第2話『正解』 ~section 3:秒針の調律と、番組ジャック~
月見坂放送局・第一スタジオ。国民的人気番組『VIP歴史ミステリー』の収録現場は、完全に氷河期を迎えていた。
数百個の強烈なLED照明が、偽りの歴史を語るはずだった『新品の麻網』と、それを白日の下に晒した如月瑠璃の姿を白々と照らし出している。
バラエティ番組における『暗黙の了解』という名の薄氷は、如月さんの特異な物理的観察眼によって無残に叩き割られた。テレビ局の美術スタッフが数日前にコーヒーで煮込んで作ったエイジング加工の小道具を、本物の歴史的遺物として紹介してしまったという事実は、もはや笑いやツッコミで回収できるプロレスの範疇を完全に超えている。
これは『ヤラセ』の明白な暴露であり、番組の信頼性を根底から破壊する致命的な放送事故であった。
解答者席のデスクの下、カメラの死角という名の密室に身を潜めている僕の右耳のインカムからは、サブコントロールルームにいる泊ディレクターの悲鳴のような絶叫が、ノイズ混じりに鳴り響き続けている。
『カメラ止めろ! 止めろォォォッ!! VTR回すな! 音声切れ!!』
その怒号は、インカムを通じて現場のフロアディレクターにも伝達された。
「カット! カットォォ! 一旦収録止めます! 照明少し落として!」
フロアディレクターが両手で大きくバツ印を作り、カメラマンたちが一斉にレンズを下へ向けた。スタジオを包んでいた軽快なBGMがブツリと途切れ、張り詰めた沈黙と、スタッフたちの慌ただしい足音だけが虚飾の空間に響き渡る。
ひな壇に並ぶ豪華なゲストたちは、誰も口を開くことができなかった。
MCであるハンバーガーマンのあきお氏とたかし氏でさえ、この前代未聞の事態を前に完全に言葉を失い、額に冷や汗を浮かべて立ち尽くしている。彼らは数々の修羅場を潜り抜けてきたトップ芸人だが、ゲストの令嬢が『番組のヤラセを物理的な証拠付きで完全論破する』などという事態は、彼らの引き出しのどこを探しても対処法が存在しなかったのだろう。
先ほどまで僕の癒やしであった超人気女優の星野きららちゃんも、完全に怯えた表情で隣の大物俳優の背中に隠れるように身を縮めている。
「ど、どうするんだこれ……スポンサーにバレたら番組降板どころの話じゃないぞ……」
「BPO案件だろ、完全に……。ネットで炎上したら一発で終わる……」
周囲のスタッフたちが青ざめた顔で囁き合う声が、デスクの下の僕の耳にもはっきりと届いてきた。
その時だった。
スタジオの袖、カメラの機材裏で台本とカンペを抱えて立っていた新人ADの桜野さんが、突如としてその場に崩れ落ちたのだ。
「ひゅっ……は、あ……っ……」
桜野さんの口から、空気を求めるような、引きつった異常な呼吸音が漏れた。
彼女は床に両手をつき、肩を激しく上下させながら、自身の喉を掻き毟るような仕草を見せている。顔面は蒼白を通り越して土気色になり、瞳孔は大きく見開かれたまま焦点が定まっていない。
「おい、桜野!? どうした、しっかりしろ!」
「過呼吸だ! 誰か、紙袋か何か持ってこい! 救護スタッフを呼べ!」
フロアディレクターと数名のスタッフが慌てて駆け寄るが、桜野さんのパニック状態は全く収まる気配を見せなかった。
無理もない。彼女は入社一年目の新人でありながら、この如月コンツェルン特番の企画を立ち上げた張本人なのだ。そして、本来であれば保険金を払って本物の骨董品を借りるべきところを、予算と手間を削減するために『美術さんに精巧な偽物を作ってもらう』という安易な妥協案に加担したのも、彼女を含む制作陣であったのだろう。
自分の企画した番組で、自分の用意した小道具が原因で、国民的番組が打ち切りの危機に瀕している。その想像を絶するプレッシャーと罪悪感、そして今後のテレビマンとしてのキャリアが完全に絶たれたという絶望が、彼女の精神を許容量の限界を超えて破壊したのだ。
「はぁっ……ひゅっ……わたし、わたしのせいで……番組が……っ」
桜野さんの過呼吸は悪化する一方だった。周囲のスタッフが背中を擦り、「落ち着け、ゆっくり息を吐け」と声をかけるが、パニックに陥った人間の耳には、他人の切羽詰まった声など更なるノイズにしかならない。
デスクの下からその光景を見ていた僕は、いてもたってもいられず這い出そうとした。だが、僕が出たところで医学的な知識があるわけでもなく、ただ現場の混乱を助長するだけだという無力感に苛まれる。
その最悪の混乱の中、解答者席のデスクの横に立っていた如月さんが、静かに動いた。
「……やかましいのう。たかが紛い物が露呈した程度で、見苦しい悲鳴を上げるでない」
如月さんは、漆黒のオーガンジーのドレスの裾を翻し、解答者席の段差をゆっくりと降りた。
百四十七センチという小柄な体躯。しかし、彼女が一歩前に進み出るごとに、周囲のスタッフや、ひな壇の芸能人たちまでもが、目に見えない強烈な重圧に押し退けられるように道を譲った。誰も彼女を止めることができない。彼女の放つ冷徹な威厳は、このパニック状態のスタジオにおいて、唯一の絶対的な中心点として存在していた。
「お、お嬢様……? 危ないですから、下がって……」
フロアディレクターが震える声で制止しようとするが、如月さんは彼を一瞥することもなく、床に蹲って過呼吸を起こしている桜野さんの目の前に立った。
如月さんは、苦しそうに喉を鳴らす桜野さんを見下ろした。
そのアメジストの瞳には、同情や憐憫といった温かな感情は一切存在していない。彼女の持つ『情動の視座』は、桜野さんが現在抱いている恐怖、絶望、そして自己保身が崩れ去ったことへの強烈なパニックを、極めて論理的かつ冷徹に読み取っていた。
「自分の用意した虚飾が暴かれ、築き上げた砂上の楼閣が崩れ去るのが恐ろしいか。お主のその無様な呼吸の乱れは、己の保身と責任への恐怖が引き起こした、極めて利己的な身体反応に過ぎぬ」
如月さんの言葉は刃のように鋭く、手痛い真実を容赦なくえぐり出した。
しかし、彼女はただ冷酷に桜野さんを糾弾したわけではなかった。
如月さんは、ドレスの腰のベルトから、重厚な銀のチェーンに繋がれた『懐中時計』を静かに取り出したのだ。
カチャリ、と。
銀の蓋が開く冷たい金属音が、騒然とするスタジオの空気を一瞬だけ切り裂いた。
如月さんは、純白の手袋をはめた手でその懐中時計を顔の高さに持ち上げると、過呼吸で痙攣する桜野さんの耳元へと近づけた。
「……目を開けて、この音を聞くのじゃ。現世の愚鈍なノイズを遮断し、ただこの規則正しい時の刻みのみに意識を委ねるのじゃ」
如月さんの静かで、しかし絶対的な命令を含んだ声。
桜野さんが、涙と汗に塗れた顔を僅かに上げ、如月さんの手にある銀の時計を見つめた。
チッ、チッ、チッ、チッ……。
静寂を取り戻しつつあるスタジオの片隅で、機械式時計の秒針が刻む音が、驚くほど鮮明に響き始めた。
それは、如月さんが常に自身の思考を深く潜行させ、『モノのルーツ』を読み解くために使用する『調律』の儀式。
彼女の時計の秒針の音には、魔法やオカルトの類は一切存在しない。ただ、極めて精巧に作られた機械が放つ、寸分の狂いもない一定のリズムの連続があるだけだ。
しかし、その『絶対的な規則性』こそが、パニックを起こして心拍数と呼吸が暴走している人間にとっては、最も強力なアンカーとなる。
「息を吸うのではなく、吐き出すことに集中するのじゃ。この秒針が三つ刻む間に息を吐き、二つ刻む間に自然に空気を取り込め。……一、二、三。……一、二」
如月さんは、桜野さんの乱れた呼吸のリズムを強制的に上書きするように、冷徹で低い声でカウントを取り始めた。
チッ、チッ、チッ。
「吐け」
チッ、チッ。
「吸え」
桜野さんの身体がビクッと跳ねる。しかし、如月さんのアメジストの瞳に見据えられ、その冷たくも確固たる声と時計の音に包み込まれることで、彼女の意識は『番組の崩壊』という巨大な恐怖から、『目の前の秒針の音と呼吸』という極小の現実へと強制的に引き戻されていった。
如月瑠璃の調律は、対象者の感情に寄り添うものではない。対象者のパニックという『バグ』を、時計のリズムという『物理的なフォーマット』によって強制的に再起動させる、極めて理知的なハッキングのような行為だった。
「ひゅっ……ふぅー……はぁー……」
数十秒が経過した頃、桜野さんの喉から鳴っていた異常な引きつけ音は消え、荒かった呼吸が、時計の秒針のリズムに合わせて徐々に深さを取り戻していった。
顔の土気色が少しずつ抜け、瞳孔に焦点が戻ってくる。過呼吸の発作が、完全に治まったのだ。
「……ご、ごめんなさい……如月お嬢様……わたし……」
桜野さんが、力なく床にへたり込んだまま、掠れた声で謝罪した。
如月さんは懐中時計の蓋をパチンと閉じ、ドレスの腰に仕舞うと、桜野さんを見下ろしたまま冷ややかに言い放った。
「謝罪など不要じゃ。わしはお主の耳障りな呼吸音が不快であったから、それを物理的に修正したに過ぎぬ。お主の抱える責任や恐怖に共感したわけではない」
相変わらずの、身も蓋もない言い草だった。だが、その冷徹さこそが、今の桜野さんにとっては過剰な同情よりも遥かに救いになっていたはずだ。
周囲のスタッフたちが、安堵の息を長く吐き出す。
フロアディレクターが「よかった……桜野、少し休んでいろ」と肩を貸して彼女を袖へと下がらせた。
しかし、桜野さんのパニックが収まったところで、番組が直面している『ヤラセ発覚による進行不可能な放送事故』という最大の問題は、何一つ解決していない。
ひな壇の芸能人たちは依然として沈黙し、MCのハンバーガーマンの二人も、どうやってこの場を収拾すべきか打開策を見出せずに立ち尽くしている。
右耳のインカムからは、泊ディレクターの『どうする……もう終わりだ、収録中止だ……』という、魂の抜けたような呟きが聞こえていた。
スタジオ全体が『番組の死』を受け入れようとした、まさにその時だった。
「まったく。お主らは、実に滑稽な生き物じゃな」
如月瑠璃が、スタジオの中央、煌々とした照明が降り注ぐ展示台の前に立ち、凛とした声を張り上げた。
その声は、絶望に沈むスタジオの空気を、鋭いガラスの破片で切り裂くかのように響いた。
如月さんは、ひな壇の芸能人たち、カメラマン、そしてサブコントロールルームのディレクターに向かって、挑戦的な視線をぐるりと巡らせた。
「偽物の小道具が一つ露呈した程度で、世界が終わったかのように喚き散らし、絶望の淵に沈む。お主らの作る『テレビ』という世界は、それほどまでに脆弱な土台の上に築かれておるのか」
「お、お嬢様……」
あきお氏が、戸惑いながら声を絞り出す。
「ですが、歴史番組でクイズの題材が偽物だったとなれば、それはもう番組として成立しないんです。視聴者を騙すことになりますから……」
「騙す、じゃと? 笑わせるな」
如月さんは、純白の手袋をはめた手で、アクリルケースの中にある偽物の網を指差した。
「最初から答えの用意されたクイズ。台本通りに進行するだけの会話。歴史の重みすらもコーヒーの染みで作り出す世界。お主らが日常的に行っているそのすべてが、視聴者を騙す『ごっこ遊び』ではないか。今更、一つの小道具が偽物であったからといって、何を狼狽える必要があるのじゃ」
如月さんの言葉は、テレビというメディアが抱える『演出という名の虚飾』という本質を、根本から否定する猛毒であった。ひな壇の芸人たちが息を呑むのが、デスクの下のモニター越しにも分かった。
「わしは言ったはずじゃ。クイズという知的遊戯そのものを否定するつもりはない、とな。だが、お主らの用意した『偽物の問い』に答える義理はない」
如月さんは、アメジストの瞳を細め、唇の端を吊り上げて、この上なく不敵に微笑んだ。
それは、これから始まる絶対的な支配の宣言だった。
「あらかじめ答えの用意された『ごっこ遊び』など愚鈍の極み。ならば、この番組のルールは今この瞬間から、わしが書き換えてやる。お主らがこのスタジオに用意した、次なる『歴史のミステリー』とやらをすべてここに持ってくるが良い」
如月さんは、両手を広げ、スタジオのすべてを睥睨した。
「わしが、この箱庭に持ち込まれるすべてのモノの『真の問い』を立ててやる。それが偽物であろうと本物であろうと、モノの傷跡に刻まれた物理的真実と情動だけは、決して嘘をつかぬ。さあ、この遊戯の続きを始めるのじゃ。カメラを回せ。わしの前で、これ以上の虚飾は一切許さぬ」
完璧な、番組ジャックだった。
国民的人気番組のスタジオは、ディレクターの演出でも、MCの回しでもなく、十六歳の令嬢によって完全に支配された。
圧倒的なカリスマ性と、真実のみを追求する冷徹な論理。誰もが、彼女のその気高い姿から目を離すことができなかった。
僕はデスクの下の暗がりで、口をポカンと開けたまま、如月さんの背中を見上げていた。
これは、マズい。いや、マズいなんてもんじゃない。
彼女は本気で、この番組の進行を乗っ取り、テレビ局が用意したすべての小道具の『真実』を暴き立てるつもりだ。もしそんなことをそのまま放送すれば、ヤラセの発覚どころか、テレビ局そのものが破滅する。
どうする。どうすればいい。
僕は震える手で、足元に置いてあったスタッフ用のスケッチブックと太いマジックペンを引っ張り出した。
如月さんの鑑定は、もう誰にも止められない。ならば、彼女の暴走を『止める』のではなく、彼女のその異常な行動そのものを、『テレビ番組の枠組みの中』に強引に組み込むしかない。
僕の視線の先には、同じく呆然と立ち尽くしているハンバーガーマンの二人がいた。
彼らはプロだ。どんな絶望的な状況でも、笑いに変えることのできるトップの芸人だ。
僕は一縷の望みを託し、極度のプレッシャーで胃液を逆流させそうになりながら、スケッチブックに文字を書き殴り始めた。
如月瑠璃の真実への執着と、テレビという虚飾の怪物を調和させるための、一世一代の大嘘を構築するために。




