いた。
「設置規程には、調査対象の範囲を委員会が変更できるかどうかについて、明確な定めがありません」
「では、変更できるとも、できないとも書かれていないのですね」
「そのとおりです」
名無しの七号は、手元の資料を見た。
「それは、どちらに判断するかによって、委員会の独立性が変わるということではありませんか」
ブラウ太郎が続けた。
「委員会が調査対象を変更するたびに中央委員会の承認が必要なら、中央委員会は、調査範囲を通じて調査を制御できます。一方、委員会が自由に対象を拡大できるなら、調査の目的や期間が際限なく広がる可能性もあります」
「では、どうすればよいのでしょう」
別の委員が尋ねた。
ブラウ太郎は答えた。
「変更の権限を誰が持つのか。変更できる条件は何か。変更した場合、誰に通知し、どのような理由を公表するのか。調査対象の拡大によって任期や予算が足りなくなった場合、どう対応するのか。そうした手続きを、先に決める必要があります」
委員長は、ゆっくりとうなずいた。
「つまり、委員会が何でも調査できるようにするのではなく、必要な調査を不当に妨げられないようにしながら、その権限の使い方も検証可能にする、ということですね」
「はい」
名無しの七号は言った。
「調査する側にも、説明する責任があります。けれど、説明する責任があるからといって、調査される側に調査範囲を決める権限まで与えてしまえば、説明の前に、何を明らかにできるかが決まってしまいます」
委員長は、議事録担当に指示した。
「今の議論を、独立した議題として記録してください。調査対象の変更手続きについて、次回までに規程案を作成します」
名無しの七号は、ほっとした。
しかし、同時に、ひとつのことを考えていた。
委員会が、自分の調査範囲を決める規程を作る。
その規程は、誰が確認するのだろう。
委員会が自分で作り、委員会が自分で運用し、委員会が自分の判断を正しいと説明するだけなら、いつか、委員会もまた、検証されることを嫌うようになるかもしれない。
彼は、その疑問を議事録の余白に書いた。
《調査する者の権限を制限する仕組みと、調査される者が調査を制限する仕組みを、混同してはならない》
その下に、もう一行を加えた。
《しかし、調査する者を調査する仕組みも、また必要である》
書き終えたとき、彼は、自分たちが調べようとしている問題が、単に過去の記録管理の失敗ではないことを理解した。
それは、誰が問題を定義し、誰がその問題を調べ、誰が調査の限界を決めるのかという、統治そのものの問題だった。
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## 六 七%の決断
その夜、ミツオケラ十三世は、ひとりで執務室に残っていた。
机の上には、調査委員会から提出された最初の要請書と、中央記録管理局の回答、そして調査対象一覧が並んでいた。
彼は、要請書の一文を読み返した。
《調査に必要な資料の提出を求める》
短い一文だった。
しかし、その一文が実際に機能するためには、資料を提出する義務が必要になる。
義務を実行する手続きが必要になる。
提出できない場合の理由を説明する仕組みが必要になる。
そして、その説明が妥当かどうかを、別の誰かが確認できなければならない。
制度を作ることは、言葉を書くことではない。
言葉が、都合の悪い場面でも機能するようにすることだ。
彼は、中央記録管理局の回答文書に目を落とした。
《確認が完了次第、提出可能な資料の範囲を改めてご案内いたします》
この文は、誰かを攻撃してはいなかった。
露骨な拒否でもなかった。
しかし、期限がなければ、確認はいつまでも続けられる。
提出可能な資料の範囲を決めるのが調査対象となる部署であれば、提出される資料の範囲も、その部署の判断に左右される。
そして、その判断が正しかったかどうかを検証する資料そのものが、提出されなければ、検証はできない。
ミツオケラ十三世は、椅子から立ち上がり、窓のそばへ歩いた。
七%。
彼らは、少数派であることを、長いあいだ誇りにしてきた。
多数派の意見に流されない。
短期的な人気に左右されない。
歴史的な責任を引き受ける。
それらは、政治を行ううえで、確かに必要な資質だった。
しかし、少数派であることを理由に、自分たちだけが歴史を正しく理解していると考え始めたとき、その誇りは、別のものへ変わる。
自分たちの判断を疑わないこと。
自分たちの規程を検証しないこと。
自分たちが決めた調査範囲の外側に、問題が存在する可能性を認めないこと。
それは、歴史的使命ではない。
自分たちが作った制度を、自分たちで守るための論理だった。
彼は机に戻り、命令書の草案を書き始めた。
第一に、調査委員会からの資料提出要請に対し、提出期限を設定する。
第二に、提出できない資料については、その理由と判断根拠を文書で示す。
第三に、提出の可否を審査する場合、審査の担当部署と期限を明記する。
第四に、調査委員会が必要と判断した場合、個人情報や機密情報を保護するための代替的な閲覧方法を協議する。
第五に、調査対象の範囲を変更する権限と手続きについて、委員会の独立性を損なわない形で規程を整備する。
彼は、そこでペンを止めた。
この命令書を出せば、中央委員会は調査委員会を支援したと説明できるだろう。
だが、それだけでは不十分だった。
もし、調査委員会が中央委員会にとって不都合な事実を見つけたら。
もし、その事実が、七%の歴史的使命という物語そのものを揺るがすものだったら。
彼は、そのときにも、今と同じ判断をできるだろうか。
資料を提出させ、調査を進めさせ、報告書を公表させることができるだろうか。
あるいは、そのときになって初めて、調査には限界が必要だと言い始めるのだろうか。
ミツオケラ十三世は、自分の胸の内に浮かんだ問いを、すぐには追い払えなかった。
彼は、命令書の最後に、一文を加えた。
《本命令の適用にあたっては、中央委員会にとって不都合であることのみを理由として、調査委員会の活動を制限してはならない》
書き終えたあと、彼はその一文を読み返した。
それは、立派な言葉だった。
だが、立派な言葉を一つ書いたからといって、自分が将来もそれを守れると証明されたわけではない。
彼は、そのことも、記録に残すべきだと思った。
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## 七 調査される側の善意
翌朝、ミツオケラ十三世の命令書は、中央記録管理局へ送られた。
局長は文書を読み、部下たちと対応を協議した。
「提出期限が設定されましたね」
「はい。これまでのように、確認が完了するまで保留というわけにはいかなくなりました」
「機密情報を含む資料はどうする」
「部分的な開示や、閲覧場所を限定する方法を検討することになります」
局長は、しばらく考えた。
「調査委員会に協力することは必要だ。しかし、無条件にすべてを渡せばよいというものでもない。個人情報の保護も、記録の安全管理も、私たちの責任だ」
「そのとおりです」
「ならば、提出できないものについては、理由を明確にしよう。判断に迷うものは、迷っていることも記録する」
部下はうなずいた。
局長は、命令書の最後の一文を読み直した。
《中央委員会にとって不都合であることのみを理由として、調査委員会の活動を制限してはならない》
「これは、中央委員会自身にも向けられた命令なのだろうな」
部下は答えなかった。
局長は続けた。
「調査委員会に協力することが、私たちの組織を守ることになる場合もある。問題を明らかにし、改善すれば、制度への信頼が回復するかもしれない」
「はい」
「だが、調査の結果、私たちの判断が間違っていたとわかった場合も、同じように協力できるかどうか。それが問われているのだろう」
彼は、回答文書の草案を引き寄せた。
「これまでの回答は、慎重であることを重視しすぎたのかもしれない。慎重であること自体は悪くない。しかし、慎重さを理由に、相手が必要とする情報をいつまでも渡さないのなら、それは慎重さではなく、責任を引き延ばす仕組みになってしまう」
部下は、静かに答えた。
「では、今後は期限を守り、判断理由も記録する方針でよろしいでしょうか」
「そうしよう」
局長はうなずいた。
その判断に、悪意はなかった。
彼は、制度を守りたいと思っていた。
記録を適切に管理したいと思っていた。
関係者の権利を侵害したくないと思っていた。
それらは、いずれも正当な目的だった。
しかし、正当な目的が複数あるとき、どの目的を優先し、どの目的を制限するのかという判断が必要になる。
その判断を、誰が、どのような根拠で行うのか。
そして、その判断が間違っていた場合、誰が訂正できるのか。
局長は、これまで、その問いを制度の外側に置いていた。
今度は、回答文書の中に、それを書かなければならなかった。
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## 八 地図の外側
三日後、調査委員会には、中央記録管理局から追加資料が届いた。
すべての資料が提出されたわけではなかった。
一部の資料は、個人情報の確認が必要として、引き続き審査中だった。
旧番号と新番号の対応表についても、完全版ではなく、現時点で照合できた範囲の一覧が提出された。
しかし、今回の回答には、これまでとは違う点があった。
提出されなかった資料について、名称、保有部署、提出できない理由、審査担当者、提出可否を判断する予定日が記載されていた。
委員長は、その文書を確認した。
「少なくとも、何が止まっているのかは、見えるようになりました」
記録管理の専門家が答えた。
「はい。提出されていないこと自体は、まだ問題として残っています。しかし、提出されていない理由と、次に何を確認すべきかを検討できるようになりました」
ブラウ太郎は、対応表を手に取った。
「この一覧にも、気になる点があります」
委員長が尋ねた。
「どの点でしょう」
「対応関係が確認できた記録と、確認できなかった記録は分けられています。しかし、照合の対象になった記録の総数が、どこにも書かれていません」
「総数がなければ、確認できた割合も出せませんね」
「そのとおりです。それに、照合できなかった記録が、どのような基準で一覧に入ったのかも、まだわかりません」
名無しの七号は、提出された一覧をめくった。
そこには、旧番号、新番号、移行状況が記載されていた。
だが、旧番号が存在しない記録や、番号が欠けている記録、番号の形式が途中で変更された記録については、別の資料にまとめられているという説明があった。
その別の資料は、まだ提出されていなかった。
「また、別途管理ですね」
名無しの七号がつぶやいた。
委員長は、その言葉を聞いて顔を上げた。
「どういう意味ですか」
「いえ……これまで見てきた資料では、確認が難しいもの、分類しにくいもの、通常の手続きから外れるものが、何度も『別途管理』になっていました」
彼は、提出された資料を並べた。
「別途管理という分類そのものが悪いわけではありません。問題は、別途管理されたものが、いつ、誰によって、どのように通常の管理へ戻されるのかが、はっきりしていないことです」
ブラウ太郎が言った。
「そして、別途管理されたものの一覧がなければ、別途管理されたものがどれだけあるのかさえ、わからない」
委員長は、しばらく考えたあと、議事録担当に指示した。
「今回の調査では、記録の内容だけでなく、記録を分類する基準と、分類を変更する手続きも調査対象に含めます。特に、別途管理とされた記録については、管理開始の理由、担当部署、確認期限、通常の管理へ戻す条件が定められていたかどうかを確認してください」
名無しの七号は、うなずいた。
ようやく、地図の外側を調べる方法が、少しずつ見え始めていた。
だが、その地図の外側には、さらに別の地図があるのかもしれない。
別途管理された記録の一覧。
一覧から漏れた記録の一覧。
一覧を作る際に対象外となった記録。
そして、対象外になったことさえ記録されていないもの。
どこまで調べれば、すべてを把握できるのだろう。
名無しの七号は、その問いに答えを持っていなかった。
ただ、答えがわからないことを理由に、問いそのものを調査対象から外してはならないと思った。
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## 九 誰が調査を終わらせるのか
委員会の初会合から二週間が過ぎた。
調査は、ようやく動き始めた。
提出された資料の照合が進み、追加提出を求める文書が作られ、関係者への聞き取りの日程も調整されていた。
しかし、調査が進むにつれて、別の問題も明らかになった。
委員会の任期は六か月。
予算も、人員も、あらかじめ決められている。
調査対象の範囲を広げれば、作業量が増える。
資料の確認に時間がかかれば、聞き取りの予定も遅れる。
予定が遅れれば、報告書の作成期間が短くなる。
そうなれば、どこかで調査を終えなければならない。
では、何をもって、調査を終えたと判断するのか。
委員長は、その問題を委員会の議題にした。
「六か月という任期を、無視することはできません。限られた時間の中で、何を優先して調査するのか、基準を設ける必要があります」
一人の委員が言った。
「調査対象を優先順位で分類してはどうでしょう。制度の全体像に関わる事項を優先し、個別の事例は代表的なものを抽出する」
別の委員が続けた。
「ただし、代表的な事例を選ぶ基準を明確にしなければ、選ばれなかった事例が見えなくなります」
ブラウ太郎は、手元の資料を見ながら発言した。
「調査を終える条件を決めることは必要です。しかし、調査が終わることと、問題がすべて解決したことを混同してはなりません」
委員長がうなずいた。
「そのとおりです。報告書には、確認できた事項だけでなく、確認できなかった事項と、その理由も記載することになっています」
「それに加えて」
ブラウ太郎は続けた。
「調査の途中で、十分に調べられなかった事項について、今後、誰が確認するのかも決める必要があります。委員会の任期が終わったからといって、未解決の問題まで消えるわけではありません」
名無しの七号は、議事録に目を落とした。
「では、調査を終了するときには、未解決事項の一覧も作るべきではないでしょうか」
「未解決事項の一覧ですか」
「はい。確認できたこと、確認できなかったこと、調査を続ける必要があること。それらを分けて記録します。そして、未解決事項については、引き継ぎ先と確認期限を決める」
委員長は、ゆっくりとうなずいた。
「調査を終了する条件だけでなく、調査終了後に問題を引き継ぐ条件も定める。そういうことですね」
「はい」
名無しの七号は答えた。
「そうしなければ、委員会そのものが、新しい『別途管理』を作ってしまうかもしれません」
その言葉に、何人かの委員が顔を上げた。
名無しの七号は、続けた。
「私たちは、記録がどのように管理され、どのように保留され、どのように見えなくなったのかを調べています。しかし、私たち自身も、限られた時間と予算の中で、何を調べ、何を後回しにするかを決めなければなりません」
彼は、手元のノートを閉じた。
「だから、私たちが決めたことも、後から検証できるようにしておく必要があると思います」
委員長は、しばらく黙っていた。
やがて、議事録担当へ向き直った。
「今の提案を、調査終了時の手続きに関する議題として記録してください。未解決事項の引き継ぎ先、確認期限、再検証の方法について、規程案を作成します」
名無しの七号は、小さく息を吐いた。
委員会は、少しずつ、自分自身の限界を記録しようとしていた。
それは、調査する者が、自分たちの正しさを無条件に信じないための試みだった。
しかし、限界を記録することと、限界を乗り越えることは違う。
未解決事項の一覧を作っても、引き継ぎ先が実際に確認するとは限らない。
確認期限を設けても、期限が守られるとは限らない。
再検証の手続きを作っても、その手続きを使う者が現れるとは限らない。
それでも、何も決めなければ、未解決の問題は、再び、誰の責任でもない場所へ移されてしまう。
名無しの七号は、そのことを、誰よりもよく知っていた。
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## 十 調査する者も、記録される
その日の夕方、委員会の会議が終わると、委員長は名無しの七号を呼び止めた。
「あなたは、委員会の判断を記録に残すことを、ずいぶん重視していますね」
名無しの七号は、少し戸惑った。
「そうでしょうか」
「ええ。資料の提出を求めたことだけでなく、提出されなかった場合の理由。調査対象に含めた事項だけでなく、除外した事項。調査を進めたことだけでなく、進められなかった理由。いつも、その点を確認している」
名無しの七号は、しばらく考えてから答えた。
「私は、以前、意見を提出する側にいました」
「知っています」
「意見を提出すると、受領番号が付けられました。処理状況も記録されました。処理済みという表示もありました。でも、その表示だけでは、自分の意見がどう扱われたのか、わかりませんでした」
彼は、手元のノートを見た。
「記録は残っている。でも、何が行われたのかがわからない。そういうことが、何度もありました」
委員長は、黙って聞いていた。
「だから、今度は、自分たちが何をしたのかを残しておきたいのです。委員会が何を調べたのか。何を調べなかったのか。なぜ、そう判断したのか。あとから、誰かが確かめられるように」
「委員会の判断が、間違っている可能性もありますね」
「はい」
名無しの七号は答えた。
「だから、記録に残すのです」
委員長は、少し驚いたような表情をした。
名無しの七号は、続けた。
「正しい判断をしたから記録するのではありません。自分たちの判断が正しかったかどうかを、後から確かめられるように記録するのです」
委員長は、静かにうなずいた。
「その考え方を、委員会の運営にも反映させましょう」
名無しの七号は、頭を下げた。
委員長が去ったあと、彼は会議室に一人残った。
机の上には、調査対象一覧の写しが置かれていた。
その一覧は、まだ完全ではない。
提出されていない資料がある。
確認できていない記録がある。
調査対象に含めるべきかどうか、判断がついていない事項もある。
それでも、一覧は、整然とした表の形をしていた。
項目が並び、分類があり、空欄には理由が書かれている。
表は、何かが把握されているように見せる。
何かが整理され、管理され、理解されているように見せる。
しかし、表の外側に何があるのかは、表を眺めているだけではわからない。
名無しの七号は、一覧の余白に一文を書き加えた。
《本一覧は、現時点で把握できている調査対象を示すものであり、調査対象の全体を網羅していることを保証するものではない》
彼は、その文を読み返した。
少し長い。
事務的で、慎重で、面倒な一文だった。
だが、その一文がなければ、この一覧は、把握できている範囲を、把握できているすべてであるかのように見せてしまう。
彼は、文書を委員長の机へ届けた。
そして、廊下へ出た。
記録を調べる者も、記録に残されなければならない。
調査する者も、調査される可能性を受け入れなければならない。
ただし、それは、誰も判断をしてはならないという意味ではない。
判断をしなければ、調査は進まない。
判断をしたなら、その理由を残す。
理由を残したなら、後から検証できるようにする。
検証の結果、判断が間違っていたとわかったなら、訂正できるようにする。
その繰り返しを、制度の中に組み込むこと。
それが、彼らの目指すものになりつつあった。
しかし、まだ、ひとつの問いが残っていた。
委員会が自分自身を検証できるようにしたとしても、その仕組みを守る責任は、誰が負うのだろう。
そして、委員会が、いつか自分たちに都合のよい判断を始めたとき、それを止めることができるのは誰なのだろう。
名無しの七号は、その問いをノートに書いた。
答えは、まだなかった。
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## 終章 調査の外側にあるもの
その夜、ブラウ太郎は、集めてきた記録の束を整理していた。
受領証の控え。
番号が一致しない通知文書。
処理済みと記された案件の写し。
提出者が保管していた手書きのメモ。
どれも、それだけで何かを証明できるわけではなかった。
しかし、複数の記録を照合することで、初めて見えてくることもある。
公的な台帳にはない番号が、個人の受領証には残っている。
回答が完了したとされる案件について、提出者の手元には回答そのものがない。
記録管理局の一覧では一件とされている案件が、提出者の控えでは別々の二件として扱われている。
それぞれの食い違いには、さまざまな理由が考えられる。
記載ミスかもしれない。
移行時の番号変更かもしれない。
資料の紛失かもしれない。
あるいは、これまでの分類方法では捉えられない事情があるのかもしれない。
今は、どれとも断定できなかった。
ブラウ太郎は、記録の束に、新しい表紙を付けた。
《旧記録移行検証委員会・参考資料》
その下に、小さく書き添えた。
《事実確認未了。証言、原本、複写資料を区別して保管すること》
彼は、資料を二つの束に分けた。
一つは、委員会へ提出するもの。
もう一つは、提出した資料の控えとして、別の場所に保管するものだった。
同じ資料を、二つの場所に残す。
それだけで、記録が失われなくなるわけではない。
だが、一つの場所にしか記録がなければ、その場所で記録が失われたとき、何が失われたのかを確認することさえ難しくなる。
彼は、最後の一枚を手に取った。
そこには、ある意見提出者の言葉が書かれていた。
「私は、誰かを処罰してほしいだけではありません。私の意見が、どこへ行ったのかを知りたいのです」
ブラウ太郎は、その言葉をしばらく見つめていた。
制度は、問題が起きたとき、責任者を探そうとする。
誰が決めたのか。
誰が承認したのか。
誰が規程を作ったのか。
それらを調べることは必要だ。
しかし、責任者が見つかったとしても、意見がどこへ行ったのかという問いが、自動的に解決するわけではない。
責任者が処分されたとしても、失われた記録が戻るわけではない。
制度が改正されたとしても、過去の判断がどのように行われたのかが、すべて明らかになるわけではない。
だから、調査は、誰かを罰するためだけに行われるのではない。
何が起きたのか。
何が起きたか、まだわからないのか。
誰が、何を知っていたのか。
何を知らなかったのか。
そして、知らなかったことを、なぜ知らないままにしておけたのか。
それらを、一つずつ明らかにしていくために行われる。
ブラウ太郎は、資料の束を閉じた。
調査委員会は、まだ始まったばかりだった。
資料はすべて集まっていない。
調査対象も、完全には定まっていない。
委員会の独立性も、制度として十分に確立されたとは言い難い。
それでも、これまでなら、調査の外側に置かれていた問いが、少しずつ、調査の中へ入ろうとしていた。
誰が調査対象を決めるのか。
誰が資料を提出するのか。
誰が、調査を終わらせるのか。
そして、調査する者を、誰が調査するのか。
その問いに、ひとつの正解を与えることはできないのかもしれない。
だが、問いを誰か一人の手に独占させないことはできる。
判断の理由を記録することはできる。
調査の限界を明らかにすることはできる。
そして、調査が終わったあとも、未解決の問題を、存在しなかったことにしない仕組みを作ることはできる。
それができるかどうかは、まだわからない。
ブラウ太郎は、灯りを消す前に、最後の記録を確認した。
その記録には、まだ正式な番号が付けられていなかった。
彼は、仮番号を記入した。
そして、番号の横に、こう書いた。
《調査対象追加の要否、委員会にて検討》
今度は、その検討をいつ行うのかも、記録した。
翌週の火曜日。
午前十時。
担当者、旧記録移行検証委員会事務局。
彼は、日付と時刻を確認してから、資料を保管した。
小さな記録だった。
だが、そこには、誰が、いつ、何をするのかが書かれていた。
少なくとも、この記録については、未来へ送り出された問いが、いつまでも宛先のないまま漂うことはないはずだった。
もちろん、予定が守られる保証はない。
担当者が忘れる可能性もある。
委員会が別の問題に追われる可能性もある。
そのときには、また、確認する必要がある。
だからこそ、記録は一度作って終わりではない。
作った記録が実際に使われたかどうかを、確かめなければならない。
ブラウ太郎は、部屋を出た。
調査は、まだ続く。
そして、調査の外側には、まだ、誰も地図に記していない場所が残っていた。
その場所を、最初から存在しないものとして扱うのか。
それとも、まだ見えていないものとして、調べる努力を続けるのか。
人民共和国は、今、その分岐点に立っていた。




