第23話 後編 代償の名
「……いつから、気づいておられましたか」
セレスは、本を閉じなかった。ゆっくりと、指を栞の位置に挟む。
「あなたが入ってきたときから。紹介状は、本物でした。ですが、あなたの目は、織物を探す人のものではなかった」
老司書は、扉に鍵をかけた。
「『黒き板』の記述を、閲覧した者は、司祭長に、報告する決まりでして」
「報告、なさるのですか」
「ええ。ただし」
老司書は、懐から、小さな銀の笛を取り出して、机の上に置いた。
「笛を吹けば、聖騎士が、五人は来ます。ですが、吹かないことも、できる」
「…………」
「私は、三十年、この資料室にいます。マレン殿を、知っていました」
セレスの眉が、わずかに動いた。
「彼女は、よくここへ来ました。黒い板を、胸に抱いて」
老司書は、遠くを見るような目をした。
「彼女が、最後にここを訪れた夜、こう言いました。『私は、三つ目の鍵の儀式に、手をかけてしまった。だから、大切な誰かを、忘れてしまった。それが誰なのかも、思い出せない』と」
「大切な、誰か……?」
「詳しくは、語りませんでした。ただ、翌朝、彼女は、街を去った。板と共に」
老司書は、笛を、懐へ戻した。
「あなたの主は、板の、今の持ち主ですね」
「……はい」
「ならば、お伝えください。三つ目の鍵は、決して、開けてはならない。代償は、思っているより、重い」
「何が、失われるのですか」
「それは」
老司書は、目を閉じた。
「持ち主にとって、世界で最も大切な、縁です。恋人、親、子。……あるいは、仲間」
沈黙が、資料室に落ちた。
「教えてください」
セレスは、静かに、言った。
「長老は、地下牢に、いますか」
「います。地下大聖堂へ続く、旧礼拝堂の、さらに下。三階層目の、独房です」
「警備は」
「聖騎士が、六人。ただし、満月の夜は、ほとんどが、大聖堂の儀式に、集められる」
「儀式?」
「司祭長ガルシア様が、第二の鍵を、解放する儀式を、執り行われます。青印の者たちと、共に」
老司書の声が、低くなった。
「教会は、一枚岩では、ありません。司祭長は、板を手に入れ、封印を解こうとしている。それを、止めようとする者も、わずかですが、います」
「あなたも、その一人ですか」
「さあ。私は、ただの、老いた司書です」
老司書は、ふっと笑い、扉の鍵を、外した。
「お帰りなさい。私は、何も、見ておりません」
セレスは、深く、一礼した。
「ありがとうございます」
「礼は、無用です。ただ、一つだけ」
背中に、声が掛かった。
「あの板は、悪いものでは、ありません。マレン殿が、そう信じていました。……どうか、その持ち主を、支えてあげてください」
「……はい」
廊下に出たとき、セレスの手は、微かに、震えていた。
(代償。最も大切な、縁)
その言葉が、頭から、離れなかった。
日が暮れかけた白樺屋の応接間で、彼女は、すべてを、報告した。
シルファが、拳を、握りしめた。
「……縁を、失う?」
「あくまで、教会の記録です。確証は、ありません」
「でも、ヴェイルは、『板に殺された』って」
「つまり、マレンさんの、大切な人が」
セレスは、言葉を、切った。
俺は、黙って、膝の上の板を見つめた。
画面が、淡く、光っている。
『私は、あなたを、傷つけません』
以前、表示された、あの一文。
「……板は、嘘をついてない」
「え?」
「板自身は、俺を、傷つけない。傷つくのは、鍵を、開けた、結果だ」
自分に、言い聞かせるように、言った。
「三つ目の鍵を、開けなければいい。第一と第二の鍵で、長老を救い、里を取り戻す。三つ目には、手を出さない」
「それで、いいの?」
シルファが、不安げに、俺を見た。
「ヴェイルや、司祭長が、三つ目を、狙っているなら」
「止める。俺たちで」
「……そうね」
彼女は、小さく、頷いた。
そのとき、玄関の扉を、叩く音がした。
「失礼します!」
ベルトランが、慌てた様子で、飛び込んできた。
「大変です。灰青商会の、私兵が、この屋敷の周囲を、囲んでおります!」
「何だって」
窓の外を見ると、雪の中、灰と青の旗を掲げた男たちが、じりじりと、輪を狭めていた。
「裏口は」
「教会の、兵も、現れました! 両方が、今、にらみ合っています!」
三つ巴の、膠着状態。
シルファが、弓を握った。
「どうする、レイジ」
「……ベルトランさん。地下の隠し部屋は、通路に、つながっていますか」
「は、はい。旧教会区の、地下水路に」
「なら、そこから出る。今夜のうちに」
板が、ふいに、強く、脈打った。
『鈴の音が、通路を、開きます』
銀の鈴を、握りしめる。
満月まで、あと、十七日。
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