第6話 あなたの目が見た光
宰相府の扉は、想像していたよりずっと重かった。
衛兵に通行証を見せて中に入ると、磨き上げられた石の廊下が奥へ続いている。靴の踵が響くたびに背筋が伸びた。ここは王都の中枢だ。国の税収を管理し、人事を束ね、政策を動かす場所。胡桃パンの匂いがする執務室とは、何もかもが違う。
案内された部屋の扉を叩くと、「入れ」とだけ返った。短い。余計なものがない。あの手紙と同じ声だと思った。
部屋に入ると、窓際の机に男が一人。逆光で顔がよく見えなかったけれど、立ち上がる気配はない。書類から目を上げたその人は——若かった。宰相と聞いて白髪の老人を想像していたから、一瞬たじろぐ。黒い髪を後ろに撫でつけた、表情の薄い顔。
「リーネ・フォルトベルか」
「はい」
「結論から言う」
机の上に、見覚えのあるものが置かれていた。
家臣録の——写し。エルザが書き写し、トビアスが持ち込んだもの。元の革表紙はないけれど、中身の筆跡は紛れもなく私のものだった。
「これを書いたのは、あなたか」
「……はい」
「人材分析の精度が常軌を逸している。百四十名の採用試験で首席を取った男の適性を、この帳面は三年前の時点で正確に言い当てている。偶然か」
「偶然ではありません」
自分でも驚くほど、声が落ち着いていた。この人の前では嘘がつけない。嘘をつく意味もない。そんな空気だった。
「説明を」
鑑定眼のことを話した。人を見れば、その人の中に眠っている才能の方向性と伸びしろが視えること。幼い頃から持っていたこと。誰にも信じてもらえなかったこと。
ヴィクトル・アシュフォードは、私の説明を一言も遮らなかった。ただ机に肘をついて、時折、指先で書類の角を叩いている。考えている時の癖なのかもしれない。
「証明できるか」
「はい」
彼は引き出しから束になった書類を取り出して、私の前に置いた。宰相府の人材候補者たち——名前と経歴だけが書かれた一覧。
「この中から三名を選び、適性を述べよ。後で本人の実績と照合する」
紙を手に取った。一枚目の候補者の経歴を読み、名前の横に記された年齢と出身地から人物を頭に描く。でも私に必要なのは紙の上の情報ではない。
「この方に直接お会いすることはできますか」
ヴィクトルの眉がわずかに動いた。
「……隣室に三名を待たせてある」
用意がいい。この人は最初から、試すつもりでここに呼んだのだ。
隣室に通された。椅子に座っている三人の男女を順に見た。目を合わせ、短く言葉を交わし、彼らの中にある光を視る。
一人目。二十代半ばの青年。「この方は法務に向いています。条文の構造を直感的に把握する力がある。ただし人前で話すのは得意ではないので、文書作成に回すべきです」
二人目。三十過ぎの女性。「物流管理が天職です。数量と時間の感覚が鋭い。現場を歩かせた方がいい」
三人目。若い男。「この方は……まだ伸びしろの方が大きい。今は何をやっても中途半端に見えるかもしれませんが、三年後には外交の柱になれます。教育機会を」
執務室に戻ると、ヴィクトルは候補者の実績ファイルを机に広げていた。私の鑑定と照合しているのだろう。紙をめくる指が止まったのは、三人目のところだった。
「三人目の男は、前任の上官にも同僚にも"使いどころがない"と評価されている。それを三年後の外交の柱と言ったのは、あなたが初めてだ」
「……三年後と申し上げました。今すぐではなく」
「承知している。だからこそ訊いている。今の評価だけなら誰でもできる。未来の才を見抜くのは別の力だ」
ヴィクトルが、初めて私の目をまっすぐ見た。ディートリヒ様が二秒で逸らしたその視線を、この人はずっと外さなかった。値踏みではない。確認するような目。この目が本物かどうかを、言葉ではなく直接見て確かめようとしている。
「国家の財産だ」
一言。飾りのない、事実の報告のような声。
「あなたの目は」
手が震えそうになったのを、膝の上で握り込んで耐えた。節穴と呼ばれた目を、この人は「国家の財産」と呼んだ。
◇◇◇
宰相府の廊下を歩いていたとき、向こうから聞き慣れた声がした。
「リーネ様」
ナディアだった。外交補佐の腕章を付けて、書類の束を抱えている。目が合った瞬間、彼女の顔がくしゃりと崩れた。
「ナディア、あなた——」
「先週、隣国との通商条件の交渉に参加させていただきました。宰相閣下から"この交渉をまとめたのは誰だ"とお尋ねがあって」
彼女の声が揺れている。でも泣いてはいなかった。泣く代わりに、まっすぐ私を見て言った。
「あなたに見出していただいたから、今の私がいます」
そのとき初めて、鼻の奥が痛くなった。答えようとした声が喉の途中で詰まって、代わりにナディアの手を両手で握った。彼女の指は冷たくて、それでいて力強かった。
◇◇◇
ヴィクトルの執務室に戻ると、机の上に一通の書面が置かれていた。
「人材顧問。報酬と立場は正当に保証する。あなたの才能を、正しい場所で使ってほしい」
書面を手に取る。正式な雇用契約の書式だった。宰相府の紋章入り。肩書きも報酬も明記されている。
「……私の目を、必要としてくださるのですか」
「必要だから呼んだ。それ以上でも以下でもない」
嘘がない。この人の言葉には、一つも嘘がない。
ふと、机の隅に置かれた家臣録の写しが目に入った。丁寧に角を揃えて置かれている。あの日、床に投げ捨てられた紙束と同じものが、ここでは書類として正しく扱われている。その一つの事実が、どんな慰めよりも深く胸を突いた。
「……お受けします」
声が少し掠れていたけれど、構わなかった。
◇◇◇
宰相府の門を出ると、秋の風が頬に触れた。
歩きながら、ディートリヒ様の言葉を思い出す。使用人に好かれるだけ。節穴。要らない。あの人が捨てた言葉の全部を、今日、別の人が拾い上げてくれた。
「節穴」と呼ばれた目で、私は確かに光を見てきた。
その光が今、この国の中枢で輝いている。——あの人は、それを「要らない」と言ったのだ。




