第23話 母が帰った朝
亡くなった人が、本当に帰ってきたなら。
声も。
体温も。
心臓の音も。
生きている頃と同じだったなら。
その人を偽物だと疑うことは、正しいのでしょうか。
けれど、本当に生きている人は、家族の望んだとおりにだけ笑い続けることはありません。
「早く座って」
音無小夜子は、食卓の前で笑っていた。
白いエプロン。
長い黒髪。
十三年前より少し年齢を重ねた顔。
もしあの夜に亡くならず、現在まで生きていたなら、こうなっていたかもしれない姿。
透真の耳には、小夜子の心音が聞こえている。
どくん。
どくん。
規則的だが、完全な繰り返しではない。
呼吸に合わせ、少しずつ速さが変化している。
血が流れる音。
肺へ空気が入る音。
床へ落ちた影。
体温。
生者にあるものが、すべて揃っていた。
「家族四人で、朝ごはんにしましょう」
小夜子の言葉とは裏腹に、食卓には五脚の椅子が並んでいる。
透真は、増えた椅子の背を見た。
音無透真。
黒い文字。
残りの椅子にも、名前が記されていた。
音無小夜子。
音無誠一。
早坂澪。
そして、もう一脚。
音無透真。
「二つ……」
澪が声を落とす。
同じ名前の椅子が二つある。
一脚は、現在の透真が使っている食卓椅子。
もう一脚は、いつの間にか現れた小さな子ども用の椅子だった。
背もたれに動物の絵。
四歳頃の透真が使っていたもの。
「どうして僕の席が二つあるんですか」
小夜子は卵焼きを皿へ並べる。
「二つじゃないわ」
「でも」
「同じ透真でしょう?」
小夜子は不思議そうに答えた。
「帰ってきた透真と」
小さな椅子へ視線を向ける。
「帰ってこなかった透真」
透真の背中を冷たい汗が流れた。
「母さん」
「何?」
「その椅子には、誰が座るの」
「透真よ」
「僕はここにいます」
「ええ」
小夜子は微笑む。
「だから、二人とも座れるでしょう?」
食卓の下から、かすかな息遣いが聞こえた。
すう。
はあ。
子どもの呼吸。
透真が腰を屈め、テーブルクロスの奥を見る。
暗い。
誰もいないように見える。
だが、床に小さな手形があった。
黒く焦げた指。
四歳児ほどの大きさ。
「食べ物へ触れないでください」
透真は澪と誠一へ告げた。
小夜子の手が止まる。
「どうして?」
「何が入っているか分かりません」
「透真の好きなものばかりよ」
味噌汁。
焼き鮭。
卵焼き。
炊きたてのご飯。
どれも透真が幼い頃に好んでいた料理だった。
湯気。
匂い。
皿へ箸が触れる音。
すべてが本物に見える。
小夜子が味噌汁の椀を誠一の前へ置いた。
「誠一さんも」
「小夜子……」
「冷めないうちに」
誠一は妻から目を離せない。
透真が父の前へ手を出す。
「座らないでください」
「分かっている」
「父さん」
「分かっていると言っている」
誠一はそう答えながら、一歩、食卓へ近づいた。
小夜子が椅子を引く。
「疲れたでしょう」
「十三年……」
「何?」
「どこにいた」
誠一の声が震える。
「十三年間、どこにいたんだ」
小夜子は首を傾けた。
「ここよ」
「ここ?」
「この家にいたでしょう?」
居間の壁に、一枚の写真が現れた。
透真の小学校入学式。
桜の木。
ランドセルを背負った透真。
誠一。
そして、小夜子。
親子三人で笑っている。
「そんな写真はない」
誠一が呟く。
「あるじゃない」
別の写真。
運動会。
透真の中学校入学式。
誕生日。
家族旅行。
十三年間の写真が、壁へ次々と増えていく。
どの写真にも小夜子がいる。
「僕は覚えていません」
透真は写真へ近づいた。
「母さんは、そこにいなかった」
「忘れているだけ」
「忘れていません」
「つらいことは、忘れるものよ」
小夜子が笑う。
誠一は、小学校入学式の写真へ指を触れた。
その瞬間。
父の心音が乱れた。
どくん。
「そうだ」
誠一が呟く。
「父さん?」
「入学式の日、雨が降りそうだった」
写真には青空が映っている。
「小夜子が、折り畳み傘を持っていけと言った」
「父さん、何を」
「透真が嫌がった」
「違います!」
「傘が格好悪いって」
「そんな記憶はありません!」
「帰りに雨が降って」
誠一の顔に、懐かしそうな笑みが浮かぶ。
「三人で一本の傘に入った」
透真には分からない。
そんな日はなかった。
小学校の入学式には、誠一と祖母が来た。
空は晴れていた。
帰りに雨も降っていない。
だが、父は存在しない記憶を話し続ける。
「写真へ触れさせないで!」
澪が誠一の腕を引く。
父の指が写真から離れた。
誠一は混乱したように周囲を見る。
「俺は、何を」
「記憶を書き換えられています」
透真は父を写真から遠ざける。
小夜子が悲しそうな顔をした。
「書き換えてなんかいない」
「では、あの十三年間は何ですか」
「私たちが過ごした時間」
「母さんは亡くなりました」
「誰が言ったの?」
「僕が見ました」
「四歳だったでしょう?」
「思い出しました」
「怖い夢と間違えているのよ」
「母さん!」
透真の声が強くなる。
小夜子の肩が小さく揺れた。
傷ついた母の顔。
その表情を見ると、透真の胸に罪悪感が生まれる。
生きて帰ってきた人へ、死んだと言い続ける。
それが本当に正しいのか。
呼名女が作った偽物だと決めつけてよいのか。
「音無くん」
澪が透真の袖を引く。
「音を聞いて」
「聞いています」
「お母さんのじゃなくて、料理の」
透真は耳を澄ませた。
味噌汁。
焼き鮭。
炊飯器。
卵焼き。
普通の食事の音。
だが、その奥。
小さな声が何重にも重なっている。
『運動会に来てほしかった』
『熱を出した日に、そばにいてほしかった』
『入学式を見てほしかった』
『誕生日に、三人で写真を撮りたかった』
透真自身の声。
幼い頃。
小学生。
中学生。
さまざまな年齢の透真が、叶わなかった願いを話している。
別の声。
誠一。
『小夜子と一緒に傘を差したかった』
『三人で旅行へ行きたかった』
『息子の成長を、一緒に見たかった』
食卓に並んだ料理は、実際に小夜子が作った物ではない。
透真と誠一が望んだ、存在しなかった十三年間の音から作られている。
「この朝食は」
透真は椀を見る。
「僕たちの記憶ではありません」
「何を言っているの?」
「願いです」
小夜子の笑顔が少し固くなる。
「こうだったらよかったという、父さんと僕の願い」
「それの何が悪いの?」
「悪いとは言っていません」
「なら、食べて」
「食べれば、それが本当の記憶になる」
小夜子は答えない。
「父さんは写真へ触れただけで、存在しなかった入学式を思い出しました」
「幸せな思い出でしょう?」
「本当ではありません」
「つらい本当と、幸せな嘘」
小夜子は味噌汁の椀を両手で持つ。
「どちらが大切なの?」
透真はすぐには答えられなかった。
本当の十三年間。
母を失った家。
会話の少ない父子。
母の声を待ち続けた夜。
父を責めた夏祭り。
孤独。
後悔。
もし、小夜子が生きていた記憶へ変えられるなら。
父も。
透真も。
少しは救われるかもしれない。
「その質問自体が違います」
澪が答えた。
小夜子が澪を見る。
「どうして?」
「幸せなら嘘でもいいかって聞いてるけど」
澪は壁の写真を指差す。
「この写真の中のお母さんは、一度も怒ってない」
「家族写真でしょう?」
「旅行でも、入学式でも、誕生日でも、全部同じ笑顔」
確かに。
写真の小夜子は、すべて同じ角度。
同じ口元。
同じ目。
優しい母親として、完璧に微笑んでいる。
「十三年も一緒に生きたなら」
澪は言った。
「喧嘩したことは?」
小夜子の唇が止まる。
「ありますよね」
「もちろん」
「何で喧嘩したの?」
「家族なら、いろいろあるでしょう」
「一つでいいから教えて」
小夜子は答えない。
「お父さんに本気で腹が立ったこと」
「音無くんを嫌いになりそうだったこと」
「家を出たいと思った日」
「家族とは関係なく、自分だけでやりたかったこと」
質問を重ねるたび、小夜子の顔から表情が薄くなる。
「私は家族を愛しているの」
「それは分かります」
「家族と一緒にいられれば幸せ」
「それ以外は?」
「必要ない」
澪は透真を見る。
「生きている人なら、家族以外にもしたいことがあると思う」
仕事。
友人。
嫌いなもの。
退屈。
一人になりたい日。
何もしたくない朝。
生きることは、誰かが望んだ役割だけでは作れない。
目の前の小夜子は、家族が望んだ母親の姿しか持っていない。
「あなたは、母さんの記憶から生まれたわけではありません」
透真は言った。
「僕たちが望んだ母さんから生まれた」
「同じでしょう?」
「違います」
「私は小夜子よ」
「母さんは、自分の希望を持っていました」
「家族を守りたい」
「それだけではありません」
「あなたに分かるの?」
「分かりません」
小夜子の顔がわずかに歪む。
「分からないからこそです」
透真は続ける。
「本当の母さんには、僕が知らない部分がある」
家族だからといって、すべてを知ることはできない。
母にも。
父にも。
子にも。
誰にも見せなかった思いがある。
「あなたには、僕たちが望んだことしかない」
「私は、あなたたちの望みを叶えた」
「だから、母さんの全部ではありません」
小夜子の手にある椀へ、細い亀裂が入った。
「全部じゃなくても」
小夜子の声が震える。
「私は生きている」
どくん。
心臓。
「聞こえるでしょう?」
「はい」
「温かいでしょう?」
小夜子が透真へ手を伸ばす。
透真は手を避けなかった。
母の指が頬へ触れる。
温かい。
本物の皮膚。
「私を偽物と呼んだら」
小夜子の目に涙が浮かぶ。
「この心臓は止まってもいいの?」
透真は答えられない。
目の前の存在は、母そのものではない。
それでも、意識がある。
恐怖がある。
消えたくないという願いがある。
偽物だから壊してよいとは言えない。
「消えてほしいとは思っていません」
小夜子が透真を見る。
「では、座って」
「それはできません」
「どうして?」
「あなたが残るために、僕たちの記憶を変える必要があるからです」
「昔のつらい記憶を手放すだけ」
「本当の母さんが選んだことまで消えます」
十三年前。
小夜子は透真を生者へ戻した。
自分を残した。
その選択を忘れれば、母の苦しみも、愛情も、すべてなかったことになる。
「あなたを受け入れるために、本当の母さんを消せません」
小夜子の涙が頬を伝った。
「私は、私なのに」
「あなたも一人の存在です」
「だったら、お母さんと呼んで」
透真の喉が詰まる。
「呼んでくれれば、本物になれる」
「名前を呼ばれることで、本物になろうとしないでください」
「伊呂波には名前を返したのに」
「自分で自分を決めてほしいと伝えました」
「私にも?」
「はい」
小夜子は自分の胸へ手を当てる。
「私は誰?」
透真は答えない。
答えを与えれば。
その言葉が、新しい役割になる。
「自分で決めてください」
「私は小夜子」
「本当に?」
「私はあなたの母親」
「それ以外には?」
小夜子は口を開く。
声が出ない。
自分が何を好み。
何を嫌い。
家族と離れたとき、何を望むのか。
何一つ分からない。
「私は……」
食卓の下から、子どもの声がした。
『お母さん』
小夜子の顔が明るくなる。
「透真」
小さな椅子が、自分で動いた。
ぎい。
食卓の下。
暗闇から、四歳の少年が這い出てくる。
黄色いTシャツ。
半ズボン。
裸足。
髪と服の一部が黒く焼けている。
透真と同じ顔。
十三年前。
旧町内放送局で死んだときの姿。
少年は小夜子へ駆け寄った。
『お母さん!』
小夜子は迷わず少年を抱きしめる。
「透真」
現在の透真には、何度も疑いを向けた。
しかし、幼い透真へは即座に母親の顔を見せた。
少年も小夜子へしがみつく。
『会いたかった』
「お母さんもよ」
『ずっと待ってた』
「ごめんね」
透真は二人を見つめる。
胸が痛む。
あの少年は自分だ。
自分だった存在。
母と離れたまま、十三年間止まっていた死者。
「あなたは誰ですか」
透真が少年へ尋ねる。
子どもは小夜子の胸へ顔を埋めたまま答える。
『音無透真』
「僕もです」
『違う』
少年が顔を上げる。
『僕が本物』
「どうして?」
『僕は、あの日死んだ』
少年の胸には、心音がない。
『お母さんと一緒に残るはずだった』
「母さんは、僕を生者へ戻しました」
『戻ったのは、僕じゃない』
透真の喉から、伊呂波と分けた声が漏れる。
少年がその音を聞き、顔を歪めた。
『その声、僕のじゃない』
「伊呂波さんから借りました」
『名前も』
「名前は僕のものです」
『僕の名前だよ!』
少年の叫びと同時に、二脚の椅子へ記された文字が光った。
音無透真。
音無透真。
どちらも同じ。
『僕の体』
少年は透真を見る。
『僕のお父さん』
誠一の手を指差す。
『僕のお母さん』
小夜子へしがみつく。
『全部、あなたが使ってる』
「僕はあなたの十三年後です」
『僕は十三年も生きてない!』
透真は言葉を失った。
少年の立場から見れば。
四歳で死んだ。
そのあと、自分とは違う声を持った存在が、自分の名前で十三年間生きた。
父と暮らし。
学校へ通い。
友人を作り。
自分が得るはずだった時間を使っている。
『返して』
「何を?」
『僕の人生』
食卓の上の食器が一斉に鳴った。
かた。
かた。
かた。
小夜子が少年の背中を撫でる。
「大丈夫」
優しい声。
「二人は同じ透真よ」
「違います」
透真と少年が同時に答えた。
二人は互いを見る。
「僕は、今ここにいます」
『僕も、ここにいる!』
「僕には十三年間の記憶があります」
『僕には、死んだ記憶がある!』
「どちらかを選ぶ必要はありません」
『あなたがいなければ、僕が戻れる!』
小夜子が二人の間へ入る。
「喧嘩しないで」
食卓の五つ目の椅子を引く。
「一緒になればいいの」
「一緒?」
「二人とも座って」
二脚の「音無透真」の椅子が、向かい合わせに置かれる。
「同じ朝食を食べれば」
小夜子は笑った。
「十三年前に分かれた二人が、一人へ戻れる」
誠一が前へ出る。
「戻ったら、どうなる」
「家族四人になるの」
「どちらの透真が残る」
「同じ人でしょう?」
「答えろ!」
誠一の怒鳴り声に、小夜子の笑顔が揺らぐ。
「二人の記憶が一つになるだけ」
「体は?」
「今の透真の体を使えばいい」
少年が喜んだように透真を見る。
『僕が戻れる』
「僕の意識は?」
小夜子は答えない。
「消えるんですか」
「消えない」
「では、どうなるの」
「忘れるだけ」
「何を?」
「十三年間を」
居間の時計が鳴った。
午前零時十三分。
透真が食卓へ座れば。
母が死んだ夜。
父と暮らした時間。
学校。
澪との出会い。
届けてきた死者の声。
すべてを忘れ。
四歳で止まった少年へ体を渡す。
小夜子が望む、十三年前からやり直す家族になる。
「それは、一人に戻ることではありません」
透真は言った。
「僕を消して、あの子を生かすことです」
「消えないと言っているでしょう」
「記憶も、選んだことも、出会った人も失えば」
透真は澪を見る。
「今の僕ではなくなります」
澪は透真の腕を強く掴んだ。
「座らせない」
小夜子が澪を見る。
「家族のことに口を出さないで」
「さっきは私の椅子も用意してたでしょう」
「あれは」
「家族四人って、誰のことだったんですか」
小夜子の視線が揺れる。
「私」
「誠一さん」
「透真」
「透真」
「四人」
澪は含まれていない。
澪の名前が書かれた椅子は、いつの間にか食卓から遠ざかっていた。
居間の隅。
客用の椅子。
「私は、外へ出す役?」
澪が尋ねる。
「透真が戻れば、あなたは必要ない」
小夜子が答えた。
優しい母親の声ではなかった。
「澪ちゃんとの記憶も消えるから」
少年が透真を見る。
『その人、誰?』
澪の顔が青ざめる。
小夜子は少年の頭を撫でた。
「知らなくていい人よ」
透真の中で、何かが切れた。
「澪さんを、知らなくていい人と言わないでください」
「透真」
「あなたは、僕の望んだ母さんから生まれた」
透真は小夜子を見る。
「でも、僕が今大切にしている人を知りません」
「十三年前には、いなかったから」
「だからです」
「何が?」
「あなたは、僕の過去の願いしか持っていない」
小夜子は、十三年間を生きていない。
今の透真を知らない。
死者の声を聞く怖さ。
澪に助けられたこと。
父と少しずつ話し始めたこと。
伊呂波と声を分けたこと。
それらを知らないまま、四歳の透真へ戻そうとしている。
「今の僕は、あなたが望んだ息子ではないかもしれません」
透真は言った。
「それでも、僕です」
少年が叫ぶ。
『僕も透真だ!』
「はい」
透真は少年を見る。
「あなたもです」
『だったら返して!』
「返せません」
『泥棒!』
透真の胸が痛む。
否定できない。
少年の人生を、自分が続けている。
「でも」
透真は小さな椅子の前へ膝をついた。
「あなたを消すつもりもありません」
『嘘』
「あなたが死んだことを、なかったことにしません」
『僕は生きたい』
「分かります」
『お母さんといたい』
「分かります」
『じゃあ、座って!』
少年が透真の手を掴む。
氷のように冷たい。
『体を貸して』
子どもの願い。
自分が失った人生を取り戻したい。
あまりにも自然で。
残酷な願い。
透真はすぐに振り払えなかった。
その隙に、小さな椅子から黒い紐が伸びる。
透真の腰。
腕。
首。
体を席へ引き寄せる。
「音無くん!」
澪が引っ張る。
誠一も黒い紐を掴む。
「離せ!」
小夜子が二人の前へ立った。
「邪魔しないで!」
部屋中の写真が変化する。
十七歳の透真が消える。
代わりに、四歳の少年と小夜子が写っている。
誠一も。
澪も。
現在の家も消え始める。
十三年前の音無家。
古い家具。
子どもの玩具。
居間の隅に、小さな通園鞄。
「この家ごと、十三年前へ戻すつもりです!」
透真は黒い紐に引かれながら叫んだ。
小夜子が両腕を広げる。
「戻るんじゃない」
その背後。
赤い傘が開いた。
「やり直すの」
小夜子の声に、呼名女の声が重なる。
少年が透真の手を引く。
『お母さんを返して』
黒い紐が締まる。
『僕の名前も』
小さな椅子が、透真の背後へ迫る。
『僕の体も』
座面から、四歳の透真の両腕が何本も伸びる。
『全部返して!』
透真の膝が折れた。
椅子へ座る直前。
澪が透真の頬を強く叩いた。
ぱん。
鋭い音。
「今の痛み、分かる?」
透真は目を見開く。
「はい」
「十三年前の記憶?」
「違います」
「今の痛みだよ」
澪はもう一度、透真の手を強く握る。
「今ここにいるあなたの」
透真の心臓が鳴る。
どくん。
どくん。
少年にはない心音。
借りた声。
与えられた命。
それでも、十三年間、自分で鳴らし続けた心臓。
「僕は」
透真は黒い紐へ手を掛ける。
「あなたの続きかもしれない」
少年を見る。
「でも、あなたの代わりではありません」
『同じ透真だよ!』
「同じ名前です」
『同じ体!』
「この体は、十三年間変わりました」
『お母さんは僕の!』
「母さんは、誰の所有物でもありません!」
透真は黒い紐を引きちぎった。
一本。
また一本。
「そして僕も」
椅子へ伸びる腕を振り払う。
「あなたの所有物ではありません!」
少年の顔が憎しみに歪んだ。
『じゃあ、僕はどうすればいいの』
透真は答えようとする。
その前に。
小夜子が少年を抱き上げた。
「大丈夫」
優しい声。
「お母さんが、あなたを選ぶ」
透真の体が固まる。
小夜子は、現在の息子を見なかった。
「この子が、本当の透真」
少年の顔が明るくなる。
『お母さん』
「十三年間待っていたもの」
小夜子の影が大きく広がる。
赤い傘と重なる。
「今の透真は、借り物」
誠一が叫ぶ。
「小夜子はそんなことを言わない!」
「あなたに何が分かるの!」
小夜子が初めて怒鳴った。
食卓が大きく揺れる。
「十三年間、一人で待っていた!」
「誰にも選ばれず!」
「家族が私を忘れていくのを見ていた!」
「私は帰りたかった!」
その言葉は、呼名女のものではなかった。
小夜子の中に残っていた、本物の感情。
死者側へ残され。
家族の未来を見られず。
帰りたいと願った母の一部。
「私は」
小夜子は少年を抱きしめる。
「この子と一緒に帰りたかった」
透真は息を呑む。
目の前の存在は、完全な偽物ではない。
小夜子が十三年間抱えた。
帰りたい。
四歳の息子ともう一度暮らしたい。
その願いから生まれた母。
だから心臓がある。
だから涙が出る。
呼名女が作っただけの人形ではない。
「母さんの一部なんですね」
小夜子の表情が止まる。
「帰りたかった母さん」
「違う」
「僕を四歳へ戻してでも、一緒にいたかった気持ち」
「私は小夜子!」
「はい」
透真は否定しなかった。
「でも、母さんの全部ではありません」
小夜子の腕の中で、少年が透真を睨む。
『じゃあ、あなたが全部なの?』
「違います」
『僕は一部?』
「違います」
『じゃあ、何!』
「まだ分かりません」
少年の顔が歪む。
『またそれ』
「だから、決めつけません」
透真は少年へ手を伸ばした。
「あなたが僕の過去なのか」
「別の死者なのか」
「四歳で止まった僕自身なのか」
「一緒に確かめます」
『体は返さないのに?』
「返せません」
『お母さんも?』
「母さんが誰といるかは、母さんが決めます」
小夜子の腕が強くなる。
少年を手放さない。
「私は、この子を選ぶ」
「それも、あなたの答えです」
透真は言った。
「でも、僕を消して家族をやり直すことには協力できません」
小夜子の目から涙が落ちる。
「なら、あなたは私を捨てるの?」
「捨てません」
「一緒に座らないのに?」
「座ることだけが、一緒にいる方法ではありません」
小夜子は首を横に振る。
「私には、これしかない」
食卓。
朝食。
夫。
四歳の息子。
小夜子が帰りたかった家族の形。
その形から外へ出る方法を、彼女は知らない。
透真は母へ近づこうとした。
その瞬間。
食卓の五つ目の椅子が、ひとりでに倒れた。
がたん。
座面の裏に、赤い文字が書かれている。
帰宅者一名不足。
部屋中のスピーカーから、呼名女の声が流れた。
『家族の人数が一致しません』
小夜子が顔を上げる。
『音無透真さんは二名』
『使用可能な体は一名』
『どちらか一名を、死者として登録してください』
「選びません!」
透真が叫ぶ。
『家族側で選択されない場合』
赤い傘が完全に開く。
『母親に決定権を移します』
小夜子の前に、二枚の名札が現れた。
音無透真・四歳。
音無透真・十七歳。
小夜子の右手に、赤い印。
『残す息子の名札へ、印を押してください』
少年が母を見上げる。
『お母さん』
透真も母を見る。
小夜子は、赤い印を握りしめた。
迷わず。
四歳の透真の名札へ手を伸ばす。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
帰ってきた小夜子は、単なる偽物ではありませんでした。
十三年間、家族のもとへ帰りたかった小夜子の願い。
透真と誠一が「小夜子が生きていたら」と望んだ、存在しなかった家族の記憶。
それらが呼名女の力によって形を得た、「帰りたかった母親」です。
そして五つ目の椅子から現れたのは、十三年前に四歳で亡くなった透真。
現在の透真は彼の続きなのか。
借りた声と命で生まれた別人なのか。
二人とも、自分こそが音無透真だと主張します。
第24話「二人の透真」では、小夜子が残す息子を選びます。
四歳の透真を選べば、十七歳の透真は名前と体を失う。
十七歳の透真を選べば、十三年間待ち続けた幼い死者が消える。
しかし、母親が選択を終える直前、誠一は十三年前に自分が隠した「もう一つの死亡記録」を明かします。




