第2話 前編 一杯の水
第2話 前編 一杯の水
「水……ですか。ちょっと待ってくれ」
俺は膝をついて、黒い板を覗き込んだ。残高は銅貨0枚。買えるものは何もない。
「くそ、さっき全部使っちまった……」
そのとき、画面の隅に小さな通知が浮かんだ。
『初回ご利用ありがとうございます。ログインボーナス:銅貨 5 枚』
「……ありがたい。営業時代の俺なら、こういうサービスを一番に疑ったけどな」
今は疑っている余裕がない。『飲料』のカテゴリーを開き、一番上にあった透明な容器の画像を確定した。
『天然水 500ml 銅貨 1 枚』
次の瞬間、足元にペットボトルが転がった。冷たさまで本物だ。
「ほら、飲めるか? 蓋はこう捻って開ける」
少女は震える手でボトルを受け取り、不思議そうに眺めてから、蓋を回した。
一口含んで、目を見開く。
「……冷たい。それに、すごく澄んでいます」
あとは夢中だった。喉を鳴らして飲み干し、空になったボトルを両手で抱えたまま、ほっと息を吐く。
「ありがとうございます。助かりました。あなたは、命の恩人です」
「大げさだって。まず傷を見せてくれ」
近くで見ると、ひどい有様だった。腕と膝は擦り傷だらけで、足首には赤黒い擦れ跡がある。枷を嵌められていた跡だ。両手首にも同じものがあった。
思わず眉が寄った。
「……誰にやられた」
少女は目を伏せた。
「それは……あとでお話しします。今は、ここを離れないと」
俺は黙って頷き、通販の画面に戻った。『救急用品』のカテゴリーを開く。
『消毒液+ガーゼ+包帯セット 銅貨 2 枚』
確定。小さな箱が床に現れた。
「沁みるぞ。ちょっと我慢してくれ」
「は、はい。……っ」
少女は歯を食いしばったが、声は出さなかった。傷口を洗って消毒し、ガーゼを当てて包帯を巻いていく。前の会社の新人研修で救急法を習っていてよかった。あれだけは、本当に役に立った。
「……手際がいいですね」
「前に、ちょっとだけ習ったんだ」
手当てを終える頃には、少女の顔色が少し戻っていた。月明かりのような銀髪が、松明の光で淡く揺れている。
「改めて、名前を聞いてもいいか? 俺はレイジだ」
「レイジさん。……私は、シルファと申します」
「シルファか。いい名前だな」
「あ、ありがとうございます」
彼女は慌てたように耳を伏せ、それから意を決したように顔を上げた。
「さっきの話です。私は、奴隷商人に追われています。ここへは、護送の馬車が襲われた混乱に紛れて逃げ込みました」
「奴隷商……」
この世界に、そういう商売があることは知っていた。実際に被害者を見るのは初めてだった。
「巻き込むわけにはいきません。私のことは、ここに置いて行ってください。レイジさんにまで迷惑が……」
「ここに置いて行ったら、君はどうなる」
「……」
「さっきの狼に食われるか、追っ手に見つかるか、どっちかだろ」
シルファは唇を結んで答えなかった。
俺はため息をひとつ吐いて、立ち上がった。
「とりあえず、ここを出よう。歩けるか?」
「……本当に、いいのですか?」
「見捨てて寝覚めの悪い思いをするほうが、よっぽど面倒だ」
営業職の習性だった。面倒な案件ほど、後回しにすると面倒が増える。
最後の銅貨二枚で、俺は『使い捨てレインコート 銅貨 2 枚』を買った。半透明の黄色いフードを、少女の頭にすっぽり被せる。
「こ、これは……?」
「耳を隠すためだ。見た目はちょっと変だが、我慢してくれ。それと」
俺は薬草を詰めた袋を肩にかけ直し、壊れかけた壁に目をやった。
「ここから先は、足音を立てないで歩くぞ。グレイウルフが戻ってくるかもしれない」
シルファは小さく頷き、俺の袖をそっと掴んだ。
ダンジョンの入口まで戻ってきたときには、外はすっかり夕暮れだった。
入口の脇に、古い見張り用の物置小屋がある。俺はシルファをそこに座らせた。
「ここで待っててくれ。ギルドで薬草を換金して、すぐ戻る。誰が来ても、扉は開けるなよ」
「はい。……あの、レイジさん」
「ん?」
「戻ってきて、くださいますか?」
不安そうに見上げる赤い瞳に、俺は笑ってみせた。
「当たり前だ。置いてくなら、最初から連れて来てない」
シルファの肩から、ふっと力が抜けた。
「……はい。お待ちしています」
扉を閉め、俺は街へ向かって駆け出した。




