第十話 正しい記録を作った者
コウシン太郎は、議事録を三度読んだ。
一度目は、内容を確認するためだった。
二度目は、記憶との食い違いを探すためだった。
三度目は、自分の名前が書かれている箇所を、もう一度確かめるためだった。
議事録には、こう記されていた。
《対象外記録の問題は、制度移行完了後に改めて検討することが適当である》
その下には、当時の担当者として、コウシン太郎の名前があった。
そして、余白には彼自身の手書きのメモが残っていた。
《移行完了後、再確認》
コウシン太郎は、紙から目を離した。
「……私が書いたのか」
もちろん、覚えていた。
当時、彼は記録移行作業の責任者の一人だった。旧制度から新制度へ、膨大な記録を移し替える。番号の形式が違うもの、分類が異なるもの、提出者の情報が欠けているもの。すべてを一度に移行することはできなかった。
だから、いくつかの記録を別枠に分けた。
移行作業を止めないためだった。
不明なものを無理に分類して、誤った場所へ入れてしまうより、いったん保留にするほうが誠実だと考えた。
その判断自体は、間違いだったとは思わない。
問題は、その先だった。
「移行完了後、再確認」
その言葉には、期限がなかった。
誰が確認するのかも、明確ではなかった。
確認した結果を、どこへ報告するのかも決まっていなかった。
彼は当時、制度移行を完了させることに集中していた。大量の記録を新しい仕組みに移し、業務を止めず、混乱を最小限にする。それが自分の役割だと信じていた。
そして、移行は完了した。
完了報告書が作成された。
新制度の運用が始まった。
誰もが次の仕事に取りかかった。
そのとき、彼が書いた《再確認》という四文字は、誰にも引き継がれないまま、古い議事録の余白に残った。
「私は、消したわけではない」
コウシン太郎は、誰にともなく言った。
「ただ、後で確認すると決めた。それだけだ」
しかし、言い終えた瞬間、その説明がどれほど危ういものかに気づいた。
消していないことと、残したものが機能していることは、同じではない。
確認すると決めたことと、実際に確認したことも、同じではない。
そして、悪意がなかったことは、結果に責任を負わなくてよい理由にはならない。
彼は議事録を閉じなかった。
今度は、別の資料を取り出した。
旧制度から新制度への移行に関する会議記録だった。
そこには、対象外となった記録について、次のような文言が残っていた。
《担当部署が継続して確認し、その結果を別途報告する》
その後の資料では、表現が変わっていた。
《別途管理する》
さらに後の文書では、こうなっていた。
《移管対象外となった記録については、移管完了の確認に含めない》
コウシン太郎は、三つの文を並べた。
最初の文には、担当部署があった。
確認するという行為があった。
結果を報告するという約束もあった。
二つ目の文では、それらが消えた。
三つ目の文では、確認の対象から外すことだけが、明確になっていた。
誰かが意図的に責任を消したのか。
それとも、文書を簡潔にしようとするうちに、責任を示す言葉が少しずつ削られていったのか。
今の段階では、わからなかった。
ただ、ひとつだけ確かなことがあった。
最初の文と最後の文では、制度が約束していることが違っていた。
しかも、その違いを説明する文書が見つからない。
「これは、誰が変更したんだ」
彼は記録管理局の担当者に尋ねた。
担当者は、資料を確認しながら答えた。
「文書の改訂履歴は残っております。ただし、各表現の変更理由については、すべての記録が保存されているわけではありません」
「変更の理由がわからないのに、現在の運用が正しいと判断できるのか」
担当者は答えなかった。
しばらくして、慎重に言葉を選びながら口を開いた。
「現在の運用は、承認された規程に基づいております」
「私が尋ねているのは、規程に基づいているかどうかではない。なぜ、その規程になったのかだ」
担当者は、再び資料へ目を落とした。
「その点については、追加確認が必要かと存じます」
コウシン太郎は、小さく息を吐いた。
追加確認。
また、その言葉だった。
彼は、その言葉を何度も使ってきた。
問題を放置するつもりで使ったことはない。
むしろ、安易に結論を出さないために使っていた。
しかし、追加確認には、確認を終える日が必要だった。
確認する責任者が必要だった。
確認の結果を、誰かが受け取る仕組みが必要だった。
そのどれもがなければ、追加確認は、問題を未来へ移すための便利な言葉になる。
未来へ移された問題は、未来に到着するとは限らない。
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中央委員会では、旧記録移行検証委員会の設置について、改めて協議が行われていた。
委員会は、旧制度から新制度への移行過程を検証するために設置される。
対象となる記録の範囲、関係部署からの資料提出、証言の聴取、調査結果の公表。
決めるべきことは多かった。
ミツオケラ十三世は、会議資料に目を通してから言った。
「調査委員会を設ける以上、委員会には十分な独立性を持たせるべきだろう」
議長菌がうなずいた。
「そのとおりです。委員の選任についても、調査対象となる部署だけで決めることは避けるべきでしょう」
「調査対象となる部署から資料が提出されない場合は、どうする」
ブラウ太郎が尋ねた。
議長菌は、資料の該当箇所を確認した。
「資料提出を求め、必要に応じて再要請を行うことになります」
「再要請しても提出されなかったら?」
「その場合は、未提出であることを記録し、委員会で対応を検討することになります」
「その対応を、誰が決めるんです?」
「委員会です」
「では、委員会が調査を進めるために必要な資料を、調査対象の部署が出さない。その事実を委員会が記録する。しかし、資料を出させる権限がなければ、委員会はそのまま調査を続けるしかない。そういうことですか」
議長菌は、すぐには答えなかった。
ミツオケラ十三世が口を開いた。
「権限を強くしすぎれば、調査が別の政治的目的に利用される危険もある」
「もちろんです」
ブラウ太郎は答えた。
「だから、権限を無制限にすればいいとは言っていません。必要なのは、権限がどこまであるのか、制限がどこにあるのか、その制限を誰が決めたのかを明らかにすることです」
彼は資料を指で押さえた。
「独立していると宣言するだけでは、独立性は生まれません。調査に必要な資料へアクセスできるか。資料を拒否されたとき、その拒否の理由を検証できるか。予算が調査対象の部署に握られていないか。調査結果を公表する際に、誰かが内容を書き換えられないか。そういう仕組みで判断するべきです」
バク長老が、ゆっくりとうなずいた。
「独立性という言葉は便利だ。便利な言葉ほど、具体的な中身を確認しなければならん」
ミツオケラ十三世は、腕を組んだ。
「では、委員会の構成、選任基準、資料へのアクセス、予算、報告書の公表手続き。それぞれについて、独立性を確保する方法と、確保できない部分を明記しよう」
「確保できない部分も、ですか」
議長菌が尋ねた。
「そうだ。できないことを、できるように見せる必要はない」
その言葉を口にしてから、ミツオケラ十三世は、少しだけ視線を落とした。
自分は今まで、どれほど多くのことを、できるように見せてきたのだろう。
人民の声は届いている。
制度は適切に運用されている。
記録は管理されている。
七%には歴史的使命がある。
その一つひとつについて、彼らは説明を用意してきた。
しかし、説明できることと、実際に問題が解決していることは違う。
その違いを認めることは、統治者にとって、思いのほか難しかった。
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会議の終了後、コウシン太郎は、ブラウ太郎に呼び止められた。
「あなたは、今回の調査委員会について、どう考えていますか」
コウシン太郎は、少し考えてから答えた。
「必要な調査だと思っています」
「それだけですか」
「……いや。正直に言えば、怖いところもあります」
ブラウ太郎は黙って続きを待った。
「私は、制度移行の一部を担当していました。あのときの判断を、今になって検証する。資料が出てくれば、私の判断が間違っていたとわかるかもしれない。私が見落としていたことも、誰かに指摘されるかもしれない」
「そうでしょうね」
「あなたは、私が責任を取るべきだと思いますか」
ブラウ太郎は、すぐには答えなかった。
「責任を取るという言葉には、いくつかの意味があります。自分が何をしたのかを説明すること。間違いがあれば認めること。被害や不利益が確認されたなら、可能な限り回復すること。そして、同じことが繰り返されないようにすること」
「辞任や処分は?」
「必要な場合もあるでしょう。ただ、誰か一人を処分して、それで制度が正しくなったことにするなら、それは責任を取ったのではなく、責任の置き場所を一人に決めただけです」
コウシン太郎は、黙って聞いていた。
「あなたが当時、悪意を持っていたとは、私は考えていません」
ブラウ太郎は続けた。
「でも、悪意がなかったという理由で、何も検証しなくてよいとも思いません。あなたが何を考え、何を知っていて、何を知らなかったのか。それを記録に残す必要があります」
「私が知らなかったことまで?」
「ええ。知らなかったことも、重要です」
ブラウ太郎は、廊下の窓へ目を向けた。
「権力を持つ者は、ときどき、自分が知らなかったことを、存在しなかったことにしてしまう。知らなかったのだから責任はない。報告されていなかったのだから問題はない。記録が見つからないのだから確認できない。そうやって、知らなかったことが、いつの間にか、何も起きなかったことに変わってしまう」
「……」
「でも、知らなかったことと、何もなかったことは違います」
コウシン太郎は、先ほど読んだ議事録を思い出した。
《移行完了後、再確認》
あの四文字の中には、彼が知っていたことと、知らなかったことが混在していた。
当時の彼は、移行対象から外れた記録があることを知っていた。
それらを後で確認する必要があることも知っていた。
しかし、その確認が実行されなかったことを、彼は知らなかった。
知らなかったことを理由に、責任をすべて免れることはできない。
だが、知らなかったという事実そのものを隠してしまえば、次に何を改めるべきなのかもわからなくなる。
「私は、委員会にすべてを話します」
コウシン太郎は言った。
「記憶にあることと、資料で確認できることを分けて。わからないことは、わからないと」
ブラウ太郎はうなずいた。
「それが、最初の一歩だと思います」
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数日後、ミツオケラ十三世は、調査委員会の設置に関する最終案を読んでいた。
委員は七名。
任期は六か月。
調査対象は、旧制度から新制度への記録移行過程と、その後の管理状況。
関係部署には資料提出を求めることができる。ただし、提出できない資料がある場合には、その理由を記録する。
委員会は、調査結果を報告書にまとめ、公表する。
中央委員会は、報告書に対して見解を示すことができる。ただし、委員会の原文を書き換えて公表することはできない。
報告書では、確認された事実、証言として得られた情報、確認できなかった事項を区別する。
ミツオケラ十三世は、最後の項目で手を止めた。
確認できなかった事項。
それは、これまでの制度では、できるだけ目立たないように扱われてきたものだった。
わからないことは、保留にする。
保留にしたものは、別途管理する。
別途管理するものは、通常の報告から外れる。
通常の報告から外れたものは、やがて、誰も確認しなくなる。
その流れを、彼らは意図的に作ったのだろうか。
彼には、まだ断定できなかった。
だが、意図的だったかどうかだけを問題にすれば、意図せずに生まれた仕組みの欠陥は、誰も責任を負わないまま残る。
「この委員会は、何を明らかにするのだろうな」
彼は、ひとりごとのように言った。
秘書役の菌が答えた。
「記録移行の過程における問題点と、改善すべき事項を明らかにするものと理解しております」
「問題点が見つからなかったら?」
「その場合は、問題点が確認されなかったという報告になるかと存じます」
「問題点が確認できなかった場合は?」
秘書役は、言葉を止めた。
ミツオケラ十三世は、資料を閉じた。
「その違いを、報告書に残せるようにしてくれ」
「承知しました」
彼は、窓の外を見た。
七%。
彼らは少数だった。
少数であることを、歴史的使命の証拠にしてきた。
多数派が見落とすものを、自分たちは見抜けるのだと。
多数派が流されるものを、自分たちは判断できるのだと。
しかし、少数であることは、正しさの証明ではない。
多数派であることも、正しさの証明ではない。
そして、正しさを主張する者が、記録を管理する者でもあるなら、その記録が何を示し、何を示していないのかを、別の誰かが確かめる必要がある。
彼は、委員会の設置案に署名した。
署名したからといって、委員会が完全に独立するわけではない。
署名したからといって、過去の問題が解決するわけでもない。
それでも、署名しなければ始まらないことがある。
ミツオケラ十三世は、そのことを、今度こそ忘れないようにしようと思った。
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旧記録移行検証委員会の初会合は、翌週に開かれた。
委員長に選ばれたのは、過去の制度移行に直接関与していない記録研究者だった。
委員には、記録管理の専門家、行政手続きの研究者、地域代表、そして名無しの七号が含まれていた。
名無しの七号は、委員に選ばれたことを、まだ十分に実感できていなかった。
彼は、これまで何度も意見を提出してきた。
意見は受理された。
番号が付けられた。
処理済みになった。
しかし、何が変わったのかは、わからなかった。
今度は、意見が処理される仕組みそのものを調べる側に座る。
それは、彼にとって奇妙な経験だった。
委員長は、会議の冒頭で述べた。
「私たちの仕事は、あらかじめ誰かを悪者に決めることではありません。また、制度が適切だったと証明することでもありません。確認できることを確認し、確認できないことを確認できないまま明記する。そのうえで、何が起きたのか、何が起きた可能性があるのか、何を今後改善すべきなのかを整理します」
名無しの七号は、その言葉を記録した。
委員長は続けた。
「記録は、常に真実そのものではありません。記録が残っているからといって、そこに書かれたことがすべて正しいとは限らない。一方で、記録が見つからないからといって、出来事がなかったとも限りません」
彼は、少し間を置いた。
「そして、当時の担当者に善意があったからといって、その記録の作り方や管理の仕方が適切だったと証明されるわけでもありません」
名無しの七号は、ペンを止めた。
それは、この委員会が、これまでの中央委員会の説明とは少し違う場所から始まろうとしていることを示していた。
ただし、言葉が違うだけで、実際の運用が変わるとは限らない。
彼は、そのことも記録しておいた。
会議では、調査の初期方針が決められた。
第一に、旧制度と新制度の記録番号を照合する。
第二に、移行対象外とされた記録の一覧を確認する。
第三に、対象外となった記録について、移行後に再確認が行われたかを調べる。
第四に、確認できなかった場合には、その理由と、確認を試みた範囲を記録する。
第五に、中央委員会と記録管理局から提出された資料だけでなく、意見提出者自身が保管している受領証、控え、通知文書なども、検証の対象として扱う。
最後の項目が読み上げられたとき、名無しの七号は顔を上げた。
ブラウ太郎と彼が集めてきた記録も、ようやく検証の対象として扱われることになる。
ただし、それらが公的な記録と一致するかどうかは、まだわからない。
一致しない場合、どちらが正しいのかも、すぐには判断できない。
だからこそ、照合が必要なのだった。
委員長は、最後にこう述べた。
「私たちは、正しい記録を作ることを目指します。ただし、ここでいう正しい記録とは、私たちの判断が正しいと証明するための記録ではありません。私たちが何を確認し、何を確認できず、どこで判断を保留したのか。そのすべてを、後から検証できる形で残す記録です」
会議が終わったあと、名無しの七号は、手元のノートを開いた。
そこには、これまでに出会った人々の言葉が記されていた。
受領証を持っている人。
回答通知を持っている人。
何度も窓口へ通った人。
自分の意見が、どこへ移されたのかを知らない人。
彼らの記録は、まだ公的な台帳の中では、十分に位置づけられていない。
しかし、記録がないからといって、彼らが存在しなかったことにはならない。
名無しの七号は、ノートの最後に一行を書き加えた。
《記録が正しいかどうかを調べる者もまた、記録に残されなければならない》
彼は、その一行をしばらく見つめていた。
調査委員会が正しい判断をするとは、まだ限らない。
委員会が資料を十分に集められるとも限らない。
六か月の任期で、すべての問題が明らかになるとも限らない。
それでも、調査する者の判断もまた、後から検証できるようにしておく。
その仕組みがなければ、委員会は、いつか新しい権威になるかもしれない。
正しさを調べるために設置された委員会が、自らの正しさを疑わなくなる。
そのとき、彼らもまた、かつての中央委員会と同じ言葉を使い始めるのかもしれない。
名無しの七号は、ノートを閉じた。
正しい記録を作ることは、簡単ではない。
正しいと信じる記録を作ることなら、もっと簡単だ。
自分たちの判断に都合のよい事実を並べ、都合の悪い部分を保留にし、保留にしたものを別途管理する。
それだけで、記録は、いくらでも整然とした姿を見せる。
しかし、整然としていることと、正しいことは違う。
そして、正しい記録を作る者が、自分たちの判断を検証する仕組みまで作れるかどうか。
それこそが、次の問題になろうとしていた。




