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死者同士の会話は、聞いてはいけない ―午前零時十三分の町内放送―  作者: たむ
第三部 死者同士の最後の会話

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第22話 帰る場所のない子

「おかえり」と言ってくれる人がいれば、そこが帰る場所になる。


そう思えるのは、帰りたい場所を自分で選べるときだけです。


誰かに決められた家。


出ることを許されない部屋。


永遠に同じ役目を続ける場所。


それらは、どれほど優しい声で迎えられても、帰る場所ではありません。

『伊呂波』


 閉ざされていた郷土資料館の玄関が、ゆっくりと開いていく。


 扉の向こうにあるのは、夜の町ではなかった。


 十三年前の旧町内放送局。


 黒く焼けた壁。


 消えかけた非常灯。


 無数のケーブルが這う廊下。


 その入口に、音無小夜子が立っている。


 白いワンピース。


 長い黒髪。


 胸に開いた穴。


 透真が覚えている、母の姿だった。


『ずっと待っていたよ』


 小夜子は、着物姿の少女へ手を差し出す。


『おかえり』


 伊呂波の目から、涙がこぼれた。


「小夜子さん……」


『一緒に帰ろう』


 伊呂波の指が、透真の手から離れかける。


 透真は慌てて握り直した。


「待ってください」


 伊呂波が振り返る。


「どうして?」


「まだ、本物の母とは限りません」


「でも、私の名前を呼んだ」


「呼名女も知っています」


「待っていたって」


「それも、誰にでも言えます」


 伊呂波の顔が傷ついたように歪む。


「私には、帰る場所がない」


「分かっています」


「初めて、待っている人がいた」


「だからこそ、確かめる必要があります」


 透真自身も、母のもとへ走りたい。


 十三年前。


 死んだ母。


 今も放送の向こうに閉じ込められている母。


 母が本当に自分を待っているなら、何も考えず抱きしめてほしかった。


 だが、小夜子の背後。


 旧放送局の暗闇で、赤い傘がゆっくり開いている。


 白い指が傘の柄を握っていた。


 顔は見えない。


 それでも、呼名女がいる。


「母さん」


 透真は扉の手前から呼びかけた。


『透真』


「そこにいるのは、本当に母さんですか」


『何を言っているの?』


 小夜子は寂しそうに笑う。


『声を忘れた?』


「忘れていません」


『顔も?』


「覚えています」


『では、どうして疑うの?』


「呼名女は、母さんの声も姿も使えます」


『そんなものと一緒にしないで』


 言い方まで、小夜子らしい。


 幼い透真が疑い深くなったとき。


 悲しそうな目をして。


 それでも怒らずに話しかけてくれた母。


 透真の記憶から作られた偽物なら、完全に同じ振る舞いができる。


「質問します」


『いいよ』


「十三年前、伊呂波さんへ何を伝えましたか」


 小夜子は伊呂波を見る。


『あなたの声を、透真へ貸してほしいとお願いした』


「そのあとです」


『必ず返すと約束した』


 伊呂波が小さく頷く。


「言ってた」


「ほかには?」


 小夜子は少し考える。


『私のところへ帰っておいで、と』


 伊呂波の顔が揺れた。


「そうだった?」


「覚えていないんですか」


「音が途中で消えていたから」


 伊呂波の記憶には、小夜子の唇が動いた映像だけが残っている。


 呼名女が放送を奪った瞬間。


 声が途切れたあと。


 小夜子が何を言おうとしたのか、聞き取れなかった。


『私は言ったよ』


 扉の向こうの小夜子が、さらに手を伸ばす。


『声を返してもらったら、私のところへ帰っておいで』


「それなら」


 伊呂波が一歩進む。


「今、帰ってもいい?」


『もちろん』


「名前を取り戻したから?」


『そうよ』


「声も半分戻ったから?」


『そう』


「私が呼名女と一つになるかもしれなくても?」


 小夜子の笑顔が止まった。


 ほんの一瞬。


 透真でなければ気づかないほど短い間だった。


『私が守る』


「どうやって?」


『放送局の中へ入れば安全よ』


「外へ出られる?」


『外は危険だから、出ないほうがいい』


 伊呂波の表情が変わる。


「いつまで?」


『危険がなくなるまで』


「危険は、いつなくなるの?」


『私と一緒なら大丈夫』


 質問へ答えていない。


 優しい言葉。


 安心させる声。


 しかし、そのすべてが伊呂波の行動を一つの方向へ導いている。


 旧町内放送局の中。


 呼名女が待つ場所。


「帰る場所ではありません」


 透真は言った。


 扉の向こうの小夜子が、息子を見る。


『どうして?』


「伊呂波さんへ、選ばせていない」


『私はこの子を守ろうとしているだけ』


「守るために、閉じ込めるんですか」


『外へ出れば、また傷つく』


「それでも、外へ出るかどうかは本人が決めます」


『透真』


 小夜子の声が低くなる。


『あなたは、お母さんの言うことが信じられないの?』


「信じたいです」


『なら、来て』


 母は、もう片方の手を透真へ伸ばした。


『伊呂波も』


『澪ちゃんも』


『お父さんも』


『みんなで一緒に帰ろう』


 誠一の体が大きく揺れた。


「小夜子……」


 父の声。


 透真は振り返る。


 誠一の目には涙が浮かんでいた。


 十三年間、妻からの電話を待ち続けた人。


 息子を守りながら、妻を置いてきた罪悪感を抱えてきた人。


『誠一さん』


 小夜子が微笑む。


『もう頑張らなくていいよ』


 誠一が一歩進む。


「父さん!」


「分かっている」


 口ではそう答える。


 だが、足は止まらない。


『透真は、もう大きくなった』


『あなたの役目は終わった』


「役目……」


『一緒に帰ろう』


 誠一の足が玄関の境界へ近づく。


 澪が腕を掴んだ。


「行っちゃ駄目です!」


「離してくれ」


「本物か分からないんです!」


「本物だ」


「どうして言い切れるんですか!」


「俺を誠一さんと呼んだ」


「呼名女も名前を知っています!」


「小夜子は、結婚してからも俺をそう呼んでいた」


「その記憶も知られています!」


 誠一は澪の手を振り払おうとする。


 透真は父の前へ立った。


「父さん。僕を見てください」


「どけ」


「母さんは、父さんの役目が終わったなんて言いません」


「何が分かる」


「僕を守ることだけが、父さんの役目ではありません」


「透真」


「父さんは、父さんです」


 十三年間。


 誠一は夫ではなくなり。


 透真を守る父親としてだけ、生きようとしてきた。


 呼名女は、その疲れを利用している。


『誠一さん』


 小夜子の声が優しく重なる。


『もう休んで』


 誠一の目が閉じる。


「疲れた……」


 小さな声。


「父さん」


「十三年だ」


 誠一の肩が震える。


「声が聞こえるたびに、小夜子かもしれないと思った」


「はい」


「透真が帰ってこないたびに、また死んだのかと思った」


「……はい」


「何度も」


「何度も」


「同じ夜を繰り返した」


 父の苦しみを、透真はすべて理解できない。


 それでも、手を伸ばす。


「僕は、今ここにいます」


「いつまでだ」


 誠一が透真を見た。


「お前は、いつまで生きている」


「分かりません」


「また死者の声を追う」


「はい」


「また危険な場所へ行く」


「行くと思います」


「止めても聞かない」


「すみません」


「謝って済むことじゃない」


「分かっています」


「それでも行くのか」


 透真は答えを迷った。


 嘘をつけば、父を安心させられる。


 もう危険なことはしない。


 死者の声は聞かない。


 そう言えば、父は少しだけ休めるかもしれない。


 だが、守れない約束になる。


「一人では行きません」


 透真は答えた。


「必ず相談します」


「止めたら?」


「理由を聞きます」


「それでも行く必要があれば?」


「一緒に方法を考えてほしいです」


 誠一は何も言わない。


 透真は続ける。


「僕を守る役目を、一人で続けないでください」


「ほかに誰がいる」


 澪が手を挙げた。


「私がいます」


「君は危険へ連れていく側だろう」


「一緒に止める側でもあります」


「説得力がない」


「それは認めます」


 管理人も口を開く。


「私も、記録を調べることはできます」


「あなたは誰だ」


「名前は、今は申し上げられません」


「余計に信用できない」


 それでも。


 誠一の足は、玄関の手前で止まっていた。


 小夜子が笑みを消す。


『誠一さん』


 父は顔を上げた。


『私より、生きている人を選ぶの?』


 誠一の表情に、再び苦しみが浮かぶ。


 透真は小夜子を見た。


「今の言葉で分かりました」


『何が?』


「あなたは母さんではありません」


『どうして』


「母さんは、誰かに自分を選べとは言わない」


『私を選ばせたでしょう』


「四歳の僕へ選ばせたのは、呼名女です」


『あなたは母親を残した』


「母さんは、自分で残ると決めました」


『同じです』


「違います」


 透真は断言した。


「母さんは、自分を選ばなかった人を責めません」


 母は。


 透真が生者へ戻ったことを。


 誠一が息子を連れて逃げたことを。


 伊呂波が声を貸したあと、自由を望むことを。


 責める人ではなかった。


「あなたは、帰る場所を与えると言っています」


『はい』


「でも、母さんが伊呂波さんへ伝えたかったのは、違う言葉です」


『あなたに分かるの?』


「まだ、完全には分かりません」


 透真は伊呂波を見る。


「でも、思い出せるかもしれません」


「どうやって?」


「僕たちは、同じ声を分けています」


 伊呂波の声の半分。


 透真の声の半分。


 二つへ分かれた音の間に、十三年前の記憶が残っている可能性がある。


「手を貸してください」


 伊呂波が恐る恐る手を差し出す。


 透真はその手を握った。


 二人で同時に息を吸う。


 同じ声を出す。


「あ」


「あ」


 二つの音が重なった。


 透真の低い声。


 伊呂波の幼い声。


 完全には同じではない。


 それでも、根の部分で一つにつながっている。


 視聴覚室の蝋管が一斉に回り始める。


 ざあああ。


 古い雑音。


 十三年前の音が、二人の声へ引き寄せられる。


     ◇


 炎。


 煙。


 旧町内放送局。


 四歳の透真は、床へ横たわっている。


 小夜子が息子を抱きしめている。


 御影冬子は、送信装置の前で泣いている。


 スピーカーの中から、名前のない少女の声が聞こえた。


『その子に、私の声をあげる』


 伊呂波。


 まだ名前を取り戻す前。


 呼び子として地下へ閉じ込められていた少女。


『全部?』


 小夜子が尋ねる。


『半分』


『あなたの声がなくなるよ』


『もともと、誰も呼んでくれないから』


 少女の声は寂しそうだった。


『あっても同じ』


『同じじゃない』


 小夜子は強く答えた。


『あなたの声は、あなたのもの』


『でも、その子は死んでる』


『分かってる』


『助けたい?』


『助けたい』


『じゃあ、使って』


 小夜子は迷っている。


 自分の息子を助けたい。


 だが、別の少女の声を犠牲にしてよいのか。


『お願い』


 伊呂波が言った。


『私が決めたの』


 御影冬子の娘、アサとヨルになる少女も。


 伊呂波も。


 十三年前。


 子どもたちは、大人が決めるより先に透真を助けることを選んでいた。


 小夜子はその選択を受け入れた。


『必ず返す』


 小夜子が約束する。


『声を返してもらったら』


 少女が尋ねる。


『私は、どこへ帰るの?』


 小夜子の表情が止まった。


 伊呂波には家がない。


 待っている家族もいない。


 帰る場所を失ったのではない。


 最初から、帰る場所を与えられていない。


『小夜子さんのところへ行ってもいい?』


 少女の問い。


 小夜子が口を開く。


 その瞬間。


 放送設備が爆発した。


 音が消える。


 無音。


 小夜子の唇だけが動いている。


 これまでの記憶では、ここで言葉が途切れていた。


 透真と伊呂波は、同じ声の両側から記憶を聞く。


 透真には、言葉の前半。


 伊呂波には、後半。


 二つを重ねる。


 消えた言葉が、少しずつ音になる。


『私のところへ帰らなくていい』


 伊呂波が息を呑む。


 記憶の小夜子は続けている。


『帰る場所は、誰かに決めてもらうものじゃない』


『声を取り戻したら』


 煙。


 炎。


 崩れる天井。


 それでも小夜子は、少女へ伝えようとしていた。


『行きたい場所を、自分で選んで』


 最後。


 小夜子は笑っていた。


『帰る家が見つからないなら』


『無理に帰らなくてもいい』


『いってらっしゃいって、私が送り出すから』


 記憶が途切れた。


     ◇


 透真と伊呂波は、資料館へ戻った。


 二人の頬に涙が流れている。


「聞こえました」


 伊呂波が呟く。


 小夜子の姿をしたものが、扉の向こうで微笑んでいる。


『何が?』


「小夜子さんが、本当に言いたかったこと」


『私のところへ帰っておいで、でしょう?』


「違う」


 伊呂波は首を横に振った。


「私のところへ帰らなくていい」


 小夜子の笑顔が固まる。


「行きたい場所を、自分で選んで」


『そんなことは言っていません』


「言ってた」


『音のない記憶です』


「だから、あなたには聞こえなかった」


 伊呂波は一歩、扉から離れた。


「呼名女は、記録された声を使える」


 もう一歩。


「でも、声にならなかった言葉は知らない」


 扉の向こう。


 小夜子の顔に、細い亀裂が走る。


『伊呂波』


「返事をしない」


『あなたの帰る場所はここです』


「違う」


『ここ以外に、あなたを待つ者はいません』


「今はいなくてもいい」


『一人になります』


「一人になったら、自分で誰かを捜す」


『誰にも選ばれません』


「それでも、私が選ぶ」


 伊呂波は自分の胸を叩いた。


 とん。


「私」


 もう一度。


 とん。


「ここ」


 最後。


 とん。


「いる」


 小夜子の姿が崩れ始める。


 白いワンピースが黒い紙片へ変わる。


 顔。


 髪。


 伸ばした手。


 すべてが放送用の雑音へ溶ける。


 ざあああああ。


 最後に残った口が、伊呂波の名を呼ぼうとする。


『い――』


「呼ばないで」


 伊呂波が言った。


「あなたの呼ぶ名前には、返事をしない」


 口が消えた。


 旧町内放送局の風景も崩れ、玄関の向こうに本来の夜道が現れる。


 しかし、赤い傘だけは残っていた。


 誰も持っていない傘が、玄関の境界に浮いている。


『帰る場所を拒否しました』


 呼名女の声。


『したがって』


 資料館の展示台が動き始める。


『伊呂波さんを、館内収蔵品として登録します』


 黒い線が、伊呂波の足首へ絡みつく。


「まだ終わっていません!」


 透真が線を掴む。


『帰る場所が確認できません』


「帰らなくていいと、本人が決めました!」


『退館には、帰る場所が必要です』


「どうして?」


 澪が館内放送へ叫ぶ。


「外へ出るだけでしょう!」


『展示物は、所定の場所へ戻さなければなりません』


「伊呂波さんは展示物じゃない!」


『館内記録では、収蔵資料です』


 視聴覚室の説明札。


 名なき呼び子。


 赤い文字で、伊呂波。


 少女の名前が登録されている。


 名前を取り戻したことで、資料館は伊呂波を正式な収蔵品として認識した。


 名前がなかったときには、存在を無視され。


 名前を得れば、所有物として記録される。


「また、誰かが決めた役割へ戻すんですか」


 透真は黒い線を強く引く。


『保管です』


「閉じ込めることです!」


『文化財の保護です』


「本人の意思を無視しています!」


『記録に意思は必要ありません』


 管理人が展示台の前へ立った。


「記録を変更します」


『管理権限がありません』


「私は、この資料館の管理者です」


『夜間展示中は、収蔵規則が優先されます』


「なら、収蔵品ではなくします」


 管理人は展示台の説明札を外した。


「何をするつもりですか」


 誠一が尋ねる。


「登録記録を削除します」


 伊呂波の表情が強張る。


「また私の記録を消すの?」


 管理人の手が止まる。


 少女の存在を消す。


 それは、彼の先祖が行ってきたことと同じになる。


「違います」


 管理人は説明札を見つめた。


「削除ではなく、変更します」


「何に?」


「収蔵品から」


 管理人は札の裏へ、新しい文字を書く。


「来館者へ」


 説明札。


 収蔵番号。


 資料名。


 それらをすべて線で消す。


 代わりに。


 氏名、伊呂波。


 入館目的、本人の希望により見学。


「来館者?」


 伊呂波が目を丸くする。


「あなたは、この資料館を見に来た」


 管理人は言った。


「閉じ込められるためではなく」


「歌を聞き」


「自分の名前を確かめ」


「外へ出るために」


 館内放送が乱れる。


『記録形式が不正です』


「記録は、人を閉じ込めるためだけのものではない」


 管理人は新しい札を受付の名簿へ挟む。


「ここへ来たことを残すためのものでもあります」


『来館者には、退館先が必要です』


「必要ありません」


「なぜですか」


「帰宅ではなく」


 管理人は玄関を指差す。


「出発するからです」


 透真は、小夜子が言えなかった言葉を思い出す。


 帰る場所がなければ。


 送り出す。


「そうです」


 透真は伊呂波の手を取った。


「帰るのではありません」


 澪も反対側の手を握る。


「これから行くんだよ」


 誠一が玄関の前へ立ち、扉を大きく開いた。


「行き先は、あとで決めればいい」


 館内表示が明滅する。


 出口。


 死者入口。


 帰宅通路。


 何度も文字が変わる。


 最後に。


 出発口。


 黒い線が伊呂波の足首から外れた。


『規則にありません』


 呼名女が告げる。


「今、作りました」


 澪が答える。


『帰る場所のない者は、どこへも行けません』


「帰る場所がないから」


 伊呂波は玄関へ向かって歩く。


「どこへでも行ける」


 赤い傘が、少女の前へ落ちてくる。


『外へ出れば、消えます』


 伊呂波は足を止めた。


 透真の手に力が入る。


 呼名女の言葉が嘘とは限らない。


 伊呂波は百年以上、神社の地下と放送設備へ結びつけられていた。


 封印から出れば、存在を保てない可能性がある。


「怖い?」


 澪が尋ねる。


「うん」


 伊呂波は正直に答えた。


「消えたくない」


「なら、資料館に残ってもいい」


 管理人が言う。


「収蔵品としてではなく」


「泊まる人として」


「でも」


「残ることも、出ることも」


 管理人は伊呂波へ深く頭を下げる。


「あなたが決めてください」


 伊呂波は玄関の外を見る。


 夜道。


 街灯。


 木々。


 遠くに見える町の灯り。


 百年以上。


 地下の筒と。


 他人の名前と。


 死者の声しか知らなかった少女。


「外を見たい」


「はい」


「でも、消えるのは怖い」


「はい」


「戻ってもいい?」


 管理人は頷く。


「いつでも」


「閉じ込めない?」


「鍵は、あなたが持ってください」


 管理人は資料館の鍵を外し、伊呂波へ渡した。


 古い真鍮の鍵。


「出るときも」


「戻るときも」


「あなた自身で開けてください」


 伊呂波は鍵を両手で握る。


 赤い傘の声が響く。


『それは帰る場所です』


 少女は首を横に振る。


「違う」


『何が違いますか』


「帰らなきゃいけない場所じゃない」


 鍵を胸へ当てる。


「帰りたくなったら、帰ってもいい場所」


 呼名女は答えられなかった。


 決められた帰還。


 割り当てられた席。


 役割としての家。


 怪異が理解できるのは、それだけだった。


 戻ってもいい。


 戻らなくてもいい。


 その自由を持つ場所を、呼名女は数えられない。


 伊呂波が玄関の境界へ足を置く。


「私、行く」


 透真たちは少女を見る。


 伊呂波は少し恥ずかしそうに笑った。


「言って」


「何を?」


「小夜子さんが、言えなかった言葉」


 透真が息を吸う。


 母が十三年前。


 少女へ届けようとした言葉。


「いってらっしゃい」


 澪も。


「いってらっしゃい」


 誠一。


「いってらっしゃい」


 管理人は涙を流しながら。


「いってらっしゃい」


 四人の声が重なる。


 資料館の祭具が、一斉に返し音を鳴らした。


 太鼓。


 どん。


 鈴。


 ちりん。


 下駄。


 からん。


 手拍子。


 ぱん。


 誰かを呼び戻す音ではない。


 新しい場所へ送り出す音。


 伊呂波の目から涙がこぼれる。


「いってきます」


 少女は、初めて自分の足で資料館の外へ出た。


     ◇


 伊呂波の体が、月明かりに触れた。


 輪郭が薄くなる。


「消える!」


 澪が手を伸ばす。


 伊呂波は自分の体を見る。


 指先が透明になっている。


 呼名女の赤い傘が笑う。


『外では存在できません』


『帰りなさい』


 伊呂波の足が止まりかける。


 透真は少女の手を掴んだ。


「音を出してください!」


「何を?」


「何でもいい!」


 伊呂波は慌てて足を踏み鳴らした。


 とん。


 輪郭が少し戻る。


 もう一度。


 とん。


 消えかけた足が見える。


「自分の音を止めないで!」


 少女は走り始めた。


 ぱた。


 ぱた。


 裸足が地面を蹴る音。


 一歩ごとに、体がはっきりしていく。


 透真たちも続く。


 伊呂波は資料館の庭を走る。


 木へ触れる。


 葉を揺らす。


 さわ。


 石を蹴る。


 ころん。


 門へ手を触れ、金属を鳴らす。


 かん。


「外には音がある」


 伊呂波が笑う。


「私が鳴らしてない音も」


 虫の声。


 風。


 遠くの車。


 町の電線。


 誰かの家から聞こえる食器。


 少女は立ち止まり、耳を澄ませる。


「全部、名前があるの?」


「ない音もあります」


 透真が答える。


「名前がなくても、聞こえます」


「私と同じ」


「はい」


 伊呂波の姿は、もう消えかけていない。


 呼名女は、決められた放送設備の中でしか少女が存在できないと思っていた。


 だが、伊呂波は自分で音を生み。


 周囲の音を聞き。


 その一つ一つへ返事をしている。


 声だけではない。


 世界とのつながりが、少女の体を現在へ留めている。


 赤い傘が静かに閉じた。


『帰る場所は、必ず必要になります』


 伊呂波は傘を見る。


「そのとき、自分で決める」


『後悔します』


「するかも」


『捨てられます』


「それも怖い」


『一人になります』


「一人になったら」


 伊呂波は透真たちを見る。


「誰かを捜す」


 傘が地面へ落ちる。


 触れる前に、黒い灰となって消えた。


     ◇


 午前零時十五分。


 郷土資料館の時計が、ようやく動き始めた。


 管理人は伊呂波へ館内の小さな休憩室を見せた。


「ここを使ってください」


「私の部屋?」


「一時的に」


「鍵は?」


「先ほど渡したものです」


「勝手に出てもいい?」


「構いません」


「戻らなくても?」


 管理人は少し寂しそうに笑う。


「そのときは、置いてある物を片づけてからにしてください」


「怒らない?」


「少しは困ります」


「困るんだ」


「それでも、閉じ込めることはしません」


 伊呂波は部屋の扉を開けたり閉めたりした。


 自分で鍵を掛け。


 自分で開ける。


 それだけのことが、少女には新しい体験だった。


「今日は、ここにいる」


「はい」


「明日は外を見る」


「はい」


「その次は、まだ決めない」


「分かりました」


 伊呂波は透真を見る。


「声、半分のままでいい?」


「はい」


「返してほしくなったら?」


「話し合います」


「全部返したら、話せなくなるよ」


「そのときは、別の音を探します」


「怖くない?」


「怖いです」


「でも、話し合う?」


「はい」


 伊呂波は満足そうに頷いた。


「じゃあ、今は半分ずつ」


 少女は手を振る。


「いってらっしゃい」


 透真は少し驚く。


「僕たちに?」


「帰るんでしょう?」


「はい」


「帰る人には、いってらっしゃいでいいの?」


「少し違う気もします」


「難しい」


 澪が笑う。


「また会うときは、いってらっしゃいでもいいよ」


「じゃあ、いってらっしゃい」


「いってきます」


 今度は澪が返した。


     ◇


 透真。


 澪。


 誠一。


 三人が音無家へ戻ったのは、午前一時を過ぎた頃だった。


 家の明かりがついている。


「出るとき、消しましたよね」


 透真が尋ねる。


「ああ」


 誠一は玄関の前で立ち止まった。


 台所から音が聞こえる。


 包丁。


 まな板。


 こと。


 こと。


 鍋の蓋。


 かたん。


 味噌汁の匂い。


 焼いた魚。


 朝食を作る音だった。


「誰かいる」


 澪が小声で言う。


 玄関の鍵は開いている。


 誠一が先に扉を開けた。


「誰だ」


 返事はない。


 三人は靴を脱がずに廊下へ上がる。


 居間の明かり。


 食卓には、四人分の食事が並んでいる。


 白いご飯。


 味噌汁。


 焼き鮭。


 卵焼き。


 透真が幼い頃、母がよく作っていた朝食。


 台所に、一人の女性が立っている。


 白いエプロン。


 長い黒髪。


 透真たちへ背を向けている。


「小夜子……」


 誠一が呟く。


 女性が振り返った。


 音無小夜子。


 旧放送局にいた姿ではない。


 胸に穴もない。


 顔色も青白くない。


 十三年前より少し年齢を重ねた、現在の姿。


 もし生きていれば、こうなっていたかもしれない母。


「おかえりなさい」


 小夜子は笑った。


 透真の耳に、心音が聞こえる。


 どくん。


 どくん。


 生きている人間の音。


 呼吸。


 体温。


 床へ落ちる影。


 すべてがある。


「母さん……?」


「何をそんなに驚いているの?」


 小夜子は卵焼きを皿へ移す。


「遅かったね」


 誠一が震える足で一歩近づく。


「本当に、小夜子なのか」


「そうよ」


「どうして」


「帰ってきたの」


 母は当たり前のように答えた。


「伊呂波ちゃんが、帰る場所を譲ってくれたから」


 透真の背筋が凍った。


「譲っていません」


 小夜子の手が止まる。


「伊呂波さんは、自分で外へ出ました」


「そうだった?」


「あなたは誰ですか」


 小夜子は透真を見つめる。


 悲しそうに。


 少しだけ困ったように。


「お母さんを忘れたの?」


 透真は答えない。


 食卓の四つ目の椅子。


 誰も座っていない場所から、子どもの声がした。


『私の席なのに』


 伊呂波の声。


 だが、伊呂波本人は資料館にいる。


 空の椅子の下。


 赤い傘の先端が、ゆっくりと覗いた。


 小夜子が笑顔のまま告げる。


「早く座って」


 壁掛け時計が午前零時十三分へ戻る。


「家族四人で、朝ごはんにしましょう」


 食卓の上。


 四人分だった茶碗が、一つ増えた。


 五人目の席。


 その椅子には、透真自身の名前が書かれていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


小夜子が十三年前、伊呂波へ伝えられなかった本当の言葉は、「私のところへ帰っておいで」ではありませんでした。


帰る場所を誰かに決めてもらうのではなく、自分の行きたい場所を選んでほしい。


帰る家が見つからないなら、「おかえり」ではなく「いってらっしゃい」と送り出す。


その想いによって、伊呂波は資料館の収蔵品ではなく、自分の意思で出入りできる来館者として外へ踏み出しました。


しかし音無家へ戻ると、十三年前に亡くなったはずの小夜子が、生きていれば現在こうなっていたと思われる姿で朝食を作っていました。


第23話「母が帰った朝」では、心音も体温も影もある小夜子が、本当に生き返ったのかを確かめます。


四人分の朝食。


五つ目の椅子。


そして、家族の記憶を書き換え始める「おかえり」の声。


食卓の席へ座った者は、小夜子が死んだ十三年前の夜を忘れてしまいます。

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