第5話 宰相閣下の探し物
屋敷を出てから二週間が経っていた。
実家のフォルトベル伯爵領に身を寄せて、私は解雇された家臣たちの再就職先を探す手紙を書き続けていた。推薦状を一人ひとりに合わせて書く。トビアスには三年間の会計実績と、複式記帳を独力で改良した経緯を。ナディアにはラステア商会との困難な交渉を成功に導いた判断力を。ヨハンには耕作地の輪作計画を立て直して収穫高を二割上げた実績を。その人の才能がいちばん正確に伝わる言葉を選んで、宛先ごとに内容を変えた。
推薦状を書いていると、一人ひとりの顔が浮かぶ。初めて会ったときの様子、才能が視えた瞬間の光、仕事を任せたときの不安そうな目、そしてやり遂げたときの笑顔。この人たちを見出せたことは間違いではなかったと、推薦状の一行一行が私に教えてくれた。
エルザが茶を淹れてくれるたびに、「リーネ様、少しお休みになっては」と言う。でも手を止めると考えてしまう。空の執務室のことを、散らばった家臣録のことを、「要らない」という声のことを。だからペンを持っている方がずっと楽だった。
トビアスが王都の宰相府採用試験を受けたという知らせが届いたのは、秋が深まり始めた頃のことだった。私の推薦状を胸に、単身で王都に向かったのだという。
◇◇◇
結果は、合格だった。それも、受験者百四十名中の首席で。
ナディアが手紙で教えてくれた。彼女自身も王都で外交補佐の職を探しているらしく、トビアスとは時折顔を合わせているという。
試験官が面接でトビアスに尋ねたそうだ。「これほどの会計知識をどこで身につけた。正規の教育を受けた者でもここまでの精度は稀だ」と。トビアスは背筋を伸ばして、「以前お仕えしていた方が見出してくださいました」と答えたらしい。名前は出さなかったけれど、人事書類の経歴欄にはこう書かれていたそうだ。
——「ヴェルナー公爵領にて、リーネ・フォルトベル殿の推薦により登用」。
その手紙を読んだとき、指先がほんの少し温かくなった気がした。トビアスの才は本物だった。私の目は間違っていなかった。それだけのことなのに、鼻の奥がつんとして、手紙の文字がにじんだ。
ナディアの手紙にはもう一つ、気になることが書かれていた。
トビアスが宰相府に提出した書類の中に、エルザの写した家臣録の一部が含まれていたらしい。自分の経歴を証明するために持参したのだという。そしてその家臣録を見た宰相府の高官が、記述の精度に目を留めた。トビアスの適性分析だけではない。余白に記された他の家臣たちの評価、成長予測、配置の意図——ひとつも外れていないその記録に、高官は驚いたのだと。
報告はすぐに宰相の耳に届いた。
——「この人材分析を書いた人物を連れてこい」
宰相閣下ご自身がそう仰ったとか、とナディアは書いていた。少し興奮した筆跡で。
◇◇◇
その頃、ヴェルナー公爵領では何が起きていたか。
私が知ったのはずっと後になってからだった。
ラウルたち新しい側近は、引き継ぎ帳簿の最初の数ページで手が止まっていた。複式記帳の方式が分からない。取引先との契約一覧を読んでも、どの契約がいつ更新期日を迎えるか把握できない。備蓄管理の計算式が理解できない。帳簿の中身は完璧に整理されているのに、それを読み解く力がそもそもなかった。読めないのは帳簿のせいではない。読む側の問題だ。でもそれを認めることは、誰にもできなかったらしい。
会計報告は三度やり直しても数字が合わず、ディートリヒ様の机には未処理の書類が積み上がっていたという。ラステア商会からは「以前のナディア殿に取り次いでほしい。あの方でなければ話にならない」と面会を断られた。冬の備蓄計画は手つかずのまま日が過ぎ、倉庫番が「このままでは冬を越せません」と訴えても、誰も計算を組み立てられない。
ディートリヒ様は苛立ちを隠さなかったらしい。
「なぜうまくいかない。俺が選んだ者たちなのに」
セレーナが「まだ慣れていないだけですわ。もう少しお待ちになって」と取り繕ったけれど、ラウルは「前任の引き継ぎが不親切で」と弁解を繰り返すばかり。引き継ぎ帳簿は目の前にある。読めないだけだ。けれどその事実を認めることは、自分たちの無能を認めることと同じだから、誰も口にしなかった。
そして、王宮への定期報告が初めて期限に間に合わなかった。これまで一度も遅れたことがなかった報告が。
三冊の帳簿は、机の隅に置かれたまま埃をかぶり始めていた。
◇◇◇
宰相府からの封書が届いたのは、トビアスの合格から十日後のことだった。
紺色の封蝋に宰相府の紋章が押されていて、開く前から指が緊張で強張った。こんな場所から手紙が届く人生を、想像したことがなかった。
中身は簡潔だった。宰相ヴィクトル・アシュフォードの名で、人材顧問の職についてお話ししたいので面会の日程を調整されたし、と記されている。文面には一切の飾りがなく、社交辞令もお世辞もなく、要件だけが過不足なく並んでいた。この手紙を書いた人の——いや、書かせた人の性格が透けて見えるような、潔い文章だった。
エルザに見せると、目を丸くしてから、ゆっくりと笑った。
「リーネ様の目が、ようやく正しく評価されるのかもしれません」
「……まだ分からないわ。面会してみないと」
そう言いながら、封書を何度も読み返している自分がいた。宰相府の紋章を指でなぞる。紺色の封蝋の凹凸が指先に触れるたびに、これが現実なのだと確かめるような気持ちになった。やがてそっと机の引き出しにしまう。
「あなたの目が必要です」——誰かにそう言われるのは、生まれて初めてだった。
いや、正確にはまだ言われていない。手紙に書いてあったのは「人材顧問の件でお話ししたい」という事務的な一文だけだ。でもその一文の向こう側に、私の家臣録を読んで、あの記述の一つひとつに意味を見出してくれた人がいる。落書き帳ではなく、人材分析として受け止めてくれた人が。
それだけで、ペンを持つ手が少しだけ軽くなった。




