第百七話 「帰る場所というものは、“生まれた場所”とは限らないので、人類は誰かと過ごした時間によって少しずつ居場所を書き換えていきます」
午後七時十四分。
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東央マテリアル。
地下第三層。
特殊対策部。
静かだった。
珍しく。
コーヒーの香り。
換気扇の低い音。
コピー機の待機ランプ。
いつもの空間。
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だが。
空気だけが、少し違った。
アインは、窓際へ立っていた。
白銀外套。
静かな横顔。
しかし。
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どこか、遠い。
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佐伯は、その背中を見ていた。
嫌な予感がしていた。
かなり。
「……アイン先輩?」
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アインは、少しだけ沈黙した。
そして。
「ベルタリュオン本星より、“帰還命令”が発行されました」
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時計の音だけ、妙に響く。
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佐伯。
止まる。
「……え?」
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アインは、振り返らなかった。
「観測任務は一定成果を達成したと判断されたようです。感情発生。地球人波動同期。認識変容。全て記録済みです」
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声。
いつも通り。
冷静。
なのに。
少しだけ。
寂しそうだった。
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佐伯は、無意識に一歩前へ出る。
「……帰るんですか」
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アイン。
少しだけ間を置く。
「……はい」
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胸が、変な感じだった。
苦しい。
でも。
何が苦しいのか、上手く言葉にならない。
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アインは、静かに続けた。
「ベルタリュオン人は、本来“共有波動維持装置”へ接続されながら存在安定を行っています」
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佐伯、顔を上げる。
「共有……装置?」
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「はい。感情喪失後のベルタリュオン文明は、“個”のみで精神安定を維持できなくなった。結果、“全体同期型存在維持システム”へ依存する進化を選択しました」
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静かな声。
説明は、いつものアインだった。
だが。
内容は重い。
「現在のベルタリュオン人は、定期的に共有装置へ波動同期を行わなければ、存在情報が不安定化します」
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佐伯。
少し青ざめる。
「……それって」
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アインは、小さく頷いた。
「はい。ベルタリュオンへ帰還しなければ、私は長期的に存在維持ができなくなる可能性があります」
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だが。
アインは続ける。
「しかし」
少しだけ。
声が止まる。
「……現在の私は、帰還した場合の方が生存率が低い」
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佐伯、完全停止。
「…………え?」
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アインは、静かに目を伏せた。
「地球滞在中、私の波動周波数は変質しています」
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窓の外。
夜。
街灯。
静かだった。
「感情発生」
「個体依存」
「雑談適応」
「非合理共鳴」
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アインは、少しだけ困ったように言う。
「……以前の私へ戻れる可能性が低い」
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佐伯、何も言えない。
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アインは続ける。
「共有装置は、“感情を抑制した安定状態”を前提としている。ですが現在の私は、“感情を保持したまま存在維持”を行っている」
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静かな声。
だけど。
怖がっていた。
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アイン自身も。
「帰還後、共有装置へ接続した場合」
少し沈黙。
「現在の私の人格情報は、“異常感情汚染”として分解処理される可能性があります」
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佐伯、顔色が変わる。
「……分解って」
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アイン。
小さく答える。
「今の“私”が消える、という意味です」
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空気が、止まる。
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佐伯。
呼吸が浅くなる。
「……じゃあ」
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「帰らなかったら死ぬかもしれない」
「帰ったら、今のアイン先輩が消えるかもしれない」
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声。
震える。
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「どっちなんですかそれ……」
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アインは、答えられなかった。
何故なら。
自分でも、怖かったから。
ベルタリュオンへ帰れば、生き残れるかもしれない。
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だが。
それは。
“今のアイン”ではない可能性が高い。
雑談を覚えた自分。
笑う自分。
悔しがる自分。
佐伯を見ると安心する自分。
全部。
消えるかもしれない。
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アインは、静かに呟く。
「……ベルタリュオン人は、“感情を維持したまま存在安定できる個体”を必要としていました」
少しだけ。
目を細める。
「ですが」
「実際にそれが発生した時、文明側が受け入れられない可能性がある」
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佐伯。
胸が痛かった。
かなり。
「そんなの……」
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酷かった。
アインは、ここで笑うようになったのに。
怒るようになったのに。
困るようになったのに。
全部。
“異常”扱い。
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佐伯は、無意識に叫んでいた。
「そんなのっ……!」
「今のアイン先輩の方が絶対いいじゃないですか!!」
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アイン。
止まる。
理解不能だった。
何故。
そんな風に言われるだけで。
胸部周波数が、こんなに乱れるのか。
意味不明。
だが。
嬉しい。
かなり。
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アインは、ゆっくり佐伯を見る。
「……佐伯」
静かな声。
「私は」
少しだけ迷う。
そして。
「……貴方を、大切に思っています」
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空気が止まる。
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佐伯。
完全停止。
「………………え?」
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アイン。
耳。
少し赤い。
「だから」
「“今の私”が消える可能性を、貴方へ隠したくなかった」
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説明っぽく誤魔化していた。
だが。
完全に。
感情だった。
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佐伯。
顔。
真っ赤。
「えっ」
「えっ」
「いやちょっ」
「えっ」
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混乱。
かなり。
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その時。
後方。
コーヒーの香り。
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野村部長だった。
自家焙煎。
今日もやたら香りが良い。
「おぉ〜、なんか青春してるぅ〜?」
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「部長ぉぉぉぉぉ!!!」
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空気。
一気に崩壊。
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リゼは、ソファで微笑んでいた。
「感情って、“誰かを困らせるノイズ”じゃなく、“帰りたくない場所を作ってしまう力”なのよね」
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キノピー。
机の上。
丸くなりながら呟く。
「にゃ〜……なんかもうアインち、“こっち側”にゃ〜……」
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アイン。
少しだけ。
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否定できなかった。
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