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昔話を今語る  作者: 多幸
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14/15

第十四話 熊

今々、あるところに。


ちゃんこ屋で仕込みをする男がいました。


熊野又三です。


大柄な身体に、赤いエプロン。


太い指からは想像もできないほど繊細な手つきで、野菜を刻んでいました。


トントントントン。


一定のリズムで、包丁がまな板を叩きます。


そのとき。


――プルルルル。


電話が鳴りました。


熊野は包丁を置き、電話を取ります。


「はい、オラだべ」


『あ、熊野さん。千鶴です』


「おお、千鶴だべ」


『お願いしたいことがあるんですが、迎えに来てくれませんか?』


「迎え?」


『はい。足を骨折してしまって……動けないんです』


「なんとかなるべ」


『何がですか?』


「なんとかなるべ」


『いや、なってないので電話したんです』


「仕込みが終わったら行くべ」


『今すぐお願いします!』


「……わかったべ」


『ありがとうございます!』


「仕込みが終わったら、できるだけ早く行くべ」


『え? いや、それは今すぐじゃないです!』


「じゃあ、忙しいから切るべ」


『えっ、今から来てくれるんですよね!?』


「…………」


熊野は、まな板の上に残った野菜を見ました。


――ガチャン。


電話を切りました。


「…………」


再び包丁を握ります。


トントントントン。


「千鶴からの電話だったべ……」


野菜を刻みながら、呟きます。


「予約の電話じゃなかったべな」


「…………」


「まあ……なんとかなるべ」


なんとかなるのでしょうか。


※


「…………」


阿倍野は、改めて辺りを見回しました。


砕けた岩。


あちこちに散乱する石。


抉れた地面。


河川敷には、不自然なほど大量の岩が転がっています。


誰が見ても、おかしいと思うでしょう。


この男以外は。


「まあ……いいか」


少しだけ考えて。


「なんとかなるだろ。俺のせいじゃないし」


なりません。


しかも、無責任です。


ところで。


先ほども、同じようなことを言っていた男がいました。


当然。


二人に面識はありません。


阿倍野は、地面に倒れている荒川を見ました。


「で……若禿を、あのドジっ子のところまで連れていかないといけないわけか」


「…………」


考えます。


おんぶ。


「めんどくさいな」


却下。


肩を貸す。


「めんどくさいな」


却下。


それでは、どうするのか。


しばらく考えた末。


阿倍野は、ある方法を思いつきました。


「これでいいか」


荒川の両足を掴みます。


そして。


ズルズル。


ズルズル。


荒川の上半身を地面に引きずりながら、千鶴のいる場所を目指しました。


ズルズル。


「…………」


ズルズル。


「重っ……」


ズルズル。


数分後。


阿倍野は足を止めました。


進んだ距離。


およそ五メートル。


「…………」


そのとき。


阿倍野の頭に、ある考えが浮かびました。


「そうだ」


ひらめきました。


「こいつが歩けるようになるまで、待てばいいじゃん」


完璧な解決策です。


阿倍野は荒川の足を離しました。


そして、その場に座ります。


労働が嫌いな阿倍野は。


身体ではなく、時間を使うことにしました。


「…………」


荒川は、まだ気絶しています。


「暇だな」


自業自得です。


――パーパラ、パーパラ。


そのとき。


河川敷に、大きな音が響きました。


「ん?」


阿倍野が顔を上げます。


一台の黒い車が、こちらへ向かって走ってきていました。


「なんだ?」


どうやら、阿倍野の方へ向かっているようです。


黒い車は、そのまま近づいてきて。


阿倍野の目の前で止まりました。


「…………」


運転席の窓が、ゆっくりと開きます。


中にいたのは。


大柄な男でした。


赤いエプロンを着た、見るからに大きな男です。


男が口を開きます。


「オラだべ」


「…………」


「オラ、オラだべ」


「……なんでオラオラしてんだ?」


阿倍野が眉をひそめました。


「俺、なんかした?」


「だから、オラだべ」


「何だよ、オラって」


阿倍野は警戒します。


「オラついてんじゃねぇよ」


「オラはオラだべ」


「意味わかんねぇよ」


阿倍野は傍らに置いていた《玉手箱》を持ち上げました。


すでに蓋は閉じています。


「これ使うぞ……オラ」


《玉手箱》を見せつけ、威圧します。


ですが。


男から返ってきた言葉は、変わりません。


「オラだべよ」


「なんなんだよ……」


阿倍野は頭を掻きました。


「今日会うやつ、変なやつばっかりだな」


地面では、一億円が気絶しています。


車の中では、大男がオラオラしています。


大変な一日です。


「あのさぁ、俺も暇じゃないからさ」


暇です。


先ほどまで、一億円が目を覚ますのを座って待っていました。


「一億をドジっ子のところまで連れていかないと――」


そう言いながら。


阿倍野は車へ近づきました。


開いた運転席の窓から文句を言おうとして。


「…………」


気づきます。


運転席ではありません。


その隣。


助手席に。


見覚えのある女が座っていました。


「ドジっ子」


「…………」


千鶴です。


千鶴は無視しました。


「おい、ドジっ子」


「…………」


やはり無視します。


「千鶴、知り合いだべか?」


先ほどからオラオラしている男が尋ねました。


「知り合いじゃありません」


千鶴は即答します。


「いや、知り合いだろ」


阿倍野は千鶴を指差しました。


「そいつ、一億円を俺にくれるやつ」


少し考えて。


「一億女」


「誰が一億女ですか!」


しまった。


千鶴は思わず反応してしまいました。


「知り合いだべな」


男が千鶴を見ます。


「千鶴、いつから改名したんだべ?」


「改名してませんよ!」


「じゃあ、なんで一億女なんだべ?」


「私が聞きたいです!」


千鶴はため息をつきました。


「というか、『ドジっ子』と呼ぶので無視してたんです」


「だって名前知らねぇよ」


「名乗りましたよ!」


「そうだっけ?」


「名乗りました!」


「…………」


そんな二人の会話を聞いていた大男が、口を開きました。


「オラは熊野又三だ」


「いや、聞いてないけど」


「熊野又三だべ」


「二回言わなくていいよ」


「熊野だべ。覚えたべ?」


「マイペースか……まあ、たぶん覚えた」


阿倍野は熊野を見上げます。


「変な大男。熊みたいなやつ」


「それ、名前覚えてませんよね」


千鶴がツッコミます。


熊野又三。


どうやら。


また変な男が増えたようです。


「早く乗るべ」


熊野が言いました。


「一億円も乗せるのか?」


「一億円も持ってるんだべか。金持ちだべな」


「違いますよ」


千鶴が河川敷を指差します。


「あそこに寝ている……禿げている人のことですよ」


「ああ、あの人のことだべか」


熊野が、地面に倒れている男を見ました。


「名前はなんていうんだべ?」


「若禿」


阿倍野が答えます。


「それは、あなたが勝手につけたあだ名でしょ」


「じゃあ、なんていうんだよ」


「それは…………」


千鶴が黙りました。


「…………」


「…………」


熊野も待っています。


誰も答えません。


「…………」


どうやら。


誰も覚えていないようです。


「まあ……」


千鶴は少し考えて。


「とりあえず、若禿さんでいいですね」


「ほらな、合ってんじゃねぇか」


「早く乗せてください」


荒川がかわいそうです。


阿倍野は倒れている荒川のところまで歩いていきました。


そして。


両足を掴みます。


ズルズル。


「ちょっと! 頭を引きずったら禿げますよ!?」


「いや、もうハゲてるよ」


「まあ、そうなんですけど!」


千鶴は熊野を見ました。


「熊野さん、手伝ってください!」


「なんとかなるべ」


「ならないから言ってるんです!」


「…………」


熊野は車から降りました。


そして。


ひょいっ。


荒川を軽々と持ち上げ、そのまま後部座席へ乗せました。


阿倍野が数分かけて五メートルで諦めた作業は。


一瞬で終わりました。


「…………」


阿倍野はそれを眺めています。


「最初からお前がやれよ」


「今来たべ」


「そうか」


阿倍野は納得しました。


「なら、待って正解だったな」


「…………」


「やっぱ適材適所だな」


「あなたに適所なんてあるんですか?」


千鶴が尋ねました。


「たしかに……ないかもな」


阿倍野は素直に納得しました。


「…………」


「……ごめんなさい」


千鶴は、思わず謝ってしまいました。


こうして。


骨折した女と。


赤いエプロンの大男と。


一億円を欲しがる男と。


一億円になる予定の若禿を乗せた黒い車は。


河川敷を後にしました。


ところで。


最後まで誰も、荒川の名前を思い出しませんでした。


めでたし、めでたし。


――おしまい。



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