第8話 前編 隣人の咳
銀貨十八枚で、財布が一気に潤った。
その夜、俺はひとまず、黒い板に銀貨十枚を預けた。
『お客様の評価:★ 2.4』
『所持金:銀貨 12 枚 銅貨 7 枚』
評価は、また上がっている。新しく解放されたカテゴリーはなかったが、昨日開いたばかりの『医薬品(一部)』の中身を、ようやく落ち着いて確認する余裕ができた。
『解熱鎮痛薬 12錠入り 銅貨 3 枚』
『総合感冒薬 顆粒 銅貨 3 枚』
『胃腸薬 銅貨 2 枚』
『消毒用エタノール 銅貨 2 枚』
どれも、前の世界ではドラッグストアで手に入る、ありふれた品だ。
だが、この世界では、命を左右しかねない。
「……使いどころが、難しいな」
「どうして?」
シルファが、膝を抱えて、画面を覗き込んでいる。
「例えば、薬が効きすぎて、命を落とす人が出るかもしれない。逆に、体質に合わなくて、副作用が出るかもしれない。この世界の人間には、まだ誰も試していない」
「……私たちのほうの薬草は、ダメなの?」
「いや、それも大事だ。この世界には、この世界の薬がある。通販の薬は、本当に困ったときの、最後の手段にしたい」
「うん。そのほうが、いいと思う」
彼女は、少し嬉しそうに頷いた。
「やっぱり、レイジは、調子に乗らない人ね」
「それ、褒めてるのか?」
「褒めてる」
その時、壁の向こうから、乾いた咳が聞こえてきた。
「……隣だ」
「オルガさん?」
咳は、何度も続いた。苦しそうな、湿った音。
「様子を見てくる」
隣家の扉を叩くと、しばらくして、小さな返事があった。
「……鍵は、開いてるよ」
中に入ると、狭い部屋の寝台に、オルガが横たわっていた。顔は赤く、額に汗が滲んでいる。
「風邪かい。ちょっと、こじらせたみたいでねえ」
「熱がありますね。薬は?」
「薬草茶を、飲んでるけどね。この歳になると、なかなか」
俺は、シルファと顔を見合わせた。
「……シルファ、森の民の知識で、何か判断できるか?」
「熱が高い。咳も、湿ってる。肺に、炎症が出てるかもしれない」
彼女は、オルガの手首に指を当てて、しばらく黙っていた。
「脈が速い。このままだと、数日で悪化するわ」
「……そうか」
迷った。
通販の薬を、この世界の老人に、飲ませていいのか。
「レイジ」
「ああ」
「私に、決めさせて」
「何を」
「あなた一人で、背負わないで。私も、一緒に決める」
彼女の瞳は、まっすぐだった。
「オルガさんが、薬を飲むかどうか。それは、オルガさん自身に聞くべきよ」
「……そうだな」
俺は、寝台の傍らに膝をついた。
「オルガさん。俺は、遠い国から来た道具を持ってます。熱を下げて、咳を鎮める薬が、あります。ただ、この国の人が飲んだことはありません」
「ほう」
「危険がゼロとは、言い切れません。それでも、飲みますか」
老婆は、見えにくい目を、ゆっくりと俺に向けた。
「あんたの目は、嘘をついてない」
「……はい」
「なら、いいよ。もし、駄目なら、そのときは、そのときさ」
オルガは、かすれた声で笑った。
「ただね、その代わり、一つだけ、約束しとくれ」
「何でしょう」
「この婆さんの、昔話を、聞いておくれ」




