第8話 後編 頭を下げに来た男
薬は、規定の四分の一だけを、水に溶かして飲ませた。
シルファが、オルガの横に座って、一晩中、様子を見てくれた。夜半に熱がわずかに下がり、朝には、咳もだいぶ落ち着いた。
「……ああ、楽になった」
翌朝、オルガは、寝台の上で、ゆっくりと身を起こした。
「ありがとうよ。あんたたちは、命の恩人だ」
「大げさです。まだ、安静にしてください」
「ふふ。じゃあ、約束の、昔話をしようかね」
彼女は、窓の外を眺めながら、ぽつりと話し始めた。
「あんたたちが借りた家には、マレンっていう薬師が住んでたんだ。私の、たった一人の友達だった」
「マレンさん」
「変わった人でね。夜になると、よく、黒くて四角い板を撫でてた。そこから、不思議な薬を、ひょいひょい取り出してたよ」
俺は、息を呑んだ。
シルファが、そっと、俺の袖を握る。
「その、板は」
「亡くなるときに、どこかへ消えちまったよ。『もう、必要なくなったから』って、笑ってた」
「消えた?」
「ああ。持ち主を選ぶ板だ、って言ってたね。『次に呼ばれる人が、きっと現れる』ってさ」
窓から差し込む光が、老婆の白髪を柔らかく照らしている。
「あんたが、その『次の人』なのかもしれないねえ」
「……そうかもしれません」
「だとしたら、頼みがある。マレンの家を、大事にしておくれ」
「はい。約束します」
オルガは、満足げに目を閉じた。
「ありがとう。それだけで、十分だよ」
その日の午後、家の前に、思いがけない客が立っていた。
ダインだった。
「……よう」
「どうした。こんなところまで」
「いや、その、な」
彼は、気まずそうに頭を掻いて、それから、深く頭を下げた。
「悪かった。あのとき、何も言えなくて」
「ダイン」
「お前が追い出されたとき、おかしいと思ってたんだ。でも、ボルクに逆らうのが怖くて、黙ってた」
顔を上げた彼の目は、疲れ切っていた。
「ボルクは、今、焦ってる。依頼を二つも失敗して、パーティーの評判が地に落ちた。ギルド長にも、目をつけられてる」
「……そうか」
「今日は、別の件で来たんだ。頼みがある」
「頼み?」
「道具を売ってくれ、とは言わねえ。ただ、教えてくれ。野営で腹を壊さない方法を。水を、腐らせない方法を」
俺は、ダインの顔を、しばらく眺めた。
悪意は、ない。ただ、疲れた男が、必死に頭を下げている。
「……上がれよ。茶ぐらい出す」
「いいのか」
「ああ。ただ、条件がある」
「何でも」
「ボルクには、俺の道具のことは、言わないこと。それだけだ」
ダインは、目を丸くして、それから、ほっとしたように笑った。
「恩に着る」
居間で、湯を沸かしながら、俺は基本の知識を伝えた。
水は、必ず沸かしてから飲むこと。生肉と調理済みの食べ物を、同じ容器に入れないこと。傷んだ食材を見分けるコツ。火の番は、交代制にすること。
道具の話は、一切しない。ただの、営業時代に覚えた衛生管理と、段取りの話だ。
シルファが、横で黙って聞いていた。
ダインが帰ったあと、彼女は、ぽつりと言った。
「……あの人に、なんで、教えたの」
「別に、特別な理由はない」
「でも、あなたを傷つけた人たちの、仲間よ」
「ああ。でも、あいつは、頭を下げに来た。それだけで、十分だ」
「……お人好し」
「営業は、情けは人のためならず、って言うだろ」
「何、それ」
「俺の国の言葉だ。回り回って、自分に返ってくる、って意味」
シルファは、ちょっと呆れたように、でも、少し嬉しそうに、笑った。
その夜、窓の外の路地を、何気なく眺めていたとき、ふと、視線を感じた。
通りの向かいの路地の陰に、黒い外套の男が一人、立っている。
顔は見えない。ただ、右手の甲に、青い刺青のようなものが、月明かりに浮かんでいた。
男は、こちらを一瞥して、すっと闇に溶けるように消えた。
「……レイジ?」
「いや。何でもない」
背筋に、冷たいものが走った。
あの刺青は、ゴブリンの持っていた手枷の鉄輪にも、刻まれていた気がする。




