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第14巻:如月令嬢は『電波の虚飾を信じない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『演出』 ~section 2:創業の鉄塊と、胡桃を砕く真実~

 如月邸の私設サロンでの波乱に満ちたファーストカットを終えた撮影クルーは、息をつく暇もなく次のロケ地へと移動した。

 向かった先は、月見坂市の中央にそびえ立つ巨大な摩天楼――如月コンツェルン本社ビルである。

 地上五十階建て、全面を特殊な防弾ガラスと最新の透明型太陽光発電パネルで覆われたそのビルは、三十周年を迎えたスマートシティ・月見坂の心臓部そのものだった。都市の交通網の最適化、クリーンエネルギーの供給バランス、通信インフラの制御に至るまで、この街のあらゆるデータがこのビルの中枢サーバーに集約されている。

 特筆すべきは、如月コンツェルンがこれほどの巨大な権力とインフラを掌握していながら、その経営方針が極めてクリーンであるという事実だ。徹底した法令遵守と情報の透明性を掲げ、裏取引や談合といった古き悪しき不正義とは完全に無縁の組織である。その清廉潔白な経営努力こそが、市民からの絶大な信頼を勝ち得ている最大の理由だった。

 ロケバスから降り立った僕たちは、一般社員が決して足を踏み入れることのできないVIP専用の直通エレベーターに乗り込み、一気に四十五階へと昇った。エレベーター内は無音でありながら、耳の奥に微かな気圧の変化だけを感じさせる完璧な乗り心地だった。


 たどり着いた四十五階のフロアは、コンツェルンの『歴史展示室』として一般公開されているエリアだった。

 だが、今日は特番の撮影のために完全に貸し切られている。大理石の床には足音を吸収する厚いカーペットが敷かれ、間接照明に照らされた空間には、如月家の歴史を物語る数々の品がガラスケースに収められていた。壁面には、コンツェルンの創業者である如月弦十郎会長の父――如月瑠璃の曾祖父にあたる人物の巨大な肖像画が飾られている。

 フロアの奥、ひときわ厳重なセキュリティシステムに守られた中央の展示台に、今回のロケの主役である『モノ』が鎮座していた。


 それは、古びた真鍮製の『測量計(トランシット)』だった。

 最新鋭の電子機器に囲まれたこのスマートシティの中枢にあって、それはひどく異質な存在感を放っていた。三脚の接続部は長年の使用で削れ、真鍮の本体は黒ずみ、所々に緑青(ろくしょう)が浮いている。レンズの縁には細かい傷が無数に走り、それが単なる飾りのアンティークではなく、実際に過酷な現場で使い込まれた実用品であることを無言で雄弁に語っていた。


「さあ、桜野! 照明のセッティングを急げ。この測量計が今回のメインディッシュだ」


 ディレクターの泊氏が、展示室の静寂を打ち破るような大声で指示を飛ばす。スタッフたちが慌ただしく動き回り、再びあの暴力的なまでの白いLED照明が、薄暗い展示室の空気を切り裂いた。

 如月さんは、先ほどの邸宅での撮影と同じクラシカルなアフタヌーンドレス姿のまま、展示台の前に静かに立っていた。ガラスケースは撮影のために特別に外されており、真鍮の測量計がむき出しの状態で照明の光を鈍く反射している。

 僕は、カメラの画角から外れた展示室の隅に立ち、胃の痛みに耐えながらその光景を見守っていた。僕の左腕には、相変わらず「臨時嘱託員」の黒い腕章が巻かれている。


「いいか、桜野。カメラマン、寄りの画をしっかり押さえろ」


 泊氏が、腕を組みながら演出の意図を語り始める。


「この特番の裏テーマは『情熱』だ。月見坂市という完璧なスマートシティも、最初から魔法のように出来上がったわけじゃない。如月家は常にクリーンな経営で知られているが、それは決して温室育ちのお坊ちゃん企業だったという意味ではない。創業者がこの泥だらけの測量計を担ぎ、自らの足で荒野を歩き、汗と涙で土地を切り拓いた。その『人間臭い情熱と苦労』の結晶が、この傷だらけの機械なんだ。視聴者はそういう泥臭いサクセスストーリーに弱い」


 泊氏は如月さんの方に向き直り、芝居がかった手振りで語りかけた。


「お嬢様。この測量計には、お嬢様の曾祖父君の偉大な汗が染み込んでいます。カメラが回ったら、この真鍮の台座にある大きな傷跡を指先でそっと撫でてください。そして、『曽祖父はこの測量計と共に、道なき道を歩み、月見坂の未来を夢見ていました。この傷は、いかなる困難にも屈しなかった我が一族の誇りです』と、万感の思いを込めて語っていただきたい。完璧な美談になりますよ。さあ、本番行きます! 3、2、1……キュー!」


 泊氏の合図と共に、カメラの赤いランプが点灯した。

 だが、如月さんは泊氏の用意した感動的な台本など、最初から存在しないかのように振る舞った。彼女はカメラを一瞥することもなく、ドレスの隠しポケットから、あの『純白の手袋』を取り出したのだ。

 如月さんは静かに、しかし流れるような所作で両手に白手袋をはめた。自分の家系に連なる『如月家のモノ』に対しては、わざわざ懐中時計の秒針の音で自身を調律するまでもないらしい。彼女の意識は、手袋をはめたその瞬間にはすでに現世のノイズから切り離され、目の前にある真鍮の鉄塊の深淵へと潜り込んでいた。


「愚鈍な演出じゃ。真鍮の黒ずみを荒野を開拓した汗の結晶などと、よくもまあそこまで薄っぺらい物語をでっち上げられるものじゃな」


 如月さんは冷ややかな声を響かせながら、銀のルーペを取り出した。

 泊氏が「おい、お嬢様? 今は本番中で……台本のセリフを……」と口を挟もうとしたが、僕は無言で前に進み出て、手で彼を激しく制した。今、彼女の鑑定を邪魔すれば、彼女は完全に機嫌を損ねてこの場から立ち去るだろう。そうなれば特番は終了だ。泊氏も僕の必死の形相に気圧されたのか、渋々口をつぐんだ。


 如月さんはルーペを右目に当て、測量計の台座部分――三脚と接続される分厚い真鍮の基部に顔を極限まで近づけた。


「見てみるがよい。お主が『不屈の開拓の証拠』と呼んだ、この測量計の台座の角に刻まれた、この深く鋭い凹みを」


 如月さんの白手袋の指先が、真鍮の角にある不自然な傷を指し示した。それは、野外の過酷な環境で長年使用されてついたような擦り傷ではなく、何か非常に硬いものに激しくぶつかったような、抉れるような打痕だった。


「お主はこれを、荒野の岩肌にぶつけて生じた『名誉の負傷』だと申したな。だが、物理的な痕跡は全く別の真実を語っておる。この凹みの角度は、地面の起伏や岩にぶつかってついたものではない。底面に対して正確に直角、九十度の角度で、平坦な何かに向かって勢いよく振り下ろされ、叩きつけられておる。野外の不整地でこのような完璧な垂直の傷がつく確率は、天文学的に低い」


 如月さんはルーペの角度を変え、さらにその打痕の奥深くを覗き込んだ。


「さらに、この傷の奥深く、ミクロの隙間に入り込んだ微細な残留物。お主たちの肉眼では見えまいが、ここには植物性の油脂成分と、微量の塩分……そして、非常に硬い木質化した殻の破片がこびりついておる。加えて、その周囲には緑色のフェルト生地の細かい繊維と、高級なマホガニー材の木屑が残存しておる」


「植物の油? 硬い殻? フェルト生地? いったい何の話をしているんですか、お嬢様」


 泊氏が苛立たしげに問い詰めるが、如月さんは構わず鑑定を続けた。


「野外の泥や土ではない。この緑のフェルト繊維とマホガニーの木屑は、明らかに屋内の高級家具……それも、表面に緑色のフェルトが張られた、社長室の重厚な執務机の成分じゃ。そして、油脂と塩分、木質化した殻の正体。これはマカダミアナッツじゃな。それも、かなり大粒で殻の分厚い、海外からの高級な輸入品じゃ」


 如月さんはルーペを外し、冷徹な声で宣告した。


「お主が『情熱の結晶』と呼んだこの傷のルーツを教えてやろう。五十年前。わしの曾祖父は、この測量計を荒野で岩にぶつけたのではない。彼は自身の社長室で、海外の視察団から土産に貰った殻付きのマカダミアナッツを食そうとしたのじゃ。しかし、曾祖父は生真面目で神経質な男であった反面、ひどく短気な一面があったらしい」


 如月さんの瞳が、当時の情景をありありと映し出すように細められた。彼女の『情動の視座』が、半世紀前の社長室に渦巻いていた生々しくも滑稽な感情を読み解いていく。


「曾祖父の情動が、この傷にこびりついておる。それは、街を良くしようというような壮大な情熱ではない。どうしてもこの忌々しい木の実の殻が割れないという『苛立ち』と、手元にくるみ割り器が見当たらないという『焦燥感』じゃ。曾祖父はついに我慢の限界を迎え、机の脇に置いてあったこの非常に高価で重厚な真鍮の測量計を逆さに持ち上げ、フェルト張りの机の上に置いたマカダミアナッツに向かって、ハンマー代わりに力任せに叩きつけたのじゃ」


 ――ピタリ、と。

 展示室の時が止まった。

 カメラの駆動音だけが、不気味に響いている。


「この深く刻まれた名誉の傷跡は、マカダミアナッツの規格外の硬さに測量計の真鍮が負けた痕拠じゃ。……これが、お主の言う『泥臭いサクセスストーリー』の正体じゃ。偉大なる創業者は、最新鋭の精密機器をくるみ割り器代わりに使うような、ひどく短気で横着な男であったということじゃな」


 泊氏の顔色が、さあっと青ざめていくのが分かった。ADの桜野さんは、抱えていたカンペのボードを取り落としそうになっている。

 無理もない。如月コンツェルンの記念特番で、コンツェルンの中枢ビルで、あろうことか偉大なる創業者の『不屈の開拓精神の証』とされていた記念碑的な道具が、実は『単なるマカダミアナッツを叩き割るための鈍器として使われていた』という、あまりにもマヌケで威厳を損なう事実を、本人の玄孫にあたる令嬢が公共の電波に向けて嬉々として──本人はただ事実を述べているだけだが──暴露したのだ。

 如月コンツェルンはクリーンな企業である。裏取引や談合といった犯罪的な真実が暴露されたわけではない。しかし、テレビが求めていた『完璧な偉人』『カリスマ的な創業者』という尊厳あるイメージは、このたった一つの真実によって完全に木端微塵に粉砕されてしまったのである。

 これがもしそのまま放送されれば、どうなるか。視聴者は如月家の威厳に感動するどころか、腹を抱えて笑い転げるだろう。ドキュメンタリー番組としては完全に放送事故であり、お蔵入りは免れない。


「……ま、待て。カメラを止めろ! 桜野、すぐに止めろ!!」


 数秒のフリーズを経て、ようやく事の滑稽さと番組崩壊の危機を理解した泊氏が、悲鳴のような声で叫んだ。

 だが、それよりも早く動いた者がいた。僕だ。

 僕は弾かれたように駆け出し、如月さんの胸元に付けられたピンマイクのワイヤレス送信機に手を伸ばし、電源スイッチを物理的にバチンと切った。同時に、上から伸びていた音声スタッフのガンマイクの前に身を乗り出し、両手でマイクを覆い隠した。


「ストーーーップ!! 音声トラブルです! マイクに……そう、酷いノイズが乗りました!!」


 僕は裏返った声で叫びながら、カメラと如月さんの間に立ち塞がった。全身から嫌な汗が滝のように噴き出している。


「な、なんだと!? 朔くん、今お嬢様が言ったことは……測量計でナッツを割っただと!?」


 泊氏が血走った目で僕を睨みつける。僕はガンマイクを手で覆ったまま、必死に顔に引きつった笑顔を貼り付けた。脳のシナプスが焼き切れるほどの速度で、如月さんの身も蓋もない鑑定結果を『テレビ用の壮大な物語』へと変換する作業を行う。


「い、いやだなあディレクター! 違うんですよ、如月さんの言葉は非常に……その、文学的というか、高度な比喩表現なんです!」


「比喩だと!? マカダミアナッツを割ったのが比喩だとでも言うのか!」


「だから、そこが翻訳のしどころなんです!」


 僕は息を吸い込み、一世一代のデタラメを機関銃のようにまくし立てた。


「如月さんは、曾祖父君の『古い常識を打ち破る情熱』を語っていたんです! いいですか、五十年前、月見坂のクリーンな開発を推し進めようとした曾祖父君の前に立ちはだかったのは、古い利権にしがみつく頭の固い出資者たちでした。彼らの頑なな態度は、まるで『硬いマカダミアナッツの殻』のようだった!」


 僕は身振り手振りを交え、架空の創業者の熱いドラマを演じた。


「曾祖父君は社長室での重要な会議の席で、その『古い常識の象徴(マカダミアナッツ)』を机の上に置き、この測量計を手に取って叫んだんです! 『我々の技術と信念の重みは、この硬い殻をも打ち砕く! 月見坂の未来を阻むものは、私がこの手で粉砕する!』と! そして、最新技術の象徴であるこの測量計を力強く振り下ろし、見事に殻を打ち破った! フェルトの繊維はその激しい決意の激突の痕拠です! つまり、如月さんが言いたかったのは、この測量計の傷は『不可能を可能にした、不屈のブレイクスルーの象徴』だということなんです! これこそ、真の創業の情熱! 視聴者が胸を熱くする最高のエピソードじゃないですか!!」


 静寂。

 展示室にいる全員が、僕のあまりにも強引な熱弁に圧倒されて呆然としていた。

 泊氏は目を丸くして僕を見つめ、やがてその口元がゆっくりと、三日月のように歪んでいった。


「……素晴らしい。素晴らしいぞ、朔くん!!」


 泊氏が歓喜の声を上げ、僕の肩をバシバシと力強く叩いた。


「古い常識の殻を打ち破るための、伝説のプレゼンテーション! なんという熱いドラマだ! 単なる野外での苦労話より、よっぽどカリスマ性がある! よし、桜野! 今の朔くんの『翻訳』をベースに、ナレーション原稿をすぐに書き直せ! 映像にはマカダミアナッツが砕け散るCGのイメージ映像を挿入するぞ! お嬢様、もう一度、その測量計を見つめてください! 今度は、古い殻を打ち破った曾祖父の圧倒的な意志の力を胸に!」


 現場の空気が一変し、スタッフたちが再び活気を取り戻して動き始めた。

 僕は全身の力が抜け、厚いカーペットの上にへたり込みそうになるのを必死に堪えた。なんとか、如月コンツェルンの威厳の崩壊と、僕自身のクビの危機を回避したのだ。


 如月さんは、純白の手袋をゆっくりと外しながら、僕の方を心底冷ややかに見下ろした。


「相変わらず、お主の口から出る言葉は反吐が出るほど薄っぺらく、そして見事なほどに愚鈍じゃな、サクタロウ。わしが読み取った滑稽で人間臭い真実を、三文芝居の熱血プレゼンにすり替えるとは。お主、ペテン師の才能があるのではないか?」


「褒め言葉として受け取っておきますよ……。如月さんこそ、本気で会社の威厳を潰す気ですか。あんなマヌケな事実、特番のドキュメンタリーで流せるわけないでしょう」


「わしはただ、モノが語る真実をそのまま声に出しただけじゃ。それをどう切り貼りし、どう歪めて電波に乗せるかは、お主ら現世の人間たちの勝手じゃ」


 如月さんは手袋を隠しポケットに仕舞い、再び無表情でカメラの前に立った。

 強力なLED照明が、五十年前のただの『ナッツとの格闘』の証拠品である傷跡を、美しき『常識を打ち破った不屈の象徴』として神々しく照らし出している。

 真実は、またしてもテレビという巨大な虚飾のミキサーにかけられ、口当たりの良い美談へと見事にすり潰されていった。僕は冷房の効いた展示室で額の汗を拭いながら、この先も続くであろう終わりのない翻訳作業に、深く、深く絶望のため息をついた。



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