第12話 空の執務室
宰相府の朝は、パンの匂いがする。
誰かが焼きたてを持ち込んだらしい。胡桃パンではなく、王都風の白いパンだったけれど、その匂いを嗅いだ瞬間、ふいに胸の奥がきゅっと鳴った。懐かしいのではない。あの頃と同じものが、ここにもあるのだと気づいただけだ。人が集まる場所には、食べ物の匂いがする。
執務室の扉を開けると、人がいた。
「リーネ様、おめでとうございます!」
トビアスが満面の笑みで立っていた。その隣にナディア、ヨハン、マルタ、クラウス。元家臣たちが、花束を持って並んでいる。今日は私が宰相府の人材顧問に正式任命される日だった。
「あなたたち、仕事は……」
「朝礼前に十分だけ、と宰相閣下にお許しをいただきました」
ナディアが笑いながら花束を差し出す。冬の花——白い山茶花が束ねてある。
「あなたに見出していただいたから、今の私たちがいます」
トビアスが深く頭を下げた。畑を耕していた頃の面影はもうほとんどない。まっすぐな背筋、インクの染みた指、会計官の襟章。でも頭を下げるその仕草だけは、三年前に初めて執務室に入ってきたときと同じだった。
「トビアス、顔を上げて。あなたの力は、あなた自身のものよ」
「いいえ。最初に光を見つけてくださったのは、リーネ様です。それだけは」
ヨハンが一歩前に出て、大きな手で花束の位置を直した。不器用な仕草に、農政局の主任になっても変わらない実直さが透けている。マルタが隣で目を赤くしていた。クラウスは照れくさそうに後ろに立って、でも口元はちゃんと笑っている。
一人ひとりの顔を見た。私の目が視た光が、それぞれの場所で確かに灯っている。花束を受け取って、机に置いた。山茶花の白が、新しい家臣録の表紙の横で静かに揺れている。
「みんな、ありがとう。……ここに来るまでの道は、一人じゃなかった」
声が少し揺れたけれど、今日の涙は悲しいものではなかった。
◇◇◇
元家臣たちが持ち場に戻ると、執務室は二人になった。
ヴィクトルが人材候補の資料を持って隣に来る。いつもの朝と同じ光景。
「この者、法務部から異動の希望が出ている。あなたはどう見る」
資料を受け取って、目を通す。候補者の経歴と、昨日面談したときの印象を重ねた。
「法務より政策立案が向いています。条文を読む力はありますが、それ以上に全体を俯瞰する視野がある。企画部の方が伸びます」
「根拠は」
「面談で、彼は法律の解釈ではなく法律の目的について話しました。条文の外側を見ている人です」
ヴィクトルが小さく頷いて、資料に「企画部検討」と書き添えた。こういうやり取りを一日に何度もする。私が視て、彼が決める。対等な仕事。対等な信頼。
昼近くになって、トビアスがお茶を持ってきた。
「リーネ様、宰相閣下は今日も書類の山ですが、あなたの淹れたお茶だけは飲まれますよ」
「トビアス、私は今日まだお茶を淹れていないわ」
「ええ、ですから閣下はまだ一口も飲んでいらっしゃいません」
思わず笑ってしまった。ヴィクトルが書類に目を落としたまま「聞こえているぞ」と言い、トビアスが慌てて退室した。
午後、廊下でナディアとすれ違った。
「リーネ様、宰相閣下がリーネ様の前でだけ表情が変わること、もう宰相府中が知っていますわ」
「ナディア」
「だって本当のことですもの」
からかうような笑顔を残して去っていく。振り返ると、執務室の窓からこちらを見ている視線があった。目が合うと、ヴィクトルはすぐに書類に戻った。その耳が少しだけ赤いのを、鑑定眼など使わなくても見て取れた。
◇◇◇
夕方、仕事を終えて、新しい家臣録を開いた。
今日、新しく鑑定した候補者のページを書き加える。「この人には、人を動かす才がある。組織の中心に置けば、周囲が自然と活性化する」。ペンの先からインクが紙に染み込んでいくのを見ながら、思う。
かつて投げ捨てられた台帳は、今、この国を支える人材目録になっている。落書き帳と呼ばれた記録が、宰相府の正式な人事資料として棚に並んでいる。あの夜、エルザが写しを守ってくれなかったら。トビアスがそれを持って宰相府の門を叩かなかったら。この帳面がここにあることはなかった。
——あの日、床に散らばった紙片を拾い集めたことに、意味がなかったとは思わない。あの痛みがなければ、この場所にはたどり着けなかった。でも、もう振り返らない。
窓の外が夕焼けに染まり始めた。ヴィクトルが「先に帰るか」と訊いたので、「もう少しだけ」と答えた。彼は何も言わず、自分も書類に戻った。この人は「早く帰れ」とは言わない。私の時間を尊重する。それが、この人なりの愛し方だと知っている。
◇◇◇
同じ夕焼けが、ヴェルナー公爵領にも差し込んでいた。
空の執務室。
椅子はまだ十二脚、並んだままだった。座面に埃が積もっている。いつから誰も拭かなくなったのか。窓からの光が斜めに差し込んで、埃の粒子が金色に舞っている。美しいはずの光景が、ただ空虚だった。
ディートリヒはその部屋に入り、一つの椅子の横に立った。かつてリーネが座っていた場所。ここに彼女が座って、家臣録を開いて、一人ひとりの名前を書いていたことを、今なら知っている。あの帳面が落書き帳ではなかったことも。あの家臣たちが無能ではなかったことも。
腰を下ろした。冷たい座面が背中に触れた。
誰もいない。誰も来ない。パンの匂いもしない。セレーナの薔薇の香りも、もうこの屋敷にはない。ラウルたちも、監査の後に一人また一人と去っていった。父は別邸に退き、使用人は最小限だけが残っている。
かつて「使用人の溜まり場」と呼んだこの部屋が、今では屋敷の中で最も静かな場所になっていた。十二の椅子が並んだまま、座る者を待っている。もう誰も来ないと知らずに。
机の隅に、三冊の帳簿がまだ置いてあった。監査官が写しを持ち帰っただけで、原本はここに残されている。今さら開いてみた。リーネの字が、ペンが走った順番そのままに並んでいる。一晩で書いたのだと聞いた。三年分の仕事を、一晩で。
この帳簿を「ご苦労」の一言で片づけた自分の声が、耳の奥で鳴っている。
窓の外を見た。領地の畑が夕焼けに染まっている。同じ景色のはずだった。半年前と何も変わらないはずだった。けれど今、この景色を一緒に見る者がいない。報告を持ってくる者がいない。相談できる者がいない。
「要らない」と言った声が、石の壁に反射して、自分に返ってくる。何度でも。何度でも。
◇◇◇
王都の宰相府で、私は新しい家臣録の最初のページを開いた。
あの人に「節穴」と呼ばれた目は、今日もまた、誰かの中に光を見つける。
——きっと明日も。




