第八話 玉手箱の煙
今々、あるところに。
窓から落ちる男がおりました。
阿倍野浩二です。
飛び降りたのでしょうか?
いいえ。
足を滑らせたのでしょうか?
いいえ。
では、落とされたのでしょうか?
はい。
落とされました。
それも――鉄のロッカーに。
いったい誰が信じてくれるのでしょうか。
「ヤバい、ヤバい、ヤバい!!」
阿倍野は、六階から落下しながら焦っていました。
そして、必死に手を伸ばします。
壁に?
いいえ。
一緒に落ちている――。
「俺の一億円!!」
《玉手箱》にです。
言っている場合でしょうか。
死ねば金など無意味なのに、阿倍野の頭の中では、一億円の価値がある玉手箱のほうが大切なようです。
阿倍野は宙をクロールするように泳ぎます。
「一億円! 俺の一億ぅぅぅ!!」
バッグから飛び出した玉手箱。
会社のパソコン。
書類。
その他もろもろ。
いろいろなものが一緒に落下していますが、阿倍野が目で追っているのは玉手箱だけです。
会社のデータなどは、どうでもいいのでしょうか。
もう辞めたので、たぶんどうでもいいのでしょう。
「あとちょっと……!」
珍しく、阿倍野が必死です。
必死に腕を伸ばします。
あと少し。
あと少しで、玉手箱に手が届く。
ちなみに。
地面までも、あと少しです。
しかし阿倍野は、まったく気にしていません。
なぜ気にならないのでしょうか。
理解できません。
このままだと物語が終わってしまいます。
「届けぇぇぇ!!」
そして――。
ガシッ!
阿倍野の手が、玉手箱をつかみました。
正確には。
玉手箱の――蓋を。
「よっしゃぁぁぁ!!」
何が?
大喜びしている場合ではありません。
「……ん?」
そこでようやく。
阿倍野は下を見ました。
「うわっ!? 地面近っ!!」
気づくのが遅すぎます。
さらに。
スポッ。
「……え?」
阿倍野がつかんでいた蓋が――。
外れました。
「…………」
阿倍野。
右手に蓋。
その少し下を、箱本体が落ちていきます。
「え? マジかよ!?」
どうやら阿倍野は知りませんでした。
玉手箱は一体型ではなく、蓋が外れる箱だったのです。
「うわぁぁぁ!! 一億円がぁぁぁ!!」
頼むから命を心配してください。
そして――。
そのときでした。
ボフッ!!
開いた玉手箱から、白い煙が噴き出しました。
「……え?」
大量の煙が、阿倍野の身体を包み込みます。
次の瞬間。
「うおっ!?」
阿倍野の身体が――止まりました。
いえ。
完全に止まったわけではありません。
地面へ向かっていた落下速度が、急激に弱まったのです。
白い煙が阿倍野の背中へ回り込み、その身体を支えています。
まるで、大きな手のひらのように。
そして。
ふわり。
阿倍野は仰向けのまま、ゆっくりと地面へ下ろされました。
「…………」
着地。
「……え?」
阿倍野は寝転がったまま、目を瞬かせました。
「何が起きた?」
考える時間はありません。
すぐそばに、玉手箱の本体が落ちています。
「あっ、一億円!」
阿倍野は飛び起きました。
やっぱり、そちらが先です。
箱を拾い。
右手に持っていた蓋を――。
カポッ。
閉じました。
すると。
シュルルルル……。
「……ん?」
周囲を漂っていた白い煙が、玉手箱へ吸い込まれていきます。
そして、消えました。
「…………」
阿倍野は玉手箱を見つめます。
「……なんだ、今の?」
そのとき。
「ちっ……!」
声が聞こえました。
阿倍野は顔を上げます。
自分が落ちてきた、六階の窓。
そこから荒川が、こちらを見下ろしていました。
「……あいつも、選ばれた側か」
荒川は小さく呟きます。
「俺と同じ存在はいらないんだよ」
もちろん。
地上の阿倍野には聞こえていません。
阿倍野は玉手箱を抱え、六階へ向かって叫びました。
「おい、若禿ぅぅぅ!!」
「誰が若禿だ!!」
「俺の一億は俺のもんだからな!!」
「違う!!」
荒川が窓から身を乗り出しました。
「もう俺の国だ!」
「は?」
「お前のものも、俺のものだ!!」
「なんだと!?」
阿倍野は叫び返します。
「なら、お前のものも俺のものにしてやる!!」
「やってみろ!!」
六階と地上。
二人の大声が、ビルの周囲へ響き渡ります。
「…………」
通行人たちは二人を見ました。
そして。
すぐに目を逸らしました。
話しかけてはいけない人たちだと思ったのでしょう。
正解です。
阿倍野は玉手箱を片脇に抱えました。
六階の荒川が、琥珀色の玉を見せつけます。
「お前の玉手箱も!」
にやり。
「一億円も!」
荒川は叫びました。
「全部、俺がもらう!!」
ちなみに。
玉手箱が一億円なので、両方は無理です。
荒川は、そのことを知りません。
そして――。
荒川が腕を振り下ろしました。
「いけぇぇぇ!!」
「ワンッ! ワンッ!!」
鉄のロッカーが。
「ケーン! ケーン!」
飛び回るファイルが。
「キーッ! キーッ!」
ペンや文房具が。
次々と――。
六階の窓から飛び出しました。
「…………」
阿倍野は空を見上げます。
「やっば」
次の瞬間。
走り出しました。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁ!!」
阿倍野は逃げます。
「ワンッ! ワンッ!!」
鉄のロッカーが追います。
「ケーン! ケーン!」
ファイルが飛びます。
「キーッ! キーッ!」
文房具が跳ねます。
「なんなんだよ、こいつらぁぁぁ!!」
阿倍野は玉手箱だけを抱え、必死に街中を走りました。
ちなみに、会社のパソコンや備品を守る気はありません。
守ったところで、お金にならないからです。
「うわっ、何あれ」
「撮れ撮れ!」
「ロッカー走ってない?」
通行人たちがスマートフォンを取り出しました。
逃げる男。
追いかけるロッカー。
空を飛ぶファイル。
跳ね回るペン。
その光景が、次々と動画に収められていきます。
なんともシュールですね。
あははは。
◇
一方。
六階に残された荒川はというと。
「ちっ……」
割れた窓から下を見ました。
さすがに、自分まで六階から飛び降りるわけにはいきません。
荒川は踵を返し、出口へ向かいます。
その前に。
一人の男が立ちはだかりました。
仁尾太地です。
「君は……何者なんだ」
「どけ」
「いや……それよりも」
仁尾は拳を握りました。
「阿倍野を、本当に殺すつもりなのか?」
「俺の国に邪魔だからな」
荒川は平然と答えます。
「あいつが抵抗するなら、殺す」
「…………」
仁尾の顔が強張りました。
「頼む……やめてくれ」
「あ?」
「あいつは……」
仁尾は必死に言葉を探します。
「あれでも、いいところが……」
「…………」
「……ないかもしれないが」
ありませんでした。
「でも……生きる価値は……」
「…………」
「……あるとも言い切れないが」
それも見つかりませんでした。
仁尾。
もう少し頑張ってください。
それでも。
仁尾は荒川を睨みました。
「同じ人間なんだ」
「…………」
「だから、殺していいはずがない」
荒川は鼻で笑いました。
「どけ。知るかよ」
「だったら……」
仁尾は震える拳を握りしめました。
「俺が君を止める!」
五十九歳。
眼鏡。
太った身体。
汗だく。
加齢臭のしそうなおじさん。
頑張っています。
「ふん」
荒川は鼻で笑いました。
「無理だろ」
若禿のくせに、格好をつけました。
「うおおおお!!」
仁尾が拳を振り上げ、荒川へ向かいます。
しかし――。
遅い。
荒川の持つ琥珀玉が、すぐそばの作業机へ触れていました。
「キーッ!!」
「なっ――」
作業机が跳ねました。
まるで猿のように。
仁尾へ覆いかぶさります。
「うわぁぁぁ!!」
ドゴォン!!
仁尾の身体が床へ叩きつけられました。
「部長!!」
社員たちが叫びます。
荒川は周囲を見渡しました。
「俺に従わない奴は――」
社員たちを睨みつけます。
「こうなる」
「…………」
誰もが目を逸らしました。
荒川に注目されないように。
「ふん」
荒川は満足そうに鼻を鳴らしました。
そして。
格好をつけながら、扉を出ていきました。
若禿なのに。
「部長!」
「仁尾部長!!」
社員たちは一斉に仁尾へ駆け寄ります。
暴れる作業机を何人がかりかで押さえつけ。
頭から血を流して気絶している仁尾を助け起こしました。
「誰か、救急車!」
「早く!!」
「はい!」
その後。
救急車が呼ばれ――。
仁尾太地は病院へ運ばれました。
めでたし、めでたし。
……仁尾。
お前のことが好きだ。
――おしまい。




