第4話 引き継ぎは完璧に
眠れない夜を、帳簿に使った。
自室の机に灯りを寄せて、白紙の帳面を開く。引き継ぎ書類を作るのだと決めたのは、家臣録の紙片を拾い集めた直後のことだった。怒りに任せて屋敷を出ていくことはできる。けれど、そうはしない。
私がこの領地でやってきたことの記録を、一冊の帳面に残す。収支の全記録、取引先の契約一覧と担当者名、備蓄管理の年間計画、外交折衝の経過と次回期日、王宮報告の書式と提出手順、各部門の業務手順書。三年間の仕事を、誰が読んでも引き継げるように。
ペンを走らせながら、不思議と手は震えなかった。数字を書いている間は余計なことを考えずに済む。収穫高の推移、商会との取引額、備蓄の充足率——一つひとつの数字が、この領地で何が行われてきたかを淡々と証明している。私がどれだけ悔しいかは書かなくていい。数字が代わりに語ってくれる。
途中で何度かペンが止まった。トビアスが改善した複式記帳の方式を書き写しているとき、ナディアが取りまとめた外交報告の要約を転記しているとき。この手順書を読む人は、これを書いた人間のことなど知らないのだろう。でも構わない。手順が正しく引き継がれさえすれば、この領地の民の暮らしは守られる。
夜が明ける頃、帳面は一冊では足りなくなっていた。もう一冊を使い切って、三冊目の最後のページに署名した。リーネ・フォルトベル。日付を添えて、ペンを置く。インクで汚れた指先が朝日に照らされて、爪の際に黒い染みが残っている。窓の外が白み始めていて、鳥の声が遠くから聞こえた。一晩で三冊。私にできる最後の仕事だった。
◇◇◇
朝、ディートリヒ様の執務室を訪ねた。
「引き継ぎの書類をお持ちしました。私がいなくても領地の運営が回るよう、すべてをまとめてあります」
三冊の帳面を机に置いた。ディートリヒ様はちらりとそれに目をやって、表紙を指先でめくりかけたけれど、中身を読むことはしなかった。
「ああ。ご苦労」
それだけだった。
三年分の仕事に対する言葉が、それだけ。驚きはしなかった。この方はずっとこうだった。私のしてきたことに「ご苦労」以上の言葉をかけたことは、一度もない。
「契約関係はすべて一覧にしてあります。期日の近いものには付箋を貼りましたので、お目通しいただければ」
「分かった。新しい者たちが今日来る。そちらに渡しておく」
三冊の帳面は、机の隅に置かれたまま動かなかった。ディートリヒ様はもう窓の外を見ている。私が部屋にいることすら忘れたような横顔だった。
一礼して退室する。廊下に出ると、壁に背をつけて目を閉じた。息を一つ吐いて、もう一つ吸う。大丈夫。もう何も期待していない。だから何も裏切られない。
新しい者たち——セレーナの紹介した家柄のある側近。その「新しい者たち」が屋敷に到着したのは、昼過ぎのことだった。
◇◇◇
馬車から降りてきたのは、四人の若い貴族だった。仕立ての良い服を着て、手には革の手袋、靴は泥一つついていない。先頭の男はラウルと名乗り、セレーナ様のご紹介で参りましたと丁寧に挨拶した。
その瞬間、私の目が視た。
視たくなかったけれど、視えてしまった。四人のうち、領地経営の実務に適性のある者は一人もいなかった。ラウルには社交の才はあるが数字を扱う力がない。隣の女性は語学に秀でているが管理業務の適性が欠けている。残りの二人は——正直に言えば、何の才能もまだ開花していない、温室育ちの若者だった。
この人たちにあの引き継ぎ帳簿は読みこなせない。
そう思ったけれど、口には出さなかった。何を言っても「お前の目は節穴だ」と返されるだけだ。もう、この場所で私の目を使う意味はない。
ラウルが執務室を覗いて、「広い部屋ですね」と感心したように言った。十二の椅子が並ぶ、人のいない部屋を見て。あの椅子に誰が座っていたかも、なぜ空いているかも、この人は知らないのだろう。
◇◇◇
夕方、屋敷の裏手でトビアスに会った。
荷物をまとめ終えて、明日発つという。行き先はまだ決まっていない。三年間会計主任として働いた経歴があっても、公爵家を解雇されたという事実がつきまとう以上、再就職は簡単ではないだろう。
「トビアス」
「はい、リーネ様」
「あなたの会計の才は本物です。私の目は、それだけは間違っていなかった」
トビアスが唇を引き結んで、うつむいた。大きな手が膝の上で握られている。畑を耕していた頃の日焼けはもう消えかけていて、代わりにインクの染みが指に残っていた。三年間で変わったもの。私が視た才能が、この人の手を確かに変えた。
「……ありがとうございます」
「王都には宰相府の採用試験があります。あなたの力なら、必ず通る。私が推薦状を書きます」
トビアスが顔を上げた。目の奥に小さな光が灯ったのを、私の目ではなく、ただの目で見た。
「必ず正しく評価される場所がある。あなただけじゃない、ナディアも、ヨハンも、みんな。この領地で培った力は消えないから」
私に言えるのはそれだけだった。申し訳なさと、それから——この人たちがいつかどこかで輝くという確信が、胸の奥で静かにぶつかり合っている。
◇◇◇
翌朝、荷物をまとめて屋敷を出る前に、一度だけ執務室の前で足を止めた。
扉は開いていた。中にはラウルともう一人が座っていて、引き継ぎ帳簿を前に困った顔をしている。帳簿を開いてはいるが、最初のページから先に進めていないようだった。
声はかけなかった。この人たちにはこの人たちの時間がある。たとえ私の目に何が視えていても、もうここで口を開く立場ではない。
振り返って、廊下を歩く。三年間歩いた廊下。壁の染みの位置も、床板の軋む場所も、全部覚えている。エルザが裏口のそばで荷物を持って待っていてくれた。小さな旅行鞄が二つと、それから——エルザが写してくれた家臣録の束。
「行きましょう、エルザ」
「はい、リーネ様」
裏口から馬車に乗り込むとき、屋敷の東翼の窓が見えた。あの執務室の窓。朝の光がいつもと同じ角度で差し込んでいて、でもその向こうに十二人の声はもうない。
完璧な引き継ぎを残した。あの人がそれを読むことは、おそらくないだろう。
けれど、いつか誰かが読む。
その時、すべての数字が、私の代わりに語ってくれる。




