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死者同士の会話は、聞いてはいけない ―午前零時十三分の町内放送―  作者: たむ
第一部 死者からの伝言

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第2話 妹に届かなかった声

死者から預かった言葉は、正しく届けなければなりません。


けれど、生きている人が真実を望んでいるとは限らない。


その言葉が、長いあいだ信じてきたものを壊してしまうなら――。

 放送室のドアノブが、ゆっくりと回っていた。


 右へ。


 止まる。


 少し戻り、また右へ回る。


 がちゃ。


 がちゃ。


 鍵のかかった扉を、外側にいる誰かが確かめている。


「音無。いるんだろう?」


 担任の篠崎の声だった。


 普段と変わらない、穏やかな声。


 だが、扉の下の隙間からは赤黒い水が染み込んでいる。


 鉄のような臭いがした。


 透真は壊れた録音機を抱えたまま、壁際まで後ずさった。


 水上美月の姿は、もう見えない。


 それでも、かすかな声だけが録音機から聞こえていた。


『返事をしないで』


 透真は口元を押さえる。


「音無?」


 篠崎が呼びかける。


「放送室は使用禁止だぞ。勝手に入ったのか?」


 何も答えない。


 心臓の音が大きすぎた。


 どくん。


 どくん。


 どくん。


 その音まで、扉の向こうに聞こえてしまいそうだった。


「おかしいな」


 篠崎の声が少し低くなった。


「確かに、中から声がしたんだが」


 扉の下から広がっていた赤黒い水が、突然止まった。


 水面が、細かく揺れている。


 その揺れに交じって、複数の声が聞こえた。


『見つかった』


『見つかった』


『声を出したら見つかる』


『名前を呼ばれたら返事をする』


『返事をしたら、放送が始まる』


 幽霊同士の会話だ。


 透真は目を閉じた。


 聞きたくない。


 聞けば、意味が分かってしまう。


 分かってしまえば、知らなかったことにはできない。


 がちゃり。


 扉の鍵が外れた。


「え……」


 放送室の内側には鍵がある。


 透真は触っていない。


 それなのに、つまみが勝手に回っていた。


 かち。


 扉が、わずかに開く。


 隙間から篠崎の顔が覗いた。


「やっぱりいたじゃないか」


 いつもと同じ顔だった。


 短く整えられた髪。


 細い銀縁の眼鏡。


 生徒に注意するときも、決して声を荒らげない教師。


 透真は篠崎の足元を見た。


 赤黒い水は消えている。


「どうした、そんな顔をして」


「あ……」


『返事をしないで』


 録音機から美月の声が響く。


 しかし篠崎には聞こえていないらしい。


「それは何だ?」


 篠崎の視線が、透真の抱えている録音機へ向いた。


 その瞬間、録音機の中でテープが動いた。


 きゅる。


 きゅるる。


 壊れているはずなのに、巻き戻されている。


 篠崎の表情が変わった。


 ほんの一瞬だった。


 目が細くなり、口元から笑みが消えた。


「どこで見つけた?」


 穏やかだった声が、硬くなる。


「机の横にありました」


「再生したのか」


 透真は答えなかった。


 篠崎が放送室へ入ってくる。


「音無。それを先生に渡しなさい」


 一歩。


 革靴が床を踏む。


 こつ。


 その音に重なって、別の足音が聞こえた。


 ぺた。


 濡れた裸足の音。


 篠崎のすぐ後ろに、美月が立っていた。


 先ほどよりも姿が薄い。


 長い髪の間から、篠崎を睨んでいる。


『この人』


 水滴が落ちた。


 ぽたり。


『この人が、私を殴った』


 透真の喉が引きつった。


 篠崎は担任だ。


 毎朝、生徒より早く教室へ来る。


 忘れ物をした生徒には、自分のペンを貸してくれる。


 進路に悩む生徒の相談にも、遅くまで付き合っている。


 そんな篠崎が、美月を襲った。


「音無?」


 篠崎が手を伸ばした。


「渡しなさい」


 透真は録音機を背中へ隠した。


「嫌です」


「何?」


「これは……僕のものではありません。でも、先生に渡してはいけないと思います」


 自分でも驚くほど、声が震えていた。


 篠崎の顔から、完全に笑みが消えた。


「どうしてだ」


「分かりません」


「何を聞いた」


「何も」


「嘘をつくな」


 篠崎が透真の手首を掴んだ。


 痛い。


 指が骨へ食い込む。


「先生」


「そのテープには、何も入っていない」


「何も入っていないなら、そんなに欲しがらなくてもいいじゃないですか」


 言ってから、後悔した。


 篠崎の目が大きく見開かれた。


 放送室の空気が冷たくなる。


 壁掛け時計が止まった。


 午後五時三十四分。


 また同じ時間だ。


 スピーカーから、ざらついた雑音が流れ始めた。


『放送を始めます』


 あの女の声。


 篠崎も声を聞いたらしく、天井を見上げた。


「またか」


 透真は息を呑んだ。


 篠崎には、この声が聞こえている。


「先生も、聞こえるんですか」


「黙れ」


 篠崎が録音機を奪おうとする。


 その瞬間、美月が篠崎の背中へしがみついた。


 濡れた両腕が、首に巻きつく。


 篠崎の体が大きく反った。


「うっ……!」


 透真には美月が見える。


 しかし篠崎には、冷気と重さしか感じられないのだろう。


 見えない何かを振り払おうと、両腕を振り回す。


『逃げて!』


 透真は放送室を飛び出した。


 廊下を走る。


 背後で、篠崎の怒鳴り声が響いた。


「待て、音無!」


 透真は振り返らなかった。


 階段を駆け下り、昇降口へ向かう。


 校内放送のスピーカーから、女の声が追いかけてくる。


『音無透真さん』


「呼ばないでください!」


『お伝えしたいことがあります』


「聞きません!」


『あなたは――』


 透真は耳を塞いだ。


 それでも声は頭の中へ入ってくる。


『すでに一度、死亡しています』


 足が止まりかけた。


 意味が分からない。


 分かりたくない。


 透真は昇降口を飛び出した。


 外にはまだ夕暮れが残っていた。


 野球部の掛け声。


 吹奏楽部の音合わせ。


 駐輪場で話す生徒たち。


 いつもの学校の音が戻っている。


 透真は校門を出るまで走り続けた。


     ◇


 翌朝。


 音無透真は、学校へ行きたくなかった。


 体調不良ということにして休もうとしたが、台所に立つ父親に額を触られた。


「熱はないな」


「心が少し熱っぽい」


「遅刻しないうちに行け」


「高校生の息子が深刻そうな顔をしているんだよ。もう少し心配してもいいんじゃないかな」


「昨夜、怖い動画でも見たのか?」


「もっと怖いものを見た」


「課題の提出期限か」


「幽霊」


 父親は味噌汁を一口飲んだ。


「行ってこい」


 透真の父、音無誠一は幽霊を信じていない。


 正確には、透真が幽霊を見ることを信じようとしない。


 幼い頃、母親が亡くなった直後から、透真は見えない相手と話すようになった。


 父はそれを、母の死を受け入れられない子どもの心が生み出したものだと考えている。


 透真も、父の前では幽霊の話をしなくなった。


 学校へ向かう道で、鞄の中から録音機を取り出す。


 昨日、放送室から持ち帰ったものだ。


 外側はひび割れ、再生ボタンも取れている。


 それでも、中のカセットテープは無事だった。


「これを警察に持っていけば……」


『やめたほうがいい』


 横から声がした。


 透真は飛び上がった。


「うわっ!」


 電柱の陰に、美月が立っている。


 朝の光の中では、幽霊の姿は薄い。


 制服も髪も透け、その向こうのブロック塀が見えていた。


「急に出てこないでください」


『ずっといたよ』


「それはもっと怖いです」


 美月は透真の鞄を指差した。


『テープを警察に持っていっても、声は入ってない』


「昨日は聞こえました」


『透真くんにしか聞こえない声だから』


「殴られた音も?」


『本当の音は消されてる』


「篠崎先生が?」


 美月は頷いた。


『私が死んだあと、事故として処理された。放送室で何があったか、誰も知らない』


「妹さんも?」


『知らない』


「水上雫さんは、何組ですか」


『一年三組』


「分かりました。今日、話します」


 美月は不安そうに俯いた。


『信じないと思う』


「それでも届けます」


『私が幽霊になったって言うの?』


「そこは、もう少し自然な説明を考えます」


『自然に説明できるの?』


「できません」


 透真は正直に答えた。


「でも、伝えなければ始まりませんから」


 美月の姿が、朝日を受けてさらに薄くなる。


『優しいんだね』


「違います」


 透真は歩き出した。


「頼まれたことを断れないだけです」


『それを優しいって言うんじゃないの?』


「自分が怖い目に遭うことを予想できない人は、ただのお人よしです」


 背後で、美月が少し笑った気がした。


     ◇


 一年三組の教室は、二階の東側にあった。


 昼休み。


 透真は教室の前で、水上雫を待っていた。


 昨日まで顔も知らなかったが、廊下に貼られている委員会名簿で名前を確認した。


 図書委員。


 同じクラスの生徒に呼んでもらうと、窓際の席から一人の少女が立ち上がった。


 肩に触れる長さの黒髪。


 細い目。


 美月によく似ている。


 ただし、姉よりも表情が硬かった。


「私に何か?」


「あの、音無透真です。二年生の」


「知りません」


「そうですよね」


 雫は冷たい視線を向ける。


「何の用ですか」


「お姉さんのことで、話があります」


 雫の顔色が変わった。


「姉を知っているんですか」


「直接は……」


 死後に知り合いました、とは言えない。


「ある人から、伝言を頼まれました」


「誰ですか」


「それは言えません」


「怪しいんですけど」


「自分でもそう思います」


 廊下の窓際に、美月が立っている。


 妹を見つめているが、雫には見えない。


『雫』


 姉の声に反応したように、雫が一瞬だけ窓を見る。


「場所を変えませんか」


 透真は言った。


「ここでは話しにくいことなので」


     ◇


 二人は中庭の隅にあるベンチへ移動した。


 昼休みだが、この場所にはほとんど生徒が来ない。


 校舎の影になり、夏でも薄暗いからだ。


 透真はベンチの端に座った。


 雫は座らず、腕を組んで立っている。


「姉のことで、何を知っているんですか」


「お姉さんは、亡くなる前に、あなたと喧嘩をしましたね」


 雫の表情が固まった。


「どこで聞いたんですか」


「お姉さんから」


「ふざけないでください」


「ふざけていません」


「姉は死んでいます」


「分かっています」


「だったら、姉から聞けるわけがないでしょう」


 透真は答えられなかった。


 雫の後ろに立つ美月が、小さく頷いた。


『言って』


「あなたは、お姉さんに『いなくなればいい』と言った」


 雫の唇が震えた。


「やめてください」


「お姉さんも、あなたに『嫌い』と言った」


「やめて」


「でも、それは本心ではなかった」


 雫が透真の胸を突き飛ばした。


「やめてって言ってるでしょう!」


 透真はベンチに手をついて、どうにか倒れずに済んだ。


 雫の目には涙が浮かんでいた。


「誰に聞いたの」


「お姉さんです」


「嘘」


「美月さんは、あなたに謝りたがっています」


「嘘!」


「自分のせいではないと伝えたいと言っています」


 雫は両手で耳を塞いだ。


「聞きたくない!」


 透真は言葉を止めた。


 死者の想いを届ければ、生者は救われる。


 そう思っていた。


 だが、受け取る側が望まなければ、伝言はただ傷を抉るだけだ。


 美月が雫へ近づいた。


 妹の頬に触れようとする。


 しかし、透けた指は肌を通り抜けた。


『雫』


 雫には聞こえない。


『ごめんね』


 届かない。


『私、自殺してないよ』


 美月の声が、水滴の音となって地面へ落ちる。


 ぽたり。


 雫が顔を上げた。


「姉は自殺じゃない」


 透真は美月を見る。


 美月も驚いていた。


「そうです。事故でした」


「違う」


 雫は透真を睨みつけた。


「姉は殺されたの」


 中庭の空気が冷たくなった。


「どうして、そう思うんですか」


「思っているんじゃない。知ってるの」


 雫は制服のポケットから、小さな鍵を取り出した。


 銀色の古い鍵。


 丸い札がついている。


 札には、かすれた文字で数字が刻まれていた。


 013。


「姉が死んだ次の日、私の机に入っていた」


「何の鍵ですか」


「分からない。でも、手紙も一緒に入ってた」


「手紙?」


 雫は透真へ顔を近づけた。


「姉の字で、こう書かれていた」


 風が止まった。


 蝉の声も、校舎から聞こえる生徒たちの声も消える。


 雫の声だけが、やけに鮮明に聞こえた。


「私が死んだら、放送室の先生を疑って」


 透真の背後で、革靴の音がした。


 こつ。


 こつ。


 こつ。


 振り返る。


 校舎の出入り口に、篠崎が立っていた。


 いつもの穏やかな笑みを浮かべている。


「こんなところにいたのか、音無」


 篠崎は透真ではなく、雫の手にある鍵を見ていた。


「水上も一緒だったんだな」


 美月が透真の隣で震え始める。


『逃げて』


 篠崎が中庭へ下りてくる。


「二人とも、昼休みはもう終わるぞ」


 こつ。


「教室へ戻りなさい」


 こつ。


 篠崎が歩くたび、革靴の底から赤黒い水が滲んでいる。


 雫には見えていない。


「先生」


 雫が鍵を握りしめた。


「姉のことで、聞きたいことがあります」


 篠崎の足が止まった。


 笑顔は崩れない。


「美月さんのことか」


「姉が死んだ日、先生はどこにいましたか」


 一瞬の沈黙。


 篠崎の背後にある校内スピーカーから、雑音が流れた。


 ざああああ。


『放送を始めます』


 女の声。


 篠崎の口元から笑みが消える。


 スピーカーが続けた。


『水上雫さん』


 雫が顔を上げた。


「私?」


『あなたへの伝言を、お預かりしています』


 透真は雫の腕を掴んだ。


「聞いてはいけません!」


『お姉さんからです』


 美月が叫んだ。


『違う! 私じゃない!』


 だが、その声は雫には届かない。


 スピーカーから、美月と同じ声が流れた。


『雫』


 雫の目が見開かれる。


『私が死んだのは、あなたのせいだよ』


 美月が首を横に振る。


『違う!』


『あなたが、いなくなればいいと言ったから』


「違います!」


 透真が叫ぶ。


『あなたの言葉どおり、私はいなくなりました』


 雫の顔から血の気が引いていく。


 篠崎は動かない。


 ただ、スピーカーを見上げていた。


 美月が泣きながら、妹の肩を掴もうとする。


 何度触れても、手はすり抜ける。


『雫、信じないで』


『あなたも、こちらへ来て』


 スピーカーから三回、ノックの音が響いた。


 こん。


 雫の足元に、黒い染みが広がる。


 こん。


 染みの中から、白い指が何本も伸びてきた。


 こん。


 雫の足首を、死者の手が掴んだ。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


姉の想いを届けようとした透真でしたが、何者かが美月の声を使い、正反対の言葉を雫へ伝えました。


死者の声が聞こえることと、その声が本物であることは同じではありません。


第3話「録音されていない悲鳴」では、透真が雫を引き込もうとする手に立ち向かいます。


そして美月の録音に隠された、もう一つの音が明らかになり

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