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第14巻:如月令嬢は『電波の虚飾を信じない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『演出』 ~section 4:完璧な数字と、嘘をつかぬ石~

 スマートシティ中央広場での、名もなき職人たちの『凍てつく情動』を巡る撮影を、僕の命がけの嘘八百な翻訳によってどうにか感動的な美談へと着地させた後、特番の撮影クルーは再び如月コンツェルン本社ビルへと舞い戻った。

 午後を回り、日差しが西に傾き始めた頃、一行が向かったのは本社ビルの三十二階――コンツェルンの心臓部とも言える『特別財務統括室』である。


 ここは月見坂市の経済の血流を完全にコントロールする、数字の絶対領域だ。

 壁一面を覆う巨大な有機ELモニターには、コンツェルン傘下の数百に及ぶ企業の株価、世界中の市場のリアルタイムな為替変動、さらには月見坂市内の電子決済のトラフィック量までが、目まぐるしい速度で明滅しながら表示されている。空気さえもが計算式で構成されているかのような、極めて冷徹で無機質な空間だった。

 その空間の中央に置かれた、無駄を一切削ぎ落とした特注のガラスデスク。そこに、この特番におけるもう一人の主役が優雅に腰を下ろしていた。


「お待ちしておりましたわ、泊ディレクター。そして……ふふっ、いらっしゃい、光太郎くん」


 如月コンツェルンの経理・会計を一手に担う数字のスペシャリストにして、瑠璃さんの実の姉、如月翡翠さんである。

 身長百四十七センチと小柄な瑠璃さんとは対照的に、翡翠さんは百七十センチ近い長身と、モデルのようにすらりとした細身のプロポーションを誇っている。体にぴったりとフィットした上質なチャコールグレーのパンツスーツが、彼女の洗練されたキャリアウーマンとしての凄みを引き立たせていた。

 瑠璃さんと同じく漆黒の艶やかな髪は、仕事の邪魔にならないよう高い位置でポニーテールにまとめられており、動くたびに空気を切るように揺れる。そして何より目を引くのは、彼女の名前の由来でもある、深い翡翠色をした涼やかな瞳だった。


「ひ、翡翠さん。お邪魔しています」


 僕が『臨時嘱託員』の腕章を撫でながら縮こまって挨拶すると、翡翠さんはデスクから立ち上がり、滑らかな足取りで僕の目の前まで歩み寄ってきた。高いヒールの音すら、計算されたリズムのように心地よい。

 彼女は僕の顔を覗き込み、その美しい唇に悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「光太郎くん、なんだか顔色が悪いわね。胃薬、処方してあげましょうか? 瑠璃の『通訳』なんていう損な役回りを押し付けられて、さぞかし神経をすり減らしているんでしょうね。……でも、そんな困った顔の光太郎くんも、私はとても可愛らしくて好きよ?」


 ふわりと、高級な香水の甘い香りが鼻腔をくすぐる。翡翠さんの翡翠色の瞳に射抜かれ、僕は心臓が跳ね上がるのを止められなかった。

 優しい口調のお姉さんでありながら、その実、相手の反応をすべて計算し尽くしている。彼女は出会った当初から、こうやって僕をからかっては、僕が真っ赤になって緊張する様子を楽しんでいるのだ。


「姉上、その下僕にあまり構うな。ポンコツがさらに機能不全を起こす」


 背後から、瑠璃さんの氷点下の声が飛んできた。

 瑠璃さんは腕を組み、姉の完璧な美貌と長身を前にしても一歩も引くことなく、アメジストの瞳で室内を冷ややかに見渡していた。かつては犬猿の仲だったという姉妹だが、今では互いの異常性を認め合う、奇妙で良好な関係を築いている。しかし、物理的観察眼を持つ妹と、数字という概念を操る姉とでは、世界の見え方が根本的に異なっていた。


「あら、ごめんなさい。でも、大事な妹の助手ですもの。しっかり労ってあげないといけないわ」


 翡翠さんはコロコロと笑いながら、ディレクターの泊氏に向き直った。


「さて、撮影の準備はよろしいかしら? 私の時間は一秒につきコンツェルンに数万円の利益をもたらしているの。あまり無駄にはできないわよ」


「は、はい! もちろんでございます、翡翠様!」


 泊氏は、先ほどの広場でのパニックなど嘘のように、すっかり翡翠さんの大人の魅力と権威に圧倒されていた。彼は鼻息を荒くしてスタッフに指示を出す。


「いいか、桜野! ここは如月コンツェルンの『頭脳』だ。翡翠様には、背後のモニター群をバックに、コンツェルンの経営の健全性と、如月の持つ正義について語っていただく。冷徹なまでに美しいキャリアウーマン、その完璧な姿をカメラに収めるんだ。……お嬢様、いや翡翠様、本番行きます! 3、2、1……キュー!」


 カメラの赤いランプが点灯すると、翡翠さんの表情から先ほどの悪戯っぽい笑みが消え、完璧なビジネスリーダーとしての顔が構成された。

 彼女はカメラに向かって、淀みなく語り始めた。


「月見坂市の市民の皆様、そしてテレビをご覧の皆様。如月コンツェルンの財務を統括しております、如月翡翠です。当コンツェルンがこの三十年間、スマートシティの基盤を揺るぎないものにしてこられた理由。それは、徹底した『数字への誠実さ』にあります」


 翡翠さんはガラスデスクの上にあるタブレット端末を指先で滑らせ、背後のモニターに整然としたグラフを表示させた。


「数字は、決して嘘をつきません。感情や情に流されることなく、物事の真の価値と結果を冷徹に示してくれます。如月コンツェルンは、一円の狂いもなくすべての取引を記録し、下請け企業や市民への還元を最適化してまいりました。どこかの企業のように、不当な搾取や裏取引など存在しません。完璧な計算に基づいた公平な分配。これこそが、如月コンツェルンの誇るクリーンな経営であり、私たちが掲げる絶対的な『正義』なのです」


 完璧なスピーチだった。

 説得力のある声のトーン、背筋の伸びた姿勢、そして一切の隙を見せない美しい笑顔。テレビ番組のドキュメンタリーとしては、これ以上ないほど満点の素材である。泊氏もカメラの後ろでガッツポーズを作り、「素晴らしい! 完璧だ!」と声にならない叫びを上げていた。

 このまま何事もなく、無事にこのシーンの撮影が終わる。そう安堵しかけた僕の耳に、最も聞きたくない音が響いた。


「……愚鈍じゃな」


 瑠璃さんの、冷え切った声だった。


「姉よ、相変わらずお主の言葉は、まるでプラスチックでできた造花のように美しいが、何の匂いもせぬな。数字が嘘をつかぬじゃと? そんなものは、人間が机の上で後からどうとでも書き換え、辻褄を合わせられる無機質な記号の羅列に過ぎぬ」


 瑠璃さんはカメラの画角に無遠慮に割り込み、翡翠さんのデスクの前に立った。

 現場の空気が一気に凍りつく。泊氏が「ちょ、お嬢様!? 今は翡翠様のカットで……」と慌てるが、姉妹の間に発生した見えない高圧電流のような緊張感に阻まれ、誰も前に出ることができない。


 瑠璃さんの視線は、モニターのデジタルデータではなく、翡翠さんのガラスデスクの上に置かれた『ある一点のアナログな物体』に注がれていた。

 それは、翡翠さんが重要書類――創業期から伝わる最初の紙の決算書――をデスクに広げた際、それが風で飛ばないように重しとして置いていた、手のひらサイズの『天然大理石の文鎮』だった。

 白を基調とし、微かな灰色のマーブル模様が入ったその古い石の文鎮は、デジタル機器に囲まれたこの部屋の中で、唯一、強烈な時の重みを放っていた。


 瑠璃さんはドレスのポケットから使い込まれた銀のルーペを取り出すと、躊躇なくその大理石の文鎮を手に取った。

 身内の持ち物であり、すでに何を見るべきか焦点が定まっているためか、懐中時計による調律の儀式は省略された。瑠璃さんは即座にルーペを右目に当て、石の表面をなめるように観察し始めた。


「瑠璃、撮影中よ。その文鎮は、曾祖父の代から経理の責任者に受け継がれてきたもの。私の『正義』の象徴を、汚さないでちょうだい」


 翡翠さんが静かに警告するが、瑠璃さんの耳には届かない。


「正義の象徴、じゃと? 笑わせるな。この石に刻まれた物理的痕跡と情動は、お主の語る『完璧な数字』とは全く異なる真実を叫んでおるぞ」


 瑠璃さんはルーペ越しに、文鎮の角の微細な摩耗を凝視した。


「見てみるがよい。この大理石の文鎮は、単に書類の上に置かれていただけではない。表面の特定の部分……右手の親指と人差し指が触れる位置だけが、異常なほどに研磨され、凹んでおる。そして、この石の微細な結晶構造の隙間には、長年にわたって染み込んだ大量の『塩分』と、極度の緊張状態から分泌された『皮脂』が深く固着しておる」


 瑠璃さんの言葉が、統括室の冷たい空気に波紋を広げていく。


「お主は、数字は一円の狂いもなく記録され、誰一人不当な扱いを受けていないと語ったな。だが、この大理石に染み込んだ情動のルーツはこうじゃ」


 瑠璃さんの『情動の視座』が、かつてこの文鎮を握りしめていた歴代の経理責任者たちの、苦悩に満ちた姿を幻視する。


「如月コンツェルンという巨大なシステムが、表向き『完璧でクリーンな数字』を維持するためには、どうしても計算式に収まらない矛盾や、現場でのイレギュラーな損失が発生する。だが、上層部は完璧な決算を要求する。そこで、歴代の経理責任者たちはどうしたか」


 瑠璃さんは文鎮を翡翠の目の前に突きつけた。


「彼らは深夜、この部屋で一人、この冷たい大理石の文鎮を力の限り握りしめながら、冷や汗を流し、胃を痛め、己の無力さに絶望しながら『数字の辻褄合わせ』を行ったのじゃ。時には自らの身銭を切り、時には古くからの下請けに頭を下げて泣きを入れさせ、泥を被ることで、表向きの帳簿を『完璧な正義』に仕立て上げた。この石に染み込んだ塩分は、数字の帳尻を合わせるために現場の人間が流した、血の滲むような『冷や汗』と『苦汁』の結晶じゃ」


 カメラの回る前で、瑠璃さんは如月コンツェルンのクリーンな経営の裏にある、最も泥臭く、人間的な犠牲の歴史を暴き出した。


「姉よ。お主の扱う数字は、いくらでも机上で操作し、白く塗り潰すことができる。だが、この大理石が受けた物理的負荷と、それに込められた名もなき経理担当者たちの情動は決して嘘をつかぬ。誰かの強烈な犠牲と痛みがなければ、完璧な数字などという虚飾は成り立たぬのじゃ」


 静寂。

 泊氏の顔は完全に土気色になり、ADの桜野さんはカンペで顔を覆っていた。

 如月コンツェルンの経理のトップを前に、『完璧な数字は現場の犠牲による捏造だ』と身内が暴露したのだ。これはドキュメンタリーどころか、企業の内部告発番組である。

 だが、糾弾された翡翠さんは、少しも動揺していなかった。それどころか、彼女は翡翠色の瞳を細め、さらに深い笑みを浮かべたのだ。


「……ふふっ。さすがは私の妹ね、瑠璃。モノのルーツを探らせたら、あなたの右に出る者はいないわ」


 翡翠さんはガラスデスクに手をつき、瑠璃さんを見下ろすように言葉を返した。


「あなたの言う通りよ。昔のコンツェルンには、数字の矛盾を現場の犠牲で埋めていた泥臭い時代があった。この文鎮は、その痛みを知るための戒めとして私がデスクに置いているの。でもね、瑠璃。私はそれを否定しないわ」


 翡翠さんの声は優しかったが、そこには数字の天才としての圧倒的な冷酷さが潜んでいた。


「少数の個人の犠牲や情動の揺れ込み。それらすべてを内包し、最終的に会社全体として莫大な利益を上げ、月見坂の十万人の雇用と生活を守り抜く。その結果としての『黒字』という数字こそが、最終的な救済なの。過程で誰が泣こうが、石に冷や汗が染み込もうが、結果として数字がプラスであれば、それは全体にとっての『正義』なのよ。感情論で会社は救えない。数字だけが、すべてを証明するの」


「愚かな。個の痛みを無視した全体など、ただの巨大な肉の塊に過ぎぬ。真のルーツは常に、最小の単位に宿るのじゃ」


「いいえ、真実は常にマクロな統計の中にのみ存在するのよ。石の傷など、全体から見れば誤差の範囲だわ」


 バチバチと。

 姉妹の視線が交錯する空間に、火花が散るのが見えた気がした。

 物理的観察眼をもって『個の情動』を真実とする妹と、数字をもって『全体の結果』を真実とする姉。絶対に交わることのない二つの哲学が、カメラの前で完全に正面衝突を起こしていた。


「あ、あああ……カメラ回ってますよ! 止めてください、これ以上は放送倫理が……いや、コンツェルンに消される!!」


 ついに恐怖に耐えきれなくなった泊氏が、頭を抱えて悲鳴を上げた。

 僕の出番だった。胃の粘膜が悲鳴を上げ、精神力はすでに限界を突破していたが、ここで僕が翻訳を放棄すれば、この姉妹の対立はテレビ番組という枠を完全に破壊してしまう。


「ストーーーップ!! ディレクター、違います!!」


 僕はカメラと姉妹の間に文字通り身を投げ出し、両手を大きく広げた。


「カットしないでください! これです、これこそが如月コンツェルンの最強の秘密なんです!!」


「ひ、秘密だと!? 内部告発の言い合いにしか見えないぞ、朔くん!」


「そこが表面しか見えていない証拠です! いいですか、ディレクター!」


 僕は引きつる頬を無理やり笑顔の形に固定し、絶叫した。


「如月翡翠様が体現する『完璧な数字という冷徹な理性』! そして、如月瑠璃様が体現する『現場の痛みを忘れない情動の視座』! この全く正反対の二つの哲学が、常に激しくぶつかり合い、互いを監視し合っているからこそ、如月コンツェルンは腐敗することなく、三十年間もクリーンな経営を続けてこられたんです!」


 僕は大理石の文鎮と、背後のデジタルモニターを交互に指差した。


「デジタルな全体最適と、アナログな個人の尊厳! この最強の姉妹が両輪となって牽引しているからこそ、このスマートシティは完璧なんです! 先ほどの言い争いは、コンツェルンの健全な自浄作用を象徴する、高度なディベートのデモンストレーションだったんですよ!! これぞ、究極の企業ガバナンス! 視聴者の信頼度、爆上がり間違いなしです!!」


 僕の、血を吐くような強引な翻訳術。

 静まり返った室内で、泊氏は呆然と僕を見つめ、やがてその目にみるみると感動の涙が浮かび上がってきた。


「……なるほど。最強の姉妹愛! 相乗効果!!」


 泊氏が両拳を天に突き上げた。


「冷たい数字の裏に、現場の汗を知る妹がいる! そして妹の感情論を、姉の理性が包み込む! これが如月の真の姿か! 素晴らしい、ドキュメンタリーの歴史に残る名シーンだ! 桜野、今の朔くんの解説をナレーションのベースにしろ! 姉妹の対立ではなく、高尚な哲学のぶつかり合いとして編集するんだ!!」


 再び、現場が歓喜と熱気に包まれた。

 僕はその場で膝から崩れ落ち、冷たい大理石の床に両手をついた。心と体のHPは完全にゼロだった。


「ふふっ。光太郎くんの言う通りよ、泊ディレクター。私たちはとても仲良しな姉妹だもの」


 翡翠さんは完璧な笑顔を取り戻し、僕の頭を優しく撫でた。その手つきは、完全に僕を優秀なペットとして扱っている。

 瑠璃さんはルーペを仕舞い、冷ややかな声で吐き捨てた。


「わしと姉が両輪じゃと? 冗談も休み休みにするのじゃな」


 瑠璃さんはプイとそっぽを向き、執務室の出口へと歩き出した。

 電波という虚飾の怪物は、今日も僕の削られた精神力を餌にして、美しい嘘を世界へと発信し続ける。

 僕は床に這いつくばったまま、次の撮影場所である『クイズ番組のスタジオ』のことを思い、ただ静かに意識を手放したくなった。



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