第8話 信頼という名の、はじめて
宰相府に勤め始めて一月が経った。
その朝、私はヴィクトル様の机に人材配置の改善案を置いた。宰相府の各部署の人員構成を一人ひとり精査して、適性のずれている配置を洗い出したものだ。法務部に回されていた物流向きの人材、外交部で報告書の山に埋もれていた分析力の高い書記官、逆に書記仕事に回されていた交渉向きの若手。部署の壁で見えなくなっていた才能が、目を凝らせば至るところに眠っていた。一人ひとりの才を視て、本来いるべき場所を書き添えた。
ヴィクトルは紅茶にも手をつけず、改善案を最初から最後まで読んだ。ページをめくる指の速度が途中から落ちて、何度か同じ箇所に戻っている。読み飛ばしているのではなく、噛み砕いているのだと分かった。この人の読み方を、一月で覚えた。紅茶が冷めていることにも気づいていないのだろう。
「三年だ」
顔を上げずに言った。
「この人事の歪みを、私は三年間解決できなかった。適性検査の数字では見えなかった。あなたは一月で見抜いた」
「数字では見えない部分を視るのが、私の目ですから」
「……そうだな」
ヴィクトルがペンを取り、改善案の表紙に「承認」と一語だけ書いた。署名を添えて、私に返す。それだけの所作なのに、胸の奥が温かくなった。この人は口数こそ少ないけれど、結果で答えてくれる。
◇◇◇
昼を過ぎて、執務室に人が減った。
窓際で書類を整理していると、ヴィクトルが不意に口を開いた。
「一つ、訊いてもいいか」
珍しい前置きだった。この人は普段、訊く前に訊いている。許可を求めるのを初めて見た。
「はい」
「なぜあのような才がありながら、ヴェルナー家に留まっていたのか」
手が止まった。書類の角がわずかにずれたまま、指が動かない。
窓の外を見た。王都の屋根が秋の光を受けて、遠くまでオレンジ色に続いている。ヴェルナーの領地からは見えなかった景色だ。
「……婚約者に認めてもらいたかったのです」
声が少し細くなった。言うつもりのなかった言葉が、この人の前だと零れてしまう。
「私の目が正しいと、あの人に分かってもらえれば、すべてが変わると思っていました。数字で示せば。成果で証明すれば。いつか振り向いてもらえると。三年間、ずっとそう信じて」
口にすると、どれほど愚かだったかが分かる。振り向いてもらうために証明し続けた三年間。その相手は家臣録を落書き帳と呼び、私の目を節穴と呼んだ。
「馬鹿ですね、私」
ヴィクトルは何も言わなかった。数秒の沈黙が、執務室の埃の中をゆっくり落ちていく。ペンを持つ指が、机の角を二度叩いた。あの考えている時の癖。
「節穴だったのは」
低い声が、静かに言った。
「あちらの方だ」
振り向くと、ヴィクトルは書類に目を戻していた。何でもないことを言ったような横顔。でもその一言は、ディートリヒ様に言ってほしかった言葉そのものだった。
——この人は、嘘をつかない。
お世辞も社交辞令も言わない代わりに、一度口にした言葉は全部本当だ。それが一月で私が学んだ、ヴィクトル・アシュフォードという人のすべてだった。
◇◇◇
同じ頃、宰相府の東棟で。
ナディアは外交交渉の報告書をまとめながら、隣の席の同僚に話していた。
「——リーネ様は、初めて会ったとき、私をじっと見て言ったの。"この人には交渉の才がある"って。私はそのとき商家の居候で、荷運びしかしていなかったのよ」
同僚が目を丸くする。
「荷運びから外交補佐? 随分な抜擢ですね」
「でしょう。自分でも信じられなかった。でもリーネ様は出自も問わなかったし、経験も問わなかった。ただ"あなたの中にあるもの"だけを見て、機会をくださった」
ペンを置いて、ナディアは窓の外を見た。
「あの方の目に見出されなければ、今の私はいない。それはトビアスも同じだし、ヨハンも、クラウスも、マルタもみんなそう。私たちはリーネ様の目が信じてくれたから、自分を信じられるようになったの」
報告書のインクが乾くのを待ちながら、ナディアは付け加えた。
「それを"使用人に好かれるだけ"と呼んだ人がいるのよ。信じられる?」
同僚が少し考えてから言った。
「その人を手放したヴェルナー家は、よほど見る目がなかったんですね」
ナディアは報告書に目を戻して、小さく笑った。
「……ええ。ほんとうに」
◇◇◇
夕刻。
私が帰り支度をしていると、ヴィクトルが書棚から分厚い台帳を引き出した。王宮報告の受領記録だ。各領地からの定期報告がいつ届いたかが記録されている。
指が一つの欄で止まった。
「ヴェルナー領。三期連続未提出」
独り言のような声だったが、私の耳にも届いた。三期連続。それがどういう意味か、この一月で学んでいた。王宮報告が三期続けて届かなければ、宰相府は領地監査を発動する権限を持つ。職務上の義務として。
ヴィクトルは台帳を閉じて、書棚に戻した。その背中が一瞬だけ止まった。私の方を見て、何か言いかけて、やめた。仕事の話と私的な配慮の間で、一瞬だけ逡巡したように見えた。ヴェルナー領の監査は、私の元婚約者に関わることだ。この人はそれを分かっている。
「……帰るか」
「はい。お先に失礼します」
扉に手をかけたとき、背後から声がした。
「リーネ」
名前だった。いつもは「フォルトベル殿」と呼ぶ人が、名前で呼んだ。振り返ると、ヴィクトルは書類に目を落としたまま言った。
「あなたの目は節穴などではない。私が保証する」
昼間の言葉の、繰り返し。けれど今度は「あちらが節穴だった」ではなく、「あなたは正しい」と言い換えられていた。否定の否定ではなく、肯定。
ありがとうございます、と答えたはずだ。でも声がどんな響きだったか、自分では分からなかった。
廊下に出て、扉を閉めた。冬の入り口の冷たい空気が頬に触れる。
——「あなたの目は節穴などではない」。
その言葉が、あの人に言ってほしかった言葉だと気づいたとき、私はもう、振り返る場所を持たなくなっていた。




