第17話 お前の火だ
火は、剣から出た。
刃の先から、一本の線になって伸びた。
線は、街道の上で広がった。
右へ。左へ。上へ。
壁ではない。
天井だった。
火の天井が、群れの頭上を覆った。
山ひとつ分の獣の上に、山ひとつ分の火が乗った。
空が、昼より明るくなった。
王都の方角まで、赤く染まった。
*
水の壁の後ろで、騎士たちが空を見ていた。
「……なんだ、ありゃ」
ボルドが、口を開けたまま言った。
盾を持つ手が、下がっている。
「団長の、魔法……」
「魔法じゃねえって、本人は言うぞ」
「じゃあ何だよ!!あれが剣技か!?」
誰も答えなかった。
ピノは、吊った腕のまま、ただ火を見ていた。
「……俺、あの人の下にいるのか」
声が、震えていた。
怖いのか、嬉しいのか、本人にも分からない震えだった。
*
熱が、顔を焼く。
カイルは、目を閉じなかった。
隣で、リオも閉じていなかった。
「……カイル」
「何だ」
「お前、どんどん人間離れしていくな」
「うるせえ」
「褒めてる」
「知ってる」
群れが、止まった。
先頭の狼が、後ろ足で立ち上がった。
鹿が、向きを変えた。
猪が、熊が、押し合いながら北を向いた。
――焼け。
声が、頭に鳴った。
火が、天井から少し垂れた。
――獣を焼け。山を焼け。全部。
「黙れ」
カイルは、歯を食いしばった。
――くれると言った。全部くれると。
「くれた!だから、少しは俺の言うことを聞け!!」
火が、揺れた。
天井が、一度、低くなった。
群れの背中に、熱が触れる。
狼が一頭、毛を焦がして跳ねた。
「ホムラ!!」
――……。
天井が、戻った。
渋々、という揺れ方だった。
「……行け!!」
カイルは、声を出した。
火が、声と一緒に、北へ流れた。
天井が、群れを押すように傾く。
群れは動いた。
北へ。
山へ。
来た道を、戻っていく。
一頭も、燃えていない。
毛を焦がしたのが、一頭。それだけだ。
ぎりぎりだった。
だが、ホムラは選んだ。
*
「……カイル。水が」
リオの声だった。
水の壁が、薄くなっている。
火の熱で、上から削られていた。
「ちゃぷ。もう少しだ」
リオは、水の壁に向かって言った。
子供を励ます声だった。
「もう少し、頑張ってくれ。群れが、山に入るまで」
水の壁が、少しだけ厚くなった。
返事のつもりらしい。
「……無理させてる」
「分かってる。終わったら、好きなだけ池で寝かせる」
*
群れの最後尾が、森の奥に消えた。
「消せ、ホムラ」
カイルは言った。
火は、消えなかった。
「ホムラ」
火が、白くなった。
カイルは、それを見た。
赤ではない。白だ。
「――ホムラ!」
返事がなかった。
刃が、震えた。
震えが、腕に伝わる。
火が、天井から垂れた。
垂れた火が、街道の石畳に落ちた。
石が、溶けた。
「ホムラ!!止めろ!!」
――。
声はない。
音だけがある。
火の音。飲まれた精霊の、音のない叫び。
選んでいない。
もう、何も選んでいない。
全部、燃やす。
火が、水の壁に触れた。
水が、音を立てて蒸発した。
壁の向こうで、木が一本、煙を上げた。
「……まずい」
リオの声だった。
カイルは、剣を下ろそうとした。
下りなかった。
腕が、動かない。
火が、腕を離さない。
「リオ!!離れろ!!」
「断る」
リオが、半歩前に出た。
右手を上げる。
指先から、糸が伸びた。
細い。髪より細い。光っている。
「糸は、通らないって――」
「主には、通らない。ホムラには、通る」
糸が、剣に触れた。
刃を伝って、火の中へ入っていった。
「……カイル。手を離すな」
「離れねえよ!」
「いい。じゃあ、聞け」
リオは、火を見ていた。
まっすぐに。
眠そうな目で。
「ホムラ。落ち着け」
火が、揺れた。
「お前の火だ。お前が選べ。燃やしていいものだけ、燃やせ」
火が、もう一度揺れた。
「お前は、ずっとそうしてきた。矢を燃やして、服を燃やして、人は焼かなかった」
白い火の中に、赤が戻った。
一筋だけ。
「それでいい。それが、お前だ」
赤が、広がった。
白が、押し返されていく。
――。
声が、聞こえた。
言葉ではない。だが、聞こえた。
「……ホムラ」
――カイル。
「戻ったか」
――戻った。……怖かった。
カイルは、笑った。
笑ったつもりだった。顔が、動かなかった。
「俺もだ。……消せ。もう終わりだ」
――分かった。
火の天井が、縮んだ。
街道の上で、一本の柱になった。
柱が、空へ上がった。
雲を、突き抜けた。
王都からも、見えただろう。
それから、消えた。
*
街道に、音が戻った。
水の音。風の音。
遠くで、群れが山を登っていく音。
カイルは、膝をついた。
剣が、手から落ちた。
落ちた剣は、もう熱くない。
「カイル」
「……生きてる」
「知ってる」
リオが、肩を支えた。
カイルは、その肩に体重を預けた。
「森は」
「燃えてない。一本、煙が出ただけだ」
「……一本か」
「一本だ」
水の壁が、崩れた。
水が、地面に戻っていく。
森を包んでいた水が、集まって、小さくなった。
子猫ほどの大きさに戻った。
リオの足元に、ちゃぷんと跳ねた。
「ありがとう、ちゃぷ」
水が、揺れた。
リオの肩に、また上った。
*
「団長!!」
ボルドの声がした。
盾の列が、戻ってくる。
「主は!?」
「……あそこだ」
水の壁のあった場所。
濡れた地面に、主が横たわっていた。
まだ、吠えている。
だが、立てない。足が、滑って踏ん張れない。
輪は、嵌まったままだ。
「テッサ!!」
「来てる!!」
テッサが、石の人形と走ってきた。
道具袋を、もう開けている。
「ドド!頭!」
石の人形が、主の頭に飛びついた。
犬ほどの大きさで、家ほどの熊を押さえる。
押さえられるはずがない。
だが、主は滑って、踏ん張れない。
「カイル!前足!ボルドさん、後ろ足!十数える間でいい!!」
カイルは、立てなかった。
リオが、代わりに走った。
リオが前足。ボルドと騎士が後ろ足。
鉄の棒を、てこにして。
「一!二!三!」
テッサが、輪に手を当てた。
道具ではない。素手だ。
「力ずくじゃない。流れを、逆に――」
輪が、鳴った。
第一波の時の、割れる音とは違う。
鍵が外れるような、小さな音。
「七!八!」
輪が、開いた。
二つに割れて、地面に落ちた。
「九!」
主が、吠えるのを止めた。
目に、光が戻った。
周りを見た。
人間が、自分を押さえている。
濡れている。頭が、痛い。
主は、怯えた。
百年の主が、初めて、怯えた顔をした。
「……リオ」
カイルが言った。
リオは、もう前足を離していた。
主の前に、座っている。
右手を上げる。
糸が、伸びる。
今度は、通った。
主が、リオを見た。
長い間、見た。
「……おかえり」
リオが言った。
主は、鼻を鳴らした。
それから、ゆっくり立ち上がった。
誰も、押さえなかった。
主は、北を向いた。
一度だけ、リオを振り返った。
「寝床で寝た時と、同じ顔だ」
リオが、小さく言った。
「怒ってる」
「……謝れよ」
「謝った」
主は、山へ歩いていった。
焦げた毛のまま。血の滲んだ頭のまま。
群れの最後尾に、追いついて、消えた。
*
カイルは、街道に座っていた。
立てなかった。
ヨルが、水を持ってきた。
「団長」
「……何だ」
「生きてますね」
「……生きてる」
「それで十分です」
ヨルは、それだけ言って、怪我人の方へ行った。
リオが、隣に座った。
二人で、北の山を見た。
静かだった。
「なあ、リオ」
「何だ」
「俺が火を使う時、隣に誰かいたの、初めてだった」
「言ってたな」
「……また、いてくれ」
「二度目は、ないだろ」
「分かんねえぞ」
リオは、答えなかった。
代わりに、肩の水が、ちゃぷんと鳴った。
それが、返事だった。




