第2話『正解』 ~section 2:新品の歴史と、凍りつくひな壇~
月見坂放送局・第一スタジオの中央に、床下の奈落からゆっくりとせり上がってきた円形の特設展示台。
その上にうやうやしく置かれていたのは、四方をアクリルガラスで保護された、赤茶けた古い網だった。
無数のトップライトがその展示物を照らし出すと、スタジオの観客席からは、仕込みではない本物の「おおーっ」というどよめきが漏れた。
「さあ、皆様! 本日の第一問を飾る歴史的遺物はこちらです!」
MCである『ハンバーガーマン』のツッコミ担当、金髪で強面のあきお氏が、よく通る声でスタジオの空気を惹きつけた。
「月見坂市が現在のようなピカピカのスマートシティになるずっと昔。この地がまだ、海風吹き荒れる名もなき小さな漁村だった頃に、村の男たちが実際に使っていたとされる伝説の『大漁網』でございます!」
「いやー、あきおさん。これは凄いですね。見るからにボロボロですよ」
相方であるボケ担当、少し小太りで愛嬌のあるたかし氏が、展示台の周りをぐるぐると歩きながら、大げさなリアクションをとる。
「なんというか、歴史の重みを感じますね。これ、近づくと潮の香りが……いや、なんか微妙にコーヒーみたいな匂いがするような気が……」
「気のせいだよ! 漁村でコーヒー豆でも獲ってたのかお前は! 昔の人の汗と潮風が染み込んでんだよ!」
あきお氏の鋭いツッコミに、ひな壇のゲストたちと観客がドッと沸く。
僕は解答者席のデスクの下――カメラの死角という名の密室で、体育座りのままその完璧なやり取りを聞いていた。
さすがは国民的番組のMCだ。単なるクイズの出題すら、極上のエンターテインメントに昇華させている。
ひな壇のゲストたちも、プロの仕事を見せていた。若手お笑いトリオが「これ、俺らの劇場の楽屋のカーテンよりボロいっすよ!」と声を張り上げ、大物俳優が「昔の道具というのは、魂が宿っているものだ」と渋い声で唸る。超人気女優の星野きららちゃんは、「なんだか、昔の人たちのロマンを感じますね……」と、キラキラした瞳で完璧なコメントを残していた。
デスクの下のモニター越しでも、きららちゃんの可愛さは破壊的だった。僕は薄暗い空間で、「生きててよかった……」と再び手を合わせた。
「さあ、それでは皆様に問題です!」
あきお氏がカメラに向かってビシッと指を差す。
「この網は、当時の漁師たちが『ある特別な素材』を麻糸と一緒に編み込んで作っていたため、どれほど荒れた海でも、大物の魚がかかっても、決して破れることはありませんでした。さて、その『特別な素材』とは、いったい何だったでしょうか!? 皆さん、お手元のフリップにお答えをお書きください! シンキングタイム、スタート!」
焦燥感を煽るような、しかしどこかコミカルなBGMがスタジオに鳴り響く。
ひな壇の芸能人たちが、一斉にフリップにペンを走らせ始めた。
若手芸人たちは『クイズ番組のセオリー』に従い、一問目から正解を狙うのではなく、いかに面白いボケを回答してMCに突っ込まれるかを競っている。『ワカメ!』『鉄人のパーツ!』『たかしさんの腹の肉!』といった珍回答が次々とフリップに書かれていくのが、モニター越しに見えた。
だが、僕の頭上――VIP解答者席の『チーム如月』の様子は、バラエティのそれとは全く異なっていた。
姉の翡翠さんは、月見坂市の郷土史データベースや過去の番組の出題傾向、さらには民俗学の統計データを一瞬で計算し、流れるようなペン捌きでフリップに何かを書き込んでいた。おそらく、テレビ局が用意した『台本通りの正解』をすでに導き出しているのだろう。
しかし、妹の如月瑠璃は違った。
彼女は、解答を書くためのサインペンにもフリップにも一切手を触れず、ただじっと、十メートルほど先にある展示台の上の『漁師の網』を冷ややかなアメジストの瞳で睨みつけていた。
「……」
嫌な予感がした。
僕の右耳のインカムから、サブコントロールルームにいる泊ディレクターの『お嬢様、なんで書かないんだ!? 朔くん、なんとかしろ!』という苛立った声が聞こえてくる。
僕はデスクの下から、如月さんの編み上げブーツのつま先を指でトントンと叩こうとした。
だが、僕の指がブーツに触れる直前、如月さんは無言で椅子から立ち上がったのだ。
「えっ……お、お嬢様? どうされました?」
突然解答者席を離れた如月さんに、進行のあきお氏が目を丸くして問いかける。
ひな壇の芸能人たちも、何事かと一斉に視線を向けた。
如月さんは漆黒のオーガンジーのドレスの裾を揺らしながら、迷いのない足取りでスタジオの中央――展示台の前へと歩み出た。
強烈なLED照明が、彼女の白く透き通るような肌と、底知れぬ深さを持つ紫の瞳を鮮明に照らし出す。その姿は、バラエティ番組のポップなセットの中にあって、あまりにも異質で、圧倒的なまでの威厳を放っていた。
「お主らが用意したという歴史の残骸。いかほどのものか、少し近くで見させてもらうぞ」
如月さんはそう言い放つと、ドレスの隠しポケットから『純白の手袋』を取り出した。
ゆっくりと、まるで神聖な儀式でも行うかのように、両手に手袋を装着していく。続いて、重厚な銀のルーペを取り出した。
その常軌を逸した行動に、スタジオの空気が一瞬だけ固まる。
「いやいやいや! お嬢様!?」
あきお氏が、慌ててツッコミを入れた。
「ちょ、何を取り出してんですか! 白手袋にルーペって、ガチの鑑定士じゃないですか! バラエティ番組ですよこれ!? そんな本格的に見られたら、美術さんがビビっちゃいますから!」
「そうですよ瑠璃様! 遠くから見て、なんとなくインスピレーションで答えてもらうのがクイズですから!」
たかし氏も必死にフォローに回る。彼らの卓越した腕によって、如月さんの異常行動は『お嬢様の天然なマジメさ』という笑いのベクトルへと変換されそうになっていた。観客席からも、クスクスという笑い声が漏れ始めている。
だが、如月瑠璃の世界において、他人の作った空気など微塵も意味を持たない。
彼女はMCの言葉を完全に無視し、アクリルケースに顔を限界まで近づけ、ルーペを右目に当てた。
そして、その『物理的観察眼』を極限まで研ぎ澄ませた。
「……ほう」
数秒の観察の後、如月さんの形の良い唇から、氷のように冷たい吐息が漏れた。
僕はデスクの下で、絶望に目を閉じた。ああ、終わった。
彼女のその声色は、対象物のルーツを完全に解き明かし、かつ、そのルーツが『くだらない偽物』であった時に見せる、特有の軽蔑を含んでいたのだ。
「あー、お嬢様? そろそろお席に戻ってフリップに……」
あきお氏が進行を戻そうとしたその瞬間。
「愚鈍じゃな」
如月さんの凛とした声が、スタジオに響き渡った。
BGMが止まったわけでもないのに、その声は不思議なほどはっきりと、マイクを通さずに全員の耳に届いた。
「歴史の重みじゃと? 伝説の網じゃと? お主らテレビという箱を作る人間は、ここまで視聴者を……いや、歴史というものを舐め腐っておるのか」
如月さんはルーペを外し、冷徹な視線であきお氏とたかし氏を射抜いた。
MCの二人も、さすがにその尋常ではないプレッシャーに笑顔を引きつらせる。
「る、瑠璃様? いったい何が……」
「この網に編み込まれた特別な素材を当てろというのが、お主らの用意した問いであったな。わしが今から、その答えを教えてやろう」
如月さんは純白の手袋で、アクリルケースをコン、と叩いた。
「結論から言おう。この網には、歴史的な素材など何一つ編み込まれてはおらぬ。それどころか、この網自体が歴史の欠片すら持たぬ、薄汚い『新品の偽物』じゃ」
――ピタリ、と。
スタジオ内の空調の音すら消えたかのような、完全な静寂が訪れた。
ひな壇の芸能人たちは、目を見開き、口を半開きにしたまま完全にフリーズしている。星野きららちゃんの笑顔も、見事に凍りついていた。
国民的クイズ番組の、目玉となる歴史的遺物を、VIPゲストがカメラの真ん前で『新品の偽物』と断定したのだ。バラエティにおけるプロレスの範疇を完全に超えた、番組の根幹を揺るがす「ガチの告発」だった。
「な、なにを言っているんですかお嬢様! 偽物なわけないじゃないですか!」
あきお氏が、必死に笑いを取り戻そうと声を張り上げる。
「これ、市の歴史博物館の奥底から、プロデューサーが土下座して借りてきた超貴重なホンモノですよ!? ほら、このボロボロの具合! 潮風に吹かれて、何十年も使われたからこその劣化ですよ!」
「左様。その『劣化具合』こそが、このモノが偽物である最大の証拠じゃ」
如月さんは一歩も引かず、冷淡に事実を突きつける。
「見てみるがよい。この網の素材は確かに麻糸じゃが、何十年も海水と紫外線に晒された本物の麻であれば、繊維の主成分であるセルロースが分解され、もっと不規則に毛羽立ち、強度が落ちてちぎれている箇所が多数あるはずじゃ。だが、この網はどうだ? 全体的に不自然なほど均等に擦れておる。これは自然の劣化ではない。ワイヤーブラシかサンドペーパーのようなもので、意図的かつ人工的に表面を削って『古いように見せかけた』だけの傷跡じゃ」
「い、いやいや! それは、昔の漁師さんが丁寧に手入れしてたから……」
「さらに決定的な物理的矛盾がある」
如月さんは、網の結び目の一つをルーペ越しに指差した。
「この麻糸の網目を繋いでいる補修部分。よく見れば、麻糸に混じって、極めて細く均一な『ポリエステル製の工業用ミシン糸』が使われておる。ポリエステル糸の一般普及は、月見坂が漁村であった時代よりもずっと後じゃ。過去の漁師が未来の化学繊維を使って網を直したとでも言うのか?」
「ぽ、ポリエステル……!?」
「極めつけは、この赤茶けた『汚れ』じゃ。先ほど、そこの少し恰幅の良い男が『コーヒーのような匂いがする』と言ったな。あれは冗談でも気のせいでもない。極めて正確な嗅覚じゃ」
如月さんの視線を受け、たかし氏が「えっ? 俺?」と間抜けな声を出す。
「古い麻布を年代物に見せかけるためのエイジング加工……いわゆる『汚し塗装』の常套手段じゃな。濃く煮出したコーヒーや紅茶、あるいは薄めた化学染料に生地を浸して煮込み、着色する。この網からは、海の塩の結晶も、プランクトンの死骸の匂いも一切検出されぬ。するはずがない。なぜならこれは、数十年前に海に投げ込まれたものではなく、ほんの数日前に、テレビ局の空調の効いた小道具部屋で、コーヒーに浸されて作られた『出来立てホヤホヤの小道具』だからじゃ」
完全なる、公開処刑だった。
如月瑠璃の特異な『物理的観察眼』は、テレビ局の美術スタッフが精魂込めて作り上げた『もっともらしいエイジング加工』の粗を、容赦なく、顕微鏡レベルの解像度で暴き出してみせたのだ。
カメラの駆動音だけが、不気味にスタジオに響き渡っている。
「……」
あきお氏もたかし氏も、もはやツッコミを入れることすらできず、沈黙してしまった。
プロの芸人である彼らには、瞬時に分かってしまったのだ。如月さんの言葉が、バラエティを盛り上げるための『ボケ』などではなく、ぐうの音も出ない『絶対的な事実』であることを。
番組の前提である『歴史のミステリー』が、テレビ局側の『ヤラセ』という最低の形で崩壊した瞬間だった。
ひな壇のゲストたちは、「マジかよ……」「え、これ放送できるの……?」と、顔を見合わせてヒソヒソと囁き合っている。現場の空気は、マイナス数十度まで冷え切っていた。
その時、僕の右耳に装着されたインカムから、鼓膜が破れるほどの爆音が響いた。
『さくぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ!!!!』
サブコントロールルームにいるディレクターの泊氏の、発狂したような絶叫だった。
『お前! 何やってんだお前ェェェ!! なぜ止めなかった!! 止めろって言っただろうが!!』
「い、いや、止めようとしたんですけど……!」
僕はデスクの下で、必死に声を殺してインカムに弁明する。
『番組の根幹が揺らぐだろ!! 博物館から本物の網を借りるのに保険金が数百万かかるから、予算削減のために美術さんにソックリなやつを作ってもらったんだよ!! それをカメラの前で『小道具』だなんて暴露されたら、うちの番組はヤラセ番組としてBPO行きだ!! 終わった……俺のディレクター人生は終わったんだ!!』
泊氏の絶望に満ちた叫びが、脳髄をガンガンと揺らす。
僕は胃から込み上げてくる強烈な酸の味を飲み込みながら、デスクの隙間から、誇り高く立つ如月さんの後ろ姿を見上げた。
「……さあ、どうした。歴史のミステリーとやらはこれで終わりか?」
如月さんは純白の手袋を外し、凍りついたスタジオの中心で、誰よりも美しく、誰よりも残酷に微笑んだ。
「お主らが用意した『偽物の問い』は崩壊した。歴史を騙る薄汚い虚飾の布切れを使って、視聴者にいかなる感動を押し付けようとしていたのかは知らぬが……真実の重みを持たぬモノなど、わしの前では塵芥にも劣る」
誰も、彼女に反論できる者はいなかった。
国民的人気番組のスタジオは、一人の令嬢の持つ圧倒的な『真実』の前に、完全に沈黙し、機能停止に陥っていた。
僕はデスクの下の暗闇で、この圧倒的な放送事故をどうやってリカバリーすればいいのか全く見当もつかず、ただ冷や汗を流しながら震えることしかできなかった。




