第27話 最後の声を持つ人
誰かの最後の言葉を預かるということは、その人の人生の一部を抱えることです。
一人なら、まだ耐えられるかもしれません。
けれど、町に残ったすべての死者の声を、一人で抱え続けたなら。
その人自身の言葉は、ほかの声の奥へ沈んでしまいます。
旧放送倉庫の扉が、三回叩かれた。
こん。
こん。
こん。
透真には、その音しか聞こえない。
以前なら。
叩く強さ。
間隔。
扉の材質。
その奥にいる死者の感情まで、言葉として伝わってきた。
今はただ、誰かが三回叩いたという事実しか分からない。
「小夜子なのか」
誠一が扉へ近づいた。
「待ってください」
透真は父の腕を掴む。
「三回です」
「分かっている」
「三回の音は、死者の会話へ誰かを加える合図です」
「扉の向こうに小夜子がいる」
「だからこそです」
誠一は息子を見る。
「お前には、もう声が聞こえないんだろう」
「はい」
「なら、何を基準に止める」
透真は答えられなかった。
死者の意図が聞こえない。
小夜子なのか。
呼名女なのか。
扉を叩いた理由も分からない。
聞こえないというだけで、ここまで判断できなくなるとは思わなかった。
澪が扉の前へ立つ。
「私が開ける」
「危険です」
「二人とも同じことしか言わないから」
澪は取っ手へ手を掛けた。
「何か出てきたら、すぐ閉める」
扉を少しだけ開く。
冷たい空気が倉庫へ流れ込んだ。
廊下には誰もいない。
体育館裏の薄暗い通路。
非常灯。
埃。
古い床。
その中央に、一台のカセットレコーダーが置かれていた。
「さっきまで、ありましたか」
透真が尋ねる。
「ない」
誠一が答える。
黒い小型の録音機。
再生ボタンだけが押し込まれている。
テープは回っていない。
それでも、スピーカーから子守歌が流れていた。
小夜子が透真へ歌っていた旋律。
「聞こえますか」
「歌だけ」
澪が答える。
「言葉は?」
「ない」
透真には、歌の奥から母の声が聞こえた。
『来ないで』
続いて。
『来て』
二つの言葉が重なっている。
同じ声。
同じ調子。
どちらが小夜子の本心か分からない。
「また、反対のことを」
澪が透真の表情から察した。
「来るなと、来てです」
「どっちが本物?」
「分かりません」
カセットレコーダーの蓋が開いた。
中にはテープではなく、細く折り畳まれた紙が入っている。
透真が取り出す。
町役場地下平面図。
旧伝声室。
赤い印。
午前零時十三分まで、あと二時間。
現在の時計は午前二時十七分。
だが、紙に記された時刻は、現在時刻と一致していない。
町の時間は再び、午前零時十三分へ向かって巻き戻り始めている。
地図の裏側。
小夜子の筆跡で、一文だけ書かれていた。
声を聞かないで。
「声を聞かないで?」
澪が読む。
「来るなとは書いていません」
透真は地図を見る。
小夜子は、自分の声さえ信用するなと伝えている。
呼名女に使われているから。
なら、紙に残した行動のほうを信じる。
「町役場へ行きます」
誠一がすぐに歩き出す。
「父さん」
「今度は止めるな」
「止めるつもりはありません」
「なら急げ」
◇
夜の夕名町役場は、全館消灯していた。
正面玄関には警備用の赤いランプが点滅している。
門扉も。
自動ドアも。
すべて閉まっていた。
だが、建物の裏側。
非常階段の下にある古い鉄扉だけが開いている。
地下機械室。
現在は使用されていない入口。
誠一が地図を確認する。
「ここだ」
「旧伝声室を知っていたんですか」
「存在だけは」
誠一は鉄扉へ手を置く。
「町内放送が整備される前、災害時の連絡をここで中継していた」
「電話ではなく?」
「伝声管だ」
建物の壁や地下へ通した金属管。
片側で話した声を、空気の振動として遠くへ伝える。
古い船や工場でも使われていた設備。
夕名町では、町役場と十三の地区を伝声管で結んでいた。
「十三地区」
澪が言う。
「また十三」
「当時は十三の集落があった」
「そこから席の数が決まった?」
「逆かもしれない」
誠一は扉を開く。
「呼名の儀式が十三だったから、連絡網を十三に分けたのかもしれない」
地下階段。
照明はついていない。
誠一の懐中電灯。
澪の携帯電話。
二つの明かりだけで下りていく。
階段の壁には、古い文字が残っていた。
第一管、北ノ沢。
第二管、川端。
第三管、駅前。
第四管、学校。
第五管、病院。
十三本。
すべての管が地下へ向かっている。
途中。
透真は足を止めた。
「どうしたの?」
澪が振り返る。
「何か聞こえた気がしました」
「死者の声?」
「分かりません」
耳を澄ませる。
金属管の奥。
かすかな振動。
言葉にはならない。
誰かが管の向こうで手を当てているような感触。
透真も壁の管へ手を置く。
冷たい。
その直後。
手のひらへ小さな振動が届いた。
とん。
とん。
とん、とん。
ここにいる。
「母さん?」
思わず呼ぶ。
返事はない。
代わりに。
別の管から。
こん。
こん。
こん。
三回。
さらに別の管。
こん。
こん。
こん。
十三本すべての管が、順番に三回ずつ鳴った。
死者同士の会話へ。
三人を加える合図。
「進みます」
透真は管から手を離した。
逃げても、午前零時十三分は町全体へ来る。
◇
階段の最下部。
円形の部屋。
旧伝声室。
壁には十三個の真鍮製の受話口が並んでいる。
朝顔の花のように開いた金属の筒。
それぞれの下に、地区名と番号。
部屋の中央には、一脚の椅子。
音返神社の地下にあった石椅子に似ている。
ただし、こちらは鉄で作られていた。
椅子へ一人の女性が座っている。
音無小夜子。
白い服。
胸には大きな穴。
両腕。
首。
足首。
十三本の赤い管で椅子へつながれている。
管は血管のように脈打っていた。
「小夜子!」
誠一が駆け寄る。
小夜子が顔を上げる。
目を見開き。
首を横に振る。
来ないで。
声は出ない。
「母さん」
透真も近づく。
小夜子の胸にある穴。
その内側に、小さな光が無数に浮かんでいる。
鍵。
風鈴。
銀色の鈴。
携帯電話。
濡れた靴。
古い手紙。
死者たちが残した最後の音が、光の形となって詰め込まれている。
透真には声として聞こえない。
それでも、誰の想いか分かる物がある。
水上美月の鍵。
白石ハナの風鈴。
篠崎真帆の銀の鈴。
三谷悠人の携帯電話。
これまで届けてきた言葉。
小夜子は、それらを自分の胸の中へ隠していた。
「預かっているというのは」
澪が言う。
「こういう意味だったんだ」
小夜子が苦しそうに息を吐く。
胸の光が一斉に揺れる。
誰かの声が出ようとするたび、小夜子の喉が裂ける。
だが、音は外へ出ない。
小夜子が自分の体で止めている。
「どうして」
誠一が椅子の赤い管へ手を掛ける。
「こんなものを一人で」
小夜子は夫を見る。
唇が動く。
透真には声が聞こえた。
『離して』
次の瞬間。
同じ声が重なる。
『外さないで』
誠一が赤い管を掴んだまま、息子を見る。
「何と言った」
「反対の言葉が聞こえます」
「どちらが小夜子だ」
「分かりません」
小夜子は必死に首を横に振った。
口ではなく。
右手を動かす。
鉄椅子の肘掛けを叩く。
とん。
とん。
とん、とん。
ここにいる。
透真も返す。
とん。
とん。
とん、とん。
小夜子は次に、胸の光を両腕で守る。
赤い管を外すな。
言葉を解放するな。
少なくとも、今は。
「声ではなく、行動を見ます」
透真が言った。
誠一は赤い管から手を離した。
その瞬間。
部屋の天井から古いマイクが下りてきた。
がしゃん。
電源が入る。
赤いランプ。
『お越しいただき、ありがとうございます』
透真の声。
呼名女が、透真から失われた声を使って話している。
『これより、音無小夜子さんの生者復帰手続きを開始します』
壁の一部が開いた。
奥に、透明な箱がある。
箱の中。
一人の女性が横たわっていた。
現在の年齢まで成長した小夜子。
呼吸はない。
心音もない。
だが、皮膚には色があり。
胸に穴もない。
音無家で朝食を作っていた姿と同じ体。
「これへ小夜子の意識を入れるのか」
誠一が呟く。
『はい』
呼名女が答える。
『町に残された死者の最後の言葉を、生命活動へ変換します』
透明な箱の横。
十三個の計器。
すべての針が零を指している。
『謝罪、一件』
一つ目の計器が動く。
水上美月。
『帰還願望、二件』
白石ハナ。
白石康介。
『感謝、一件』
篠崎真帆。
『救助要請、一件』
三谷悠人。
計器の針が少しずつ上がる。
『ほか、未送達音声百八十六件』
壁の十三本の伝声管が震えた。
それぞれの奥に、町で亡くなった人々の声が詰まっている。
『すべてを生命へ変換すれば』
透明な箱の中。
小夜子の指が一度動いた。
『心拍を再開できます』
「本当に小夜子が戻るのか」
誠一が尋ねる。
『記憶』
『人格』
『身体』
『音無小夜子さんとして必要な情報は、すべて保存されています』
「どこに」
『音無誠一さん』
『音無透真さん』
『町内放送記録』
『死者側の十三席』
『皆様の記憶を統合し、再構成します』
「再構成」
澪が言葉を拾う。
「本人の全部ではない」
『人間の人格は、他者との関係によって形成されます』
「また、家族が望んだ小夜子さんを作るの?」
『今回は、死者本人の記録も含まれます』
「どこまで?」
『必要な範囲です』
呼名女は答えを濁した。
完全な小夜子ではない。
だが、先ほどの「帰りたかった母」より、本物に近い存在になる可能性はある。
呼吸し。
食事をし。
年を取り。
家族と暮らせる小夜子。
「代わりに」
透真は胸の光を見る。
「届けた言葉が消える」
『はい』
「受け取った人の記憶からも?」
『はい』
「記録からも?」
『はい』
「死者本人からも?」
『死者は、伝えたい言葉を失います』
「どうなるんですか」
『伝える目的を失った死者は、静かになります』
「成仏するという意味ですか」
『区別する必要がありますか』
「あります!」
透真の声が部屋へ響いた。
「言葉を届けて、想いが終わることと」
「言葉を奪われて、話せなくなることは違います!」
『結果は同じです』
「違います」
『死者は静かになります』
「誰にも届かなかったままです」
『苦しみは消えます』
「存在したことまで消える」
『音無小夜子さんは生き返ります』
その言葉。
誠一の心臓が大きく鳴った。
透真にも聞こえるほど。
「小夜子が」
父は透明な箱へ近づく。
「本当に」
『はい』
「もう電話を待たなくていい」
『はい』
「声を疑わなくていい」
『はい』
「朝になれば、ここにいる」
『はい』
透明な箱の小夜子が、ゆっくり目を開けた。
「誠一……さん」
かすかな声。
本物の小夜子と同じ。
誠一の足が止まる。
「小夜子」
「寒い」
女性が箱の内側へ手を置く。
「ここから、出して」
誠一も反対側から手を重ねた。
「待っていろ」
「父さん!」
「黙ってくれ」
「届けた言葉が消えます!」
「分かっている!」
誠一が怒鳴った。
目から涙が流れている。
「分かっているから」
「少しだけ、考えさせてくれ」
「午前零時十三分まで時間がありません」
「十三年待った!」
部屋の伝声管が震える。
「俺は十三年待ったんだ!」
小夜子の電話。
偽物の声。
夜中の着信。
妻を救えなかった記憶。
息子を二度失った恐怖。
「一度くらい」
誠一は透明な箱を見つめる。
「俺が、小夜子を選んでもいいだろう」
透真は何も言えなくなった。
父へ、正しさだけを押しつけられない。
死者たちの声を守るべきだ。
分かっている。
それでも。
目の前で妻が助けを求めている。
「お父さん」
澪が静かに話しかけた。
「私には、止める権利はないと思います」
誠一は振り返らない。
「でも」
澪は鉄椅子に座る小夜子を指差す。
「あの人を見てください」
十三本の管へつながれた小夜子。
透明な箱の女性ではない。
死者たちの声を胸へ抱え。
自分の喉を裂きながら。
呼名女へ渡さないよう守っている小夜子。
「あの人は、何をしていますか」
誠一の肩が震える。
「声を守っている」
「誰のために?」
「死者のためだ」
「それだけですか」
誠一は妻を見る。
小夜子は夫と目が合うと、ゆっくり右手を伸ばした。
透明な箱へ。
助けを求めているように見える。
誠一も手を伸ばしかける。
だが。
小夜子の指は、箱の女性ではなく。
その横にある赤いレバーを指していた。
生者復帰開始。
小夜子は首を横に振る。
次に。
レバーから、夫の手を遠ざけるように手を振った。
「生き返りたくないのか」
誠一が尋ねる。
小夜子の唇が動く。
『生きたい』
透真にはそう聞こえた。
続いて。
『生き返らせないで』
また反対の声。
だが、小夜子の行動は一つだった。
赤いレバーを拒んでいる。
「母さんは」
透真は言った。
「生きたくないわけではありません」
誠一が息子を見る。
「生きたいんだと思います」
「なら」
「でも、ほかの人の言葉を消してまで戻りたくない」
小夜子の目から涙が落ちた。
自分だって帰りたい。
夫と。
息子と。
失った十三年間を取り戻したい。
それでも。
美月の謝罪。
真帆の感謝。
悠人の助け。
ハナと康介の別れ。
それらを奪って、自分の命へ変えることは選べない。
「小夜子」
誠一は鉄椅子の前へ歩いた。
「俺は、お前に帰ってきてほしい」
小夜子が頷く。
「十三年」
頷く。
「待っていた」
頷く。
「今でも」
頷く。
「死者の声より、お前を選びたい」
小夜子は夫へ手を伸ばした。
誠一が握る。
冷たい。
「それでも、駄目なのか」
小夜子は泣きながら。
頷いた。
誠一は妻の手を額へ押し当てた。
「一度くらい」
声が震える。
「俺のわがままを聞け」
小夜子はもう片方の手で、夫の頬へ触れた。
優しく撫でる。
そして。
首を横に振る。
「そうか」
誠一は目を閉じた。
「お前は、そういう人だった」
透明な箱の中の女性が、激しく内側を叩いた。
「誠一さん!」
「助けて!」
「私はここ!」
「お願い!」
誠一は振り返らない。
「小夜子は」
箱へ背を向ける。
「助けてと言える人だった」
透明な女性が動きを止める。
「だが」
誠一は続けた。
「誰かの言葉を奪ってまで助けろとは、言わない」
箱の女性の顔から表情が消えた。
心音が十三回、同じ間隔で繰り返される。
どくん。
どくん。
十三回。
最初へ戻る。
呼名女が作った、再生用の体。
『復帰手続きを拒否しますか』
「拒否する」
誠一が答えた。
『後悔します』
「もうしている」
『音無小夜子さんは消滅します』
「それを決めるのは、お前じゃない」
誠一は鉄椅子の小夜子へ言った。
「俺たちで、別の方法を探す」
小夜子の顔に、ほんの少し笑みが浮かぶ。
◇
「別の方法はあります」
透真が十三本の伝声管を見る。
『存在しません』
呼名女が即答する。
「まだ説明していません」
『音無小夜子さんを生者へ戻す方法は、音声変換のみです』
「母さんだけを戻す方法ではありません」
『では、何をしますか』
「預かっている声を」
透真は壁の伝声管へ近づく。
「一人ずつ返します」
呼名女が黙る。
澪も十三本の管を見る。
「町の十三地区へ?」
「はい」
「でも、死者の声を届けた相手が、全員そこにいるとは限らない」
「記録があります」
水上雫。
悠人の母。
篠崎。
白石家に残る手紙。
すでに言葉を受け取った者。
これから受け取る者。
「死者の言葉を、母さん一人の中へ集めているから、生命へ変えられる」
透真は言った。
「なら、分ければいい」
『一度集められた音声は、個別に分離できません』
「声なら、そうかもしれません」
透真は自分の耳へ触れる。
「でも僕には、もう聞こえません」
『それが何を意味しますか』
「声として聞かない」
美月の鍵。
真帆の鈴。
悠人の携帯電話。
音ではなく。
誰へ渡そうとしたか。
何のために残ったか。
行動と物から分ける。
「母さんの胸にある光は、全部違う形をしています」
呼名女は沈黙する。
「あなたは、すべてを音としてまとめました」
「でも」
澪が続ける。
「想いまでは一つになってない」
「謝りたい人」
「助けてほしい人」
「帰りたい人」
「ありがとうと言いたい人」
「行き先が違う」
誠一も伝声管の表示を見る。
「十三地区の管は、役場から声を送るだけの設備ではない」
「返事も戻せる?」
「ああ」
双方向の伝声管。
役場から連絡し。
各地区の受話口から、受け取った人間が返事をする。
「死者の声を送る」
透真は言う。
「生きている人が返事をする」
「音返神社の儀式と同じ」
澪が理解する。
「それぞれの声を、それぞれの相手へ返す」
『不可能です』
呼名女の声が強くなる。
『受信者が不在です』
「呼びます」
『誰を』
「町の人たちを」
『午前零時十三分まで、残り一時間四十六分です』
「間に合わせます」
『百八十六件』
呼名女が告げる。
『受信者の特定が必要です』
「分かるものから始めます」
『一件でも残れば』
鉄椅子の小夜子へ、赤い管が食い込む。
小夜子が苦痛に顔を歪める。
『残った声は、音無小夜子さんとともに消滅します』
「全部返します」
『あなたには、死者の声が聞こえません』
そのとおりだった。
誰の声か。
誰へ届けたいのか。
透真の力がなければ判別できない声も多い。
『以前のあなたであれば可能だったかもしれません』
呼名女は、透真自身の声で笑う。
『今のあなたには無理です』
透真は胸の奥へ意識を向ける。
四歳の自分。
小さな鼓動。
返事はない。
死者の声を聞く力は戻らない。
それでも。
「僕一人では無理です」
『認めるのですね』
「はい」
透真は澪を見る。
「だから、手伝ってください」
「もちろん」
誠一。
「父さんも」
「言われるまでもない」
「御影さん」
名前を呼ぶ。
伝声室の第五管。
学校方面へつながる管から、太鼓の振動が返ってきた。
どん。
どどん。
御影冬子。
体は学校の地下。
意識と声は、放送網へつながっている。
「聞こえていますか!」
透真は管へ向かって叫ぶ。
返事。
どん。
一回。
肯定。
「死者の声を分ける方法を教えてください!」
長い沈黙。
管の奥。
金属を擦る音。
ざら。
ざら。
次に。
短く二回。
こつ。
こつ。
冬子が音で伝えている。
澪が耳を近づける。
「何て意味?」
透真にも言葉としては聞こえない。
だが、冬子が自分のために作った音を覚えている。
決められた祭囃子ではない。
誰にも伝える必要のない、自分だけの音。
「声ではなく」
透真は考える。
「本人が選んだ音を探せ」
壁の十三本の管が、一斉に震えた。
胸の光も反応する。
鍵。
鈴。
携帯電話。
足音。
それぞれが、生前と死の瞬間に選んだ音。
「一人ひとりの最後の声を聞くのではありません」
透真は小夜子の胸を見る。
「最後に、その人が何をしたかを探します」
美月は妹へ鍵を残した。
真帆は兄へ鈴を渡した。
悠人は答えられなかった電話を持ち続けた。
言葉が聞こえなくても、行き先は分かる。
「できます」
『できません』
呼名女の否定が早くなる。
「あなたが何度も無理だと言うときは」
澪がマイクを睨む。
「たいてい、やられたくないときだよね」
『時間が足りません』
「それは私たちが決める」
澪は携帯電話を取り出す。
「まず、受け取った人たちに連絡する」
「こんな時間に?」
「命がかかってる」
「何と説明しますか」
「死者から受け取った言葉を、覚えているか確認してください」
「覚えていなかったら?」
「思い出してもらう」
澪は水上雫の連絡先を探す。
篠崎。
悠人の母。
これまで出会った者たち。
透真は十三本の管へ手を当てた。
声は聞こえない。
代わりに。
手のひらへ、百を超える異なる振動が届く。
強い。
弱い。
長い。
短い。
震えている。
怒っている。
泣いている。
同じ音は一つもない。
「母さん」
透真は鉄椅子の小夜子を見る。
「全部、返します」
小夜子は息子へ微笑む。
唇が動く。
今度は声を聞かない。
口の形だけを見る。
――お願い。
透真は頷いた。
◇
澪の電話が、水上雫へつながった。
「夜中にごめんなさい」
「確認したいことがあります」
「お姉さんから受け取った言葉を、覚えていますか」
電話の向こう。
長い沈黙。
透真には相手の声が聞こえている。
普通の生者の声。
死者の声ではない。
『覚えています』
雫が答えた。
『私のせいじゃないって』
『一人にしてごめんって』
小夜子の胸。
鍵の形をした光が強く輝く。
十三本のうち。
第四管。
学校地区の伝声口が開いた。
金属の蓋が上がる。
ごおっ。
空気が吸い込まれる。
鍵の光が、小夜子の胸から抜けようとする。
だが、赤い管が絡みついて離さない。
『返却には、受信者の正式な応答が必要です』
呼名女が告げる。
「正式な応答?」
『死者の言葉に対する、返事です』
雫は姉の言葉を受け取った。
だが、姉へ何を返したのか。
透真は電話を澪から受け取る。
「雫さん」
『音無くん?』
「お姉さんへ、返したい言葉はありますか」
『今?』
「はい」
『どうして』
「美月さんが、待っています」
雫の息が止まる。
『お姉ちゃんが?』
「声は聞こえません」
「でも、鍵があります」
「あなたへ渡そうとしたものが」
雫は泣き始めた。
『何て言えばいいの』
「自分で選んでください」
『許すって?』
「無理に許す必要はありません」
『寂しかった』
「はい」
『ずっと腹が立ってた』
「はい」
『勝手に死んで』
『勝手に謝って』
鍵の光が震える。
『でも』
雫は息を吸った。
『私のせいじゃないって言ってくれて』
『少しだけ、息ができた』
『だから』
声を震わせながら。
『お姉ちゃん』
『私は、まだ怒ってる』
『でも、忘れない』
『私のせいにもしない』
『自分のせいだけにも、しない』
『生きるから』
第四管の奥で。
誰かが泣いたような振動がした。
透真には言葉として聞こえない。
それでも分かる。
美月へ届いた。
鍵の光が、小夜子の胸から抜ける。
赤い管が一本切れた。
光は第四管へ吸い込まれ。
電話の向こう。
雫のもとへ返っていく。
澪の携帯電話の画面。
一件返却。
小夜子の顔に、少しだけ苦痛が減った。
「できた」
澪が言った。
「一人目」
透真は頷く。
百八十六件。
残り百八十五件。
壁の時計。
午前零時十三分まで。
一時間三十一分。
『返却処理を検知しました』
呼名女の声が低くなる。
『以後、受信者への接続を妨害します』
十三本の伝声管から、黒い水が溢れ出した。
電話の画面が暗くなる。
電波表示。
圏外。
役場の地下だけではない。
町全体の通信が遮断されていく。
『電話』
『放送』
『通信回線』
『すべて停止します』
「伝声管は?」
誠一が壁を見る。
『旧設備も閉鎖します』
十三個の受話口が、一つずつ閉じ始める。
一番。
二番。
三番。
金属の蓋が下りる。
「止めて!」
澪が第四管へ手を伸ばす。
透真は中央の鉄椅子を見る。
小夜子の足元。
十三本の管をまとめる主弁。
その上に、古い手動レバーがある。
全地区一斉開放。
「父さん!」
誠一も気づいた。
「これを開けば」
「十三本すべてがつながる」
「呼名女にも?」
「ああ」
「それでも」
「やるしかない」
二人でレバーへ手を掛ける。
重い。
十三年間、一度も動いていない。
澪も加わる。
三人で引く。
ぎい。
少しずつ。
伝声管の蓋が閉じる。
十二本目。
最後の一本。
透真の胸の奥。
四歳の鼓動が強く鳴った。
どくん。
透真は力を込める。
「開けます!」
三人でレバーを最後まで倒した。
がこん。
十三本の伝声管が、一斉に開いた。
◇
町中の古い場所から、金属音が鳴った。
学校。
病院。
駅。
消防団倉庫。
閉鎖された商店。
空き家。
神社。
十三地区に残る伝声口が、百年以上ぶりに開く。
通信回線が止められても。
電気がなくても。
空気の振動だけで、町役場地下と各地区がつながった。
だが。
呼名女も同じ道へ入った。
十三本の管から、透真の声が流れ込む。
『夕名町の皆様へ』
透真は話していない。
奪われた声。
『これより、最後の町内放送を開始します』
小夜子の胸にある光が、一斉に暴れ始めた。
赤い管。
鉄椅子。
壁。
部屋全体が震える。
『亡くなった方から言葉を受け取った皆様は』
呼名女が、町中へ告げる。
『返事をしないでください』
透真は中央の伝声口へ走った。
「夕名町の皆さん!」
呼名女と同じ声。
透真自身の現在の声。
二つが重なる。
「聞こえていますか!」
『聞かないでください』
「亡くなった人から、何かを受け取った方!」
『思い出さないでください』
「言葉でも!」
『忘れてください』
「物でも!」
『返事をすれば、死者の列へ加わります』
「夢でも!」
『応答してはいけません』
「覚えていることを、返してください!」
町中の伝声管。
最初は沈黙。
誰も返さない。
呼名女の警告を恐れている。
透真には、死者の声が聞こえない。
生者の返事も、まだ届かない。
小夜子の胸の光が一つずつ暗くなっていく。
時間がない。
「名前を言う必要はありません!」
透真は叫ぶ。
「誰へ返すかも、分からなくていい!」
「ただ」
「受け取ったものがあるなら!」
「あなた自身の言葉で返してください!」
長い沈黙。
第一管。
北ノ沢地区。
遠くから。
杖で床を叩く音。
こつ。
一回。
老人の声。
『妻へ』
『先に行って怒っていたが』
『俺も、もう少し生きる』
小夜子の胸から、白い髪飾りの光が抜けた。
一件。
第二管。
川端地区。
窓を開ける音。
若い女性。
『お父さん』
『謝らなくていい』
『でも、何があったかは忘れない』
二件。
第三管。
駅前地区。
子どもの声。
『おばあちゃん』
『風鈴、まだ持ってるよ』
三件。
声。
物音。
返事。
少しずつ。
町から集まり始める。
小夜子の胸にある光が、それぞれの管へ向かって動く。
呼名女が叫ぶ。
『返事をしてはいけません!』
だが、今度は人々が止まらない。
『言えなかった』
『ありがとう』
『今でも許していない』
『寂しい』
『生きている』
『忘れていない』
正しい答えでなくてもいい。
許さなくてもいい。
美しい言葉でなくてもいい。
受け取った生者自身の返事。
それだけで、死者の声は行き先を得る。
小夜子の体から、赤い管が一本ずつ外れていく。
だが。
壁の計器。
百八十六件。
返却済み。
十七件。
残り。
百六十九件。
時計。
午前零時十三分まで。
五十九分。
その数字が表示された瞬間。
十三本すべての伝声管から、同時に女の悲鳴が上がった。
呼名女ではない。
生きている人々の声。
『誰か来た!』
『赤い傘の女がいる!』
『窓の外に!』
『家の中に入ってきた!』
呼名女は、伝声管の出口に姿を現し始めた。
返事をしようとする人間を、直接止めるために。
「どうする?」
澪が透真を見る。
役場地下に残れば、声を仕分けられる。
町へ出れば、返事をする人々を守れる。
どちらも必要。
透真は十三本の伝声管を見た。
小夜子。
誠一。
澪。
御影冬子。
伊呂波。
アサとヨル。
篠崎。
雫。
一人ではない。
「分かれます」
透真は言った。
「父さんは、ここで母さんと声を分けてください」
「お前は?」
「町へ出ます」
「一人では行かせない」
澪が即答する。
「澪さんは、ここに残って」
「嫌」
「でも」
「さっき一緒に逃げるって言ったでしょう」
「今回は逃げません」
「なら、一緒に止める」
誠一が二人を見る。
「行け」
「父さん」
「小夜子は俺が守る」
鉄椅子の小夜子が夫を見る。
誠一は妻の手を握った。
「今度は、一人にしない」
小夜子が静かに頷く。
透真と澪は地下階段へ向かう。
その背後。
小夜子の胸の最も奥にあった光が、一つだけ外へ出た。
ほかの声とは違う。
白く。
小さく。
子守歌の形をしている。
「母さんの声」
透真が振り返る。
小夜子自身の、最後の言葉。
まだ誰にも届けられていない声。
その光へ。
黒い糸が絡みついた。
呼名女の声が部屋中へ響く。
『百八十六件目』
『音無小夜子さんの最後の言葉は』
小夜子の口が、本人の意思に反して開く。
『音無透真さんへ』
透真は足を止めた。
呼名女が、透真の声で笑う。
『この声だけは』
『町の誰にも返すことができません』
黒い糸が子守歌の光を引き上げる。
『受信者は、あなた一人です』
小夜子の最後の声が、赤い傘の形へ変わり始めた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
小夜子は、生き返りたくないわけではありませんでした。
夫と息子のもとへ帰りたい。
失った十三年間を生き直したい。
その願いを抱えながらも、ほかの死者の言葉を消し、自分の命へ変えることを拒んでいました。
透真たちは、死者の声を一つの命へまとめるのではなく、十三本の伝声管を使い、それぞれの受取人へ返し始めます。
死者への返事は、許しや感謝だけではありません。
怒り。
寂しさ。
忘れないという決意。
受け取った生者が自分で選んだ言葉であれば、それが最後の声の行き先になります。
第28話「声を返す町」では、透真と澪が十三地区を回り、返事を妨害する呼名女から町の人々を守ります。
一方、役場地下には誠一と小夜子が残り、百八十六の声を仕分けます。
しかし最後に残るのは、小夜子自身が透真へ届けられなかった言葉。
その声を受け取れば、小夜子は完全に死に終わります。
受け取らなければ、小夜子は呼名女の最後の声として残り続けます。




