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第14巻:如月令嬢は『電波の虚飾を信じない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『演出』 ~section 5:斜陽のフェイクと、現在を呼吸する石~

 月見坂市が誇る最新鋭のスマートシティ区画から少し離れた西側の高台に、『如月記念公園』と呼ばれる広大な緑地帯が存在する。

 ここは今から八十年前、如月コンツェルンの創業者が月見坂の土地開発に着手した際、最初に買い取ったとされる『始まりの丘』であった。現在では、都市の喧騒を物理的に遮断する分厚い防音林と、計算された日照角度で四季折々の花が咲き乱れる遊歩道が整備され、市民の憩いの場として無料開放されている。

 特番撮影の第一日目、ドキュメンタリーの大トリを飾る『感動的なラストシーン』の舞台として、ディレクターの泊氏がこの場所を選んだのは、テレビ的な演出意図からすれば極めて必然的かつ、ベタな選択だった。


 時刻は午後五時を過ぎ、空は燃えるような茜色に染まり始めていた。

 いわゆる『マジックアワー』と呼ばれる、映像が最もドラマチックに、そして美しく映る奇跡の時間帯である。夕日が月見坂市の無機質な摩天楼のシルエットを黒々と浮かび上がらせ、公園の木々の葉脈を黄金色に透かしている。

 その丘の最も見晴らしの良い頂上に、ひっそりと、しかし厳かに設置された一つの石碑があった。

 高さ一メートルほどの、粗削りな花崗岩(かこうがん)でできたそのモニュメントは、公式の案内板によれば『創業の礎石』と呼ばれている。八十年前、創業者がこの荒野に立ち、未来の繁栄を誓って自らの手で最初に置いたとされる、如月コンツェルンにとっての神聖な原点だ。


「さあ、急げ! 太陽が沈むまであと十五分もないぞ! 照明、夕日の赤みを殺さない程度に薄く当てろ! クレーンカメラは上空からなめるように降りてこい!」


 疲労困憊のスタッフたちとは対照的に、泊氏のテンションは異常な高みに達していた。彼の目には血走った執念が宿り、拡声器を握る手は興奮で微かに震えている。


「いいか、朔くん! ここが第一話のクライマックスだ! この特番のテーマである『伝統と情熱』を、映像の力で視聴者の脳裏に焼き付ける! ……お嬢様! 準備はよろしいですか!」


 泊氏は、丘の頂上に立つ如月さんに向かって叫んだ。

 如月さんは、夕日を背にして静かに佇んでいた。ミッドナイトブルーのアフタヌーンドレスが風に揺れ、彼女の漆黒のストレートヘアが茜色の光を受けて微かに赤銅色に輝いている。その姿は、この広大な風景の中で誰よりも小柄であるにもかかわらず、誰よりも圧倒的な存在感を放っていた。

 僕はカメラの画角外である植込みの陰に座り込み、水筒のぬるい麦茶を飲みながら、虚ろな目でその光景を見つめていた。僕の精神力は、午前中の『茶碗の貫入』から始まり、『マカダミアナッツ粉砕測量計』、そして『姉妹のガバナンス大喧嘩』の翻訳作業によって、すでに致死量に達している。


「お嬢様、カメラが回りましたら、ゆっくりとあの『創業の礎石』に歩み寄ってください! そして、粗削りな石の表面にそっと両手を触れ、目を閉じるんです!」


 泊氏が、自ら書き上げた完璧な台本を熱唱するように読み上げる。


「八十年前、曾祖父君はこの場所で、荒れ果てた大地を前に悔し涙を流し、そして希望の涙を流しました! その熱い情動が、この礎石には染み込んでいる! お嬢様はその石を通して、偉大なる創業者の魂と対話するのです! そして、目を開け、夕日に向かって力強く頷いてください! 『おじいさまの夢は、私たちが永遠に守り抜きます』という、心の声が視聴者に聞こえるような、そんな奇跡の表情を長回しで撮ります! さあ、行きましょう! 最高の感動を! 3、2、1……キュー!!」


 クレーンカメラが滑空し、映画のワンシーンのような壮大なアングルで如月さんを捉えた。

 如月さんは、泊氏の指示通りにゆっくりと『創業の礎石』に向かって歩み寄った。彼女の優雅な足取りに、泊氏が「いいぞ、完璧だ……」と恍惚とした声を漏らす。

 礎石の前に立った如月さんは、しかし、両手で石に触れて目を閉じることはしなかった。

 彼女はドレスのポケットから、静かに『純白の手袋』を取り出したのだ。


 僕の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。

 まただ。この夕暮れの最高のシチュエーションで、彼女はまた『モノのルーツ』を暴こうとしている。身内のコンツェルンが管理する公園の石碑であるためか、彼女は懐中時計での調律という深い潜行の儀式は行わなかった。彼女にとって、この程度の石の表面を読み取るのに、深い調律は必要ないのだろう。

 如月さんは純白の手袋を両手にはめると、使い込まれた銀のルーペを取り出し、礎石の表面――曾祖父の涙が染み込んでいるとされる、その荒々しい岩肌に顔を近づけた。


「……お嬢様? ルーペは台本にありませんよ! 石に手を触れて、目を閉じて……!」


 泊氏が焦ったように声を上げるが、如月さんは完全に無視し、ルーペ越しに花崗岩の微細な凹凸を舐め回すように観察し始めた。


「感動の涙じゃと? 魂との対話じゃと? お主の頭の中は、三流のロマンス小説で埋め尽くされておるのか」


 如月さんの冷え切った声が、夕暮れの公園に響き渡った。

 彼女は白手袋の指先で、石の表面をスッと撫でた。


「お主はこの石を、八十年前に曾祖父が自らの手で置いた『本物』であるという前提で物語を構築しておるようじゃな。だが、この石の表面に刻まれた物理的痕跡は、全く別の事実を叫んでおる」


「な、何を言っているんですか! それは市の公式記録にも残っている、本物の……!」


「黙って聞くがよい」


如月さんはルーペを外し、冷徹なアメジストの瞳で泊氏を射抜いた。


「花崗岩というのは、石英、長石、黒雲母などの複数の鉱物が結晶化してできたものじゃ。これが八十年間、この月見坂の西風と特有の酸性雨に晒され続ければどうなるか。硬い石英は残り、柔らかい長石や雲母は先に風化して剥がれ落ちる。結果として、表面には肉眼でもはっきりと分かるほどの『微細な示差風化』が生じるはずじゃ。さらに、この日当たりの良い南西の角には、特定の地衣類が根を張り、石の成分を分解しながら独特のコロニーを形成する」


 如月さんは礎石の角を指先で軽く叩いた。コツ、コツという硬質な音が響く。


「だが、見てみよ。この石の表面は、一見すると風化しているように加工されておるが、鉱物ごとの高低差が全く存在せぬ。均一に荒らされているだけじゃ。地衣類の繁殖の痕跡も皆無。さらに言えば、この『粗削りな岩肌』を演出している打痕。これは、熟練の石工がノミと金槌を用いて手作業で削ったものではない」


「手作業じゃない……?」


「左様。この連続する均一な衝撃痕、そして石英の結晶に生じた特有の微細なひび割れ(マイクロクラック)。これは明らかに、圧縮空気を用いた近代的な『空圧式ビシャン機』によって、極めて短時間の間に工業的に叩き出されたテクスチャーじゃ。八十年前の月見坂に、そのような近代機材を持ち込んで礎石を加工したというのか?」


 如月さんの言葉は、寸分の隙もない物理的証拠の連続だった。


「極めつけは、この石と台座を接合している目地の部分じゃ。奥の方に、微かに透明な充填材がはみ出しておる。……シリコン系の変成シリコーンシーラント。ここ十五年以内に開発された、最新の耐候性建築用接着剤じゃな」


 如月さんは純白の手袋を外し、冷酷な宣告を下した。


「結論。この『創業の礎石』は、八十年前の本物ではない。精巧に作られたフェイク……レプリカじゃ。おそらく本物は、長年の風化による崩落を防ぐため、あるいは心無い悪戯から守るために、十数年前の公園大改修工事の際にコンツェルンの地下金庫にでも移されたのじゃろう。そして、景観を保つために、この工業生産されたダミーが置かれた。……つまり、この石に曾祖父の涙など一滴も染み込んではおらぬ」


 ――沈黙。

 夕暮れの風が、木々の葉をカサカサと揺らす音だけが響いた。

 カメラマンは絶望的な顔でレンズから目を離し、ADの桜野さんは膝から崩れ落ちそうになっていた。

 ディレクターの泊氏は、目を見開き、口を半開きにしたまま完全にフリーズしていた。


 創業者の涙が染み込んだ神聖なる石。特番のドキュメンタリー編を締めくくる、最高の感動のクライマックス。

 そのすべてが、たった十五年前にシリコン接着剤でくっつけられた『工業用のレプリカ』に向けられた、空虚な一人芝居に成り下がってしまったのだ。


「……そ、それがどうしたと言うんだ!!」


 突然、泊氏が発狂したような大声を上げた。

 彼は拡声器を地面に叩きつけ、髪を振り乱しながら如月さんに歩み寄った。


「レプリカだろうが本物だろうが、そんな顕微鏡レベルの真実なんか、視聴者には関係ないんだよ!! テレビというのはな、お嬢様! 象徴を映す箱なんだ! この石が本物かどうかが重要じゃない! 視聴者がこの映像を見て、『創業者の思いが受け継がれているんだな』と感動して、涙を流す! その『感情』を引き出すことこそが、テレビの真実であり、ドキュメンタリーの正義なんだ!!」


 泊氏の主張は、ある意味でマスメディアの根源的な本質を突いていた。事実の正確性よりも、視聴者の感情をどう動かすか。見栄えの良い嘘で、いかに美しい虚飾の城を築き上げるか。それが彼の生きてきた世界だった。


「だから、お嬢様はただ、私の用意した台本通りに、その石に触れて涙ぐんでくれればよかったんだ! なぜ、わざわざそんな事実をひけらかして、最高のラストシーンをぶち壊すんだ! これじゃあ、番組が成立しないじゃないか!!」


 泊氏の怒号を受けながらも、如月さんの表情は微塵も動かなかった。

 彼女は冷ややかなアメジストの瞳で、激昂する大人をただ静かに見下ろしていた。


「お主の言う『テレビの真実』とやらは、随分と底が浅く、酷く脆いものじゃな。ルーツの存在しない物語など、ただの幻覚じゃ」


 如月さんの声には、何人たりとも侵すことのできない絶対的な哲学の重みがあった。


「わしは、モノに宿る真実の情動を読み取ることはできるが、『存在しない情動』を捏造して演じるような真似は断じてせぬ。この工業用のレプリカに向かって涙を流す芝居など、愚鈍の極みじゃ。お主らの流す電波は、世界を薄っぺらい嘘で覆い尽くす公害に等しい」


 泊氏は言葉を失い、その場に力なく膝をついた。彼が築き上げようとした『感動のドキュメンタリー』という虚飾の城は、如月さんのたった一つの『物理的真実』の前に、完全に崩壊したかに見えた。

 太陽は地平線に半分ほど沈みかけ、撮影のタイムリミットはあと数分に迫っている。このままでは、ドキュメンタリーの第一話はオチのない未完成のまま終わってしまう。


 ――僕の、最後の仕事だった。

 僕は植え込みの陰から立ち上がり、制服のズボンについた土を払いながら、カメラの前に歩み出た。


「ストーーーップ!! ディレクター、諦めるのはまだ早いですよ!!」


 僕は泊氏の肩を掴み、無理やり立ち上がらせた。


「レプリカだから番組が成立しない? 違います! レプリカだからこそ、如月コンツェルンの『現在進行形の愛』が証明できるんじゃないですか!!」


「げ、現在進行形の愛……?」


「そうです! いいですか、如月さんは『この石に曾祖父の涙は染み込んでいない』と言いました。でも、それはこの石が無価値だという意味じゃないんです!」


 僕は脳内の言語野をフル回転させ、目の前のレプリカの礎石に、新たな『テレビ的なルーツ』を付与する作業を開始した。


「如月コンツェルンは、八十年前の本物の礎石を、風化や劣化から守るためにあえて安全な場所へ保管しました。それは歴史への『敬意』です。しかし、この丘から完全にシンボルを無くしてしまえば、市民の心の拠り所が消えてしまう。だからこそ、最新の技術を使ってこのレプリカを置いたんです! 過去の栄光にしがみつくのではなく、今の市民のために!」


 僕は礎石の表面を指差した。


「如月さんが本当に見ていたのは、曾祖父君の過去の情動じゃありません! この十五年間、この公園を訪れた市民たちが、この石に触れた時の『情動』です! 遠足で来た子供たちが這いよった泥の跡! 散歩中の老夫婦が腰を下ろした時の微かな摩擦! 恋人たちが待ち合わせの目印にした視線の交差! このレプリカは、決して空っぽなんかじゃない! 月見坂の市民たちの『今』の生活の喜びや悲しみを、毎日、毎日吸収し続けている『生きた礎石』なんです!!」


 僕は夕日を背に、泊氏に向かって力強く頷いてみせた。


「如月さんが台本通りに泣かなかったのは、過去の涙を偲ぶのではなく、この石に刻まれた『現在(いま)の市民たちの営み』を慈しんでいたからです! 過去を神格化するのではなく、現在を生きる人々と共に歩む企業! それこそが如月コンツェルンがこの特番で本当に伝えるべき、真のメッセージじゃないですか!!」


 静寂が、再び公園を包み込んだ。

 泊氏の虚ろだった目に、みるみると狂気じみたテレビマンの光が戻っていくのが分かった。


「……生きた礎石。過去の栄光ではなく、現在の市民と共に呼吸するシンボル……!」


 泊氏は顔を覆い、天を仰いだ。


「天才だ……! 朔くん、君は本当に天才だ!! 単なる昔話で終わらせるより、何倍も未来志向で感動的じゃないか! SDGsだ! サステナブルだ!!」


 泊氏は拡声器を拾い上げ、沈みゆく太陽に向かって絶叫した。


「桜野! 今の朔くんの翻訳をナレーションのベースにしろ! 『創業者の思いは、形を変えて今も市民の日常に寄り添っている』という最強の締めくくりだ! お嬢様! もう一度、そのレプリカの……いや、市民と共に生きる礎石を、慈愛に満ちた目で見つめてください! クレーンカメラ、夕日の最後の一筋を逃すな! 3、2、1……キュー!!」


 奇跡的に、現場が息を吹き返した。

 カメラは、夕日の逆光の中、礎石の前に静かに佇む如月さんのシルエットを美しく捉えた。彼女は台本のように涙を流すことはなかったが、その凛とした横顔は、ディレクターが欲しかった『未来を見据える令嬢』の画として、完璧に成立していた。


「……はい、カットォォ!! 素晴らしい! これでドキュメンタリーは完パケだ!!」


 泊氏の歓喜の叫びと共に、太陽が完全に地平線の下へと姿を消した。

 スタッフたちから、安堵と達成感の拍手が湧き起こる。番組は、破綻の淵から見事に生還したのだ。


 僕はその場で大の字になって芝生に倒れ込んだ。本当に、限界だった。

 如月さんは、純白の手袋を外し、隠しポケットに仕舞いながら僕の頭上へと歩み寄ってきた。そして、見下ろすように冷ややかな視線を落とした。


「単なる工業製品のダミーを、『生きた礎石』などとよくもまあ恥ずかしげもなくすり替えられるものじゃ」


「……ははっ。褒め言葉として受け取っておきますよ。でも、これでなんとか番組は完成しました。如月コンツェルンの威厳も守れましたし」


「ふん。威厳など、あのような虚飾の箱の中で守られるものではないわ」


 如月さんは小さく鼻を鳴らすと、夜空を見上げた。


「テレビという箱を作る人間は、どれもこれも表面の輝きにしか興味がないようじゃ。本物が金庫の中で埃を被っていようと、偽物が夕日に照らされていればそれで良いとは。あのような愚鈍な思考回路では、世界の真のルーツには永遠に辿り着けまい。……だが、電波が真実をいかに歪めるかという観察としては、少しは退屈しのぎになった」


「それは良かったです……。でも、明日からはもっと地獄ですよ。次は『クイズ番組』のスタジオ収録ですからね」


 僕が芝生に寝転がったまま言うと、如月さんはアメジストの瞳を細め、不敵な笑みを浮かべた。


「クイズじゃと? 愚かしい。あのような、あらかじめ用意された安っぽい正解を当てさせる遊戯に、何の意味がある。わしが明日、あのスタジオに持ち込まれるすべてのモノの『真の問い』を突きつけてやる。……覚悟しておくのじゃな、サクタロウ」


 如月さんはそう言い残し、夜風にドレスの裾を翻して、迎えに来たコンツェルンの黒塗り高級車へと優雅な足取りで歩き出した。

 僕は夜の公園に取り残され、深く、絶望的なため息を夜空に吐き出した。

 ドキュメンタリー撮影は、僕の命がけの嘘によってこうして幕を閉じた。しかし、本当の地獄は、明日のスタジオ収録から始まるのだ。


 スマートシティの街灯が、プログラムされた完璧なタイミングで一斉に点灯し、嘘にまみれた街を白々と照らし出し始めていた。



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