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死者同士の会話は、聞いてはいけない ―午前零時十三分の町内放送―  作者: たむ
第三部 死者同士の最後の会話

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第24話 二人の透真

同じ名前を持つ二人が現れたとき。


どちらかを偽物にすれば、答えは簡単になります。


けれど、一人の人間が二度死んでいたなら。


二人に分かれたのは魂ではなく、誰にも認められなかった「死の記録」なのかもしれません。

 小夜子は、赤い印を握っていた。


 食卓の上には二枚の名札。


 音無透真・四歳。


 音無透真・十七歳。


『残す息子の名札へ、印を押してください』


 家中のスピーカーから、呼名女の声が流れている。


 小夜子は迷わなかった。


 赤い印を、四歳の透真の名札へ近づける。


 幼い少年が、母の腕の中で笑った。


『お母さん』


「大丈夫」


 小夜子は少年を抱きしめる。


「今度は、ちゃんと一緒に帰ろうね」


 十七歳の透真の名札が黒く変色し始めた。


 名前の文字が、一画ずつ消えていく。


 音。


 無。


 透。


 真。


「待ってください!」


 澪が食卓へ手を伸ばす。


 だが、椅子から伸びた黒い紐が彼女の腕へ絡みついた。


『家族以外の方は、選択へ介入できません』


「さっきまで私の席も用意してたでしょう!」


『現在、家族構成を修正しております』


「勝手に修正しないで!」


 誠一が小夜子の手首を掴んだ。


 赤い印が、名札へ触れる直前で止まる。


「離して」


 小夜子は夫を睨んだ。


「この子を待たせるつもり?」


「どちらも俺の息子だ」


「同じ人よ」


「だったら、選ぶ必要はない」


「一人の体に二人は戻れない!」


 小夜子が初めて、はっきりと怒鳴った。


 居間の食器が跳ねる。


 味噌汁が椀から溢れ、食卓へ黒い染みを作った。


 その染みの中に、旧町内放送局が映っている。


 炎。


 煙。


 床に倒れた四歳の透真。


「この子は死んだの!」


 小夜子の声が震える。


「一人で!」


「違う」


 誠一が答えた。


「何が違うの」


「透真は、一度だけ死んだんじゃない」


 透真は父を見る。


「父さん?」


 誠一は小夜子の手を離さないまま、もう片方の手を食卓の裏へ伸ばした。


 指先で、古い木材の継ぎ目を探る。


 かちり。


 食卓の天板の一部が外れた。


 隠し箱。


 中には、黄ばんだ封筒が入っている。


「それは……」


 小夜子の顔色が変わった。


「どうして、まだ持っているの」


「捨てられなかった」


 誠一は封筒を開いた。


 古い複写用紙。


 青い文字。


 雨と水で滲んだ公的な書類。


 上部には、死亡確認記録と書かれている。


「十三年前のものですか」


 透真が尋ねる。


「ああ」


「誰の?」


 誠一は書類を食卓へ置いた。


 氏名。


 音無透真。


 年齢。


 四歳。


 死亡確認時刻。


 午前零時二十六分。


「零時二十六分?」


 澪が時計を見る。


「放送局で亡くなったのは、零時十三分じゃなかったんですか」


「そうだ」


 誠一が答える。


「最初に心臓が止まったのは、零時十三分」


 小夜子は四歳の透真を抱いたまま、動かない。


「小夜子が残り、透真は一度戻った」


 御影冬子が、旧放送局から透真を運び出した。


 息を吹き返した子どもを抱え、避難所となっていた学校へ向かった。


 だが、復旧した心臓は弱かった。


 呼吸も不安定だった。


 小夜子から渡された命だけでは、生者の体を支えきれなかった。


「零時二十六分」


 誠一の声が掠れる。


「学校の体育館で、もう一度心臓が止まった」


 透真の耳の奥で、心電図の音が鳴った。


 ぴ。


 ぴ。


 ぴ。


 長い音。


 ぴ――――。


 見たことのないはずの光景が、一瞬だけ浮かぶ。


 体育館。


 毛布。


 簡易照明。


 泥だらけの人々。


 透真の胸を押し続ける救護員。


 泣きながら名前を呼ぶ誠一。


『透真!』


「二度目の死亡確認が行われた」


 誠一は書類を指差す。


「医師が、この記録を書いた」


「では、僕は」


「その十三分後」


 死亡確認時刻。


 午前零時二十六分。


 十三分後。


 午前零時三十九分。


「お前は、もう一度息を吹き返した」


 透真は喉へ手を当てた。


 伊呂波と分けた声が、小さく震えている。


「二度、生き返った……?」


「一度目は、小夜子の命」


 誠一は続ける。


「二度目は、伊呂波の声」


 音返神社の地下から、放送回線を通じて届いた名前のない声。


 御影冬子は、その声を透真の喉へつないだ。


 誰の名前にも結びついていない声なら。


 一度死亡者として記録された子どもを、再び生者側へ呼び戻せる。


「午前零時三十九分」


 誠一は透真を見る。


「お前は泣いた」


「何と言ったんですか」


「言葉にはなっていなかった」


 幼い声。


 透真のものではない声。


 名前のない少女から借りた、最初の音。


「ただ、あ、と一度だけ」


 その声を聞いた瞬間。


 誠一は、死亡確認記録を医師の手から奪った。


 生きている。


 この子は生きている。


 死んだことにするな。


 何度も叫んだ。


「正式な死亡届は提出させなかった」


「この記録は?」


「現場用の複写だ」


「隠したんですか」


「ああ」


「どうして」


「怖かった」


 誠一は正直に答えた。


「二度死んだと記録に残れば、また呼ばれると思った」


 死者の名簿。


 呼名放送。


 十三の席。


 透真という名前が、二度登録される。


 その危険を感じた誠一は、書類を隠した。


 救護記録も書き換えた。


 零時二十六分の死亡確認を、一時的な心停止として処理させた。


「俺は、死んだ透真をいなかったことにした」


 小さな椅子に座る少年が、父を見る。


『お父さんが?』


「そうだ」


『僕を消したの?』


 誠一の顔が歪む。


「消したつもりだった」


『どうして』


「生きているお前を守るためだ」


『僕は死んでる』


「分かっている」


『分かってない!』


 少年が叫んだ。


 食卓の上の書類が宙へ浮かぶ。


 青い文字から黒い水が滲み出す。


『僕は痛かった!』


 少年の姿が変化した。


 焼けた服。


 煤で黒くなった顔。


 次の瞬間。


 体育館の毛布。


 胸元を開かれ。


 小さな体に救命用の電極が貼られている。


『二回、死んだ!』


 少年の声が二重になった。


 一つは、放送局で息を止めた声。


 もう一つは、避難所で心臓を止めた声。


『二回とも、怖かった!』


 透真は息を呑む。


 目の前の少年は、四歳の自分の魂そのものではない。


 二度の死の瞬間。


 誰にも届けられず。


 父によって記録から消され。


 生者となった透真自身からも忘れられた恐怖。


 二つの死亡記録が、一人の子どもの姿を作っている。


「あなたは」


 透真は少年へ近づく。


「僕が死んだときの記憶なんですね」


『違う!』


「違いますか」


『僕が透真!』


「はい」


 少年が言葉を止める。


「あなたも音無透真です」


『だったら体を返して』


「それはできません」


『また僕を消すの?』


「消しません」


『お父さんと同じだ!』


 その言葉に、誠一が俯く。


 透真は少年から目を逸らさなかった。


「父さんは、あなたを隠しました」


『うん』


「僕も、あなたを忘れていました」


『うん』


「ごめんなさい」


 少年の目が揺れる。


「僕は、自分が生き返ったことだけを考えていた」


 母が犠牲になったこと。


 伊呂波から声を借りたこと。


 御影冬子の娘が二つに分かれたこと。


 自分を生かすために、周囲が何を差し出したのかばかり考えていた。


 だが。


 生き返る前に。


 一人の四歳児が、確かに二度死んでいた。


 その子どもの痛みを、誰も受け取っていなかった。


「怖かったんですね」


『怖かった』


「苦しかった?」


『息ができなかった』


「痛かった?」


『胸を押された』


「母さんを呼びましたか」


『声が出なかった』


「父さんは?」


『泣いてた』


「僕は覚えていません」


『知ってる』


「だから、教えてください」


『何を?』


「あなたが感じたことを」


 透真は少年の前へ手を差し出した。


「全部、僕が聞きます」


『聞いたら、返してくれる?』


「体は返せません」


 少年の顔が歪む。


「でも、その痛みを僕の記憶にします」


『僕が消える』


「消えません」


『一緒になったら、僕じゃなくなる』


「無理に一つにならなくてもいい」


 透真は自分の胸へ手を当てる。


「僕の中に、あなたの場所を作ります」


『席?』


「呼名女が決めた席ではありません」


『じゃあ、何』


「僕が忘れないための場所です」


 少年は透真を警戒している。


『また嘘をつく』


「記録を残します」


 透真は澪を見る。


 澪はすぐに携帯電話を取り出した。


「録音する」


「澪さん」


「今起きていることを、全部」


 録音ボタンを押す。


 画面に波形が現れる。


「音無透真は、十三年前に二度亡くなった」


 澪が言う。


「午前零時十三分」


「午前零時二十六分」


「そして午前零時三十九分に、もう一度生き返った」


 誠一も死亡確認記録を手に取る。


「俺は、この記録を隠した」


 声が震えている。


「息子を守るためだと思った」


「だが、本当は」


 少年を見る。


「もう一度失うのが怖かった」


『お父さん』


「お前が死んだことを認めたら」


 誠一は唇を噛む。


「戻ってきたお前まで、消える気がした」


『僕はもう消えてた』


「ああ」


「俺が消した」


 誠一は少年の前へ膝をついた。


「すまなかった」


『謝ったら、戻れる?』


「戻れない」


『じゃあ、いらない』


「それでも謝る」


 誠一は頭を下げた。


「お前は二度死んだ」


「怖かった」


「痛かった」


「俺は知っていたのに、記録から消した」


「本当に、すまなかった」


 少年の目から、黒い涙が落ちた。


『僕を見て』


 誠一は顔を上げる。


「見ている」


『死んでる僕を』


「見ている」


『生きてるほうだけじゃなくて』


「分かっている」


『お母さんも』


 少年は小夜子を見る。


 小夜子は赤い印を握ったまま、動けずにいた。


『僕を選んで』


 少年が言う。


『あっちを消して』


「それはできない」


 小夜子が初めて答えた。


 少年の顔が固まる。


『さっき、僕を選んだ』


「選ぼうとした」


『同じだよ!』


「違う」


 小夜子の手から、赤い印が落ちた。


 食卓へ当たり。


 赤い染みを残す。


「私は、あなたを選べば」


 小夜子は少年へ近づく。


「十三年前へ戻れると思った」


『戻りたくないの?』


「戻りたい」


 小夜子の目から涙が流れる。


「今でも」


「あなたと一緒に」


「何も起きなかった朝へ戻りたい」


『じゃあ』


「でも」


 小夜子は少年を抱きしめる。


「今の透真を消してまで、戻る朝は」


 腕に力を込める。


「私が欲しかった朝じゃない」


 少年が小夜子の胸を押す。


『嘘!』


「ごめんね」


『僕を選んで!』


「あなたも選ぶ」


『二人は選べないって言った!』


「呼名女が言っただけ」


 小夜子は、十七歳の透真へ手を伸ばす。


「二人とも、私の息子」


 透真はその手をすぐには取らなかった。


「僕たちは、同じ人ではありません」


「分かってる」


「今の僕は、四歳の彼とは違います」


「分かってる」


「それでも?」


「それでも」


 小夜子は泣きながら笑う。


「二人とも、透真から生まれた」


 少年。


 死の記録。


 十七歳の透真。


 死後の十三年を生きた存在。


 一人へ戻す必要はない。


 片方を消す必要もない。


 同じ命から分かれた二つの時間として、認めることはできる。


『家族の人数が一致しません』


 呼名女の声が響いた。


 食卓の五脚の椅子が激しく揺れる。


『音無透真さんは一名です』


「一名でなくてはいけないと、誰が決めましたか」


 透真が問い返す。


『同一の名前は、同一の人物へ登録されます』


「同じ名前を持つ人は大勢います」


『同一の体です』


「今は違います」


 十七歳の体。


 四歳の死の記録。


 二人は同じ体を奪い合う必要はない。


『死者には、体が必要です』


「必要ありません」


『存在を保てません』


「記録します」


 澪が携帯電話を掲げた。


「死んだ透真くんがいたことを」


「二度亡くなったことを」


「怖かったことを」


「消されたことを」


「私が記録する」


『記録は、名前を一つに統合します』


「では、区別します」


 澪は録音へ向かって言う。


「十三年前の透真」


 少年が彼女を見る。


「今の透真」


 現在の透真を見る。


「本当と偽物じゃない」


「過去と現在でもない」


「それぞれ別の気持ちを持った二人」


 少年が小さく尋ねる。


『僕の名前、変えるの?』


「変えたくないなら変えない」


『僕も音無透真』


「うん」


『あっちも?』


「うん」


『分かりにくい』


「確かに」


 澪は少し考える。


「呼ぶときだけ、何か付ける?」


『四歳の透真?』


「嫌?」


『子ども扱い』


「四歳だから」


『でも僕、十三年待った』


 少年の言葉に、透真は息を止めた。


 体は四歳。


 だが、死者として十三年間存在していた。


 単なる幼児ではない。


「では」


 透真が少年へ尋ねる。


「あなたは、何と呼ばれたいですか」


『分からない』


「今決めなくてもいいです」


『またそれ』


「名前を決めるのは難しいそうです」


『誰が言ったの?』


「伊呂波さんと、影にいる澪さん」


『変な人ばっかり』


「僕もよく言われます」


 少年の口元が、ほんの少し緩んだ。


     ◇


『選択期限を超過しました』


 呼名女の声が冷たく変わる。


『母親による選択が完了しなかったため』


 二枚の名札が宙へ浮かぶ。


『両名を死亡者として登録します』


「やめて!」


 小夜子が手を伸ばす。


 音無透真・四歳。


 音無透真・十七歳。


 二枚の文字が黒く染まる。


 透真の心臓が止まりかけた。


 どく。


 長い間。


 どく。


 少年の姿も薄くなる。


『二人とも消えるの?』


「させません!」


 透真は死亡確認記録を掴んだ。


 紙に書かれた名前。


 死亡時刻。


 隠されていた事実。


 呼名女は、記録を使って人を席へ縛る。


 なら、記録そのものを正しく読み直す。


「この記録には、続きがあります」


『死亡確認後の記載はありません』


「父さん」


 透真は誠一を見る。


「零時三十九分に、何が起きたのか話してください」


「透真」


「記録から消した部分を、今ここで戻してください」


 誠一は息を吸った。


 澪の携帯電話へ向かって話す。


「午前零時二十六分」


「音無透真は死亡を確認された」


 呼名女が満足そうに笑う気配。


「その後」


 誠一は続ける。


「午前零時三十九分」


 体育館の放送設備から、名前のない少女の声が流れた。


 御影冬子が透真の喉へ声をつないだ。


 心臓。


 呼吸。


 体温。


 再び動き始めた。


「音無透真は、生存を確認された」


 死亡確認記録の下。


 空白だった部分へ、青い文字が浮かぶ。


 生存再確認。


 午前零時三十九分。


『無効です』


 呼名女が叫ぶ。


『死亡確認後の生存は認められません』


「現実に生きています」


 澪が答える。


『規則にありません』


「だから、記録へ加えました」


 管理人が郷土資料館で言った言葉。


 記録は、人を閉じ込めるためだけのものではない。


 ここにいたことを残すためのものでもある。


「死亡を消しません」


 透真は少年を見る。


「二度死んだことは残します」


 次に、自分の胸へ手を当てる。


「生き返ったことも残します」


 少年の姿へ、透真の影が伸びる。


 影は少年を飲み込まない。


 少年の足元へ並ぶ。


 二人分の影。


 一つは十七歳。


 一つは四歳。


「あなたは、僕が生きるために消える必要はありません」


『どこにいればいい?』


「まずは」


 透真は自分の胸を叩いた。


 とん。


 とん。


 とん、とん。


「ここにいてください」


『中に入るの?』


「記憶を分けてもらいます」


『痛いよ』


「受け取ります」


『怖いよ』


「聞きます」


『忘れたら?』


「澪さんの記録があります」


 澪が携帯電話を掲げる。


「忘れたら、何度でも聞かせる」


『お父さんは?』


 誠一は死亡確認記録を握る。


「今度は隠さない」


『お母さんは?』


 小夜子は少年の頬へ触れる。


「今度は、あなたを残して行かない」


『今の透真は?』


「今の透真も残す」


『二人とも?』


「二人とも」


 少年は長いあいだ、三人の顔を見ていた。


 やがて、透真へ小さな手を差し出す。


『痛かったら、離して』


「はい」


『僕が嫌って言ったら?』


「止めます」


『体を返してって、また言うかも』


「そのとき、また話します」


『面倒だよ』


「分かっています」


『僕、怒るよ』


「僕も怒るかもしれません」


『同じ人なのに?』


「違うところもあるようです」


 少年は少し笑った。


『じゃあ』


 透真の手を握る。


『聞いて』


 冷たい記憶が流れ込んだ。


     ◇


 炎。


 煙。


 熱。


 母の声が遠い。


 息が吸えない。


 胸が痛い。


 目を開けても、天井しか見えない。


『お母さん』


 声が出ない。


 心臓が止まる。


 何も聞こえなくなる。


 次。


 強い光。


 誰かが胸を押している。


 痛い。


 苦しい。


 父が泣いている。


『透真!』


 返事をしたい。


 でも、喉が動かない。


 母がいない。


 知らない声が聞こえる。


『声を貸す』


 少女。


『怖い?』


 怖い。


『私も』


 冷たい音が、喉へ入る。


 心臓が止まる。


 暗い。


 一人。


 また誰かが呼ぶ。


『透真』


 今度は父。


『戻ってこい』


 戻りたい。


 けれど、自分の声がない。


 少女の声を借りる。


『あ』


 それだけ。


 父が泣きながら笑う。


 生き返った。


 でも。


 死んだ自分は、暗闇に残っていた。


『僕は?』


 誰も答えない。


『生きた僕は戻った』


 暗闇の中で、四歳の透真が一人で座っている。


『死んだ僕は、どこへ行けばいい?』


     ◇


 透真は食卓の前へ倒れた。


「音無くん!」


 澪が体を支える。


 胸が痛い。


 息ができない。


 十三年前の恐怖が、現在の体へ残っている。


 透真は咳き込む。


 それでも、手を離さなかった。


「聞いています」


 少年へ伝える。


「全部」


『本当に?』


「怖かった」


『うん』


「痛かった」


『うん』


「一人だった」


『うん』


「戻ってきた僕を、嫌いになった」


 少年は少し迷った。


『嫌い』


「はい」


『でも』


 小さな手に力が入る。


『本当は、見つけてほしかった』


「見つけました」


『遅い』


「すみません」


『十三年』


「はい」


『ずっと』


「はい」


『忘れないで』


「忘れません」


 少年の体が、光へ変わり始めた。


 透真は手を強く握る。


「消えないでください」


『消えない』


「本当に?」


『そっちへ行くだけ』


 少年は透真の胸を指差した。


『でも、全部一緒にはならない』


「はい」


『僕の場所を残して』


「残します」


 少年が透真の胸へ触れる。


 冷たい光が、心臓の近くへ入っていく。


 どくん。


 透真の心音。


 少し遅れて。


 どくん。


 もう一つ。


 二つの鼓動。


 やがて、重なる。


 完全に同じではない。


 十七歳の心音の奥に、小さな四歳の鼓動が残っている。


 小さな椅子が消えた。


 名札も。


 音無透真・四歳。


 音無透真・十七歳。


 二枚が重なり、一枚になる。


 音無透真。


 その下に、新しい記載。


 死亡記録二件。


 生存継続中。


 呼名女が絶叫した。


『死亡と生存は同時に登録できません!』


「できます」


 透真は胸を押さえながら立ち上がる。


「僕は死にました」


「二度」


「そして今、生きています」


『矛盾です!』


「人間は、矛盾した記憶を持って生きられます」


 小夜子の姿が揺れる。


 帰りたかった母。


 四歳の息子とやり直したかった願い。


 その目的だった少年が、現在の透真の胸へ居場所を見つけた。


 食卓の上の朝食が、少しずつ色を失っていく。


「終わるの?」


 小夜子が自分の手を見る。


「私の朝」


 透真は母へ近づく。


「はい」


「一緒に食べてくれないの?」


「この料理を食べれば、十三年間を忘れます」


「そう」


「でも」


 透真は食卓の椅子を一脚引いた。


 座らない。


 小夜子へ向ける。


「少し、話しませんか」


「何を?」


「母さんが帰りたかったことを」


 小夜子の目が揺れる。


「僕は、知りませんでした」


「知っても、何も変わらない」


「それでも聞きます」


「私は、本物の小夜子じゃない」


「母さんの中にあった、本物の気持ちです」


 小夜子は椅子へ座った。


 食卓の向かいに。


 透真。


 誠一。


 澪。


 三人も座る。


 料理には触れない。


 ただ、小夜子の話を聞く。


「帰りたかった」


 小夜子が言う。


「透真の入学式を見たかった」


「誠一さんと喧嘩もしたかった」


「一人で買い物へ行きたかった」


「仕事にも戻りたかった」


「疲れたって言いたかった」


「母親をやめたい日もあったと思う」


 完璧な笑顔が崩れていく。


 家族が望んだ母親ではなく。


 生きていたかもしれない一人の女性の言葉。


「それでも」


 小夜子は二人を見る。


「朝になったら、みんなのご飯を作りたかった」


 誠一の目から涙が落ちる。


「食べたかった」


「今のは食べないで」


 小夜子は少し笑った。


「記憶が変わるから」


 初めて。


 用意した朝食を、自分から否定した。


「今度」


 透真が言う。


「僕たちが作ります」


「今度なんてあるの?」


「本当の母さんへ、言葉を届けます」


「私の言葉も?」


「はい」


「帰りたかったって?」


「それだけではありません」


 透真は小夜子が話した言葉を一つずつ覚える。


 入学式。


 喧嘩。


 仕事。


 疲れ。


 母親をやめたい日。


 朝食。


「全部、伝えます」


 小夜子は静かに頷いた。


「じゃあ」


 最後に。


 母親の顔で笑う。


「おかえり、透真」


 透真は答えた。


「ただいま」


 その一言を待っていたように、小夜子の姿が光へ変わる。


 食卓。


 朝食。


 存在しなかった十三年間の写真。


 すべてが白い音となり、天井へ昇っていく。


 誠一が手を伸ばす。


「小夜子」


 小夜子は夫を見る。


「誠一さん」


「何だ」


「私を待ちすぎないで」


 誠一の顔が歪む。


「無理だ」


「そう言うと思った」


 小夜子は泣きながら笑った。


「でも、生きて」


「お前が言うな」


「ごめん」


「謝るな」


「じゃあ」


 小夜子は最後に言った。


「いってらっしゃい」


 姿が消えた。


 朝食の匂いだけが、少しのあいだ居間に残っていた。


     ◇


 時計が動き始める。


 午前一時二十七分。


 呼名女の気配は消えている。


 食卓は、いつもの三人用。


 澪がいるため、椅子だけ四脚並べられている。


 五つ目の椅子はない。


 死亡確認記録は残っていた。


 生存再確認。


 午前零時三十九分。


 新しく加わった文字も消えていない。


「父さん」


「何だ」


「この記録を、もう隠さないでください」


「ああ」


「警察へ?」


「すぐには説明できない」


「でも」


「まず、すべてを書き直す」


 誠一は死亡確認記録を食卓へ置く。


「俺が知っている十三年前のことを」


 澪が携帯電話を見る。


「録音、残っています」


「消さないでくれ」


「もちろん」


 透真は自分の胸へ手を当てる。


 どくん。


 心臓。


 その奥。


 小さく。


 どくん。


 二つ目の鼓動。


「聞こえます」


 透真は呟いた。


「何が?」


 澪が尋ねる。


「四歳の僕です」


「何か言ってる?」


 耳を澄ませる。


 声ではない。


 心音。


 その間隔に、かすかな意味がある。


 怖い。


 でも、ここにいる。


「眠いそうです」


「十三年起きてたから?」


「おそらく」


 澪は透真の胸へ近づこうとして、途中で止まる。


「聞いてもいい?」


「心音を?」


「うん」


「どうぞ」


 澪が透真の胸へ耳を当てる。


 誠一が少し気まずそうに顔を背けた。


「二つ聞こえる?」


 透真が尋ねる。


「普通の心臓だけ」


「僕にしか聞こえないんですね」


 澪はそのまま、小さな声で話しかけた。


「おやすみ」


 透真の胸の奥。


 小さな鼓動が一度だけ強く鳴った。


 どくん。


「返事しました」


「本当?」


「はい」


「何て?」


「たぶん」


 透真は少し笑う。


「おやすみなさい、と」


     ◇


 その瞬間。


 食卓の上にある死亡確認記録から、電子音が鳴った。


 ぴ。


 古い紙には似合わない、携帯電話の通知音。


 生存再確認の文字の下へ、新しい一文が浮かぶ。


 蘇生音声記録あり。


 保管場所。


 夕名第二中学校・旧体育館放送倉庫。


 誠一が息を呑む。


「残っていたのか」


「何がですか」


「午前零時三十九分」


 誠一は紙へ手を置く。


「お前が二度目に生き返ったときの録音だ」


 伊呂波が貸した最初の声。


 御影冬子が行った処置。


 呼名女がまだ完全な形になる前の放送。


 すべてが、避難所の録音設備へ残されていた。


「どうして学校に?」


「災害記録として、一部の音源が保管された」


「消したのでは?」


「俺が消したのは名簿と死亡記録だけだ」


 紙の上に、再生時刻が表示される。


 本日。


 午前零時三十九分。


 現在時刻は午前一時二十七分。


 すでに過ぎている。


 だが、その下に。


 次回自動再生。


 本日午前二時十三分。


 残り四十六分。


「自動再生されたら、どうなるんですか」


 澪が尋ねる。


 誠一の顔が青ざめていた。


「あの録音には」


 言葉を選ぶ。


「透真が生き返る直前に、死者側から聞こえた名前が入っている」


「誰の?」


 透真の胸の奥で、四歳の鼓動が激しく鳴り始めた。


 どくん。


 どくん。


 どくん。


 怖がっている。


「父さん」


「俺は、その名前を聞いた」


「誰の名前ですか」


 誠一が答えようとした瞬間。


 町内放送のチャイムが鳴った。


 きん。


 こん。


 かん。


 こん。


 午前一時二十八分。


 本来なら、放送が流れる時間ではない。


『音声記録の自動再生を開始します』


 呼名女ではない。


 御影冬子の声。


 十三年前の録音。


『記録時刻、午前零時三十九分』


 雑音。


 幼い透真の最初の声。


『あ』


 その直後。


 小夜子が、誰かの名前を叫んでいた。


『澪ちゃん!』


 三人が動きを止める。


 十三年前。


 まだ生まれて間もないはずの早坂澪。


 小夜子が知るはずのない名前。


 現在の澪の影から、二つ目の心音が聞こえた。


 どくん。


 どくん。


 影の中の少女が震えている。


『私じゃない』


「何が?」


 澪が自分の影を見る。


『十三年前に呼ばれた澪は』


 影の中から、黒い手が伸びる。


『今ここにいる私たちじゃない』


 町内放送が続く。


『早坂澪さん』


『午前二時十三分に』


『生まれる前の声を、回収いたします』

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


誠一が隠していたのは、透真の二度目の死亡確認記録でした。


透真は午前零時十三分に旧町内放送局で死亡し、小夜子の命によって一度蘇生。


その後、午前零時二十六分に再び死亡し、午前零時三十九分に伊呂波の声を借りて、もう一度生き返っていました。


四歳の透真は、現在の透真から体を奪おうとする偽物ではありません。


記録から消され、誰にも受け取られなかった二度の死と恐怖です。


透真は彼を消すのではなく、自分の中へ居場所を作り、死亡と生存の両方を記録へ残しました。


第25話「午前零時三十九分」では、旧体育館放送倉庫に残る蘇生時の音声を確認します。


十三年前の録音で、小夜子は生まれて間もない早坂澪の名前を呼んでいました。


しかし、呼ばれたのは現在の澪でも、未来の幽霊でもありません。


呼名女が回収しようとしているのは、澪が生まれたときに失った「最初の泣き声」です。

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