第10話 記録
王宮の査問室は、声がよく響く部屋だった。
石の壁と高い天井。窓から差し込む冬の光が、卓の上の書類を白く照らしている。長い卓の片側に監査官ハインリヒと書記官が座り、もう片側にディートリヒ様とオスヴァルト公爵。卓の端にヴィクトルが腰を下ろしている。証人席にはトビアスとナディアが並び、私はその隣にいた。
入室したとき、ディートリヒ様と目が合った。彼はすぐに視線を逸らした。その横で、セレーナの席が空いていることに気づいた。
卓の上には書類が積まれている。私の引き継ぎ帳簿三冊、全員解雇以降の領地記録、解雇命令書、ディートリヒ様が王宮に出した弁明書。そして——家臣録の写し。あの日、床に投げ捨てられた紙束の写しが、今、王宮の査問卓に載っている。
ハインリヒが口を開いた。白髪の監査官は、最初から最後まで感情を一切挟まなかった。数字だけを信じる人の声だった。
「では、ヴェルナー領の監査結果を報告します」
引き継ぎ帳簿の一冊目が開かれた。
「リーネ・フォルトベル殿の在任期間中、領地の収支は三期連続黒字。王宮報告は全期限内に提出。商会との契約更新率は九十八パーセント。備蓄充足率は百十二パーセント。すべての指標が正常値、もしくは正常値以上です」
帳簿のページがめくられるたびに、ハインリヒが数字を読み上げる。淡々と、事実だけを。あの夜、一睡もせずに書いた数字たちが、私の代わりに語っている。
「続いて、全家臣解雇以降の記録です」
二冊目の帳簿に手が移った。空気が変わる。
「会計報告の誤差率、四十七パーセント。商会との契約更新率、二十一パーセント。備蓄充足率、六十三パーセント——冬季の基準を大幅に下回ります。王宮報告は三期連続未提出」
数字が並ぶたびに、ディートリヒ様の指が卓の縁を強く掴むのが見えた。爪が白くなっている。顎が上がっている。まだ何か言い返すつもりの顔だったけれど、こめかみに汗が滲んでいた。
「すべての指標の悪化は、全家臣解雇以降に集中しています。解雇以前に異常値は一切確認されておりません」
沈黙。査問室の空気が、冷たい石のように固まった。
ディートリヒ様の喉が上下するのが見えた。唾を飲み込んでいる。それでも椅子から身を乗り出した。
「あの女が家臣を引き抜いたせいだ! リーネが俺の家臣を連れ出さなければこうはならなかった!」
ハインリヒが、表情を変えずに一枚の書類を持ち上げた。
「こちらはディートリヒ・ヴェルナー殿が王宮に提出された弁明書です。"元婚約者が家臣を引き抜いた"と記されています」
もう一枚を隣に並べた。
「こちらは全家臣の解雇命令書です。署名はディートリヒ・ヴェルナー殿ご自身のものです。"引き抜き"と"自らの命令による解雇"は両立しません。記録にない弁明は認められません」
二つの書類が卓に並んだ。ディートリヒ様の署名が、どちらにも同じ筆跡で記されている。自分の手で書いた嘘と、自分の手で書いた事実。
ディートリヒ様の顔から血の気が引いていくのが、ここからでも分かった。唇が薄く開いたまま閉じない。弁明の言葉を探しているのだろう。けれど、自分の署名を二つ並べられた人間に、言えることなど何もない。卓の縁を掴んでいた指が滑って、膝の上に落ちた。
そのとき、ヴィクトルが口を開いた。
「一点、補足があります」
家臣録の写しと、宰相府の新任者実績報告を卓に置いた。二つの書類が、帳簿と解雇命令書の隣に並ぶ。卓の上には今、五つの書類が扇のように広がっている。
「解雇された家臣のうち、トビアスは宰相府の採用試験を百四十名中首席で合格。現在、会計部門の主任補佐を務めています。ナディアは外交部で隣国との通商交渉をまとめました。他の元家臣たちも、それぞれの部署で国家級の職務を遂行しています」
ヴィクトルの声は、いつもと同じ温度だった。平坦で、事務的で、だからこそ反論の余地がない。
「この家臣録には、リーネ・フォルトベル殿が各人の適性を事前に記録した分析があります。その分析と宰相府での実際の業績は、すべて一致しています。解雇された者たちが無能だったという弁明は、この実績が否定しています」
一度だけ、ディートリヒ様の方を見た。
「——"使用人に好かれるだけ"と仰いましたか」
査問室が凍った。
「その"だけ"の人材が、今この国を支えております」
誰も声を出さなかった。書記官のペンが紙を擦る音だけが、石の壁に反射して消えた。
ディートリヒ様が立ち上がった。椅子が石の床を引きずる音が、査問室に響いた。
「俺は悪くない! あいつが——あの節穴女が——」
私は、静かに立ち上がった。
叫ばない。泣かない。ただ一つの事実だけを、返す。
「"要らない"と仰ったのは、あなたです」
それだけ言って、席に戻った。
査問室の空気が変わったのが分かった。ハインリヒは書類を整え直し、書記官はペンを走らせ、誰もディートリヒ様を見ていなかった。庇う言葉をかける者が一人もいない。あの日、「要らない」と切り捨てた人が、今度は誰からも必要とされなくなっている。
オスヴァルト公爵が立ち上がった。老いた公爵の目は、息子ではなく卓の上の書類を見ていた。数字と署名を、長い時間をかけて見つめてから、短く言った。
「この責任は息子にある。家名に泥を塗ったのは、お前だ、ディートリヒ」
ディートリヒ様が父を見た。その目に初めて、恐怖に似たものが浮かんだ。口が開いたけれど、声が出なかった。「父上」と言おうとしたのだろう。けれど老公爵はもう息子を見ていなかった。
ディートリヒ様の肩が小さく震えた。振り返っても、セレーナはいない。讒言を吹き込んだ甘い声は、もうどこにもない。卓の上には五つの書類が並び、そのすべてが彼自身の愚かさを証明している。査問室の誰もが目を逸らしている。庇う者は一人もいない。
書記官が出席者名簿を確認した。「セレーナ・ミルフェ殿は」。衛兵が答えた。「昨夜、ヴェルナー家の屋敷を退去されたとのことです。書き置きが一通」。
書き置きの内容は、一文だった。「私は人事に口を出した覚えはございません」。
あの日「あんな平民をはべらせるなんて」と囁いた声の主は、最後にたった一行を残して消えた。
◇◇◇
査問室を出ると、廊下の空気が温かかった。
冬の柔らかい光が、石の窓枠から差し込んでいる。足を止めて、一つ息を吐いた。肩が少しだけ軽くなっている。三年分の重さが、あの一言で下りたのかもしれない。
後ろから足音がした。振り返ると、トビアスとナディアが立っていた。二人とも、何か言おうとして、言葉が見つからない顔をしていた。代わりにナディアが私の手を取って、強く握った。トビアスが深く頭を下げた。それだけで十分だった。
——「要らない」。あなたが言った通りに、しただけです。




