第4話 空き家の風鈴
帰る場所があることは、幸せなことです。
けれど、帰る人がいなくなったあとも、家だけが待ち続けていたら。
玄関から「おかえりなさい」と聞こえても、決して「ただいま」と答えてはいけません。
音無透真は、振り返らずに走った。
古い空き家から聞こえる風鈴の音が、いつまでも背中を追いかけてくる。
ちりん。
『おかえりなさい』
ちりん。
『おかえりなさい』
ちりん。
『おかえりなさい』
「僕の家じゃありません!」
透真は叫びながら、夕暮れの住宅街を駆け抜けた。
背後で、誰かが裸足のまま道路を走る音がする。
ぺた。
ぺた。
ぺた。
前の話で聞いた水上美月の足音とは違う。
今回の足音は乾いている。
骨と皮だけの足裏が、硬いアスファルトを叩いているような音だった。
「来ないでください!」
透真は角を曲がった。
すぐ先に自宅が見える。
門を抜け、玄関へ飛び込む。
「ただい――」
言いかけて、口を閉じた。
空き家で聞いた言葉が蘇る。
『ただいまを言った人から、死んでいく』
ここは自分の家だ。
それでも、今は口にしてはいけない気がした。
透真は無言で靴を脱いだ。
台所から父の声が飛んでくる。
「帰ったのか?」
「……帰りました」
「どうしてそんな変な言い方なんだ」
「今日は『ただいま』禁止の日なんだ」
「学校で何があった」
「学校の外でも、いろいろありました」
透真は居間へ入る。
父の誠一は、台所で夕食の支度をしていた。
フライパンから肉を焼く音がする。
じゅう。
じゅう。
人が暮らしている家の音。
透真はようやく息をついた。
そのとき。
ちりん。
台所の奥から、風鈴が鳴った。
透真の体が硬直する。
「父さん」
「何だ」
「うちに風鈴あった?」
「ない」
ちりん。
今度は二階から聞こえた。
透真は天井を見上げた。
「何か持って帰ってきたのか?」
「何も持ってきてない」
「鞄の中は?」
言われて、透真は肩から下げていた鞄を見た。
底には、壊れた録音機が入っている。
それ以外は教科書と筆箱だけのはずだ。
透真は恐る恐る鞄を開いた。
教科書の上に、見覚えのない物が置かれている。
短冊のついた、小さなガラスの風鈴。
青い朝顔の模様。
透真が空き家の窓で見たものと同じだった。
「何、これ」
短冊には、震える文字で名前が書かれていた。
康介。
風鈴が揺れる。
ちりん。
『帰ってきた』
老婆の声がした。
「帰ってきてません!」
透真は風鈴を鞄から取り出した。
窓を開け、外へ投げようとする。
しかし、指が離れない。
細い糸が、手首へ巻きついていた。
白い髪の毛だった。
「うわっ!」
透真は風鈴を床へ落とした。
ガラスが割れる。
澄んだ音が、居間に響いた。
ちりん。
割れたはずなのに、風鈴は鳴り続ける。
父が振り返る。
「何を落とした?」
「風鈴」
「どこにある?」
「そこ」
透真は床を指差した。
父の足元には、何もない。
割れたガラスも、短冊も、糸も見えていないらしい。
「何もないぞ」
透真にだけ見えている。
幽霊が持つ物だ。
割れた風鈴の内側から、皺だらけの指が伸びた。
指は床を掻きながら、少しずつ這い出してくる。
『康介』
透真は後ずさった。
『康介が、帰ってきた』
「違います。僕は康介さんではありません」
父が怪訝そうに透真を見る。
「誰と話している」
「少し、外に行ってくる」
「夕食は?」
「帰ったら食べる」
「今帰ってきたばかりだろ」
「正確には、帰宅を完了できてない」
「意味が分からない」
「僕も分かりたくない」
透真は鞄を置き、玄関へ向かった。
割れた風鈴が、床を滑るようについてくる。
ちりん。
ちりん。
ちりん。
自宅に置いていけば、父まで怪異に巻き込むかもしれない。
透真は風鈴を拾い上げた。
触れた瞬間、手のひらに老婆の記憶が流れ込んできた。
◇
狭い台所。
古い柱時計。
食卓には、二人分の夕食が並んでいる。
煮魚。
味噌汁。
大根の漬物。
一人の老婆が、玄関を見つめていた。
『今日は帰るって言っていた』
柱時計の針が動く。
午後七時。
午後八時。
午後九時。
料理から湯気が消える。
老婆は何度も立ち上がり、鍋を温め直した。
『電車が遅れているのかもしれない』
夜が深くなる。
外では雨が降っていた。
電話は鳴らない。
玄関も開かない。
『仕事が忙しいのね』
午前零時。
老婆は食卓の椅子に座ったまま眠る。
しかし、翌朝になると、また二人分の朝食を作る。
『今日こそ帰ってくる』
日が過ぎる。
季節が変わる。
老婆の髪は白くなり、背中が曲がっていく。
それでも玄関には、息子の靴が揃えられたままだった。
『あの子は、帰るって言った』
記憶が途切れた。
◇
透真は我に返った。
自宅の前に立っている。
手の中の風鈴は、割れていなかった。
青い朝顔が、夕暮れの光を反射している。
「待っているだけなんだ」
恐ろしい幽霊。
危険な空き家。
そう思って逃げてきた。
だが、あの老婆は四十年間、息子が帰るのを待っている。
怖いことに変わりはない。
だからといって、見捨てていい理由にはならなかった。
「行きたくないな……」
透真は空き家の方角を見た。
風鈴が小さく鳴る。
ちりん。
『お願い』
老婆の声は、先ほどより弱かった。
『康介を、連れて帰って』
「場所は分かるんですか」
『駅にいる』
「生きている人ですか」
風鈴は答えない。
透真は大きく息を吐いた。
「分かりました」
怖い。
本当は、家から出たくない。
それでも、老婆の記憶を見てしまった。
二人分の食事を作り続ける姿を知ってしまった。
もう無視はできない。
「ただし、急に追いかけないでください」
ちりん。
「あと、玄関から出てきたりしないでください」
ちりん。
「天井を這うのも禁止です」
風鈴が鳴らなくなった。
「返事をしてください」
『努力します』
「そこは約束してください」
◇
空き家へ戻るころには、完全に日が落ちていた。
門には錆が浮き、庭は雑草に覆われている。
二階の窓に、老婆が立っていた。
花柄の割烹着。
白い髪。
首は右へ大きく傾いている。
透真が門の前に立つと、玄関が勝手に開いた。
ぎい。
『おかえりなさい』
「その言葉をやめてください」
『康介』
「僕は透真です」
『康介』
「人違いです」
老婆は二階の窓から消えた。
直後、玄関の奥から足音がする。
ぺた。
ぺた。
透真は後退した。
老婆が暗闇の中から現れる。
窓にいたはずなのに、数秒で一階へ下りてきた。
その首には、黒い縄の跡が残っている。
「息子さんは駅にいるんですね」
老婆は頷いた。
『帰り方が分からないの』
「駅の名前は?」
『夕名駅』
町外れにある、小さな無人駅だ。
現在も使われているが、一時間に一本しか電車が来ない。
「息子さんの名前は、康介さん」
『白石康介』
「年齢は?」
老婆は答えなかった。
「四十年前なら、今はかなり年を取っているはずです」
『変わってない』
「何がですか」
『あの子は、ずっと二十三歳』
透真は言葉を失った。
息子も幽霊だ。
老婆は、亡くなった息子の帰りを待っている。
「康介さんは、どうして駅から帰れないんですか」
老婆の口がゆっくり開く。
『帰る家が分からない』
「この家では?」
『違うと言うの』
老婆の目から黒い涙が流れた。
『母さんの家は、ここじゃないって』
背後の暗闇で、二人の幽霊が囁いた。
『また始まる』
『息子が帰ると、母親が死ぬ』
『母親が死ぬと、息子が帰れなくなる』
『ずっと同じ』
透真は振り返った。
暗い廊下の奥に、白い顔が二つ並んでいる。
「どういう意味ですか」
二人の幽霊は笑った。
『その家は、帰る人を食べるんだよ』
『「ただいま」を食べる』
『「おかえり」を食べる』
『家族の声が大好きなんだ』
床下から、低い音がした。
ごと。
家全体が震える。
柱の隙間から黒い髪が伸びた。
畳の下で、何か巨大なものが動いている。
「この家そのものが、怪異なんですか」
老婆は二人の幽霊が見えていないらしい。
透真だけを見つめている。
『康介を連れて帰って』
「帰ってきたら、どうなるんです」
『一緒に暮らす』
「本当に、それだけですか」
『一緒に』
老婆の首がさらに傾く。
骨の折れる音がした。
ごき。
『ずっと、一緒に暮らす』
玄関の扉が閉まった。
透真は振り返り、ドアノブを掴む。
動かない。
「約束と違います!」
老婆が両腕を広げた。
『おかえりなさい』
廊下の壁から、無数の口が現れる。
『おかえりなさい』
『おかえりなさい』
『おかえりなさい』
天井にある黒い染みから、何本もの手が伸びた。
「天井は禁止だって言ったでしょう!」
透真は玄関脇に置かれた傘を掴み、伸びてきた手を払いのけた。
廊下を走る。
奥へ進むしかない。
居間へ飛び込むと、中央の食卓に二人分の夕食が並んでいた。
湯気が立っている。
四十年前の料理。
壁には家族写真が飾られている。
若い頃の老婆。
隣には、二十三歳ほどの青年。
写真の下に、新聞の切り抜きが貼られていた。
透真は近づく。
小さな記事だった。
――夕名駅付近で列車事故。
――会社員、白石康介さん二十三歳が死亡。
事故の日付は四十年前。
康介は帰宅途中に亡くなっていた。
しかし、その下には別の記事が貼られている。
――市内の住宅で高齢女性が死亡。
――死後、約三週間経過。
――白石ハナさん、六十八歳。
老婆は息子を待ちながら孤独死したのだ。
二つの記事の間には、一枚の便箋が挟まれていた。
透真が手を伸ばす。
その瞬間、背後から老婆の腕が首へ回った。
『見ないで』
「苦しい……!」
『康介は、帰ってくるの』
老婆の指が透真の喉へ食い込む。
『帰ってくると言った』
「もう、亡くなっています」
『嘘』
「あなたも知っているはずです」
『嘘!』
家全体が揺れた。
食卓の皿が一斉に落ちる。
がしゃん。
がしゃん。
老婆の周囲に、何十人もの幽霊が現れた。
男。
女。
子ども。
皆、首や手足を不自然な方向へ曲げている。
『ただいまを言った』
『帰ってきた』
『この家に食べられた』
『家族になった』
この家に入り、「ただいま」と答えた人々。
帰る人を待ち続ける老婆の執念と、家に残った孤独が一つになり、迷い込んだ人間を家族として取り込んでいた。
「白石さん」
透真は老婆の腕を掴んだ。
「康介さんを帰らせたいなら、僕を離してください」
『逃げる』
「逃げません」
『みんな逃げた』
「怖いので逃げたいです」
正直に言うと、老婆の腕がわずかに緩んだ。
「でも、康介さんを連れてきます」
『本当に?』
「約束します」
『嘘をついたら?』
「もう一度ここへ来ます」
自分で言ってから、絶対に言うべきではなかったと思った。
老婆の顔が、透真の肩越しに近づく。
冷たい息が耳へ触れる。
『約束したね』
「はい」
『帰ってきてね』
「その言い方はやめてください」
老婆が腕を離した。
玄関の扉が開く音がする。
ぎい。
透真は居間の床に落ちている便箋を拾った。
「これは持っていきます」
老婆が手を伸ばす。
『駄目』
「康介さんの物でしょう」
『読んだら、帰ってこない』
「だから必要なんです」
便箋を制服のポケットへ入れ、透真は玄関へ走った。
廊下に並ぶ幽霊たちが道を開ける。
『駅へ行くの?』
『息子を連れてくるの?』
『帰ってきたら食べられるよ』
『次の家族になるよ』
「縁起でもないことを言わないでください!」
透真は玄関を飛び出した。
門を抜ける。
背後で風鈴が鳴った。
ちりん。
『いってらっしゃい』
今度の老婆の声は、少しだけ穏やかだった。
◇
夕名駅へ向かうバスは、すでに最終便が出たあとだった。
透真は自転車を借りるため、一度自宅へ戻った。
父は食卓で夕食を食べていた。
「遅かったな」
「ちょっと、人を迎えに行くことになった」
「こんな時間に?」
「四十年待たせているので、これ以上遅れるのはよくないかなと思って」
父が箸を止める。
「誰の話だ」
「説明すると止められるから、説明しない」
「透真」
父の声が少し厳しくなる。
「最近、また見えるのか」
透真は答えなかった。
父は「幽霊」という言葉を使わない。
それでも、何を指しているのかは分かる。
「見えたとしても、関わるな」
「それができたら苦労しないよ」
「お前が助ける必要はない」
「誰にも聞こえないんだ」
「だからといって、お前が背負うことじゃない」
透真は父を見る。
父の顔には怒りよりも、不安が浮かんでいた。
母が亡くなったあと、透真が幽霊の話をするたび、父は同じ表情をした。
「父さん」
「何だ」
「母さんは、最後に何か言った?」
父の手が止まった。
「どうして急に聞く」
「聞いていない言葉があるんじゃないかと思って」
「ない」
答えは早かった。
早すぎた。
「本当に?」
「母さんのことは関係ない」
父は立ち上がり、食器を持って台所へ向かう。
「今日はもう外へ出るな」
「でも」
「行くな」
透真は父の背中を見た。
聞くな。
見るな。
関わるな。
父はいつも、幽霊の話になると何かを隠そうとする。
十三年前。
透真が一度死んだという放送。
母の死。
篠崎が知っている零時十三分。
それらが、少しずつつながり始めている。
だが、今は老婆と康介のことが先だ。
透真は黙って玄関へ向かった。
「透真」
父に呼び止められる。
振り返らない。
「呼ばれても、返事をするな」
透真の背筋に冷たいものが走った。
「それ、祖母ちゃんも言ってた」
「初枝さんに教わったことを忘れるな」
「父さんも知ってるの?」
返事はない。
透真が振り返ったとき、父は台所へ戻っていた。
◇
夕名駅に着いたのは、午後十時を過ぎたころだった。
山際にある小さな無人駅。
ホームは一本。
待合室の蛍光灯が、弱々しく明滅している。
次の電車は一時間後。
駅前には店も家もなく、虫の声だけが響いていた。
透真は自転車を止め、ホームへ入る。
誰もいない。
風鈴を持ってきたわけではないのに、どこかで音がした。
ちりん。
ベンチの端に、一人の青年が座っていた。
紺色の背広。
膝には紙袋。
髪型も服装も、現在のものではない。
青年の足元には影がなかった。
「白石康介さんですか」
青年が顔を上げる。
穏やかそうな顔立ちだった。
『母さんに頼まれたのか』
「はい」
『帰らないよ』
康介は線路の先を見る。
『あそこは、僕の家じゃない』
「お母さんは待っています」
『知ってる』
「四十年間、ずっと」
『知ってるよ』
声には怒りも悲しみもなかった。
ただ、深い疲れがにじんでいた。
「どうして帰らないんですか」
康介は紙袋を抱きしめる。
袋の中には、小さな包みが入っていた。
母親への土産だろう。
『僕が帰ったら、母さんはまた死ぬ』
「また?」
康介が透真を見る。
『あの家では、僕たちは何度も帰っている』
遠くで電車の音がした。
ごとん。
ごとん。
しかし、線路の先に明かりは見えない。
『僕が玄関を開ける』
ごとん。
『母さんが、おかえりと言う』
ごとん。
『僕が、ただいまと答える』
青年の顔が青白く変わっていく。
『そのたびに、母さんは首を吊る』
透真の耳元で、風鈴が鳴った。
ちりん。
『そして僕は、また駅に戻る』
ホームの時計が、午後十時十三分を示した。
蛍光灯が消える。
闇の中で、康介の背後に無数の人影が現れた。
空き家で見た幽霊たちだ。
『帰ろう』
『みんなで帰ろう』
『家族になろう』
線路の上から、古い電車が近づいてくる。
明かりのついていない、錆びた車両。
窓には、数え切れないほどの白い顔が並んでいる。
康介が立ち上がった。
『もうすぐ来る』
「何がですか」
『僕を事故で殺した電車』
ホームに警笛が響く。
透真は耳を塞いだ。
康介が線路へ向かって歩き始める。
「待ってください!」
『毎晩、この時間に死ぬんだ』
康介は笑った。
『そして毎朝、母さんの家へ帰ろうと思う』
一歩。
線路へ近づく。
『でも、帰ったら母さんが死ぬ』
もう一歩。
『だから、僕はここで死に続ける』
透真は康介の腕を掴んだ。
手はすり抜けず、氷のように冷たかった。
「死者でも、同じ死を繰り返すんですか」
『終わっていないからね』
「何が終わっていないんです」
康介は、透真の制服のポケットを見る。
『それを読めば分かる』
老婆の家から持ち出した便箋。
透真はポケットから取り出した。
紙は黄ばみ、何度も折り直された跡がある。
「読んでもいいですか」
『僕には読めなかった』
「どうして?」
『母さんが、僕に届かないように書いた手紙だから』
背後で、駅のスピーカーが鳴った。
ざあああ。
『まもなく、零番線に列車が参ります』
存在しない零番線。
古い電車が速度を上げる。
『白石康介様』
駅の放送が青年の名を呼ぶ。
『お帰りの時刻です』
康介の腕が透真の手から抜けた。
線路へ踏み出そうとする。
透真は便箋を開いた。
そこには、老婆の震える文字で一行だけ書かれていた。
――康介、帰ってきてはいけません。
透真が顔を上げる。
康介は、すでに線路の中に立っていた。
錆びた電車が迫る。
駅の放送が笑う。
『おかえりなさい』
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
息子を待ち続ける母親と、帰ることのできない息子。
二人は互いを想っているはずなのに、空き家の怪異によって同じ別れを繰り返していました。
老婆が残した「帰ってきてはいけません」という手紙には、まだ別の意味が隠されています。
第5話「ただいまを待つ人」では、透真が死の列車から康介を救い、離れた場所にいる母子の幽霊を会話させようとします。
けれど、母と息子が再会したとき、空き家は新しい家族を選び始めます。




