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私が見出した人材を全員捨てた婚約者が、空の執務室で一人きりになるまで  作者: 九葉(くずは)


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2/12

第2話 お前の目は節穴だ

 王宮への定期報告を誰に任せるか、という話だった。


 四半期に一度、領地の運営状況をまとめて王宮に提出する書類がある。収支、人口動態、交易実績、備蓄状況、外交折衝の経過——すべてを一冊の報告書に仕上げる仕事で、これまでは私が取りまとめていた。けれど次からはトビアスに任せたいと考えていた。


 彼にはその力がある。私の目がそう視ている。


 会計主任としての三年間で、トビアスは数字を読むだけでなく数字で語る技術を身につけていた。先月の四半期報告の下書きを見たとき、生の帳簿から傾向を抽出して一枚の表に整理する手際に目を見張った。冗長な修飾を削ぎ落として、必要な情報だけが並ぶ書面。正直なところ、構成力では私より上かもしれない。


 王宮報告の主任を経験させれば、この先どこに出しても恥ずかしくない文官になれる。家臣録の余白にそう書き加えた。「次段階として王宮報告の主任を推薦する。適性は十分。上昇余地はさらに大きい」と。


 だから、その朝、ディートリヒ様の執務室を訪ねた。


「——トビアスを王宮報告の主任に推薦したいのです」


 家臣録を開いて、トビアスの実績と適性を説明した。三年間の会計記録の正確さ、商会との折衝で見せた交渉力、報告書の明晰さ。具体的な数字を挙げて、感情ではなく実績で話したつもりだった。


 ディートリヒ様は、腕を組んだまま私の説明を最後まで聞いた。それだけでも珍しいことだと思ったのだけれど——。


「お前の目は節穴だ」


 聞き間違いかと思った。


「あんな出自もわからぬ者を有能だと言い張るとは。村の畑を耕していた男に王宮報告を任せる? 正気か、リーネ」


「実績をご覧ください。この三年間、会計上の誤差は一件もありません。商会との——」


「数字の話をしているんじゃない。家柄の話をしている」


 ディートリヒ様の声に苛立ちが混じった。私の開いた家臣録には目もくれず、窓の外に視線を逃がしている。


「王宮に出す報告を平民上がりに書かせたと知れたら、ヴェルナー公爵家がどう見られるか分かるか。お前は俺の品位というものを考えたことがないのか」


「品位は仕事の質で示すものだと、私は思います」


 自分でも驚くほどはっきりした声が出た。これまで飲み込んできた言葉が、ぽろりと口から零れた感覚に近い。ディートリヒ様の前でこんな言い方をしたのは初めてだった。


 ディートリヒ様が、初めて私の顔をまっすぐ見た。ほんの二秒ほど。私の目の中に何を探したのかは分からない。けれどすぐに視線を外して、鼻で笑うように息を吐いた。


「もういい。お前が何を言おうと、あの者に王宮報告は任せない。それで終わりだ」


 それで終わり。私が三年かけて育てた人材の話が、たった一言で。


 家臣録を閉じる指が、かすかに強張っていた。


◇◇◇


 その夜のことだったと、後から知った。


 セレーナ・ミルフェがディートリヒ様の部屋を訪れたのは、私が執務室を出てからそう経たない頃だったらしい。エルザが廊下で聞いた話の断片を、翌朝そっと教えてくれた。


「——あの婚約者様は、使用人と仲良くすることがお仕事だと思っていらっしゃるのですわ」


 セレーナの声は、甘く、そして的確に毒を含んでいたという。


「ディートリヒ様のお立場にふさわしい方々を、私のお知り合いからご紹介いたしましょう。きちんとした家柄の、お育ちの良い方を。ディートリヒ様がご自身のお力でお選びになった家臣がいれば、あんな落書き帳に頼る必要もございませんわ」


 落書き帳。


 あの家臣録を、そう呼んだのか。一人ひとりの顔を思い浮かべながら才能を見極めて、適性を記録して、成長の軌跡を書き留めてきたあの帳面を。革の表紙が擦り切れるまで持ち歩いて、新しい家臣を迎えるたびにページを増やしてきたあれを。


 エルザの報告を聞きながら、私は黙って朝の茶を飲んでいた。湯気の向こうに自分の指先が見える。昨日ディートリヒ様の前で家臣録を閉じたときと同じ角度で、かすかに震えていた。


「リーネ様」


 エルザの声が、少しだけ低くなった。


「ディートリヒ様は、セレーナ様のご提案を受け入れられたようです。家柄のある方を集め直すと」


「……そう」


「リーネ様には、まだ何もお知らせはないとのことです」


 まだ、という言葉の裏にあるものを、私は聞き取った。「まだ」ということは、いずれ知らされるのだろう。あるいは知らされることすらなく、気がついたときには終わっているのかもしれない。


 茶碗を置いた。冷めかけた液面に、天井の梁が歪んで映っている。


「エルザ」


「はい」


「私の目は……本当に節穴なのでしょうか」


 声に出してみると、思ったより情けない響きだった。こんなことを侍女に尋ねる婚約者など、確かに恥かもしれないと自嘲がよぎったけれど、他に聞ける相手がいなかった。


 エルザはしばらく黙っていた。それからまっすぐこちらを見て、静かに、けれどはっきりと言った。


「リーネ様が見出した方々は、皆、立派に働いています。トビアス様の帳簿に間違いがあったことは一度もございません。ナディア様の交渉で領地がどれほど助かっているか、それはお屋敷の誰もが知っています」


 少しだけ間を置いて、こう続けた。


「節穴から、あの方々が見えるとは思えません」


 不器用な慰めだった。論理も数字もない、ただの一言。でもそれは、ディートリヒ様に突きつけたどんな実績よりもずっと温かくて、鼻の奥がつんとした。ありがとう、と言おうとして、うまく声にならなかった。代わりに茶碗をもう一度手に取って、冷めきったそれを一口だけ飲んだ。


 エルザは何も言わず、静かに茶を淹れ直してくれた。


 窓の外で風が変わった。秋の初めの、夏を押しのけるような冷たい匂い。庭の菩提樹の葉が風に裏返って、銀色に光るのが見えた。あと三日で、隣領との定例協議のために屋敷を離れる。五日ほど留守にする予定だった。


 その五日の間に何が起きるかを、あのとき私はまったく想像していなかった。


 三日後。


 私が領地を離れている間に、すべてが終わった。


 帰ってきた私を待っていたのは、空になった執務室と、床に散らばった家臣録の紙片だった。

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