第1話 使用人に好かれるだけの婚約者
朝の執務室には、パンの匂いが残っている。
誰かが持ち込んだのだろう。焼きたての胡桃パンの、あの少し焦げた香ばしさ。仕事場に食べ物を持ち込むなと注意すべきなのかもしれないけれど、私はこの匂いのある部屋が嫌いではなかった。
窓際に並んだ椅子はぜんぶで十二脚。朝の光が座面を横切って、古い木目を白く浮かび上がらせている。あと少しで皆が来る。この時間がいちばん好きだと思うのは、たぶん、この部屋がこれから声で満ちることを知っているからだ。
「リーネ様、おはようございます。昨日の港の収支、まとめてまいりました」
最初に入ってきたのはトビアスだった。元は東の村で畑を耕していた男で、私が村の識字教室を回っていたときに出会った人だ。あの日、彼は泥だらけの指で帳面を繰っていて、その数字の並べ方があまりにも端正だったので思わず足を止めた。
——この人には、数を扱う才がある。
私の目が、そう告げた。人の中に眠っている才能の輪郭が光って視える、この不思議な目。いつから持っていたのかは覚えていない。ただ、幼い頃から人を見ると「この人はこういうことが得意だ」と分かった。母にそう話したら笑われて、父には「変なことを言うな」と叱られて、だから長いこと誰にも言わなかった。
トビアスの後ろからナディアが入ってくる。商家の三女で、初めて会ったとき彼女は家業の荷運びを手伝わされていたのだけれど、私の目には別のものが視えた。交渉の才だ。相手の言葉の裏にある本音を読み、落としどころを瞬時に見つける力。今は外交補佐として隣国との折衝を任せている。
「リーネ様、ラステア商会から返答が来ました。条件、ほぼこちらの希望通りです」
「ナディア、ありがとう。あなたに任せてよかった」
彼女が少し照れたように肩をすくめる。そのうしろから農政担当のヨハン、備蓄管理のマルタ、文書係のクラウス——次々と席が埋まってゆく。十二の椅子に人が座り、それぞれが昨日の報告と今日の予定を持ち寄る。
この人たちを見出したのは、私だ。
身分の高い家から推薦された者はひとりもいない。村の農夫、商家の末娘、孤児院の少年、退役した老兵——誰もがこの領地に来るまで、自分の才能に気づいていなかった人たちだった。
家臣録を開く。革の表紙がだいぶ擦り切れてきた。一人ひとりの名前と、私が視た才能と、これまでの成長の記録。トビアスのページには「数理感覚が鋭い。複式記帳を教えれば会計主任が務まる」と三年前に書いた私の字がある。ナディアのページには「言語感覚と状況判断に秀でる。外交実務に向く」と。
この家臣録を、ディートリヒ様は一度も読んでくださったことがない。
——いや。正確に言えば、一度だけ手に取ったことはある。ぱらりとめくって、「なんだ、使用人の日記帳か」と笑って、すぐに置いた。
ディートリヒ・ヴェルナー。ヴェルナー公爵家の嫡男にして、私の婚約者。
午後、その婚約者が執務室に来た。
予告もなく扉が開いた瞬間、部屋の空気が薄く張り詰めたのが分かった。家臣たちの背筋がかすかに伸びる。トビアスがそっとペンを置き、ナディアの手が書類の上で止まった。それは敬意というよりも警戒に近い反応で、私はいつもそのことに少しだけ胸が痛んだ。この人たちは婚約者を怖がっている。そして、その事実にディートリヒ様は気づいていない。
「リーネ」
ディートリヒ様は部屋を見回した。十二の椅子に座る家臣たちを一人ひとり、品定めするように。そして鼻先で小さく息をついた。
「また平民ばかりか。何度言えば分かる、こんな出自の知れない者たちを執務室に入れるな」
「皆、それぞれの分野で成果を出しています。昨日の港の収支もトビアスがまとめてくれましたし、ラステア商会との交渉もナディアが——」
「使用人に好かれるだけの婚約者など、恥でしかない」
言葉が、まっすぐ胸の真ん中を貫いた。
ディートリヒ様は自分が何を言ったのか分かっていないのだと思う。いつもそうだ。この方にとって今の言葉は、天気の話と同じくらいの重さしか持っていない。
「貴族は家柄で人を集めるものだ。お前のやり方は俺の品位を下げている」
そう言い残して、ディートリヒ様は部屋を出ていった。残されたのは、静まり返った執務室と、視線を落とす家臣たちの気配だけ。
トビアスが何か言いかけて、やめた。ナディアが唇を引き結んでいる。
「——ごめんなさい、気にしないで。さあ、午後の報告を続けましょう」
声が震えていなかったか、自信がなかった。
◇◇◇
夜。自室の灯りの下で、家臣録を読み返す。
一人ひとりの名前を指でたどりながら、今日のディートリヒ様の言葉が何度も頭の中で繰り返された。使用人に好かれるだけ。使用人に好かれるだけ。
……好かれるだけ、だろうか。
この人たちは実際に成果を出している。領地の収支は三期連続の黒字、外交交渉はまとまり、備蓄は万全で、王宮への定期報告も毎回期日通りに提出されている。それは私の功績というよりも、この家臣たちが優秀だからだ。そして、その優秀な人材をこの場所に連れてきたのは——。
……いや、そんなことを考えても仕方がない。ディートリヒ様にはディートリヒ様のお考えがある。家柄を重んじるのは貴族として当然のことなのかもしれないし、私がもう少し上手くやれば、いつか分かっていただけるはずだ。成果で示せばいい。数字で証明すればいい。そうすれば、きっと。
廊下から足音が近づいて、遠ざかっていく。ディートリヒ様の部屋の方角から、女の笑い声がかすかに聞こえた。セレーナ・ミルフェ。没落男爵家のご令嬢で、最近よくお屋敷に出入りしている女性。
「あんな平民をはべらせるなんて、ディートリヒ様のお立場に関わりますわ」
壁越しに届いたその声を、聞かなかったことにする。家臣録を閉じて、灯りを消して、目を閉じた。
使用人に好かれるだけ——その言葉が、婚約者の唇から出るたびに、私の中の何かが薄く剥がれていく気がした。紙の端がめくれるように、少しずつ、少しずつ。
まだ平気だと、そのときは思っていた。




