第十四話 熊
今々、あるところに。
ちゃんこ屋で仕込みをする男がいました。
熊野又三です。
大柄な身体に、赤いエプロン。
太い指からは想像もできないほど繊細な手つきで、野菜を刻んでいました。
トントントントン。
一定のリズムで、包丁がまな板を叩きます。
そのとき。
――プルルルル。
電話が鳴りました。
熊野は包丁を置き、電話を取ります。
「はい、オラだべ」
『あ、熊野さん。千鶴です』
「おお、千鶴だべ」
『お願いしたいことがあるんですが、迎えに来てくれませんか?』
「迎え?」
『はい。足を骨折してしまって……動けないんです』
「なんとかなるべ」
『何がですか?』
「なんとかなるべ」
『いや、なってないので電話したんです』
「仕込みが終わったら行くべ」
『今すぐお願いします!』
「……わかったべ」
『ありがとうございます!』
「仕込みが終わったら、できるだけ早く行くべ」
『え? いや、それは今すぐじゃないです!』
「じゃあ、忙しいから切るべ」
『えっ、今から来てくれるんですよね!?』
「…………」
熊野は、まな板の上に残った野菜を見ました。
――ガチャン。
電話を切りました。
「…………」
再び包丁を握ります。
トントントントン。
「千鶴からの電話だったべ……」
野菜を刻みながら、呟きます。
「予約の電話じゃなかったべな」
「…………」
「まあ……なんとかなるべ」
なんとかなるのでしょうか。
※
「…………」
阿倍野は、改めて辺りを見回しました。
砕けた岩。
あちこちに散乱する石。
抉れた地面。
河川敷には、不自然なほど大量の岩が転がっています。
誰が見ても、おかしいと思うでしょう。
この男以外は。
「まあ……いいか」
少しだけ考えて。
「なんとかなるだろ。俺のせいじゃないし」
なりません。
しかも、無責任です。
ところで。
先ほども、同じようなことを言っていた男がいました。
当然。
二人に面識はありません。
阿倍野は、地面に倒れている荒川を見ました。
「で……若禿を、あのドジっ子のところまで連れていかないといけないわけか」
「…………」
考えます。
おんぶ。
「めんどくさいな」
却下。
肩を貸す。
「めんどくさいな」
却下。
それでは、どうするのか。
しばらく考えた末。
阿倍野は、ある方法を思いつきました。
「これでいいか」
荒川の両足を掴みます。
そして。
ズルズル。
ズルズル。
荒川の上半身を地面に引きずりながら、千鶴のいる場所を目指しました。
ズルズル。
「…………」
ズルズル。
「重っ……」
ズルズル。
数分後。
阿倍野は足を止めました。
進んだ距離。
およそ五メートル。
「…………」
そのとき。
阿倍野の頭に、ある考えが浮かびました。
「そうだ」
ひらめきました。
「こいつが歩けるようになるまで、待てばいいじゃん」
完璧な解決策です。
阿倍野は荒川の足を離しました。
そして、その場に座ります。
労働が嫌いな阿倍野は。
身体ではなく、時間を使うことにしました。
「…………」
荒川は、まだ気絶しています。
「暇だな」
自業自得です。
――パーパラ、パーパラ。
そのとき。
河川敷に、大きな音が響きました。
「ん?」
阿倍野が顔を上げます。
一台の黒い車が、こちらへ向かって走ってきていました。
「なんだ?」
どうやら、阿倍野の方へ向かっているようです。
黒い車は、そのまま近づいてきて。
阿倍野の目の前で止まりました。
「…………」
運転席の窓が、ゆっくりと開きます。
中にいたのは。
大柄な男でした。
赤いエプロンを着た、見るからに大きな男です。
男が口を開きます。
「オラだべ」
「…………」
「オラ、オラだべ」
「……なんでオラオラしてんだ?」
阿倍野が眉をひそめました。
「俺、なんかした?」
「だから、オラだべ」
「何だよ、オラって」
阿倍野は警戒します。
「オラついてんじゃねぇよ」
「オラはオラだべ」
「意味わかんねぇよ」
阿倍野は傍らに置いていた《玉手箱》を持ち上げました。
すでに蓋は閉じています。
「これ使うぞ……オラ」
《玉手箱》を見せつけ、威圧します。
ですが。
男から返ってきた言葉は、変わりません。
「オラだべよ」
「なんなんだよ……」
阿倍野は頭を掻きました。
「今日会うやつ、変なやつばっかりだな」
地面では、一億円が気絶しています。
車の中では、大男がオラオラしています。
大変な一日です。
「あのさぁ、俺も暇じゃないからさ」
暇です。
先ほどまで、一億円が目を覚ますのを座って待っていました。
「一億をドジっ子のところまで連れていかないと――」
そう言いながら。
阿倍野は車へ近づきました。
開いた運転席の窓から文句を言おうとして。
「…………」
気づきます。
運転席ではありません。
その隣。
助手席に。
見覚えのある女が座っていました。
「ドジっ子」
「…………」
千鶴です。
千鶴は無視しました。
「おい、ドジっ子」
「…………」
やはり無視します。
「千鶴、知り合いだべか?」
先ほどからオラオラしている男が尋ねました。
「知り合いじゃありません」
千鶴は即答します。
「いや、知り合いだろ」
阿倍野は千鶴を指差しました。
「そいつ、一億円を俺にくれるやつ」
少し考えて。
「一億女」
「誰が一億女ですか!」
しまった。
千鶴は思わず反応してしまいました。
「知り合いだべな」
男が千鶴を見ます。
「千鶴、いつから改名したんだべ?」
「改名してませんよ!」
「じゃあ、なんで一億女なんだべ?」
「私が聞きたいです!」
千鶴はため息をつきました。
「というか、『ドジっ子』と呼ぶので無視してたんです」
「だって名前知らねぇよ」
「名乗りましたよ!」
「そうだっけ?」
「名乗りました!」
「…………」
そんな二人の会話を聞いていた大男が、口を開きました。
「オラは熊野又三だ」
「いや、聞いてないけど」
「熊野又三だべ」
「二回言わなくていいよ」
「熊野だべ。覚えたべ?」
「マイペースか……まあ、たぶん覚えた」
阿倍野は熊野を見上げます。
「変な大男。熊みたいなやつ」
「それ、名前覚えてませんよね」
千鶴がツッコミます。
熊野又三。
どうやら。
また変な男が増えたようです。
「早く乗るべ」
熊野が言いました。
「一億円も乗せるのか?」
「一億円も持ってるんだべか。金持ちだべな」
「違いますよ」
千鶴が河川敷を指差します。
「あそこに寝ている……禿げている人のことですよ」
「ああ、あの人のことだべか」
熊野が、地面に倒れている男を見ました。
「名前はなんていうんだべ?」
「若禿」
阿倍野が答えます。
「それは、あなたが勝手につけたあだ名でしょ」
「じゃあ、なんていうんだよ」
「それは…………」
千鶴が黙りました。
「…………」
「…………」
熊野も待っています。
誰も答えません。
「…………」
どうやら。
誰も覚えていないようです。
「まあ……」
千鶴は少し考えて。
「とりあえず、若禿さんでいいですね」
「ほらな、合ってんじゃねぇか」
「早く乗せてください」
荒川がかわいそうです。
阿倍野は倒れている荒川のところまで歩いていきました。
そして。
両足を掴みます。
ズルズル。
「ちょっと! 頭を引きずったら禿げますよ!?」
「いや、もうハゲてるよ」
「まあ、そうなんですけど!」
千鶴は熊野を見ました。
「熊野さん、手伝ってください!」
「なんとかなるべ」
「ならないから言ってるんです!」
「…………」
熊野は車から降りました。
そして。
ひょいっ。
荒川を軽々と持ち上げ、そのまま後部座席へ乗せました。
阿倍野が数分かけて五メートルで諦めた作業は。
一瞬で終わりました。
「…………」
阿倍野はそれを眺めています。
「最初からお前がやれよ」
「今来たべ」
「そうか」
阿倍野は納得しました。
「なら、待って正解だったな」
「…………」
「やっぱ適材適所だな」
「あなたに適所なんてあるんですか?」
千鶴が尋ねました。
「たしかに……ないかもな」
阿倍野は素直に納得しました。
「…………」
「……ごめんなさい」
千鶴は、思わず謝ってしまいました。
こうして。
骨折した女と。
赤いエプロンの大男と。
一億円を欲しがる男と。
一億円になる予定の若禿を乗せた黒い車は。
河川敷を後にしました。
ところで。
最後まで誰も、荒川の名前を思い出しませんでした。
めでたし、めでたし。
――おしまい。




