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私が見出した人材を全員捨てた婚約者が、空の執務室で一人きりになるまで  作者: 九葉(くずは)


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第7話 なぜ、うまくいかない

 三度目だった。


 ラウルが持ってきた会計報告に、俺は赤インクで線を引いた。収支の合計が合わない。先月の商会への支払いが二重に計上されていて、備蓄費の欄はそもそも空白のままだ。


「ラウル」


「はい、ディートリヒ様」


「これで三度目だ。なぜ数字が合わない」


 ラウルは襟元を正しながら——この男はまず身なりから整える癖がある——弁解を始めた。


「前任の引き継ぎが不親切でして。帳簿の書式が独特で、我々には読みづらく」


 前任。リーネのことだ。


 机の隅に置いてある三冊の帳簿が目に入った。あの女が出ていく前に置いていったものだ。一度開いてみたことはある。整然と数字が並んでいて、各項目に注釈まで付いていた。不親切どころか、丁寧すぎるくらいだ。


 問題は、ラウルにそれを読む力がないということだった。


 ——いや、違う。あの帳簿が特殊すぎるのだ。普通の貴族が普通にやれば済む話を、あの女は無駄に複雑にしていたのだから。


「書式を変えろ。お前たちのやりやすいようにやれ」


「……かしこまりました」


 ラウルが退室した後、俺は窓際に立って領地の景色を眺めた。秋の畑が黄色く広がっている。何も変わらない風景のはずなのに、どこか落ち着かない。報告が正確に上がってこない日が続くと、自分の足元が見えなくなったような感覚に襲われる。


 気のせいだ。慣れの問題だ。家柄のある者を揃えたのだから、時間が解決する。


◇◇◇


 昼過ぎ、外交担当のフリーダが困り顔で入ってきた。セレーナの紹介で来た伯爵家の令嬢で、語学に堪能だという触れ込みだった。


「ディートリヒ様、ラステア商会から返答がございました」


「それで」


「……面会を断られました。"以前のナディア殿に取り次いでほしい。あの方でなければ細部の条件を詰められない"と」


 ナディア。あの、商家上がりの女か。


「商会ごときが相手を指定するな。こちらはヴェルナー公爵家だぞ」


「仰る通りですが、先方は……その、ナディア殿の交渉力を高く評価されていたようで」


 苛立ちが喉の奥に溜まる。出自の低い女一人の名前で、公爵家との取引を断る商会があるものか。何かの間違いだ。


 フリーダを下がらせた後、書棚から備蓄管理の資料を探した。冬はもう目の前だ。毎年この時期には備蓄計画が完成しているはずなのだが、どこにもない。倉庫番に確認を取らせると、「計画書がまだ届いておりません」という返答だった。


 去年はどうだった。一昨年はどうだった。聞けば聞くほど、同じ名前が出てくる。リーネが手配していた。リーネが計算していた。リーネが取引先を選んでいた。


 あの女がやっていただけのことが、なぜ誰にもできない。使用人に好かれるだけの女がやっていた雑務を、家柄のある者たちが引き継げないなどということがあるものか。


 ——何かがおかしい。だがそれは、俺の判断が間違っていたということではない。断じて。


◇◇◇


 夕刻、セレーナが薔薇の香水を纏って部屋に来た。


「ディートリヒ様、少しお顔色が優れませんわね」


「会計が合わない。商会には断られた。備蓄計画は白紙だ」


「あら、まだ慣れていないだけですわ。少し人を替えれば——」


「替える? 誰と、だ」


 声が思ったより鋭くなった。セレーナの睫毛がかすかに震えた。


「お前が紹介した者たちだぞ、セレーナ。家柄のある、まともな者だと言ったのはお前だ。なぜうまくいかない」


「……私は、ディートリヒ様のためを思って」


「ためを思うなら結果を出せ」


 セレーナの指が、スカートの布を握り込んだのが見えた。いつもの甘い笑顔が、一瞬だけ薄い膜のように揺れた。


「……善処しますわ」


 そう言って、セレーナは部屋を出ていった。薔薇の香りだけが残った。善処。この一月で何度聞いたか分からない言葉だ。


◇◇◇


 翌朝、父から呼び出しの書状が届いた。


 オスヴァルト・ヴェルナー。現公爵にして、この領地の最高権力者。俺が次期公爵として認められるかどうかは、この人の判断にかかっている。


 本邸の書斎に入ると、父は暖炉の前に立っていた。振り返りもせずに言った。


「報告が来ていないぞ、ディートリヒ」


「……王宮への定期報告のことでしたら、現在取りまとめ中です」


「期限はとうに過ぎている。二期連続だ」


 背中が冷えた。二期連続。一度目は移行期だと自分に言い聞かせていたが、二度続けば言い訳にならない。


「前の家臣が無能だったため、引き継ぎに手間取っております」


 嘘だった。引き継ぎ帳簿は完璧だった。それを読めない者しかいないのだと、本当のことは言えなかった。言えば、全員解雇という自分の判断を否定することになる。


 父は暖炉の火を見たまま、短く言った。


「次の期限までに出せ。出せなければ、王宮が動く。分かっているな」


「……はい」


 書斎を出ると、廊下が長く感じた。靴音が響く。誰もいない廊下に、俺の足音だけが返ってくる。


 自室に戻っても、座る気になれなかった。窓の外は暗い。暖炉の火が揺れているのに、背中が寒い。前の家臣が無能だった——そう言った自分の声が、まだ耳の奥にこびりついている。嘘だと分かっていて言った。それが一番きつい。


 引き継ぎ帳簿を開いた。三冊目の最後のページに、リーネの署名がある。「リーネ・フォルトベル」。丁寧な字だ。この帳簿に書かれた数字の一つひとつが、あの女の三年間だったのだと——いや。そんなことを認めるわけにはいかない。認めたら、全員解雇を命じた俺自身が愚かだったことになる。


 帳簿を閉じた。閉じたのに、指がページの角を覚えていた。爪の先に、あの紙の手触りが残っている。


 眠れなかった。


◇◇◇


 ——同じ頃。王都、宰相府。


 私は候補者の資料を読みながら、隣の机のヴィクトル様に声をかけた。


「この方、文書管理に回した方がよいかと思います。記憶力に優れた方なので、法務補佐にも適性がありそうですが、まずは——」


「先月、あなたが推した物流管理の者が早くも成果を出した」


 ヴィクトルが書類から目を上げずに言った。声は平坦だけれど、わずかに語尾が上がる。この人なりの報告の仕方をようやく覚え始めていた。


「あなたの推薦通りだった。現場判断の速さは期待以上だ」


「……ありがとうございます」


 宰相府の執務室は今日も忙しい。人が出入りし、書類が動き、声が重なる。かつて私がいた執務室と同じくらい——いや、それ以上に活気がある場所で、私の目は正しく使われている。


 ヴィクトル様が、こちらを見ずに紅茶の杯を私の机に寄せた。自分の分と一緒に淹れたらしい。何も言わない。当然のように。


 その小さな所作に気づかないふりをして、温かい杯を手に取った。


◇◇◇


 ディートリヒは知らなかった。


 王宮への報告が三期連続で届かなかったとき、何が起きるのかを。


 宰相府はすでに、動き始めていた。

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