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死者同士の会話は、聞いてはいけない ―午前零時十三分の町内放送―  作者: たむ
第三部 死者同士の最後の会話

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第25話 午前零時三十九分

生まれたばかりの赤ん坊には、まだ名前がありません。


それでも泣き声は、その子が確かに生きていることを知らせます。


名前より先に生まれた、最初の声。


もしその声が、別の誰かを死者の側から呼び戻すために使われていたなら。


声を返すことは、一つの命を元へ戻すだけでは済みません。

『早坂澪さん』


 夜の町内放送から、御影冬子の録音された声が流れている。


『午前二時十三分に』


『生まれる前の声を、回収いたします』


 放送が途切れた。


 音無家の居間へ、重い沈黙が落ちる。


 時計は午前一時二十八分。


 残された時間は四十五分だった。


「生まれる前の声って、どういう意味?」


 澪が尋ねた。


「澪さんは十三年前、もう四歳だったはずです」


 透真は父を見る。


「録音の中で、母さんが澪さんの名前を呼んだ理由も分かりません」


「俺にも分からない」


 誠一は、食卓に置かれた死亡確認記録を握りしめている。


「だが、早坂さんの声が使われた可能性はある」


「何に?」


「透真を、二度目に生き返らせるためだ」


 澪の顔から血の気が引いた。


「私が?」


「正確には、君自身ではない」


 誠一は死亡確認記録の生存再確認時刻を指差す。


 午前零時三十九分。


「御影冬子さんは、声だけでは人間を生者側へ戻せないと言っていた」


「伊呂波さんの声だけでは足りなかった?」


「ああ」


「ほかに何が必要だったんですか」


「生きている側からの返事だ」


 名前を呼ぶ声。


 それへ答える声。


 両方がそろうことで、人は死者側から生者側へ戻る。


 音返神社の古い儀式と同じだった。


「でも、私は何も覚えてない」


「四歳だったからでは?」


 透真が言う。


「それに、実際に声を出したのが十三年前とは限りません」


「どういうこと?」


「録音された声かもしれない」


 誠一が頷いた。


「学校の旧体育館は、災害時の臨時避難所だった」


「はい」


「当時、体育館の放送設備は、町内の公共施設と病院の緊急回線へ接続されていた」


「病院?」


「医療記録を送るためではない。避難者の受け入れ状況や、必要な薬品を共有するための音声回線だ」


 しかし、災害でシステムが混線した。


 病院に保管されていた古い音声記録まで、体育館の放送設備へ流れ込んだ可能性がある。


「澪さんが生まれた病院は?」


「夕名市民病院」


 誠一の目が鋭くなる。


「当時、町の母子保健事業に参加していた病院だ」


「母子保健事業?」


「新生児の泣き声を記録する試験があった」


 呼吸状態。


 肺の働き。


 産声の強さ。


 医師の診断を補助するため、出産直後の泣き声を短時間だけ録音する。


 現在では行われていない、古い試験事業。


「私の産声が、病院に残っていた?」


「可能性はある」


 透真は澪を見る。


「生まれる前の声とは、出生前という意味ではないのかもしれません」


「名前をつけられる前?」


「はい」


 早坂澪という名前を持つ前。


 一人の女児として生まれ。


 まだ誰からも名を呼ばれていなかった瞬間の声。


 呼名女にとって、名前へ結びついていない生者の声は、特別な意味を持つ。


 誰のものでもない。


 だが、確実に生きている。


 死者を生者へ呼び戻す返事として、使いやすい声だった。


「旧体育館へ行きます」


 透真が立ち上がる。


「一人では行かせない」


 誠一も死亡確認記録を封筒へ戻す。


「もちろん私も行く」


 澪は自分の影を見た。


 影の胸の位置から、二度の鼓動が聞こえる。


 どくん。


 どくん。


 影にいる未来の澪も怯えている。


「何か分かる?」


 澪が影へ尋ねる。


『分からない』


 透真にだけ、影の声が聞こえた。


『でも、あの泣き声が戻ったら』


「どうなるんですか」


『私たちは、全部いなくなる気がする』


「未来の澪さんたちが?」


『うん』


 影は、澪が死んだ可能性から作られている。


 その根に、本人の最初の声が関係しているのかもしれない。


「急ぎましょう」


 透真は玄関へ向かった。


     ◇


 午前一時四十七分。


 夕名第二中学校。


 夜の校舎は、すべての窓を閉ざしていた。


 体育館の上にだけ、赤い照明がついている。


 非常放送中を示すランプ。


「学校の警備会社には連絡した」


 誠一が門の錠を開ける。


「理由は?」


 澪が尋ねる。


「忘れ物を取りに来たと言った」


「この時間に?」


「通ると思うか」


「思いません」


「設備異常の調査だと説明し直した」


 門を通る。


 校庭。


 誰もいないはずなのに、砂を踏む足音が聞こえる。


 ざっ。


 ざっ。


 ざっ。


 三人の足音ではない。


 少し遅れて、四人目がついてくる。


 透真が振り返る。


 誰もいない。


「何かいますか」


「足音だけです」


「死者?」


「分かりません」


 校庭のスピーカーから、赤ん坊の泣き声が流れた。


『ああ……ああ……』


 澪が足を止める。


「私なの?」


 泣き声は弱い。


 息をするたび、喉が詰まっている。


 生まれたばかりの赤ん坊が、必死に空気を吸おうとしている音。


 澪の影が大きく揺れた。


『聞きたくない』


「どうして?」


『苦しい』


 澪自身も胸を押さえる。


「私も……苦しい」


「録音へ引かれています」


 透真は澪の手を取った。


「今の呼吸を意識してください」


「今?」


「ゆっくり吸って」


 澪が息を吸う。


「吐いて」


 息を吐く。


 赤ん坊の苦しい呼吸と。


 現在の澪の呼吸。


 二つの音を分ける。


「私は、今ここにいる」


 澪が自分へ言い聞かせた。


「はい」


「十七歳」


「はい」


「ちゃんと息をしてる」


「聞こえています」


 泣き声が止まる。


 代わりに、体育館の中から機械音がした。


 がしゃん。


 古い録音機が動き始める音。


     ◇


 体育館の裏側。


 用具室のさらに奥に、鉄製の扉があった。


 旧放送倉庫。


 現在の学校職員でも、存在を知らない者が多い。


 十三年前の避難所運営で使われた放送機材や、災害時の記録が保管されている。


 誠一が古い鍵を差し込む。


「どうして鍵を持っているんですか」


 透真が尋ねる。


「返せなかった」


「また隠していたんですね」


「ああ」


 鍵が回る。


 がちり。


「今夜で全部終わらせる」


 扉を開ける。


 埃。


 古い紙。


 磁気テープの匂い。


 部屋の中には、棚が何列も並んでいた。


 カセットテープ。


 オープンリール。


 CD。


 災害用のデジタル録音装置。


 時代の異なる音声媒体が、同じ部屋へ積まれている。


 正面の壁には、大型のスピーカー。


 その下。


 古いオープンリール式録音機が一台だけ動いていた。


 左右のリールがゆっくり回っている。


 録音機のラベル。


 避難所記録・零時三十九分。


「これです」


 透真が近づく。


 再生ボタンには触れていない。


 それでもテープは動いている。


 カウンター表示。


 午前一時五十五分。


 あと十八分。


「二時十三分になるまで、内容は再生されないようです」


 澪が録音機を見る。


 透真は棚の記録表を調べた。


 零時二十六分。


 要救護者、男児一名。


 心肺停止。


 氏名欄。


 黒く塗り潰されている。


 零時三十九分。


 心拍再開。


 呼吸再開。


 発声確認。


 発声内容。


「あ」


 その下。


 返答音声元。


 夕名市民病院・新生児音声保管番号013。


「番号が十三」


 澪が呟く。


「あなたの生まれた日を確認できますか」


 澪は携帯電話で母子手帳の写真を探した。


「母が送ってくれたことがある」


 画面。


 出生時刻。


 午前零時二十六分。


 三人が動きを止めた。


「透真が二度目に死亡確認された時刻と同じ」


 誠一が言う。


「偶然でしょうか」


「もう一つある」


 澪が画面を拡大する。


「特記事項」


 出生直後、自発呼吸なし。


 蘇生処置開始。


 初回啼泣。


 午前零時三十九分。


 透真が二度目に生き返った時刻。


 澪が初めて泣いた時刻。


 二人の音が、同じ時刻へ重なっている。


「十三分間」


 透真が言う。


「澪さんは、泣かなかった」


「生きてなかったってこと?」


「心臓は動いていたはずです」


 母子手帳には、心拍ありと記されている。


 生きていた。


 だが、声を出さなかった。


 十三分後。


 初めて泣いた。


「この記録は十七年前です」


 透真は棚の表を見る。


「それが、四年後の十三年前に再生された」


「私の産声が、透真を呼び戻した」


 澪は自分の喉へ触れる。


「でも、どうして私の音声が選ばれたの?」


「保管番号十三だから?」


「番号だけで?」


 誠一が録音機の側面を調べる。


 接続記録。


 自動検索条件が印字された紙が残っていた。


 生存者音声。


 氏名未登録。


 呼名歴なし。


 死亡者との関係なし。


「名前へ結びついていない生者の声を探した」


 誠一が言う。


「そして、最初に該当したのが早坂さんの産声だった」


「私の声だから選ばれたんじゃない」


「最初はな」


「最初は?」


 誠一は答えなかった。


 録音機のカウンターが、一時停止した。


 午前二時零分。


 スピーカーから、十三年前の御影冬子の声が流れた。


『記録準備』


 雑音。


『対象男児、心肺停止から十三分』


 周囲で人々が動く音。


 救護員。


 泣き声。


 遠くの雨。


『声の接続を開始します』


 現在時刻はまだ二時十三分ではない。


 だが、記録の一部だけ先に再生され始めた。


『呼び子の声を、対象へ接続』


 伊呂波の声。


 幼い。


 弱い。


『あげる』


『半分だけ』


 透真の喉が痛む。


 伊呂波と共有している声が、過去の自分へ反応している。


『声帯反応なし』


 冬子。


『声だけでは戻れない』


 誠一の若い声。


『どうすればいい!』


『生者側から、返事が必要』


『誰の声でもいいのか』


『名前を呼ばれていない声』


『死者側に登録されていない声』


 機械音。


 検索。


 警告。


『該当音声、一件』


 赤ん坊の泣き声が流れる。


 弱く。


 途切れながら。


『あ……ああ……』


 澪が膝をついた。


「大丈夫ですか!」


「胸が」


 透真が支える。


 澪の影から、何人もの少女が浮かび上がる。


 未来の幽霊たち。


 首に糸。


 濡れた制服。


 血のついた顔。


 それぞれが耳を塞いでいる。


『返される』


『最初へ戻る』


『私たちが生まれる前へ』


「澪さんを見てください!」


 透真は影の未来たちへ叫ぶ。


「今ここにいる澪さんを!」


 未来の幽霊たちは泣き声から離れられない。


 自分たちの起源。


 澪が最初に生者側へ出した音。


 そこへ引き戻されている。


 録音が続く。


『音声元、夕名市民病院』


『保管番号、零一三』


『記録時刻、十七年前、午前零時三十九分』


 御影冬子の声。


『氏名情報なし』


 若い誠一。


『この声でいい』


『待って』


 小夜子の声が入った。


 肉体は放送局に残っている。


 それでも、放送回線を通じて体育館へ届いている。


『この子』


『誰?』


 冬子が答える。


『名前は登録されていない』


『違う』


 小夜子の声。


『聞こえる』


『この子の名前が』


 雑音。


 その奥。


 現在の澪の呼吸が、録音へ混ざり始めた。


「今の音です」


 透真が気づく。


「録音されている過去の音ではありません」


「私の呼吸?」


 澪が口を押さえる。


 十三年前のテープ。


 現在の再生。


 二つがつながっている。


 録音機の入力ランプが点灯していた。


 現在の声を、十三年前の記録へ上書きしている。


『聞こえますか』


 十三年前の小夜子が問いかける。


 現在の三人が息を呑む。


『そこにいる子』


 小夜子は、現在の澪へ話しかけている。


『あなたは誰?』


「答えないでください」


 透真が言う。


「呼名女が待っています」


 澪は唇を閉じる。


 だが、十三年前の赤ん坊の泣き声が苦しそうに続く。


『ああ……あ……』


 澪の目から涙が落ちた。


「私だ」


「はい」


「私なのに」


 名前を持つ前の自分。


 誰にも覚えられていない。


 母親でさえ、産声を正確には覚えていないかもしれない。


 音声記録の中でだけ残っていた、最初の澪。


「苦しそう」


 澪は録音機へ近づく。


「何か言いたいんですか」


「分からない」


「今の澪さんが決めてください」


「私が?」


「答えるかどうかも」


「何を伝えるかも」


 透真は止めなかった。


 呼名女へ名前を知られる危険はある。


 だが、澪の最初の声について、透真が代わりに決めることはできない。


 澪はマイクの前へ立った。


 名前は言わない。


「聞こえてるよ」


 十三年前の録音が震えた。


 赤ん坊の泣き声が、一瞬止まる。


「あなたが誰か、私は知ってる」


『誰?』


 小夜子の声。


 澪は透真を見る。


「名前を言わないと、過去のお母さんには分からない」


「はい」


「でも、言ったら」


「十三年前に呼ばれた理由が完成します」


 閉じた時間の輪。


 現在の澪が名乗る。


 過去の小夜子がその名前を聞く。


 小夜子が澪を呼ぶ。


 その録音を現在の澪が聞く。


 どこが始まりか分からない。


「それでも」


 澪はマイクを握った。


「私が選ぶ」


 息を吸う。


「私は、早坂澪」


 録音機の入力ランプが赤く光った。


 十三年前の小夜子が、はっきりと答える。


『澪ちゃん』


 透真が前の録音で聞いた声。


 これで理由が分かった。


 小夜子は未来を知っていたのではない。


 現在の澪本人から、時間を越えて名前を聞いていた。


『澪ちゃん』


 小夜子がもう一度呼ぶ。


『お願い』


『この子へ、返事をして』


 現在の澪は、床へ横たわる十三年前の透真を見ることができない。


 だが、音は聞こえる。


 停止した心臓。


 父の泣く声。


 伊呂波の声。


 息をしていない四歳児。


「何て言えばいい?」


 澪が透真を見る。


「僕には分かりません」


「戻ってきてでいい?」


「今のあなたが伝えたいことを」


 澪は目を閉じた。


 十三年前。


 まだ出会っていない透真。


 今の自分は、彼に何度も助けられた。


 死者の声へ引かれたとき。


 未来の幽霊に囲まれたとき。


 影へ沈んだとき。


 その相手を、今度は自分が生者側へ呼ぶ。


「待ってる」


 澪は言った。


「十三年後」


「あなたが怖がりで」


「すぐ自分を犠牲にしようとして」


「死者の声ばかり聞いて」


「生きてる人の言葉を聞かない人になるまで」


 透真がわずかに目を伏せる。


「かなり具体的ですね」


「事実でしょう」


 澪は少し泣きながら笑う。


 マイクへ向き直る。


「私が待ってる」


「だから」


「戻ってきて」


 録音の中。


 赤ん坊の泣き声が大きくなる。


『ああっ!』


 同時に。


 四歳の透真が最初の声を発した。


『あ』


 心電図。


 ぴ。


 一度。


 長い間。


 ぴ。


 再び。


『心拍再開!』


 十三年前の歓声。


 誠一の泣き声。


 御影冬子の息。


 小夜子の子守歌。


 透真の二度目の蘇生が、完成した。


「私が」


 澪はマイクを見つめる。


「十三年前の音無くんを呼び戻した」


「はい」


「私がいなかったら」


「僕は、ここにいません」


 澪の表情に戸惑いが浮かぶ。


「そんな重いこと、急に言わないで」


「事実です」


「もっと言い方があるでしょう」


「ありがとうございます」


「それも重い」


 透真は少し考える。


「十三年後、待っていてくれてよかったです」


 澪は答えず、目を逸らした。


 影の未来たちが、少しずつ落ち着きを取り戻す。


 だが。


 録音機のカウンターは止まっていなかった。


 午前二時十二分。


 残り一分。


     ◇


『蘇生記録の確認を完了しました』


 御影冬子の録音された声。


『返答音声の所有者を確認』


 画面に文字が表示される。


 早坂澪。


『未返却音声あり』


 澪の体が震える。


 喉から、白い光が少しずつ引き抜かれる。


「何をしているんですか!」


 透真が録音機へ手を伸ばす。


 電源は切れない。


 プラグを抜いても、リールは動き続ける。


『午前二時十三分』


 時計の秒針が進む。


『返答音声を、本来の所有者へ返却します』


「返して」


 澪は苦しそうに言った。


 透真が振り返る。


「返してほしいですか」


「私の最初の声なんでしょう」


「返れば、僕の蘇生記録が成立しなくなるかもしれません」


「だからって、ずっと音無くんの中へ置いておくの?」


「僕は」


「また、自分が死ねばいいって考えた?」


 透真は答えられない。


「駄目」


 澪が透真の胸を掴む。


「私の声だから、私が決める」


「はい」


「返してほしい」


 透真の胸の奥。


 二つの心音。


 現在の透真。


 四歳の透真。


 どちらも激しく鳴っている。


「でも」


 澪は続ける。


「音無くんの命を返すとは言ってない」


「両方は無理だと」


「誰が言ったの?」


「記録が」


「記録は書き足せるんでしょう」


 澪は録音機のマイクを握る。


「十三年前は、私の産声を借りた」


「はい」


「だったら、今は」


 透真を見る。


「今の私の声を使って」


 産声ではない。


 名前を持ち。


 十七年間生き。


 自分で言葉を選べる現在の声。


「借りたものを、新しいものへ交換する?」


「交換じゃない」


 澪は首を横に振る。


「更新する」


 誠一が録音装置の記録用紙を引き出す。


 返答音声元。


 夕名市民病院・新生児音声保管番号013。


 その下に空欄がある。


 現在音声による再確認。


「ここへ記録できる」


 誠一はペンを取る。


「だが、本当にいいのか」


「はい」


「この先も、透真と声がつながる可能性がある」


「もう十分つながっています」


「呼名女にも狙われる」


「今も狙われてます」


「死者の声が聞こえやすくなるかもしれない」


 澪は少しだけ怖そうな顔をした。


 それでも頷く。


「聞こえたら」


 透真を見る。


「この人に訳してもらいます」


「危険なときは?」


「一緒に逃げる」


「逃げるんですか」


 透真が尋ねる。


「戦うだけが勇気じゃないって、そろそろ覚えて」


「努力します」


「今すぐ覚えて」


 時計。


 午前二時十三分。


 録音機から、白い光が伸びた。


 澪の喉へ。


 透真の胸へ。


 二人をつなぐ。


『返却を開始します』


 赤ん坊の泣き声が、透真の胸から抜けていく。


 実際に聞いたことはない。


 それでも、その音が長いあいだ自分の中にあったと分かる。


 心臓。


 喉。


 肺。


 命を生者側へ結びつけていた、最初の返事。


 澪の体へ戻っていく。


 澪が大きく息を吸った。


 喉から、赤ん坊の泣き声が一瞬だけ漏れる。


『ああっ!』


 未来の澪たちが、影の中へ吸い込まれる。


 首を吊った未来。


 水に沈んだ未来。


 事故に遭った未来。


 すべてが、最初の声へ戻っていく。


「澪さん!」


 澪の体を支える。


「大丈夫」


 声が変化している。


 幼い響き。


 現在の声。


 二つが重なる。


「私、ちゃんと泣いたんだ」


「はい」


「生きようとしたんだね」


「はい」


 澪は自分の胸へ手を当てる。


 どくん。


 一つの心臓。


 影から聞こえていた二つ目の鼓動は、もうない。


 未来の幽霊たちが消えたわけではない。


 澪の中へ居場所を取り戻した。


 その直後。


 透真の心臓が止まった。


     ◇


「音無くん?」


 澪の声。


 遠い。


 透真は床へ倒れた。


 胸の中。


 何も鳴っていない。


 返答音声を失った。


 十三年前。


 午前零時三十九分。


 二度目の蘇生が、記録上からほどけていく。


「透真!」


 誠一が息子を抱き起こす。


「呼吸がない!」


 胸骨圧迫。


 一。


 二。


 三。


 録音機のスピーカーから、呼名女の声が流れる。


『返答音声の返却を確認しました』


『音無透真さんの蘇生を取り消します』


「取り消させない!」


 澪がマイクの前へ立った。


『現在音声による再確認を行いますか』


「する!」


『対象者の名前を呼んでください』


 澪の唇が止まる。


 名前を呼べば。


 呼名女の列へ登録される。


 十三年前と同じ罠。


『対象者の名前を呼んでください』


 透真の意識が暗闇へ沈む。


 胸の奥。


 四歳の透真がいる。


『また死んだ』


「そうですね」


 声にならない会話。


『怖い?』


「怖いです」


『戻りたい?』


「はい」


『じゃあ、返事して』


「名前を呼ばれていません」


『名前じゃなくてもいいって言ったでしょう』


 四歳の透真が、暗闇の中で胸を叩く。


 とん。


 とん。


 とん、とん。


 ここにいる。


 現在。


 澪が透真の胸へ手を当てた。


 同じ振動を感じた。


「いる」


 澪が叫ぶ。


「まだ、ここにいる!」


『名前を呼んでください』


「呼ばない!」


 澪は透真の胸を叩く。


 とん。


 とん。


 とん、とん。


「聞こえる?」


 透真は指を動かそうとする。


 動かない。


「聞こえてるなら返して!」


 父が胸骨圧迫を続ける。


「戻ってこい!」


『対象者名が未確認です』


「名前がなくても分かる!」


 澪はマイクを掴んだ。


「怖がりで」


「優しくて」


「自分より死者を優先して」


「すぐ無茶をして」


「でも、何度言っても戻ってくる人!」


『複数の該当者が存在します』


「私が分かってる!」


 澪は透真の手を握った。


「あなたも分かってるでしょう!」


 とん。


 とん、とん。


 とん。


 先ほど作った新しい合図。


 呼名女がまだ完全には記録していない音。


「明日の朝」


 澪が言う。


「ちゃんとご飯を食べる」


「お父さんと」


「私と」


「本物の朝ごはんを」


「約束したでしょう!」


 約束はしていない。


 それでも。


 透真は暗闇の中で少し笑った。


「今、約束になりました」


 四歳の透真が背中を押す。


『行って』


「一緒に」


『うん』


 二人で暗闇を蹴る。


 透真の指が動いた。


 澪の手のひらを、一度強く握る。


「返事した!」


 誠一が叫ぶ。


 透真の胸。


 どくん。


 一度。


 長い間。


 どくん。


 二度目。


 心臓が動き始めた。


 息。


 咳。


 肺へ空気が入る。


「……っ、げほっ!」


「音無くん!」


 澪が倒れ込むように透真を抱き起こす。


「聞こえますか」


「はい」


「誰だか分かる?」


「分かります」


「名前を言って」


「言わないほうが安全です」


「そこは言ってよ!」


 透真は苦しい息の合間に、澪の耳元で小さく名前を呼んだ。


「澪さん」


「はい」


 澪は泣きながら返事をする。


 町内放送は鳴らない。


 黒い糸も現れない。


 今の呼びかけは、死者側へ引き込むためのものではない。


 現在へ戻った相手を確かめる、生者同士の声だった。


 録音機の記録用紙へ、新しい文字が浮かぶ。


 午前二時十三分。


 現在音声による生存再確認。


 返答音声。


 個人名によらない相互応答。


 状態。


 生存継続中。


『規則外の記録です』


 呼名女が低く告げる。


「また書き足しました」


 澪が答える。


『無効です』


「心臓が動いています」


 誠一が透真の胸へ手を置く。


「これが現実だ」


 呼名女の声が途切れた。


     ◇


 録音機のリールが減速する。


 長いあいだ保存されていた産声は、澪へ戻った。


 透真の二度目の蘇生は、現在の澪の声と、互いに作った新しい合図によって更新された。


「終わりましたか」


 透真は壁へ背を預ける。


「まだ立たないで」


 澪が肩を押さえる。


「救急車を呼ぶ」


 誠一が携帯電話を取り出す。


「説明が難しいですね」


「心停止した。それだけで十分だ」


「もう動いています」


「だから呼ばない理由にはならない」


「父さんが正論を」


「俺はいつも正論だ」


「それには異論があります」


「元気そうだね」


 澪が安心したように息を吐く。


 影を見る。


 未来の澪たちは見えない。


 だが、自分の胸の奥に、複数の感情がある。


 死にたかった未来。


 助けてほしかった未来。


 すべてが消えずに、自分の中へ戻っている。


「静かになった」


 澪が呟く。


「何がですか」


「影」


「いなくなりましたか」


「違う」


 澪は胸へ手を当てる。


「中にいる」


 透真の胸にも、四歳の自分がいる。


 二人は、それぞれ置き去りにした過去や未来を、消さずに抱えている。


「似ていますね」


「何が?」


「僕たちです」


「そうかも」


 澪は少し笑った。


 録音機が停止した。


 かちん。


 静かになる。


「終わった」


 誠一が言った。


 だが、透真は耳を澄ませた。


「いいえ」


「まだ何か聞こえる?」


「聞こえないんです」


「止まったからでしょう」


「違います」


 録音機が止まっただけではない。


 体育館。


 外の風。


 遠くの車。


 校舎の電気。


 誠一と澪の呼吸。


 自分の心臓。


 すべての音が消えている。


 透真は口を動かした。


 声が聞こえない。


 澪も何かを言っている。


 しかし、一切の音がない。


 完全な無音。


 録音機のカウンター表示だけが動き始める。


 十三分。


 十二分五十九秒。


 十二分五十八秒。


 逆に減っている。


 画面へ文字が浮かぶ。


 未回収音声。


 早坂澪。


 出生直後・無音区間。


「……」


 透真は文字を読む。


 澪が生まれた直後。


 泣くまでの十三分間。


 そこには声がなかった。


 だが、無音そのものが記録されていた。


 スピーカーから小夜子の姿が映し出される。


 声は聞こえない。


 唇の動きだけ。


 透真は読み取る。


 ――泣き声ではない。


 ――呼名女が欲しいのは。


 ――澪ちゃんが最初に声を出すまでの。


 ――十三分間の無音。


 澪の影が足元から消えた。


 照明の下に立っているのに、影がない。


 代わりに。


 録音機の背後へ、真っ黒な人型が立っていた。


 顔も。


 声も。


 名前もない。


 音が生まれる前の空白。


 それが澪の姿を真似て、ゆっくり口を開く。


 音はしない。


 しかし、意味だけが直接頭へ入ってきた。


 ――すべての声を、始まる前へ戻す。


 カウンター。


 十二分四十秒。


 十二分三十九秒。


 無音の十三分間が、再生され始めた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


澪の産声は十七年前、夕名市民病院で記録されていました。


四年後の十三年前、その「名前を与えられる前の生者の声」が、二度目に死亡した透真を生者側へ呼び戻す返答音として使用されました。


小夜子が十三年前の録音で澪の名前を知っていたのは、未来を予知したからではありません。


現在の澪が録音回線を通じて過去へ名乗り、その声を聞いた小夜子が「澪ちゃん」と呼んだことで、十三年間の時間の輪が完成していたのです。


澪は自分の産声を取り戻し、現在の声で透真の蘇生記録を更新しました。


しかし、呼名女が本当に回収しようとしていたものは、泣き声ではありません。


澪が生まれてから最初に泣くまでの、十三分間の無音でした。


第26話「十三分間の無音」では、町からすべての音が消えていきます。


声。


心音。


足音。


死者が残した最後の音。


十三分のカウントがゼロになれば、これまで届けてきた想いも、最初から存在しなかったことになります。

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