第26話 十三分間の無音
音が聞こえなくなったとき、人は声を失うだけではありません。
助けを求めたこと。
謝ったこと。
誰かの帰りを待っていたこと。
音として残された記憶まで、少しずつ消えていきます。
それでも、想いそのものは、本当に音がなければ存在できないのでしょうか。
音が消えた。
体育館の旧放送倉庫。
回転していたオープンリール。
透真の心臓。
澪の呼吸。
誠一が床を踏む振動。
何一つ、聞こえない。
透真は口を開いた。
「澪さん」
確かに喉は動いた。
息も吐き出した。
だが、自分の声が聞こえない。
澪が何かを叫んでいる。
唇の形で、自分の名前を呼んでいることは分かる。
それでも音は届かなかった。
録音機のカウンターだけが動いている。
十二分三十九秒。
十二分三十八秒。
数字が、一秒ずつ減っていく。
録音機の背後に立つ黒い人型。
澪と同じ背丈。
澪と同じ髪。
だが、顔も。
影も。
声もない。
音が生まれる前の空白。
澪が生まれてから、最初の泣き声を上げるまでの十三分間。
黒い存在が口を開く。
音はしない。
それでも、意味だけが透真の頭へ直接流れ込んできた。
――声は、すべて間違いを生む。
透真は額を押さえた。
音として聞いたのではない。
自分の考えのように、言葉が内側へ現れた。
――名前を呼ぶから、誰かが選ばれる。
――助けてと言うから、助けられなかった人が苦しむ。
――好きだと言うから、残された人が忘れられなくなる。
黒い存在は両腕を広げる。
――全部、始まる前へ戻す。
倉庫の棚に並んだカセットテープから、ラベルの文字が消え始めた。
避難所記録。
町内放送。
救護記録。
録音日時。
一文字ずつ白くなっていく。
透真は近くのテープを掴んだ。
水上美月。
そう記されていたはずのラベル。
すでに何も書かれていない。
再生機へ入れる。
画面表示。
収録時間、零秒。
「……!」
透真は別のテープを取った。
白石ハナ。
篠崎真帆。
三谷悠人。
これまで言葉を届けた死者たちの記録。
すべて、収録時間が零秒になっている。
透真の耳の奥から、彼らの最後の音も消えていた。
美月が逃げた雨の音。
ハナの家で鳴った風鈴。
真帆の踏切の鐘。
悠人の携帯電話。
何も聞こえない。
声を届け終えたためではない。
最初から存在しなかったことにされている。
透真は澪の肩を掴み、棚を指差した。
澪も状況を理解したらしい。
携帯電話を取り出す。
画面へ素早く文字を打った。
『記録が消えてる』
透真は頷く。
自分の携帯電話へ入力する。
『紙に残します』
デジタルの音声は消される。
だが、文字なら残るかもしれない。
誠一が倉庫の机から記録用紙を取り出した。
三人でペンを握る。
透真は最初に書いた。
水上美月。
妹の雫へ。
あなたのせいではない。
一人にしてごめんなさい。
書き終わる前に、紙の文字が薄くなる。
インクが消えたのではない。
文字の形だけは残っている。
だが、それを読んでも、声として頭の中で再生できない。
透真は「水上美月」という文字を見つめた。
誰だったのか。
一瞬、思い出せなくなる。
放送室。
濡れた足跡。
妹。
教師。
断片はある。
しかし、顔も声も曖昧になっていく。
「……」
声を出そうとする。
音はない。
透真は自分の頬を強く叩いた。
痛み。
今の感覚。
澪が驚いて腕を掴む。
透真は首を横に振り、もう一度紙へ書いた。
『言葉だけでは足りません』
誠一が眉を寄せる。
透真は美月の伝えた想いを、身振りで示そうとした。
胸へ手を当てる。
次に、誰かへ手を伸ばす。
頭を下げる。
最後に、首を横に振る。
あなたのせいではない。
声はなくても、澪には伝わった。
澪も両腕で自分を抱きしめる。
そのあと、空いている椅子を指差す。
一人にしてごめん。
三人が、同じ意味を行動へ変える。
すると。
消えかけていた美月の名前が、紙の上へ戻った。
完全ではない。
それでも読める。
黒い存在の顔が、わずかに透真たちへ向いた。
――音がなければ、想いは残らない。
透真は紙へ書いた。
『残ります』
――伝わらない。
『全部は伝わらなくても』
透真は澪と誠一を見る。
『受け取ろうとしたことは残ります』
カウンター。
十一分二十二秒。
◇
体育館の外。
町からも音が消えていた。
倉庫の小窓から、校庭が見える。
国道を走る車。
夜空を飛ぶ航空機。
風に揺れる木々。
すべて動いている。
だが、完全な無音。
体育館の非常灯が点滅した。
赤。
白。
赤。
白。
音の代わりに、町の異常を知らせている。
誠一の携帯電話へ緊急通知が表示された。
『町内全域で音響障害が発生しています』
通話はできない。
動画も無音。
警察も消防も、サイレンを鳴らせない。
交差点では車が止まり、運転手が互いに身振りで合図している。
赤ん坊を抱いた母親が、子どもの口元へ手を当てている。
泣いているのか。
呼吸をしているのか。
耳では確かめられない。
病院。
学校。
家。
すべての場所で、人々は心音を失ったような恐怖を感じている。
実際には生きている。
体は動いている。
だが、音がなければ、自分の命さえ確かめられない。
黒い存在の意味が流れ込む。
――音がなければ、死者も生者も同じ。
倉庫の壁から、何人もの幽霊が現れた。
水に濡れた女学生。
首に縄の跡がある女性。
踏切事故の少女。
携帯電話を持った少年。
透真が出会ってきた死者たち。
姿は見える。
だが、誰が誰なのか分からない。
最後の音が消えたため、透真の力でも判別できない。
死者たちも混乱している。
口を動かす。
何かを伝えようとする。
しかし、音にならない。
一人の少女が透真へ駆け寄った。
制服。
濡れた髪。
手を伸ばす。
水上美月なのかもしれない。
別の死者かもしれない。
透真は名前を呼べない。
声も聞けない。
少女は胸元から、小さな鍵を取り出した。
番号。
〇一三。
その鍵を見て、透真は思い出す。
美月。
妹。
雫。
言葉。
透真は少女の手を握った。
声ではなく、指先へ合図を送る。
とん。
とん。
とん、とん。
ここにいる。
少女の目から涙が落ちた。
同じ合図は返さない。
代わりに、透真の手の甲へ文字を書く。
し。
ず。
く。
雫。
透真は頷いた。
少女の姿に、少しずつ色が戻る。
最後の音がなくても。
名前を呼べなくても。
その人が誰かへ伝えたかった想いが、存在をつなぎ止めている。
ほかの死者たちも透真へ近づく。
少年が、水をかく動きをする。
最後に、電話を耳へ当てる。
三谷悠人。
助けてと言えなかった少年。
透真は口元へ手を当てる。
次に、両腕を大きく伸ばす。
助けて。
少年が頷く。
胸へ手を置き。
母親を抱きしめるような動きをする。
別の少女。
銀色の鈴。
兄へ向かって、逃げろと手を振る。
篠崎真帆。
透真は一人ずつ、音のない想いを受け取った。
カウンター。
九分十三秒。
黒い存在の体が大きくなる。
倉庫の天井へ届くほど。
――無駄。
――十三分が終われば、記憶も消える。
死者たちの輪郭が、再び薄くなる。
伝えられた言葉。
残された行動。
記録。
それだけでは、無音そのものを止められない。
◇
澪は黒い存在を見つめていた。
自分と同じ形。
自分が生まれた直後。
声を出せなかった十三分間。
影の中にいた未来の自分たちとは違う。
死んだ可能性ではない。
生きるとも。
死ぬとも決まっていなかった時間。
誰にも名前を呼ばれず。
泣き声もなく。
母親も医師も、ただ呼吸を待っていた。
澪は携帯電話へ文字を打つ。
『あなたは私?』
黒い存在が澪を見る。
意味が頭へ入る。
――違う。
『私が泣かなかった十三分でしょう』
――私は、泣く前のあなた。
『それなら私です』
――あなたは泣いた。
――私は泣かなかった。
『同じ時間から分かれた』
――あなたは名前を得た。
――私は何も得なかった。
澪は自分の喉へ手を当てた。
取り戻した産声。
現在の声。
十七年間使ってきた言葉。
すべて自分のもの。
だが、声を出せなかった十三分間も、自分の人生だった。
『あなたを消すつもりはない』
――私は、あなたが声を得た瞬間に捨てられた。
『捨てたんじゃない』
――誰も覚えていない。
澪は母子手帳の写真を開く。
出生直後、自発呼吸なし。
蘇生処置。
初回啼泣、午前零時三十九分。
記録されているのは、泣いた時刻。
泣くまでの十三分間については、「自発呼吸なし」という短い一文しかない。
苦しみも。
恐怖も。
まだ意識すら明確でなかった時間。
誰も本人の経験として扱わなかった。
『私も覚えていなかった』
澪は正直に打った。
黒い存在の輪郭が揺れる。
『でも、今は知っている』
――知れば、どうする。
『私の人生へ戻ってきて』
透真が澪を見る。
首を横に振ろうとする。
危険だと伝えたいのだろう。
澪は透真の手を握った。
携帯電話へ打つ。
『大丈夫とは言えない』
『怖い』
『でも、私の時間を外へ置いたままにはしない』
黒い存在が一歩近づく。
床へ影は落ちない。
足音もない。
――私が戻れば、あなたの声は消える。
『全部は渡さない』
――選べない。
『私が決める』
澪は黒い存在の胸へ手を伸ばした。
触れた瞬間。
冷たい空白が腕から流れ込む。
声を出したい。
だが、出ない。
肺へ空気が入っているのか分からない。
母親の顔も。
医師の声も。
光も曖昧。
ただ、生きようとしている体だけがある。
名前のない命。
澪は自分の胸へ手を当てた。
現在の心臓。
音は聞こえない。
それでも、手のひらには振動がある。
どくん。
どくん。
黒い存在も、同じ場所へ手を置く。
澪の心臓の振動を感じる。
『これが今の私』
黒い存在の胸には、何もない。
『あなたがいたから、ここまで来た』
――私がいたから?
『十三分間、生きるのをやめなかった』
泣けなくても。
声がなくても。
名前がなくても。
心臓は動いていた。
わずかな呼吸をしようとしていた。
無音の十三分間は、空白ではない。
澪が生き続けた最初の十三分間。
『あなたは、何もなかった時間じゃない』
黒い存在の顔に、初めて輪郭が現れた。
目。
鼻。
澪と同じ顔。
だが、口だけがない。
『声がなくても、生きていた私』
澪は黒い存在を抱きしめた。
冷たい体。
自分と同じ大きさ。
黒い存在の指が、澪の背中へ触れる。
――怖かった。
『うん』
――苦しかった。
『うん』
――誰も来なかった。
『今、来た』
黒い腕が澪を抱き返した。
その体が少しずつ、澪の影へ入っていく。
消えるのではない。
戻る。
澪の足元。
失われていた影が、再び現れる。
今までより濃い影。
胸の位置に、一つの振動。
音はない。
それでも澪には分かる。
十三分間の自分が、そこにいる。
カウンター。
六分四十秒。
だが、無音は終わらない。
黒い存在が澪へ戻っても、数字は減り続けている。
「……」
透真は録音機を指差した。
問題は澪の分かれた時間だけではない。
呼名女が、その十三分間を町全体の無音として再生している。
記録そのものを書き換えなければ、ゼロで音は消える。
◇
誠一は録音機の裏側を調べていた。
音がないため、口頭で説明できない。
紙へ図を書く。
入力。
出力。
録音ヘッド。
病院の産声記録。
体育館の蘇生記録。
現在の町内放送。
三つが一つの回線へ接続されている。
誠一は大型スピーカーの配線を外した。
銅線。
磁石。
振動板。
澪へ身振りで近くへ来るよう伝える。
携帯電話へ文字を打つ。
『声ではなく、心臓を記録する』
澪が画面を見る。
『今は音がない』
『振動はある』
スピーカーは、電気信号を振動へ変えて音を出す。
逆に使えば。
振動を電気信号へ変える、簡単なマイクにもなる。
誠一はスピーカーの振動板を外し、布で包んだ。
澪の胸へ当てる。
録音装置の入力端子へ接続する。
入力ランプ。
消えたまま。
誠一は配線を調整する。
澪の心臓。
手では感じられる。
だが、信号が弱すぎる。
透真は胸へ手を当てた。
自分の心臓。
その奥に、四歳の透真の鼓動。
二つ分の振動。
透真はもう一つのスピーカーを外し、自分の胸へ当てる。
澪が首を横に振る。
危険だと訴えている。
透真は携帯電話へ打つ。
『一人では足りません』
『また自分を使う』
『二人です』
澪は透真を睨む。
そのあと。
自分の胸のスピーカーを強く押さえた。
『三人』
誠一も自分の胸へ振動板を当てる。
透真は驚いて父を見る。
誠一は紙へ書いた。
『一人で背負うな』
三人分の心臓。
それぞれ異なる速度。
澪。
透真。
誠一。
音はしない。
それでも振動は電気信号へ変わる。
録音装置の入力ランプが、一度点灯した。
赤。
消える。
もう一度。
赤。
心臓のたびに光る。
カウンター。
三分十三秒。
画面表示。
無音記録へ上書きしますか。
三人は互いを見る。
誠一が実行ボタンを押した。
録音リールが回転する。
何も聞こえない。
だが、画面に波形が現れ始めた。
澪の心臓。
透真の二つの鼓動。
誠一の少し速い心拍。
規則的ではない。
完全な繰り返しでもない。
今この瞬間に変化し続ける、生きている振動。
無音だった十三分間へ。
生者側からの返事が記録されていく。
『無効です』
呼名女の意味が、三人の頭へ流れ込む。
姿は見えない。
町中の無音そのものが、呼名女の体になっている。
『音ではありません』
透真は画面へ文字を打つ。
『音になる前の返事です』
『記録条件を満たしません』
誠一が追記する。
『生存確認は、音声に限られない』
澪は自分の胸を叩いた。
とん。
音はない。
振動だけ。
録音波形が大きく揺れる。
『私は、声がなくても生きていた』
カウンター。
一分十三秒。
死者たちの姿が消え始める。
美月。
悠人。
真帆。
ハナ。
透真は彼らへ手を伸ばす。
音が戻る保証はない。
十三分がゼロになれば、永遠に聞こえなくなるかもしれない。
死者たちは、透真へそれぞれの合図を残す。
鍵。
電話。
鈴。
風鈴を揺らす手。
声ではない最後の別れ。
透真は全員へ頭を下げた。
届けた言葉を、忘れない。
音が消えても。
意味を残す。
カウンター。
三十秒。
体育館の外。
町の照明が一つずつ消える。
音だけでなく、動きまで止まり始めている。
信号機。
車。
風。
時間そのものが、音の始まる前へ戻ろうとしている。
十五秒。
澪の心拍が速くなる。
波形が乱れる。
透真も。
誠一も。
怖い。
ゼロになったとき。
音が戻るか。
世界が止まるか。
誰にも分からない。
十。
九。
八。
三人は互いの手を重ねる。
七。
六。
五。
透真の胸の奥。
四歳の鼓動が一度、大きく鳴る。
音はない。
それでも、確かに感じる。
四。
三。
二。
一。
零。
◇
何も起きなかった。
無音。
暗闇。
心臓の振動さえ、手のひらから消えた。
透真は、自分が死んだと思った。
午前零時十三分。
午前零時二十六分。
三度目。
あるいは、すべてが始まる前へ戻されたのかもしれない。
目も開かない。
体も動かない。
名前も思い出せない。
誰かが、手を握っている。
温かい。
その指が動く。
とん。
とん。
とん、とん。
ここにいる。
誰の合図だったか。
すぐには思い出せない。
それでも、透真は返そうとした。
指を一度。
次に二度。
決められていない返事。
別の手も重なる。
大きな手。
父。
反対側。
細い指。
澪。
名前が戻る。
記憶が戻る。
自分の胸の中で。
どくん。
小さな振動。
次に。
どくん。
大きな振動。
心臓が動く。
その音が。
初めて聞こえた。
どくん。
どくん。
続いて、澪の息。
「……っ」
誠一の咳。
「げほっ!」
録音リールの回転。
からからから。
非常灯の電気音。
じい。
町の遠くから。
車。
風。
犬の鳴き声。
すべての音が、一斉に戻った。
大きすぎる。
透真は耳を押さえた。
澪も床へ座り込み、泣きながら笑っている。
「聞こえる」
「はい」
「心臓も」
「聞こえます」
誠一が録音装置を見る。
十三分間の無音記録。
波形が書き加えられている。
三人の心拍。
音ではなく、振動として記録された生存の証拠。
表示。
無音区間。
ではなく。
音声発生前・生存継続区間。
「書き換わった」
誠一が呟く。
「無音は、死ではない」
澪は自分の影を見る。
足元へ、きちんと影がある。
胸の位置から二つ目の心音は聞こえない。
だが、影が一度だけ、澪とは違う動きをした。
自分の胸へ手を置く。
私はここにいる。
澪も同じ動きを返した。
「いるね」
影が元へ戻る。
◇
倉庫にいた死者たちの姿は、すでに消えていた。
「戻ったんでしょうか」
澪が尋ねる。
透真は耳を澄ませた。
風。
録音機。
校舎。
遠い町内放送。
しかし。
死者の声が聞こえない。
「音無くん?」
「何も」
「まだ無音が残ってる?」
「普通の音は聞こえます」
透真は棚にあるテープを一つ取った。
ラベル。
水上美月。
文字は戻っている。
再生する。
雨。
足音。
扉。
録音は復元されている。
それなのに、透真にはその奥にいる死者の会話が聞こえない。
「力が消えた?」
澪が心配そうに見る。
「分かりません」
透真は倉庫の壁へ触れた。
以前なら。
配管の振動。
電気音。
濡れた足音。
そこから死者の言葉を聞き取れた。
今は、ただの音にしか聞こえない。
「よかったんじゃないか」
誠一が言った。
「これで、死者の声を追わなくて済む」
透真は答えなかった。
望んでいたはずの静けさ。
幽霊が見えても。
呼ばれても。
会話を聞かずに済む。
命を削って、言葉を届ける必要もない。
それでも。
胸の中が空いたように感じる。
「寂しい?」
澪が尋ねる。
「少し」
「怖い声ばかりだったのに?」
「怖くても」
透真は水上美月のテープを見る。
「誰かが、まだ話しているのに聞こえないと思うと」
そのとき。
録音機のスピーカーから、子守歌が流れた。
透真が幼い頃に聞いた歌。
「母さん」
死者の声は聞こえないはずだった。
だが、小夜子の声だけは、はっきり聞こえる。
『透真』
「母さん!」
澪と誠一には、子守歌しか聞こえていないらしい。
透真だけが、言葉として受け取っている。
『ほかの声は、私が預かってる』
「どこにいるんですか」
『最初の放送室』
「音返神社?」
『違う』
雑音。
『町内放送ができる前』
『声を一人ずつ、手渡していた場所』
「どこですか」
『夕名町役場の地下』
現在の町役場。
旧村役場とは別の建物。
『呼名女は、最後の放送を始める』
「いつですか」
壁掛け時計。
午前二時十五分。
針が逆方向へ動き始める。
午前零時十三分を目指して。
『今夜』
小夜子の声が震える。
『町に残っている死者の声を、全部使って』
『一人だけ、生き返らせる』
「誰を?」
子守歌が止まる。
代わりに。
町中のスピーカーから、透真自身の声が流れた。
『音無小夜子さん』
透真は息を呑む。
自分は話していない。
呼名女が、透真から失われた声を使っている。
『午前零時十三分に』
『町内すべての死者の声と交換し』
『生者として帰還していただきます』
「母さんを、生き返らせる?」
誠一がスピーカーを見る。
「何が代わりになる」
放送が答える。
『これまで音無透真さんが届けた、すべての最後の言葉です』
美月。
ハナ。
康介。
真帆。
悠人。
名も知らない死者たち。
届けられた想いを回収し。
小夜子一人の命へ変える。
『返された言葉は、最初から届かなかったものとなります』
透真の手から、美月のテープが落ちた。
『妹への謝罪も』
『母への助けも』
『兄への感謝も』
『すべて、取り消します』
小夜子の声が、最後に小さく聞こえた。
『透真』
『私を、生き返らせないで』
旧放送倉庫の扉が、内側から三回叩かれた。
こん。
こん。
こん。
扉の向こう。
死者たちの最後の声を抱えた小夜子が、立っていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
澪が最初に泣くまでの十三分間は、何も存在しなかった空白ではありませんでした。
声がなくても。
名前がなくても。
澪の心臓は動き、生き続けていました。
透真、澪、誠一は、音ではなく心臓の振動を録音回線へ送り、無音区間を「生存継続区間」へ書き換えます。
しかし、その結果、透真は死者同士の会話を聞く力を失いました。
現在、死者たちの最後の声は、小夜子が一人で預かっています。
呼名女が始めようとしている最後の放送。
町に残るすべての死者の言葉を回収し、その代わりに音無小夜子を生き返らせる儀式です。
第27話「最後の声を持つ人」では、透真たちは町役場地下の旧伝声室へ向かいます。
母を生き返らせれば、これまで届けた死者の想いはすべて取り消される。
母を拒めば、小夜子は死者たちの声とともに消える。
そして、死者の声を聞けなくなった透真は、声を聞かずに母の本当の願いを見つけなければなりません。




