籠絡は必要なかった
ダンッ!
路地裏に何かが叩きつけられる音が響いた。
壁を背にへたり込んでいる男の頭の左右には華奢な女の腕がある。そこだけを見れば、愛をささやき合っている恋人に見えなくもない。
壁ドンにより壁にヒビが走り、男は血の気をなくした顔色で、女は微笑みながら殺気を撒き散らしていることを除けば、だが。
「ひっ、す、すまなかった! 小遣い稼ぎのつもり「覚悟はしたの?」」
男のくだらぬ弁明は女の冷ややかな言葉によって遮られた。
女は男の耳元に唇を寄せて言葉を紡ぐ。
それは愛なんて薄っぺらい言葉ではない。
裏で生き抜くことを覚悟した人間の言葉だ。
「貴方は――簡単には死ねない覚悟をしたの?」
「は?」
こんな状況でも間の抜けた声を出せる男に女――セナは内心で感心しながら眼鏡を外した。
アメジストを嵌め込んだような紫色の瞳が真っ直ぐに男を射抜く。
「だって、死ぬのは一瞬よ?」
クスリと小馬鹿にするような声を漏らした。
「生き続けるほうが何倍も何十倍も何百倍も、辛いに決まっているじゃない。」
「ははっ! ビビって損したぜ! 何を言うかと思えば何も知らない小娘じゃねぇか! いいか? 裏ではな、最後まで立ってたやつが勝ちなんガッ――」
男は空気の塊を吐き出して動かなくなった。鳩尾にはセナの拳が深くめり込んでいる。
「確かに、最後まで立っていた人間が勝ちなのは事実よ。でもね、私達は――」
暗い瞳で淡々と呟くセナの言葉は徐々に小さくなり、最後は風に掻き消された。
「あっ、死んでないわよね?」
我に返ったセナは脈を測って男が生きているかを確認し、安堵のため息を吐いた。
「助骨にヒビが入っただけね。」
(籠絡する価値のない小物だったなんてね。もしくはこれもトカゲの尻尾切りか……)
男の首根っこを掴み、そのままズルズルと引きずっていく。
路地裏にはヒビ割れた壁だけが残された。
✽✽✽
「白愛さん、お土産です。」
セナがやって来たのは白愛のもとだった。
白愛は最初からわかっていたのか、はたまた慣れているのか、余裕の表情を崩さない。
「あらぁ、セナちゃんがお土産を持ってくるなんて珍しいじゃなぁい。彼氏にでも貰ったの?」
「……なぜそのように思ったのでしょうか?」
(当たらずとも遠からずなのが怖いわ……)
セナの問いに白愛は拳を握り、バンと机に手をついた。
その拍子に倒れたインク壺が書類を黒く染めているのも気にせずに熱く語り出す。
「セナちゃんがオシャレしているからよ! 白いミニスカートに水色の肩出しトップス、髪も三つ編みにして低い位置で結んでいる……さらにシュシュまで! 私がどんなに可愛い服を勧めても黒いワンピースしか着ないあのセナちゃんがっ、こんな格好している理由は恋愛関係しかないわ!」
「仕事ですのでご安心を。」
半ば被せるようにして否定した。
セナの取り付く島もない返答に白愛は深くため息を吐いた。
「セナちゃんに春が来る日は遠そうねぇ……」
(どこぞのおせっかいなおばさんみたいね。ま、本心は私を裏に繋ぎ止めるためでしょうけど。)
裏社会の人間の言葉を額面通りに受け取ってはならない。特に、商魂逞しい商人の言葉は返答にも気を遣わなければならない。
「生憎と、私は一生独身でしょうね。」
(異能者を慕う奇特な人間はそういないもの。)
セナの脳裏に自分を慕ってくれていた双子の顔が過った。
しかし、すぐに頭の片隅へと追いやる。
(私とはもう関係ないもの。)
「はぁ……セナちゃんを慕う男どもは大変ねぇ。」
「そんなことより、本題に入ってもよろしいでしょうか?」
訊いてはいるが、セナは返事を待つ気はない。
いつの間にか用意されていた紅茶を一口飲んでから口火を切った。
「少し、この……表向きは女の子を誘拐して売り飛ばしている男に探りを入れてみました。最終的には籠絡して全て教えてもらう予定だったのですが、多少手荒でも問題なかったのでこのまま連れてきました。」
そう言いながら床に転がしておいた男の額に足を乗せ、軽く擦った。ビリっと何かが破れる音が響き、男の素顔が顕になった。
どこにでもいる平凡な顔立ちの男は先日、セナに白愛からの手紙を届けた者である。
「あらぁ、気が利くじゃなぁい。」
「お土産、お気に召していただけましたか?」
「えぇ。とっても。これを期にアンスリウムで働いてみない?お給料弾むわよぉ。」
白愛は凄みのある笑顔を讃えて立ち上がり、男の鳩尾を躊躇いなく踏みつけた。
「あグッ!?」
男は咳き込みながら意識を取り戻した。
だが、白愛は足を退かさない。
「やっぱり」
ニヤリと口角を上げた。
「助骨、折れてたのねぇ。」
「気絶させる時に殴ったら折れまして。楽しみを奪ってしまう結果になったことは謝罪します。」
丁寧に頭を下げるセナに白愛は「気にしないで」と言い、顔を上げさせた。
「骨が折れてるだけなら問題ないわよぉ。むしろ――」
白愛のブルーグレーの瞳は爛々と輝き、心なしか赤い髪は逆立っているように見える。その姿は獰猛な獅子を思わせる。
「裏切り者を拷問する機会を用意してくれたことに感謝するわぁ。」




