第六話 億万長者、会社を辞める
今々、あるところに。
一人の、眼鏡をかけた加齢臭のしそうな太った男がおりました。
誰もいない会社で、早朝から一人仕事をしています。
まだ出社したばかりだというのに、額には汗がべったりと浮かんでいました。
男の名前は――仁尾太地。
株式会社《魚魚》で、営業部長をしています。
《魚魚》は、魚を扱う卸売会社です。
大手というわけではありません。
小さな中小企業です。
仁尾はそこで、十人ほどの部下をまとめています。
年齢は五十九歳。
もうすぐ定年です。
「はぁ――……」
先ほどから、ため息が絶えません。
いったい、何があったのでしょうか。
妻と娘から気持ち悪がられている?
そうですが、今に始まったことではありません。
部下から尊敬されていない?
それもそうですが、今に始まったことではありません。
では、何なのでしょうか。
実は昨日。
部下の一人が、行くはずだった取引先へ行かなかったのです。
そのため仁尾は、朝早くから会社へやって来て、その穴を埋めるための仕事に追われていました。
しかも今朝、本人へ事情を確認しようと電話をかけたところ――。
途中で切られました。
「はぁ――……」
また、ため息が漏れました。
「いつになったら、あの馬鹿者は一人前になってくれるのか……」
馬鹿者。
いったい、誰のことでしょうか。
ガチャ。
扉が開きました。
「一億ぅ〜♪ 一億ぅ〜♪」
一人の青年が、鼻歌を歌いながら会社へ入ってきます。
仁尾は椅子から立ち上がりました。
そして――。
「ばぁぁぁっかもん!!」
叫びました。
我慢できなかったようです。
そして、すぐに椅子へ座りました。
その青年こそ、昨日、取引先へ行かなかった馬鹿者。
阿倍野浩二です。
やっぱり、この人です。
そんな阿倍野は、呑気に片手を上げました。
「お、おざっす。部長」
「まずは謝らんか!!」
「あぁ……確かにそうですね」
意外にも、阿倍野は素直でした。
仁尾の席へ、ゆっくりと歩いていきます。
そして。
座っている仁尾と、阿倍野の視線が合いました。
阿倍野は頭を下げます。
「この度は勝手ながら、会社を辞めさせていただきます」
「今まで、ありがとうございやした」
「…………」
仁尾の目が点になりました。
「……は?」
なんせ仁尾の頭には、昨日の取引先の件しかなかったからです。
「は?」
「…………」
「は? は? は? は? は?」
言葉が「は?」しか出てきません。
「部長、ちゃんと話しましょう」
阿倍野は真剣な顔で言いました。
「あと、もう一つお願いがあります」
「……は?」
「一発、殴らせてください」
「は?」
この「は?」の使い方は正しいです。
「だって、いつも説教して俺を傷つけてたじゃないですか。いつも俺が我慢してたんですよ?」
阿倍野は、やれやれと首を振りました。
「部長のストレス発散に付き合ってあげてたんです。まったく、部長は世話がかかりますね」
「は?」
この「は?」の使い方も正しいです。
「だから、一発殴らせてください」
「…………」
仁尾が立ち上がりました。
「おお」
阿倍野は笑います。
「いきますね」
どうやら、殴っていいという意味だと思ったようです。
仁尾は拳を握りました。
そして。
「この――」
「ん?」
「バカちんがぁぁぁ!!」
ボゴンッ!!
「ぶへっ!?」
拳が頬へ飛びました。
阿倍野の拳ではありません。
仁尾の拳です。
阿倍野は後ろへ吹き飛び、尻もちをつきました。
「いってぇ!?」
「阿倍野ぉぉぉ!!」
仁尾は阿倍野に馬乗りになると、その胸ぐらをつかみました。
「お前みたいな奴が辞めてどうする!!」
「え?」
「どこかでまた雇ってもらえると思っているのか!!」
仁尾の顔が歪みます。
「お前が思っている以上にな……人生は甘くないんだぞ!!」
「…………」
「そんな甘い考えのお前を正すために……」
仁尾の声が震えました。
「俺は……俺は……俺は……!」
目に涙が浮かびます。
「頑張ってきたんだぞ……!!」
「…………」
仁尾は、悔しそうに涙を流しました。
今まで仁尾は、阿倍野が失敗するたび、その穴を埋めてきました。
取引先に謝り。
仕事をやり直し。
そして、阿倍野本人には厳しく説教してきました。
いつかは一人前になる。
いつかは、一人で仕事を任せられるようになる。
そう信じて。
心を鬼にして、叱ってきたのです。
阿倍野は、仁尾の涙が溜まった目を見つめました。
「部長……」
「阿倍野……」
「暴力はいけませんよ」
「…………」
阿倍野は拳を握りました。
「おらっ」
ボコンッ!!
「ぶへっ!?」
上半身を起こし、仁尾の頬を殴りました。
「はい。これでおあいこです」
阿倍野は満足そうに笑いました。
「俺も気分よく辞められますよ」
「…………」
仁尾の顔が引きつりました。
「は?」
そして。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
壊れました。
顔は真っ赤。
頭から蒸気でも吹き出しそうな勢いです。
まさに、泣いている赤鬼です。
「お前なんか!! どこも雇ってくれんわ!!」
「…………」
「野垂れ死ねばいい!!」
怒り狂う仁尾に対して、阿倍野は冷静でした。
「死にませんよ」
「何ぃ!?」
「俺、億万長者ですもん」
「…………」
仁尾の動きが止まりました。
「億万長者?」
「はい」
阿倍野は得意げに胸を張ります。
「俺、海で亀から玉手箱もらったんですよ」
「…………」
「それで昨日、仕事中に家帰って、ネットオークションに出品したら、一億円で入札されたんです」
「……は?」
仁尾は疑いの目を向けました。
当然です。
阿倍野は仁尾を無理やりどかし、立ち上がりました。
そして、殴られた拍子に転がったバッグを拾います。
「ほら、見せてあげますよ」
バッグを開け、中を探ります。
「えーっと……あった」
取り出しました。
そして、仁尾へ差し出します。
「ほら」
黒ずんだ、古びた箱。
「玉手箱」
「…………」
仁尾は近寄り、じっくりと箱を眺めました。
そして。
ぱしっ。
阿倍野の手をはたきました。
「誰が信じるか!!」
ごとん。
玉手箱が床へ落ちました。
「…………」
阿倍野は落ちた玉手箱を見つめました。
「あっ……」
そして、叫びます。
「俺の一億円!!」
慌てて拾い上げました。
「傷ついたらどうするんですか! 部長の退職金じゃ払えませんよ!」
「はぁ……」
仁尾は、もう怒る気力すら失ったようです。
「もういい……どっか行ってくれ……」
昨日、阿倍野が取引先へ行かなかった理由も理解しました。
玉手箱などという怪しい箱をネットオークションへ出すために仕事を放り出し、家へ帰った。
そして、そのまま仕事に戻らなかった。
「……はぁ」
仁尾は頭を抱えました。
「じゃあ、俺、それだけ言いに来たんで」
阿倍野は玉手箱をバッグへ戻しました。
「あと、俺の退職金は振り込んどいてください」
「払わん」
「……は?」
「お前のようなもんには払わん」
「そんな権限ないですよね?」
「うるさい! 払わん!」
「は? デブッチョにそんな権限ないだろ!」
「うるさい! 払わん!」
仁尾は一瞬、固まりました。
「…………お前」
「なんですか?」
「今、デブッチョって言ったか?」
「ふざけんなよ! なんのために働いてきたと思ってんだ! 退職金払え!」
「社会に貢献するためだ!!」
「知るか! 社会なんて俺一人が頑張ったところで大して変わらねぇよ! 退職金払え!」
「払わん!」
「払え!」
「払わん!」
「払え!」
「払わん!!」
ついに、大人二人が「払え」「払わん」で子どもの喧嘩を始めてしまいました。
その頃には、ほかの社員たちも続々と出社してきていました。
しかし。
「払え!」
「払わん!!」
誰も止めません。
二人の言い合いなど、日常茶飯事だからです。
社員たちは何事もなかったかのように、自分の席へ座り、仕事を始めました。
そのとき。
「なぁ」
「はい?」
会社の入り口。
若くして頭のてっぺんが禿げた男が、一人の社員へ声をかけました。
「一億男、知らねぇ?」
「一億男?」
社員は首を傾げます。
「いや、知りませんね」
「あ、そう……」
若禿の男は、会社の中を見渡しました。
「払えって!」
「払わんと言っとるだろうが!!」
「…………」
若禿の男の視線が止まります。
「……あいつだ」
荒川太一。
彼は見つけました。
一億男――阿倍野浩二を。
阿倍野浩二。
荒川太一。
二人の人生が交差し――。
物語が、進み始めます。
めでたし、めでたし。
――おしまい。




