第3話 要らない
五日ぶりに屋敷に戻ったとき、最初に気づいたのは音だった。
いつもならこの時間、執務室の方角から声が聞こえる。トビアスがペンを走らせる音、ナディアが誰かと交渉の段取りを確認する声、マルタが備蓄の数字を読み上げる低いつぶやき。それらが重なって、屋敷の東翼には独特の活気があった。
それが、なかった。
廊下を歩く自分の靴音だけが響いている。嫌な予感を振り払いながら執務室の扉を開けると、そこには——何もなかった。
十二の椅子は並んだままだった。朝の光が座面を横切っている。あの日と同じ光景のはずなのに、まるで違うものに見える。机の上には何もない。書棚は空。壁にかけてあった領地の地図も外されていて、釘の跡だけが白い壁に残っていた。パンの匂いもしない。人の気配が、きれいに消えている。
そして床に、紙が散らばっている。
しゃがみ込んで一枚を拾った。見覚えのある筆跡。私の字だ。
家臣録の紙片だった。
綴じ糸を引きちぎったように、一枚一枚がばらばらに床に散乱している。トビアスのページ、ナディアのページ、ヨハンのページ、マルタのページ。踏まれた跡のある紙もあった。革の表紙は隅に転がって、背表紙が折れ曲がっている。
何が起きたのか分からなかった。——いや、分かっていた。分かりたくなかっただけだ。
◇◇◇
屋敷の裏門に回ると、人だかりができていた。
荷馬車が二台。その周りに、見慣れた顔が並んでいた。トビアスが木箱に腰を下ろしてうつむいている。ナディアは目を赤く腫らしたまま、若い文書係のクラウスの肩を支えていた。備蓄管理のマルタが膝の上で手帳を握りしめている。農政担当のヨハンが私に気づいて、日に焼けた顔が歪んだ。
「リーネ様……」
「何が、あったの」
声が震えていたと思う。ヨハンが唇を噛んで、それからゆっくりと口を開いた。
「三日前です。リーネ様がお発ちになった翌朝、ディートリヒ様から書面が届きました。私たち全員に。たった一枚の紙で——本日をもって解雇する、と」
「理由は」
「出自が卑しいから、と」
トビアスが顔を上げた。泣いてはいなかったけれど、目の下に濃い隈があって、三日間眠れなかったのだろうと分かった。
「私物は自分でまとめろ、門の外で待て、と。それだけでした。リーネ様にお知らせする猶予もいただけませんでした」
全員が私を見ていた。助けてくれ、という目ではなかった。もうどうしようもないと分かっている人たちの、それでも最後に顔を見たかったという目だった。
私は頭を下げた。深く。
「私の力が足りなかった。あなたたちを守れなかった。……ごめんなさい」
誰かがすすり泣く声が聞こえた。ナディアが「リーネ様のせいではありません」と言おうとして、言葉の途中で声が詰まった。
◇◇◇
ディートリヒ様は居間にいた。
セレーナの姿はなかったけれど、卓上に女物の手袋が置いてあった。つい先ほどまでここにいたのだろう。
「お戻りか」
ディートリヒ様は窓辺の椅子に深く座ったまま、こちらを一瞥した。悪びれた様子はなかった。まるで庭木の剪定を済ませた後のような、何でもない顔。
「なぜ、私に一言もなく」
「言う必要があるか? 俺の領地の人事だ」
「あの人たちは三年間、この領地のために——」
「要らない」
遮るように、一語。
「お前も、お前が連れてきた者たちも。俺の領地に平民上がりの家臣は不要だ。セレーナの知人が明後日から来る。家柄のある、まともな者たちだ。これでようやく体裁が整う」
要らない。
三年かけて見出した人材も、一人ひとりの適性を記した記録も、その記録を書いた私の目も。朝の執務室に集まる声も、焼きたてのパンの匂いも。全部まとめて、要らない。たった一語で。
何か言い返すべきだった。数字を出すべきだった。この三年間の収支報告を突きつけて、この家臣たちがどれほどの成果を出してきたかを示すべきだった。先月の王宮報告の精度を、昨季の商会交渉の利益率を、今年の備蓄充足率を。
けれど、そうしなかった。
もう何を言っても届かないのだと、そのとき確かに分かったからだ。ディートリヒ様は私の言葉を聞いていないのではない。聞く必要がないと思っている。最初から。ずっと。
一礼だけして、部屋を出た。
◇◇◇
空の執務室に戻った。
床に散らばった家臣録の紙片を、一枚ずつ拾い始めた。膝をついて、一枚。また一枚。踏まれて汚れたページの泥を袖口で拭って、折れた角を丁寧に伸ばした。
トビアスのページ。ナディアのページ。ヨハン、マルタ、クラウス。名前のある紙を一枚拾うたびに、その人の才能が視えたあの瞬間のことを思い出す。トビアスの端正な数字。ナディアの鋭い目。ヨハンの土の匂いのする大きな手。
最後の一枚を拾い上げたとき、指の震えが止まっていることに気づいた。
いつの間にか、泣いてもいなかった。涙は出なかったのではなく、出る場所を通り過ぎてしまったのだと思う。
立ち上がる。紙片を揃えて、汚れた革の表紙に重ねた。綴じ糸はちぎれていて元には戻せないけれど、この記録だけは守る。ここに書かれた名前の一つひとつは、私の目が確かに視た光の証だ。
——もう、この人のために働く理由がない。
その思いは、怒りというよりも、長い霧がようやく晴れたときの静けさに似ていた。
廊下の向こうからエルザが小走りに駆けてきて、私の手の中の紙束を見て、目を見開いた。それからそっと、懐から何かを取り出した。
「リーネ様。これを」
家臣録の——写しだった。エルザがいつの間にか、すべてのページを書き写して手元に残していたのだ。
「あの帳面が大切なものだと、ずっと分かっていましたから」
抱きしめたくなった。けれどその代わりに、写しを受け取って胸に当てた。紙越しにエルザの体温がほんのかすかに移っていて、その温かさだけが今の私に確かなものだった。
「要らない」——その言葉を、私は飲み込んだ。
けれどいつか必ず、そのまま返す日が来ると思った。私からではなく、この世界そのものが。




