第9話 取り戻せると思った
手紙は、朝の仕事机に届いた。
ヴェルナー公爵家の封蝋。見慣れたはずの紋章が、今はどこか他人の家の印のように映る。封を切ると、ディートリヒ様の筆跡が目に入った。癖のある右上がりの字を、私はまだ覚えていた。
——お前がいなくなってから面倒が増えた。早急に戻り業務を再開しろ。なお、宰相府での勤務については、俺から撤回の手配をする。
読み終えるまで十秒もかからなかった。便箋一枚、数行。謝罪はない。全員解雇への反省もない。「面倒が増えた」から「戻れ」。私の意思は最初から計算に入っていない。宰相府での仕事を勝手に撤回するとまで書いてある。
三年間、あの人のために帳簿をまとめ、家臣を育て、商会と交渉し、備蓄を整え、王宮への報告を欠かさなかった。それをすべて「要らない」と切り捨てた人が、今になって「戻れ」と書いてよこす。しかも命令の形で。不便になったから呼び戻す、まるで道具の修理を依頼するような筆致で。
……やはり、この方には何も伝わっていなかった。私がなぜ去ったのかも、何を傷つけられたのかも。
便箋を静かに畳んで、引き出しにしまった。返事は書かない。書く言葉がない。
◇◇◇
異変が起きたのは、その三日後だった。
宰相府の廊下に、聞き覚えのある声が響いた。高い声。苛立ちを隠そうともしない声。
「俺はヴェルナー公爵家の嫡男だ。宰相に直接会わせろ」
執務室の扉越しに聞こえたその声に、体が強張った。ディートリヒ様が、ここに来ている。
ヴィクトルは書類から顔を上げ、一瞬だけ私を見た。その目が「ここにいるか、外すか」と訊いていた。
「……いさせてください」
小さく答えると、ヴィクトルは視線を扉に戻した。「通せ」と短く衛兵に告げた。
扉が開いた。ディートリヒ様が大股で入ってきて、まず私を見つけた。目が合った瞬間、彼の表情が歪んだ。驚きと、苛立ちと、それから——ほんのわずかに、焦り。
「リーネ。お前、こんなところで何をしている」
答える前に、ヴィクトルが口を開いた。
「リーネ・フォルトベル殿は正規の雇用契約に基づき、当府の人材顧問として勤務している。ご用件は」
「用件は決まっている。その女を返せ。俺の婚約者だ」
「婚約者であることと雇用契約は別の問題だ。返す義務はない」
ヴィクトルの声には感情がなかった。冷たいというより、温度という概念そのものが存在しないような声。ディートリヒ様が一瞬、言葉に詰まったのが分かった。
「なお」
ヴィクトルが書棚の台帳を指で示した。
「ヴェルナー領の定期報告が三期連続で届いていない。これについて何か説明があるなら、この機に承るが」
ディートリヒ様の顔色が変わった。報告の遅延を、宰相本人から指摘される重さに、ようやく気づいたのだろう。唇が何か言いかけて閉じ、また開いて、結局言葉にならなかった。それから踵を返し、部屋を出ていった。去り際に私をもう一度見たけれど、そこにあったのは怒りではなく、自分が思い通りにならない状況への苛立ちだった。
扉が閉まった後も、廊下を歩く靴音がしばらく聞こえていた。ヴィクトルは何事もなかったかのように書類に戻った。私は自分の手を見た。膝の上で、少しだけ震えていた。あの人と同じ部屋の空気を吸うだけで、こんなにも体が強張る。でも——逃げなかった。ここにいると決めたのは、私だ。
◇◇◇
——その後のことは、後から知った。
宰相府を出たディートリヒは、直接王宮に向かったらしい。そして弁明書を提出した。
内容はこうだ。「元婚約者リーネ・フォルトベルが家臣を引き抜いたことにより、領地運営に支障が出ている。これは当家の責任ではなく、引き抜き行為を行った元婚約者および受け入れた宰相府の問題である」。
引き抜き。あの人は、解雇した家臣たちを私が引き抜いたと主張したのだ。全員解雇を命じたのは自分だという事実を、もう忘れてしまったのだろうか。それとも、最初からなかったことにするつもりなのか。
解雇命令書にはディートリヒ・ヴェルナーの署名がある。弁明書には「引き抜かれた」と書いてある。二つの書類が並んだ瞬間、嘘が崩れる。それに気づかずに弁明書を出したのか、それとも解雇命令書の存在を忘れたのか——どちらにしても、自分で自分の逃げ道を塞いだのだ。
それだけではなかった。
弁明書を書いたその夜、ディートリヒはセレーナに当たったという。
「お前が大丈夫だと言ったから解雇したのだ。お前の知人が有能だと言ったから入れ替えたのだ。なぜ、結果が出ない」
セレーナは「善処しますわ」とも言わなかったらしい。いつもの甘い声も出さず、黙ってスカートの裾を掴んで、目を逸らしただけだったと、後に屋敷の使用人づたいに伝わってきた。あの二人の間に入った亀裂は、もう取り繕える大きさではないのだろう。
◇◇◇
翌朝。
ヴィクトルが執務室に私を呼んだ。机の上には監査発動の書類が揃えられている。
「ヴェルナー領の領地監査が正式に発動する」
予想していた言葉だった。三期連続未提出。制度上、避けられない手続きだ。
「監査にあたり、一つ確認がある」
ヴィクトルが私の目をまっすぐ見た。
「あなたが作成した引き継ぎ帳簿を、証拠として提出してよいか」
確認。命令ではなく、確認。私の帳簿を私の許可なく使わない。この人は、最後まで私の判断を尊重する。あの夜、一睡もせずに書いた三冊の帳面が、ディートリヒ様の机で埃をかぶっていることを、ヴィクトルは知っているはずだ。それでも「使ってよいか」と訊く。
「……はい」
少しだけ間があった。あの夜のことを思い出していた。インクで指を汚しながら、数字を一つひとつ書き写した夜。あのときは、この帳簿がどこに届くか分からなかった。
「あの帳簿には、嘘は一つもありません」
ヴィクトルが小さく頷いた。それから手元の書類に署名して、監査官への指示書を封筒に入れた。紺色の封蝋が、パチンと乾いた音を立てて固まる。
あの音が、何かの始まりの音だった。
弁明書には「リーネが家臣を引き抜いた」と書かれている。解雇命令書には「ディートリヒ・ヴェルナー」の署名がある。
二つの書類が並ぶ日は、もう近い。




