第11話 あなたの目が選んだ人として
監査報告会の翌日、オスヴァルト・ヴェルナー公爵は単身で王宮を訪れたという。
息子の爵位継承審査の差し止めを、自ら申し出るために。
後に人づてに聞いた話では、老公爵は王宮の廊下で知人の貴族に会っても足を止めなかったらしい。背筋だけはまっすぐに伸ばしたまま、担当官の部屋に入り、短くこう言った。
「あの愚息に、家を継がせるわけにはいかん」
それだけ言って、署名し、帰ったと。
◇◇◇
社交界では、もうヴェルナー家の話で持ちきりだった。
宰相府の廊下を歩いていると、すれ違う官僚たちの会話の端にディートリヒ様の名が混じる。「人材を全員捨てた公爵家の嫡男」「宰相閣下に面と向かって嘘を暴かれたらしい」「愛人は逃げたそうだ」。
半年前、ディートリヒ様が家臣を全員解雇したとき、社交界の一部はそれを「英断」と呼んだ。平民上がりの者を一掃した判断を、血筋を重んじる保守派は支持した。夜会でディートリヒ様の隣に立って「さすがはヴェルナー公爵家の嫡男」と頷いた人たちがいた。その同じ人々が、今は掌を返している。人は、落ちた者の味方にはならない。
私はその噂を聞き流した。溜飲が下がるかと思ったけれど、そうでもなかった。ディートリヒ様が社交界で笑われていると聞いても、胸のうちに浮かんだのは快感ではなく、ただの静けさだった。嵐が過ぎた後の朝のような、何もない穏やかな静けさ。あの人への怒りも、悔しさも、認めてほしいという願いも、もう手の中にはなかった。いつの間にか、手放していたのだと思う。
◇◇◇
宰相府の執務室で、新しい帳面を開いた。
革の表紙はまだ傷一つない。あの擦り切れた家臣録とは違う、真新しい一冊。最初のページにペンを下ろして、名前を書く。
トビアス——宰相府会計部門主任補佐。
ナディア——宰相府外交部交渉官。
ヨハン——王都農政局計画主任。
マルタ——宰相府備蓄管理室。
クラウス——宰相府文書課。
かつて「出自が卑しい」と門前に放り出された人たちの名前の横に、新しい肩書きが並んでいく。一人書くごとに、胸の奥でかちりと何かが嵌まる音がした。あの日、床から拾い集めた紙片が、ここで生き直している。投げ捨てられた落書き帳が、国を支える人材の記録として。
ペンを置いて、インクの乾くのを待った。窓から冬の光が差し込んで、新しい家臣録の紙を温めている。この帳面は誰にも投げ捨てられない。ここに書かれた名前を「要らない」と言う人は、もういない。
「リーネ」
ヴィクトルの声がした。振り返ると、彼は外套を手にしていた。
「少し、外に出ないか」
◇◇◇
宰相府の裏手に、小さな庭園がある。
冬枯れの木立の間を、砂利を踏みながら歩いた。吐く息が白い。ヴィクトルは半歩前を歩いていたけれど、途中で歩調を緩めて、私の隣に並んだ。
「一つ、職務以外の話をしていいか」
また、あの前置き。この人が許可を求めるのは、大事な話のときだけだ。
「……はい」
ヴィクトルが足を止めた。私も止まった。冬の木立の向こうに、灰色の空が広がっている。
「あなたの目は、人の才を見抜く」
「はい」
「では訊く。私は、あなたの目にどう映っている」
予想していなかった問いだった。ヴィクトルの才能なら、視るまでもなく分かる。統治の才、判断の速さ、膨大な情報を整理する力、人を見極める冷徹さ。けれど彼が訊いているのは、そういうことではないのだろう。才能の話ではなく、もっと別の——。
「……鑑定眼で見なくても分かることなら、一つあります」
「言ってみろ」
「嘘をつかない人です。お世辞も言わないし、社交辞令も使わない。その代わり、一度口にした言葉は全部本当で、一度認めた仕事はきちんと評価してくれる人です」
ヴィクトルの目がわずかに見開かれた。この人の表情が動くのは珍しい。すぐに元に戻ったけれど、その一瞬を見逃さなかった。
「あなたの目が選んだ人間として」
ヴィクトルの声が、ほんの少しだけ低くなった。
「私も、恥じない男でありたい」
冬の空気が頬を刺す。砂利の上の足音が止まって、庭園が静かだった。
「——私を、選んでくれるか」
この人は求婚すら簡潔だ。飾りがない。余計な言葉がない。「好きだ」とも「愛している」とも言わない。ただ「選んでくれるか」と訊く。それが、ヴィクトル・アシュフォードという人の、精一杯の形なのだと分かった。
目が熱くなった。
泣くつもりはなかったのに、涙が一筋だけ落ちた。それを拭う前に、声を出した。
「私の目は、あなたを選んでいます」
鑑定眼で見たのではない。この半年、隣で働いて、言葉を交わして、冷めた紅茶を黙って替えてもらって、家臣録を丁寧に扱ってもらって——心が選んだのだ。
「ずっと前から」
ヴィクトルが、ほんの一瞬、目を閉じた。まつげの影が頬に落ちて、すぐに消えた。それから小さく息を吐いて、いつもの無表情に戻った。でも口元がわずかに緩んでいるのを、私は見逃さなかった。鑑定眼など使わなくても、分かることがある。
「……そうか」
それだけ。それだけで十分だった。
風が吹いて、冬枯れの枝が小さく鳴った。二人の間に言葉はなかったけれど、沈黙が心地よかった。この人の隣にいる沈黙は、あの屋敷での沈黙とは違う。何かを我慢する静けさではなく、何も我慢しなくていい静けさだった。
◇◇◇
執務室に戻って、新しい家臣録の表紙に名前を書いた。
リーネ・フォルトベル。
もう「ヴェルナー」の名を連ねることはない。もう一人で、散らばった紙片を拾い集める必要もない。
隣の机で、ヴィクトルが書類に戻っている。いつもと同じ横顔。いつもと同じ無口。でも今日だけ、紅茶が二つ並んでいるのを見て、少しだけ笑ってしまった。彼がちらりとこちらを見たのに気づいて、慌てて家臣録に目を戻す。
この家臣録は、もう一人では書かない。
隣に、読んでくれる人がいる。




