第3話 録音されていない悲鳴
録音に残るのは、マイクが拾った音だけです。
けれど、その場所に残された恐怖まで、すべて消えるとは限りません。
聞こえないはずの声が聞こえたとき、そこには誰かが隠した真実があります。
雫の足首を、黒い染みから伸びた白い手が掴んでいた。
「離して!」
透真は雫の腕を引いた。
だが、細い指は足首へ深く食い込み、地面の中へ引きずり込もうとしている。
雫の靴が黒い染みに沈んでいく。
「何、これ……!」
雫には手が見えていない。
自分の足が、突然地面へ飲み込まれているようにしか感じられないのだ。
「走ってください!」
「無理! 足が動かない!」
校内スピーカーから、美月の声を真似た偽物が流れ続ける。
『雫』
『こっちへ来て』
『一緒なら、もう寂しくないよ』
雫の横に立つ本物の美月が、必死に首を横へ振っていた。
『違う!』
その叫びは、水滴となって中庭の石畳へ落ちる。
ぽたり。
『私は、そんなこと言ってない!』
ぽたり。
『雫に、生きてほしい!』
透真には聞こえている。
しかし、雫には届かない。
篠崎は少し離れた場所に立ったまま、動こうとしなかった。
助けようとも、驚こうともしない。
ただ、スピーカーを見上げている。
その顔には恐怖ではなく、苛立ちが浮かんでいた。
「また始まったか」
小さな声だった。
だが、透真には聞こえた。
「先生」
透真は雫を引きながら叫んだ。
「これを止める方法を知っているんですか!」
篠崎の視線が透真へ向く。
「知らない」
「嘘です!」
「音無、手を離せ」
「どうしてですか!」
「その子は呼ばれた」
あまりにも静かな声だった。
「三度、名前を呼ばれた人間を引き留めれば、次はお前が連れていかれる」
透真の指から力が抜けかけた。
怖い。
逃げたい。
耳の奥で、祖母の声が蘇る。
『三回目はね』
祖母が最後まで教えてくれなかった言葉。
死者に三回呼ばれたら、何が起こるのか。
黒い染みが、透真の靴の下にまで広がる。
冷たい。
真冬の川に足を入れたような冷気が、足首から膝へ這い上がってくる。
染みの中で、無数の口が動いていた。
『代わって』
『代わって』
『その子の代わりに』
透真は歯を食いしばった。
「嫌です」
声が震える。
「どちらも渡しません」
篠崎が眉を寄せた。
「お前には関係ない」
「あります」
「昨日まで名前も知らなかった相手だろう」
「それでも、助けを求めています」
透真は雫の腕を両手で掴んだ。
「僕には、それが聞こえるんです!」
黒い染みから、別の手が伸びた。
今度は透真の足首を掴む。
「ひっ……!」
情けない声が出た。
逃げたい。
今すぐ手を離して、校舎の外へ走りたい。
だが、雫の顔を見た。
強気だった表情は消え、涙を浮かべている。
「助けて」
小さな声だった。
透真は目を閉じた。
「分かりました」
怖い。
それでも、手は離さなかった。
「必ず助けます」
そのとき、鞄の中で何かが動いた。
きゅる。
きゅるるる。
壊れた録音機。
カセットテープが、勝手に巻き戻っている。
透真は片手で雫を掴み、もう一方の手で鞄を開いた。
録音機の再生ボタンは壊れている。
それなのに、内部から音が流れ始めた。
ざああああ。
『今日、放課後の放送を担当します、二年二組の水上美月です』
昨日、放送室で聞いた録音だ。
『下校時刻になりました。校内に残っている生徒は――』
扉が開く。
『先生?』
革靴の足音。
『何ですか、それ』
美月の声が震える。
『近づかないでください』
がたん。
ごっ。
頭部を殴る鈍い音。
録音はそこで途切れるはずだった。
だが、今日は続いていた。
ざあああ。
長い雑音。
その向こうに、かすかな呼吸音がある。
『……やめて』
美月の声。
『それを使ったら、また呼ばれる』
続いて、男の声が聞こえた。
低く、押し殺した声。
『お前が放送したからだ』
篠崎の顔色が変わった。
透真は録音機を見た。
「先生の声……」
「止めろ」
篠崎が一歩近づく。
録音は続く。
『私は、放送してない』
『嘘をつくな。町内放送と同じ声が流れた』
『私じゃない! マイクが勝手に――』
何かが床へ落ちる音。
美月の悲鳴。
短い。
しかし、今度はその悲鳴に別の音が重なっていた。
女の笑い声。
放送室にいた、あの女。
『声をいただきます』
録音機のスピーカーから、女の囁きが流れる。
同時に、中庭の校内スピーカーが激しく震えた。
ざざっ。
ざあああああ!
『止めなさい』
偽物の美月の声が崩れる。
幼い子ども。
老人。
男。
女。
何人もの声が混ざり、一つの言葉にならない。
『それは、放送されていない音です』
透真は録音機を握りしめた。
「だから消せなかったんだ」
篠崎が証拠を消したとしても、幽霊の声までは消せない。
美月の死の直前に残った恐怖。
言えなかった言葉。
録音されなかったはずの悲鳴。
それらが、カセットテープに染みついていた。
「水上さん!」
透真は雫を見た。
「お姉さんの声を聞いてください!」
「聞こえない!」
「僕が伝えます!」
偽物の声がスピーカーから怒鳴る。
『伝えてはいけません!』
黒い染みが大きく広がる。
白い手が雫の膝にまで絡みついた。
透真の足も沈み始める。
それでも、透真は叫んだ。
「美月さんは、あなたに謝りたいと言っています!」
美月が透真の隣で泣いている。
『雫、ごめんね』
「最後に嫌いと言ったことを、ずっと後悔している!」
『あれは嘘だった』
「あなたが言ったことも、本心ではないと分かっている!」
『分かってるよ』
「あなたのせいで死んだんじゃない!」
偽物が、美月の声で叫ぶ。
『嘘だよ、雫!』
「違います!」
透真は声を張り上げた。
「お姉さんは、自殺していない!」
雫の目から涙がこぼれた。
「本当に?」
「事故です」
透真は一瞬、篠崎を見た。
「放送室で襲われて、逃げた先で事故に遭った」
篠崎の表情が強張る。
「音無!」
「お姉さんは、最後まで生きようとしていた!」
美月が雫の前に立つ。
触れられない妹へ、両手を伸ばす。
『生きたかった』
ぽたり。
『雫と、仲直りしたかった』
ぽたり。
『また一緒に帰りたかった』
「美月さんは、あなたと仲直りしたかった」
「……お姉ちゃん」
「一緒に帰りたかった」
雫の足元にある黒い染みが揺れた。
白い手の力が弱まる。
「だから」
透真は、最後の言葉を口にした。
「一人にして、ごめんね――と」
美月が、泣きながら笑った。
『大好きだよ』
透真の胸が締めつけられる。
その言葉も届けなければならない。
「大好きだと、言っています」
雫の唇が震えた。
足首を掴んでいた手が、一本ずつ消えていく。
「私も」
雫が俯く。
「私も、お姉ちゃんが大好き」
黒い染みが縮み始めた。
「いなくなればいいなんて、本気じゃなかった」
校内スピーカーから、耳をつんざくような雑音が流れる。
『返事をしてはいけません!』
「ずっと謝りたかった!」
雫は空中へ向かって叫んだ。
「ごめんなさい!」
黒い染みが消えた。
透真と雫の足が、地面へ戻る。
中庭に、蝉の声が戻ってきた。
校舎の窓から生徒たちの話し声が聞こえる。
時間が、再び動き始めた。
美月は雫の前に立っている。
雫には見えない。
それでも、姉の気配を感じたのか、雫がゆっくり顔を上げた。
美月が手を伸ばす。
今度は、その指先が妹の頬へわずかに触れた。
雫の髪が、風もないのに揺れる。
「お姉ちゃん?」
『ありがとう』
美月の体が、淡い光へ変わっていく。
『透真くん』
「はい」
『届けてくれて、ありがとう』
「どういたしまして」
声は震えていた。
怖かった。
今も膝が笑っている。
それでも、少しだけ嬉しかった。
死者の言葉が、生者へ届いた。
美月の姿が薄くなる。
消える直前、彼女は篠崎を見た。
『先生』
篠崎には聞こえていないはずだった。
だが、肩がわずかに動いた。
『あなたを許したわけじゃない』
美月は消えた。
地面には、一滴の水も残っていなかった。
◇
「説明してください」
美月が消えたあと、雫は篠崎を見た。
「姉を殴ったんですか」
篠崎は答えない。
「録音に先生の声が入っていました」
「お前たちには聞き間違いがある」
「二人とも同じように聞き間違えたと?」
「その録音機は壊れている」
透真は録音機を胸元へ引き寄せた。
「壊れているなら、警察に渡しても問題ありませんよね」
篠崎の目が細くなる。
優しい担任教師の顔は、もうなかった。
「音無」
低い声。
「死者の言葉を、何でも信じるな」
「どういう意味ですか」
「あいつらは、都合の悪いことを話さない」
篠崎は雫を見る。
「水上美月も同じだ」
「姉の何を知っているんですか」
「知らないほうがいい」
「答えてください!」
雫が詰め寄ろうとする。
その瞬間、昼休み終了のチャイムが鳴った。
きん。
こん。
かん。
こん。
透真は息を止めた。
普通のチャイム。
そう思った。
しかし、最後の音が消えたあと、別の声が聞こえた。
美月ではない。
透真の周囲に集まっていた幽霊たちの会話だ。
『届いたね』
『うん、届いた』
『一つ、空いた』
『これで、この子が入れる』
透真は周囲を見回した。
中庭の窓。
校舎の屋上。
木の陰。
何人もの幽霊が、こちらを見ていた。
「何の話ですか」
透真が尋ねると、幽霊たちは一斉に口を閉じた。
一人だけ、古い制服を着た少年が笑う。
『透真くん』
少年の周囲から、電車の走行音が聞こえた。
ごとん。
ごとん。
『死者の言葉を一つ届けるたび、君の声はこっちに近づくんだよ』
「どういう意味ですか」
少年は答えない。
代わりに、別の幽霊が囁いた。
『まだ知らないんだ』
『自分が何者なのか』
『誰が生き返らせたのか』
透真の耳の奥で、昨夜の放送が蘇る。
『あなたは、すでに一度、死亡しています』
篠崎が透真の顔を見ていた。
「何か聞こえたのか」
透真は答えなかった。
雫が録音機を指差す。
「それ、私にも聞かせてください」
「危険です」
「姉に何があったのか、知りたいんです」
「でも」
「私には知る権利があります」
透真は迷った。
死者の言葉を届けること。
真実を明らかにすること。
それは同じではない。
美月が本当に望んでいたのは、妹を事件へ巻き込むことではなく、罪悪感から救うことだった。
「今日は、ここまでにしましょう」
「逃げるんですか」
「違います」
透真は録音機を鞄へ戻した。
「お姉さんが伝えたかった言葉は、もう届きました」
「事件のことは?」
「調べます」
「私も調べます」
「危険です」
「先輩だって怖がっているじゃないですか」
「とても怖いです」
即答すると、雫が少し驚いた。
「それでも、調べるんですか」
「頼まれましたから」
「姉に?」
「はい」
厳密には、美月が頼んだのは「妹をお願い」だった。
それが何を意味するのか、透真にもまだ分からない。
事件を暴くことなのか。
雫を怪異から守ることなのか。
あるいは、その両方なのか。
篠崎が背を向けた。
「勝手にしろ」
校舎へ戻ろうと歩き出す。
「ただし、零時十三分の放送を聞くな」
透真は顔を上げた。
「先生は、あの放送を知っているんですか」
篠崎の足が止まる。
「十三年前から、この町に住んでいる人間なら知っている」
「何があったんですか」
篠崎は振り返らなかった。
「名前を呼ばれた」
「誰の名前を?」
しばらく沈黙したあと、篠崎は答えた。
「俺の妹だ」
そのまま校舎の中へ消えていく。
透真は追いかけられなかった。
校内スピーカーから、微かな雑音が流れたからだ。
ざあああ。
女の声が囁く。
『死者の想いを、一つ確認しました』
機械的な声。
『音無透真さん』
透真の背筋が凍る。
『あと、十二人です』
雑音が消えた。
中庭には、何事もなかったように夏の日差しが戻っていた。
◇
その日の帰り道。
透真は雫と校門で別れ、一人で歩いていた。
録音機は鞄の底に入れている。
もう音はしない。
美月の声も聞こえない。
きっと、届けるべき言葉を届け終えたからだ。
「十二人……」
何が十二人なのか。
なぜ、自分が死者の想いを届けることを、あの女は数えているのか。
考えたくない。
透真はイヤホンを耳へ入れた。
明るい曲を流す。
人の声があるだけで安心できる。
だが、交差点で信号を待っていると、音楽の奥から別の音が聞こえた。
ちりん。
風鈴の音。
透真はイヤホンを外した。
近くに風鈴はない。
道路沿いには、閉店した商店と古い空き家が並んでいる。
ちりん。
音は空き家から聞こえていた。
二階の窓に、一人の老婆が立っている。
青白い顔。
花柄の割烹着。
首が、不自然な角度に傾いていた。
老婆は透真を見つけると、ゆっくり口を開いた。
『帰ってきません』
透真は目を逸らした。
「すみません。今日はもう無理です」
『息子が帰ってきません』
「明日にしてください」
『もう、四十年待っています』
ちりん。
風鈴の音に交じって、別の声が聞こえた。
老婆の背後。
誰もいない暗い部屋で、二人の幽霊が会話している。
『また見つけたね』
『うん。声を届ける子だ』
『次は、あの家だね』
透真は空き家を見上げた。
二階の窓には、老婆しかいない。
だが、その背後の暗闇に、白い顔が二つ浮かんでいる。
『この家では』
二人の幽霊が同時に笑った。
『ただいまを言った人から、死んでいく』
風もないのに、空き家の玄関がゆっくり開いた。
暗闇の奥から、老婆が透真を呼ぶ。
『おかえりなさい』
透真は全力で走り出した。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
美月の想いは雫へ届きました。
しかし、死者の言葉を届けるたび、透真自身にも何かが近づいています。
篠崎が隠している十三年前の出来事。
零時十三分の放送。
そして、数えられている十二人の死者。
第4話「空き家の風鈴」では、四十年間、息子の帰宅を待ち続ける老婆の幽霊が登場します。
けれど、その家で「ただいま」を口にした人間は、二度と外へ出られません。




