第5話 ただいまを待つ人
帰ることと、戻ることは同じではありません。
大切な人が待っている場所でも、そこがもう自分の居場所ではないことがあります。
それでも、「ただいま」を言えなかった人は、いつまでも帰り道を歩き続けます。
錆びた電車が、白石康介へ迫っていた。
線路を削るような轟音。
きいぃぃぃぃぃ――。
車輪が甲高い悲鳴を上げる。
だが、速度は落ちない。
窓に並んだ白い顔が、一斉に笑っていた。
『おかえりなさい』
駅のスピーカーから女の声が流れる。
『白石康介様。お帰りの時刻です』
康介は線路の中央に立ったまま、電車を見つめていた。
逃げる様子はない。
四十年前から、毎晩繰り返してきた死。
恐怖すら、もう擦り切れているのかもしれない。
「康介さん!」
透真はホームから線路へ飛び降りた。
足が枕木に引っかかる。
転びそうになりながら、康介へ手を伸ばした。
『来るな!』
「嫌です!」
『君まで死ぬ!』
「僕はまだ死にたくありません!」
『だったら逃げろ!』
「でも、あなたも死なせたくない!」
『僕はもう死んでる!』
「何度も死ぬ必要はないでしょう!」
透真は康介の腕を掴んだ。
氷のように冷たい。
半透明の体なのに、今度も手はすり抜けなかった。
死の瞬間に近づくほど、幽霊は生者に触れられるようになる。
祖母から聞いたことがある。
それは幽霊が強くなったからではない。
生者のほうが、死者に近づいているからだ。
電車の警笛が鳴った。
ぱああああああん。
風圧が制服を激しく揺らす。
「早く!」
透真は康介を引いた。
動かない。
康介の足首には、線路の隙間から伸びた黒い手が絡みついていた。
一つ。
二つ。
十。
数え切れないほどの手が、康介を枕木の間へ縫いつけている。
『帰れ』
『死んで帰れ』
『帰らなければ、母親が待ち続ける』
『待つ人がいるなら、帰るのが家族だ』
黒い手が囁いている。
透真は歯を食いしばった。
「違います」
電車はもう目の前だ。
「家族だからって、帰らなきゃいけないわけじゃない!」
黒い手が透真の足首にも巻きついた。
「ひっ……!」
膝が震える。
逃げたい。
今すぐホームへ上がりたい。
だが、康介の母が書いた手紙が、透真の手に握られている。
――康介、帰ってきてはいけません。
「お母さんは、あなたに帰ってほしくなかった!」
康介の顔が歪んだ。
『違う』
「手紙に書いてあります!」
『母さんは、ずっと僕を待っている!』
「待っているのに、帰ってくるなと書いたんです!」
『そんなはずない!』
「だったら、確かめましょう!」
透真は手紙を康介の胸へ押しつけた。
黄ばんだ便箋が、幽霊の体へ触れる。
瞬間。
紙に書かれた文字が黒く滲んだ。
老婆の声が、線路全体へ響く。
『康介』
康介の体が強張った。
『あなたは、帰ってきてはいけません』
「母さん……」
線路の上に、老婆の記憶が浮かび上がる。
薄暗い居間。
二人分の夕食。
柱時計の音。
老婆は食卓に座り、息子を待っている。
しかし、その手には新聞が握られていた。
列車事故の記事。
白石康介、死亡。
老婆は何度も記事を読み返し、首を横に振った。
『嘘』
記事を破る。
『康介は帰ってくる』
翌日も食事を作る。
その翌日も。
四十日。
百日。
一年。
季節が変わるたび、老婆の顔から表情が消えていく。
それでも玄関を見つめ続ける。
ある夜。
戸が開いた。
青年の声がした。
『ただいま』
老婆は立ち上がった。
『康介?』
玄関には誰もいない。
ただ、濡れた革靴の跡だけが廊下へ続いている。
『帰ってきたのね』
老婆は足跡を追った。
廊下の奥。
暗い部屋。
天井から、一本の縄が下がっていた。
その縄の下に、康介が立っている。
事故で潰れた顔。
折れ曲がった腕。
『母さん』
康介は笑った。
『一緒に帰ろう』
老婆は後ずさった。
『あなたは、康介じゃない』
家の壁が軋んだ。
『母さん』
何人もの声が、青年の口から流れる。
『おかえりって言って』
老婆は首を振った。
『言わない』
『言って』
『帰ってきたのに』
『ずっと待っていたのに』
家中の扉が開いた。
そこから、知らない死者たちが現れる。
彼らは口々に「ただいま」と繰り返した。
老婆は耳を塞ぎ、居間へ逃げた。
便箋へ震える手で文字を書く。
――康介、帰ってきてはいけません。
――この家は、帰ってきた人の声を食べます。
――私はもう、あなたに「おかえり」と言えません。
書き終えた直後。
背後から康介の声がした。
『ただいま、母さん』
老婆は振り返らなかった。
声を出せば、息子を家に縛りつけてしまう。
だから何も言わず、便箋を引き出しへ隠した。
しかし家は、老婆の沈黙を許さなかった。
天井から下がった縄が、蛇のように動く。
老婆の首へ巻きつく。
『おかえりと言わない母親はいらない』
縄が老婆の体を引き上げた。
首の骨が折れる音。
ごきり。
その直前、老婆は玄関へ向かって叫んだ。
『康介、逃げて!』
記憶が消えた。
電車の轟音が戻る。
康介は涙を流していた。
『母さんは、僕を待っていたんじゃない』
「待っていました」
『でも、帰るなと』
「あなたに死を繰り返してほしくなかったんです」
『僕は、何度も帰ろうとした』
「だから、お母さんも何度も死んだ」
電車が二人を飲み込もうとする。
透真は康介の腕を強く引いた。
「今度こそ、終わらせましょう!」
康介が線路の黒い手を見下ろした。
手はまだ足首へ絡みついている。
『終わらせられると思うか』
「分かりません!」
『分からないのか』
「僕は霊能力の専門家じゃありません!」
『ここまで来ておいて?』
「怖がりの高校生です!」
『それを自分で言うのか』
「でも、届けることはできます!」
透真は老婆の手紙を握った。
「お母さんの本当の言葉を、あなたに届けられた!」
康介は目を閉じた。
電車の光が顔を照らす。
『そうだな』
康介の右足が、ゆっくり持ち上がった。
黒い手が一本、弾ける。
『僕も、伝えたい』
左足。
もう一本。
『母さんに、ただいま以外の言葉を』
康介が透真の腕を掴んだ。
二人は同時にホームへ飛んだ。
直後。
電車が通過した。
ごおおおおおおおおお――。
冷たい風。
鉄と血の臭い。
窓の白い顔が、恨めしそうに二人を見つめる。
『帰れ』
『帰れ』
『帰れ』
最後尾の車両が闇へ消えた。
駅に静寂が戻る。
透真はホームに倒れ込んでいた。
「生きてる……」
『だから、君は生きてるだろう』
「一度死んだと言われているので、自信がないんです」
『それは気になる話だな』
「僕は気にしたくありません」
康介が笑った。
先ほどまでの疲れ切った顔ではない。
二十三歳の青年らしい、穏やかな笑顔だった。
『母さんのところへ行こう』
「大丈夫ですか」
『帰るんじゃない』
康介は紙袋を抱え直した。
『別れを言いに行くんだ』
◇
夕名駅から空き家へ戻る道で、康介は透真の自転車の後ろを歩いていた。
幽霊なので、疲れない。
自転車の速度を上げても、いつの間にか隣にいる。
「それ、少し怖いのでやめてもらえますか」
『何が?』
「音もなく隣に現れることです」
『声をかければいいのか』
「そうしてください」
康介が一度立ち止まる。
透真が少し先へ進んだところで、背後から大声がした。
『今から隣に行くぞ!』
「それも怖いです!」
康介が自転車の横へ現れる。
『難しいな、生きている人間との距離感は』
「幽霊同士ではどうしているんですか」
『相手の気配が分かるから、驚かない』
「幽霊同士で話すこともあるんですね」
『もちろん』
「死んだ人は、みんな会話できるんですか」
『できる者もいれば、できない者もいる』
康介は夜道の先を見た。
『自分が死んだと理解していない者は、同じ言葉を繰り返すことが多い。死んだ瞬間しか覚えていない者もいる』
「康介さんは、分かっている」
『四十年も毎晩死んでいれば、嫌でも分かる』
「お母さんは?」
康介は答えなかった。
少し間を置いてから、静かに言う。
『母さんは、自分が待っていると思っている』
「違うんですか」
『家に待たされている』
透真は自転車の速度を落とした。
『あの家は、家族の言葉を食べる』
「さっき幽霊たちも言っていました」
『最初は普通の家だった』
白石家は、康介が生まれる前からそこにあった。
母親のハナは夫を早くに亡くし、一人で康介を育てた。
食卓で交わす「いただきます」。
仕事へ出るときの「いってきます」。
戻ったときの「ただいま」と「おかえり」。
二人だけの家族だからこそ、その言葉を毎日大切にしていたという。
『でも、僕が死んでから、母さんは毎日、一人で言うようになった』
「一人で?」
『いってらっしゃい』
誰もいない玄関へ。
『おかえりなさい』
開かない扉へ。
『いただきます』
二人分の食卓で。
『ごちそうさま』
手をつけられなかった皿の前で。
『家は、その言葉を覚えた』
家に染みついた声。
孤独。
待ち続ける執念。
それらが、いつしか怪異になった。
『そして、帰る場所を失った死者たちを呼び始めた』
「空き家にいた人たちですね」
『あの人たちは家族じゃない。家に食べられた声だ』
「助けられますか」
『母さんと僕の会話が終われば、家の中心は消えるかもしれない』
「かもしれない」
『確実なことは分からない』
「僕と同じですね」
『でも、君は来た』
「頼まれましたから」
『断ればよかったのに』
「断ったら、後悔するので」
『死ぬよりも?』
「死ぬのは嫌です」
透真は即答した。
「でも、見捨てたことを覚えたまま生きるのも嫌です」
康介は何も言わなかった。
しばらくして、紙袋を見下ろす。
『君は、母さんに似ている』
「怖いのでやめてください」
『どうしてだ』
「似ていると言われた人が首を吊って亡くなっているので」
『すまない』
◇
空き家が見えてきた。
遠くからでも分かる。
家全体が、息をしている。
屋根がゆっくり上下し、窓が目のように開閉していた。
ちりん。
軒先に無数の風鈴が下がっている。
先ほどまでは一つしかなかったはずだ。
赤。
青。
透明。
ひび割れたもの。
血のような液体が入ったもの。
風がないのに、一斉に鳴っている。
ちりん。
ちりん。
ちりん。
音が重なり、人の声へ変わった。
『おかえりなさい』
康介が立ち止まる。
家の二階の窓に、老婆が立っていた。
『康介』
首が大きく傾いている。
それでも、その目は息子だけを見ていた。
『帰ってきたのね』
康介は口を開きかけた。
透真が袖を掴む。
「言ってはいけません」
『分かっている』
「僕が先に入ります」
『危険だ』
「康介さんが先に入ったら、いつもの繰り返しになります」
『君が入れば、家は君を新しい家族にする』
「そういう重要な情報は、もっと早く言ってください」
『今言った』
「遅いです」
門が勝手に開く。
ぎい。
玄関も開いた。
暗闇の中に、無数の人影が立っている。
『おかえりなさい』
『おかえりなさい』
『おかえりなさい』
透真は両手で口を押さえた。
返事をしてはいけない。
たとえ自分へ向けた言葉でなくても、決して「ただいま」と答えてはいけない。
透真と康介は敷地へ入った。
雑草が足首へ絡みつく。
近づいて見ると、草ではない。
細い髪の毛だった。
地面から伸びる髪が、二人を玄関へ引き寄せようとしている。
康介が紙袋を投げた。
袋の中から、小さな箱が転がり出る。
表面には、有名な菓子店の名前。
四十年前、母親への土産として買った羊羹だった。
『母さんの好物なんだ』
「腐っていませんか」
『死者の土産だからな』
「聞かなかったことにします」
康介が羊羹を拾う。
玄関の敷居を越えた。
その瞬間。
家の奥から、老婆が飛び出した。
『康介!』
両腕を広げ、息子へ抱きつこうとする。
康介は動かなかった。
透真も息を止める。
老婆の腕が康介の体をすり抜ける。
何度も。
何度も。
『どうして触れないの』
「母さん」
康介の声が震えた。
『どうして、ただいまって言わないの』
「母さん」
『言って』
老婆の首が伸びる。
顔が康介の目の前へ迫る。
『ただいまって言って』
「言えない」
老婆の表情が崩れた。
『どうして』
「僕はもう、この家へ帰れない」
『ここは康介の家よ』
「違う」
『お母さんが待っているのに』
「母さんも、もうここにいちゃいけない」
家が激しく揺れた。
壁から無数の腕が伸びる。
康介の背中を掴み、家の中へ引きずろうとする。
『帰ってきた』
『家族だ』
『ただいまを言わせろ』
透真は康介の腕を掴んだ。
「話を続けてください!」
『でも』
「言葉を届けるんでしょう!」
天井から黒い縄が落ちた。
透真の首へ巻きつこうとする。
透真は身を屈めて避けた。
「怖い怖い怖い!」
縄が蛇のように追いかけてくる。
玄関脇の傘を掴み、叩き落とす。
空き家の奥から、何十人もの幽霊が現れた。
『帰りたい』
『家がない』
『家族がいない』
『この人を家族にしよう』
彼らは透真を見ている。
「僕は家族になりません!」
『優しい子だ』
『声が聞こえる』
『僕たちの話も聞いてくれる』
『ずっとここにいればいい』
「遠慮します!」
幽霊たちが透真へ手を伸ばす。
康介がその前に立った。
『この人は関係ない!』
『関係ある』
『連れてきた』
『新しい息子だ』
老婆が透真を見る。
黒い涙を流しながら、ゆっくり笑った。
『康介のお友達?』
「違います」
『なら、私の子になって』
「もっと違います」
『おかえりなさい』
家中の口が一斉に言った。
『おかえりなさい、透真』
名前を呼ばれた。
一度。
透真は後ずさる。
床板の隙間から、白い指が伸びて靴を掴む。
『おかえりなさい、透真』
二度目。
「呼ばないでください」
玄関が消えた。
背後にあったはずの外への出口が、壁に変わっている。
家の中に閉じ込められた。
『おかえりなさい、透真』
三度目。
透真の口が、勝手に開いた。
舌が動く。
喉の奥から言葉が出ようとする。
た――。
康介が透真の口を塞いだ。
『言うな!』
透真は必死に頷いた。
だが、家の声が頭の中へ入り込んでくる。
『言えば楽になる』
『帰る場所ができる』
『もう一人にならない』
『母親にも会える』
最後の言葉で、透真の抵抗が止まった。
「母さん……?」
廊下の奥。
暗闇の中に、一人の女性が立っていた。
長い黒髪。
透真の記憶にある、優しい笑顔。
十三年前に亡くなった母、音無小夜子。
『透真』
母が両腕を広げる。
『おかえりなさい』
透真の喉が震えた。
会いたかった。
幼い頃から、何度も夢に見た。
もし母がまだ生きていたら。
もし帰宅したとき、笑顔で迎えてくれたら。
もう一度だけでも声を聞けたら。
透真の口から、言葉がこぼれそうになる。
「ただ――」
ぱん。
康介が透真の頬を叩いた。
「痛い!」
『あれは君の母親じゃない!』
透真は目を見開いた。
母の姿が歪む。
顔が横へ裂け、内部から何十もの口が現れる。
『ただいまを言って』
『家族になろう』
『死ぬまで待っていた』
透真は後退した。
「あれは反則でしょう……」
『しっかりしろ!』
「分かっています!」
康介は老婆へ向き直る。
「母さん!」
老婆はまだ透真を見ていた。
「母さん、僕を見てくれ!」
『康介』
「僕は、母さんに帰ってきてほしくなかった」
老婆の顔が凍りつく。
『何を言っているの』
「僕が事故に遭う前の日、母さんは風邪をひいていた」
『昔のことよ』
「高い熱があったのに、無理をして仕事へ行った」
『生活のためだった』
「僕は、会社を辞めようと思っていた」
康介は紙袋を抱えた。
「母さんを一人にしたくなかったから」
『聞きたくない』
「帰ったら話すつもりだった」
『聞きたくない!』
「もう遠くへ働きに行かないと」
家が鳴く。
ぎし。
ぎし。
壁に現れた口が、次々と閉じていく。
「一緒に暮らそうと伝えるつもりだった」
『やめて』
「でも帰れなかった」
『やめて!』
「ごめん、母さん」
康介が頭を下げる。
「一人で待たせて、ごめん」
老婆の体が震えた。
傾いていた首が、少しずつ元の位置へ戻っていく。
骨が鳴る。
ごき。
ごき。
ごき。
恐ろしい音だった。
しかし、その顔からは黒い涙が消えていた。
『康介』
「うん」
『私は、あなたが帰らないことを怒っていたんじゃない』
「分かってる」
『事故の日、喧嘩をしたでしょう』
「仕事を辞めるって話?」
『私は反対した』
「母さんは、僕のためを思っていた」
『あなたは、私なんか放っておけばいいと言った』
「ごめん」
『私も、もう帰ってくるなと言った』
康介は顔を上げる。
『それが最後だった』
「手紙を読んだよ」
老婆の目が見開かれる。
「本当は、帰ってくるなという意味じゃなかった」
『あの家に、帰ってきてはいけなかった』
「うん」
『あなたを、家に食べさせたくなかった』
「分かってる」
康介は羊羹の箱を差し出した。
「母さん。遅くなったけど、土産」
老婆の皺だらけの手が伸びる。
今度は、二人の指が触れた。
『好きだったお店の?』
「うん」
『四十年前の羊羹なんて、食べられたものじゃないわ』
「幽霊だから平気だろ」
『そういう問題じゃありません』
老婆の声が、普通の母親の声へ戻っていた。
康介が笑う。
透真の胸が熱くなる。
ようやく、この二人は話すことができた。
「白石さん」
透真は老婆へ呼びかけた。
「康介さんは、あなたに伝えたいことがあります」
『透真くん』
康介が振り返る。
『これは自分で言える』
「そうですよね」
透真は一歩下がった。
死者の想いを届ける。
それは必ずしも、透真が代わりに言葉を話すことではない。
会話できる場所まで連れていくこと。
互いの声が届くよう、手助けすること。
それも、届けることなのだ。
康介は母の目を見る。
「母さん」
『何?』
「もう、待たなくていい」
老婆の唇が震えた。
「僕は帰ってこない」
『そう』
「母さんも、この家に帰らなくていい」
『そうね』
「一緒に行こう」
老婆は家の中を見回した。
二人で暮らした居間。
毎日食事をした食卓。
息子の帰りを待った玄関。
長い時間、彼女を縛りつけていた場所。
『さようなら』
老婆が静かに告げた。
その瞬間。
家が絶叫した。
『行かないで』
壁に無数の口が開く。
『母親がいなくなる』
『息子がいなくなる』
『家族がいなくなる!』
床が大きく割れた。
黒い穴の底から、巨大な口が現れる。
畳。
柱。
家具。
家のすべてが歯のように変形する。
『新しい家族をよこせ!』
透真の足元が崩れた。
「うわっ!」
床下へ落ちる。
康介が手を伸ばす。
『透真!』
届かない。
透真の体が、暗い穴へ飲み込まれた。
◇
落下はすぐに止まった。
透真は、真っ暗な空間に立っていた。
家の床下ではない。
足元には、古い靴が無数に並んでいる。
革靴。
運動靴。
子どもの長靴。
女物のパンプス。
この家へ帰り、二度と出られなかった人々の靴。
闇の中から声がした。
『おかえりなさい』
透真は振り返る。
巨大な老婆の顔が浮かんでいた。
ハナではない。
この家そのもの。
『あなたは優しい』
「よく言われます」
『死者を見捨てられない』
「それほどではありません」
『母親に会いたい』
透真は答えなかった。
『ここにいれば、毎日会える』
闇の中に小夜子の姿が現れる。
今度は先ほどよりも鮮明だった。
表情。
髪。
透真の記憶にある声。
『透真』
「母さんじゃない」
『どうして、そう思うの』
「母さんは、僕に帰ってきてほしいとは言わない」
『母親なら、子どもに帰ってきてほしいでしょう』
「生きている場所から連れ出してまで、帰ってこいとは言わない」
小夜子の笑顔が消えた。
『本当に?』
「……たぶん」
自信はない。
母の本当の気持ちを、透真は知らない。
母はなぜ死んだのか。
なぜ透真を生き返らせたのか。
最後に何を伝えようとしたのか。
何も知らない。
それでも、目の前の存在が母ではないことだけは分かった。
「母さんの声を勝手に使わないでください」
家の顔が歪む。
『なら、別の声を使おう』
闇のあちこちから声が聞こえた。
『助けて』
『伝えて』
『僕たちの声を聞いて』
空き家に食べられた幽霊たち。
透真の周囲に姿を現す。
首を折られた男。
両脚のない少女。
顔を失った老婆。
彼らは透真へ手を伸ばしていた。
『ここに残って』
『ずっと話を聞いて』
『寂しい』
『帰る場所がない』
透真は怖かった。
逃げたかった。
だが、その声に含まれる寂しさも本物だった。
「あなたたちも、帰りたいんですか」
幽霊たちの手が止まる。
『帰りたい』
「どこへ?」
『分からない』
『家を忘れた』
『名前も忘れた』
家に声を食べられ、名前や記憶を失った死者たち。
彼らをこのまま消すことはできない。
だが、透真一人ですべての想いを届けることもできない。
「白石さん!」
透真は暗闇の天井へ向かって叫んだ。
「聞こえますか!」
返事はない。
家の声が笑う。
『外には届かない』
「幽霊同士なら、話せますよね」
幽霊たちが透真を見る。
「あなたたちの声を、康介さんへ届けてください!」
『私たちが?』
「一人では届かなくても、みんなで話してください!」
家が唸った。
『話すな』
闇が波打つ。
『声は私のものだ』
「違います!」
透真は叫んだ。
「その声は、あなたたちのものです!」
幽霊たちの周囲から、それぞれ異なる音が響き始める。
踏切。
雨。
電話のベル。
食器の割れる音。
赤ん坊の泣き声。
それらは幽霊の最後の記憶。
透真には、音の中にある言葉が聞こえる。
『助けて』
『ここにいる』
『忘れないで』
「もっと大きな声で!」
幽霊たちが口を開く。
『ここから出たい!』
無数の音が重なった。
家の内側が震える。
『黙れ!』
『私たちは家族じゃない!』
『黙れ!』
『声を返して!』
暗闇に亀裂が走った。
外から康介の声が聞こえる。
『透真!』
「ここです!」
『聞こえた!』
天井が割れる。
裂け目から康介とハナが手を伸ばしている。
透真も腕を伸ばした。
あと少し。
家の巨大な口が背後から迫る。
『行くな』
『私を一人にするな』
透真は家の声へ振り返った。
「あなたも、寂しかったんですね」
口の動きが止まる。
「家族の声がなくなって、一人になった」
『私は家だ』
「だから、帰ってくる人が必要だった」
『私は、待つ場所だ』
「でも、無理に閉じ込めても、家族にはなりません」
家の声が震えた。
『誰も帰ってこない』
「帰ってこない人を、待たなくていいんです」
『私は何になる』
「ただの家に戻ってください」
『誰もいない家に?』
「はい」
『寂しい』
「それでも、他の人の声を奪うよりはいい」
透真は康介の手を掴んだ。
「さようなら」
康介が透真を引き上げる。
暗闇が遠ざかる。
最後に、家の小さな声が聞こえた。
『いってらっしゃい』
◇
透真が目を開けると、空き家の庭に倒れていた。
夜空が見える。
建物は崩れていた。
屋根が落ち、壁は傾き、窓ガラスが割れている。
長い年月、空き家として放置されていた本当の姿だ。
家に掛けられていた怪異が消え、現実の時間が戻ったのだろう。
庭には大勢の幽霊が立っていた。
先ほどまで家に囚われていた人々。
透真には、もう彼らの顔がはっきり見えた。
『名前を思い出した』
一人の男が言う。
『帰る場所も』
少女が笑う。
『お母さんに会いに行く』
幽霊たちは、一人ずつ夜の中へ消えていった。
残ったのは、康介とハナだけ。
ハナの首はまっすぐに戻り、穏やかな老女の姿になっている。
『ありがとう、透真さん』
「いいえ」
『あなたが康介を連れてきてくれた』
「僕は、言葉を届けただけです」
『それが一番難しいのよ』
ハナは微笑んだ。
『言葉は、口から出せば届くものではありませんから』
康介が母の隣に立つ。
『行こう、母さん』
『ええ』
母子は並んで歩き始めた。
門の前で、康介が振り返る。
『透真くん』
「はい」
『君の母親は、あの家にはいなかった』
「分かっています」
『だが、声は本物だった』
透真の体が強張る。
「どういう意味ですか」
『家が作った声じゃない』
康介は町の中心部を見た。
『遠くから流れてきた声を、家が拾った』
「どこから?」
康介の周囲に、電車の走行音が響く。
ごとん。
ごとん。
『古い放送局』
「町内放送の?」
『君の母親は、今もそこで君を呼んでいる』
透真の耳の奥で、女の声が蘇る。
『おかえりなさい、透真』
あれは怪異の声ではなく、母の声だった。
「でも、母さんは僕を生者の場所へ戻したはずです」
『だから、奇妙なんだ』
康介の姿が薄くなる。
『生者の場所へ戻した母親が、どうして死者の側から息子を呼び戻そうとする?』
「待ってください」
『それを確かめるのは、君自身だ』
「康介さん!」
母子の姿が光へ変わる。
風鈴が一度だけ鳴った。
ちりん。
『いってらっしゃい』
二人は消えた。
透真は崩れた空き家の前に、一人で立っていた。
風が吹く。
庭に落ちていた朝顔模様の風鈴が、さらさらと崩れ、光の粒になる。
これで終わった。
そう思ったとき。
背後から音がした。
こん。
透真は動きを止めた。
崩れた玄関の内側。
誰もいないはずの暗闇から。
こん。
二回目。
「もう終わりましたよね」
返事はない。
こん。
三回目。
闇の中から、少女の声がした。
『次は、踏切だよ』
透真は振り返る。
古い制服を着た少女が立っていた。
顔の半分が潰れ、胸元に黄色い花を抱えている。
『一人、足りないの』
遠くで踏切の警報音が鳴り始めた。
かん。
かん。
かん。
少女は笑う。
『見つけるまで、電車は止まらないよ』
その背後に、さらに二人の幽霊が現れる。
『また届けたね』
『残り十一人』
『この子の声が、少し近づいた』
透真は自分の喉へ手を当てた。
何かがおかしい。
声を出そうとしたのに、音が出ない。
「……」
息だけが漏れる。
数秒後、ようやく声が戻った。
「今のは……」
幽霊たちは答えず、闇へ消えた。
踏切の音だけが、夜の町に響き続ける。
かん。
かん。
かん。
その音に交じって、誰かが数えていた。
『十六人』
『十七人』
『十八人』
少し間が空く。
『一人、足りない』
少女の笑い声がした。
『次は、早坂澪』
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
ハナと康介は、四十年越しに互いの言葉を届け、同じ死を繰り返す家から解放されました。
しかし、死者の想いを届けるたび、透真の声には異変が起きています。
さらに、次の怪異は早坂澪へ近づき始めました。
第6話「踏切の向こうの少女」では、使われなくなった踏切で人数を数え続ける少女が登場します。
少女が探している「一人」が澪なのか。
それとも、事故から逃げた別の誰かなのか。
透真は、電車が通らない踏切の向こう側へ足を踏み入れます。




