第21話 最初に呼ばれた名前
名前は、誰かに見つけてもらうための音です。
けれど、誰かに呼ばれなければ存在できないのなら、その名前は新しい鎖にもなります。
少女が本当に欲しかったのは、正しい名前だけではありません。
自分のことを、自分で決める権利でした。
巨大な放送スタジオの舞台に、二人の伊呂波が立っていた。
一人は、色褪せた着物をまとった幼い少女。
音返神社の地下で、長いあいだ石椅子へ縛られていた呼び子。
もう一人は、赤い傘を持つ同じ姿の少女。
無数の死者の声と、返事をしなかった生者たちの後悔から生まれた呼名女。
顔。
髪。
声。
着物の汚れまで同じだった。
『どちらが本当の伊呂波か』
二人が同時に口を開く。
『選んでください』
舞台の前には、数えきれないほどの座席が並んでいた。
そこへ座っているのは、名前を失った死者たち。
老人。
子ども。
制服姿の学生。
白い病衣を着た女性。
全員、顔がぼやけている。
誰も自分の名前を思い出せない。
透真。
澪。
誠一。
郷土資料館の管理人。
四人は、放送スタジオの中央に立っていた。
足首には、床から伸びた黒いケーブルが巻きついている。
「選ばなかったら、どうなるんですか」
透真が尋ねた。
右の伊呂波が答える。
『名前は、二つに裂けます』
左の伊呂波が続ける。
『一人は伊呂波になり』
『もう一人は、名前を失います』
「その説明では、選んだ場合ですよね」
透真は二人を見る。
「選ばなかった場合を聞いています」
二人の笑顔が同時に止まった。
『選ばなければ』
赤い傘を持つ伊呂波が先に答える。
『客席の皆様が投票します』
死者たちが一斉に顔を上げた。
座席の肘掛けに、二つのボタンが現れる。
白。
赤。
『白は、こちら』
着物の少女が白い札を掲げる。
『赤は、こちら』
傘の少女が赤い札を掲げる。
『得票数の多いほうが、本物です』
「多数決で人間が本物になるんですか」
澪が眉を寄せる。
『多くの方が信じた存在が、本物になります』
「信じた人が多ければ、嘘でも本当になるってこと?」
『記録とは、そのようなものです』
赤い傘の少女が微笑む。
『多くの人が語り』
『多くの人が書き残し』
『多くの人が同じ名前で呼べば』
『それが、その人の真実になります』
管理人が俯いた。
彼の先祖も、呼び子の本当の歌へ偽物の一節を加えた。
何代にもわたり歌われた偽歌は、やがて正式な伝承となった。
本物の三節は忘れられ、偽物の続きを含む歌のほうが、町の記録に残った。
「その方法では選びません」
透真が言った。
『では、客席にお任せします』
死者たちの指が、肘掛けのボタンへ近づいていく。
「待ってください!」
客席の死者たちは透真を見た。
その中の一人。
顔のない少年が尋ねる。
『どちらが本物?』
「今、確かめています」
『早くして』
別の女性。
『私たちも名前がほしい』
『本物を選べば、次は私たちの名前を呼んでくれる』
赤い傘の伊呂波が両腕を広げる。
『私をお選びいただければ』
『皆様のお名前を、一人ずつお返しいたします』
客席がざわめいた。
『本当に?』
『名前が戻る?』
『家へ帰れる?』
「その人は、名前を返すのではありません!」
透真は声を張った。
「名前を呼んで、死者を自分の列へ加えるだけです!」
『しかし、名前は得られます』
「呼ばれるたび、別の誰かが死者側へ引き込まれます!」
『それでも』
客席の老人が言った。
『忘れられたままよりいい』
透真は言葉を失った。
名前を持たない苦しみ。
長いあいだ誰にも呼ばれない孤独。
それを、透真は完全には理解できない。
呼名女の方法が危険だと分かっていても、死者たちにとっては魅力的な提案だった。
白い札を持つ伊呂波は、何も言わない。
ただ、客席を見つめている。
「あなたは、名前を返すと言わないんですか」
澪が少女へ尋ねた。
『返せないから』
「呼名女と同じ声を持っているのに?」
『声があっても、知らない名前は呼べない』
「では、この人たちを助けられない?」
着物の少女は俯いた。
『今は』
客席から怒った声が上がる。
『役に立たない』
『名前を返せない伊呂波なんていらない』
『赤いほうを選ぼう』
死者たちの手が、赤いボタンへ集まっていく。
澪が透真の袖を掴む。
「止めないと」
「はい」
「どうやって見分ける?」
透真は二人の伊呂波へ向き直った。
「質問をします」
『何でもお尋ねください』
二人が同時に答える。
「神社の地下で、僕と最初に話した内容を覚えていますか」
『あなたの声の半分は、私のものだと伝えました』
二人とも同じ。
「僕が名前を一緒に考えると言ったとき、何と答えましたか」
『変な名前は嫌だと言いました』
「半分だけ声を返した理由は?」
『すべて返せば、小夜子さんが悲しむから』
記憶は完全に複製されている。
呼名女は少女から生まれた存在。
過去の情報だけでは見分けられない。
「心音は?」
澪が小声で尋ねる。
「二人とも生者ではありません」
「新しい音を出してもらう?」
「先ほどの方法は知られています」
呼名女は、他人が今作った音を一拍遅れて複製できる。
新しい反応を利用する方法も、すでに学習している。
「では、質問を変えます」
透真は二人の少女を見た。
「伊呂波という名前を取り戻して、最初に何をしたいですか」
赤い傘の伊呂波が即座に答える。
『名前を失った皆様を、一人ずつ呼びます』
客席から歓声が上がる。
着物の伊呂波は答えない。
「言えませんか」
『分からない』
「名前をずっと欲しがっていたんですよね」
『うん』
「取り戻したら、したいことがあったのでは?」
『名前を呼んでほしかっただけ』
「呼ばれました」
『うん』
「今は?」
少女は自分の胸へ手を当てた。
『変な感じ』
「嬉しくない?」
『嬉しい』
「では、なぜ迷っているんですか」
少女は客席を見る。
名前を失った死者たち。
自分と同じ孤独を抱えた者たち。
『私だけ名前が戻った』
「はい」
『みんなにはない』
「それがつらい?」
少女は頷く。
『でも、私には返せない』
『知らない名前を勝手につけることもできない』
赤い傘の伊呂波が笑う。
『だから、私が必要なのです』
『私なら、すべての名前を知っています』
「本当ですか」
『はい』
「では、客席にいる一人の名前を呼んでください」
赤い傘の少女は、最前列の少年を見る。
『山岸翔太さん』
少年の顔に、目と鼻と口が戻る。
『僕の名前……』
泣きそうな笑顔。
『思い出した』
客席から歓声。
『本物だ!』
『赤いほうが名前を返した!』
少年は立ち上がった。
その首に、黒い糸が巻きつく。
『山岸翔太さん』
赤い傘の伊呂波がもう一度呼ぶ。
『こちらへお越しください』
少年の体が舞台へ引かれていく。
「返したのではありません!」
透真は少年を止めようとする。
足首のケーブルが締まり、動けない。
「名前を餌にして、席から移動させただけです!」
『名前がなければ、動くこともできませんでした』
呼名女が答える。
『私は自由を差し上げています』
「行き先を決めているのはあなたです!」
『迷わないように、ご案内しています』
少年は抵抗しない。
『名前が戻ったから』
嬉しそうに呟く。
『どこでもいい』
「よくありません!」
『忘れられるよりいい』
その言葉に、透真は何も返せなかった。
呼名女は、人の弱い部分へ正確に触れる。
名前が戻るなら。
誰かに見つけてもらえるなら。
代わりに自由を失っても構わないと思わせる。
「私を選んでください」
赤い傘の伊呂波が手を広げる。
「皆様を呼びます」
「帰る場所も」
「新しい役割も」
「すべて私が決めて差し上げます」
客席の赤いボタンが次々と押される。
一票。
二票。
三票。
舞台の上に数字が表示される。
赤、二十七。
白、ゼロ。
「時間がありません」
澪が透真を見る。
「何か質問は?」
透真は、着物の伊呂波を見つめた。
少女は客席に向かって何も約束しない。
名前を返せない。
家へ送れない。
役に立たないと責められても、できないことをできるとは言わない。
それだけで、本物のように思える。
だが、呼名女がわざと不利な役を演じている可能性もある。
言葉だけで決めてはいけない。
「もう一つ、お願いします」
透真は二人へ言った。
「自分の名前を、自分で口にしてください」
二人の少女が同時に答える。
『伊呂波』
同じ音。
同じ高さ。
同じ間。
「もう一度」
『伊呂波』
「もう一度」
『伊呂波』
違いはない。
呼名女が赤い傘を傾ける。
『何度行っても同じです』
「そうですね」
透真は頷いた。
「では最後に」
二人をまっすぐ見る。
「僕たちへ返事を求めずに、自分の名前を言ってください」
赤い傘の伊呂波が先に口を開く。
『私は伊呂波です』
客席を見渡す。
『皆様、私を伊呂波とお呼びください』
着物の少女は黙っている。
「言えませんか」
『言いたくない』
「名前を欲しがっていたのに?」
『欲しかった』
「では、なぜ?」
少女は床に落ちた白い札を見る。
『呼ばれたとき、嬉しかった』
誠一が十三年前に読み上げた声。
『伊呂波』
その名を聞き、少女は初めて「はい」と返事をした。
『でも』
少女が赤い傘の伊呂波を見る。
『名前が戻ったら、今度はどちらが本物か選ばれた』
「はい」
『名前を持つために、この人を消さないといけない』
「そう言われています」
『それなら』
少女は白い札を拾い上げた。
客席に掲げるのではなく、両手で折った。
『今は、いらない』
赤い傘の伊呂波の笑顔が消えた。
客席がざわめく。
『何を言っている』
『せっかく名前が戻ったのに』
『また呼び子へ戻るの?』
少女は首を横に振る。
『呼び子には戻らない』
「では、何と呼べばいいんですか」
透真が尋ねる。
少女は自分の胸へ手を当てる。
『呼ばなくてもいい』
声が震えている。
名前を手放すことが平気なわけではない。
百年以上、待ち続けた名前。
ようやく取り戻した、自分だけの音。
それでも。
『私は、自分が伊呂波だと知ってる』
少女は言った。
『誰かが呼んでくれなくても』
『あの人が同じ名前を使っても』
『私は私だって、今は分かる』
客席が静まった。
『だから』
少女は赤い傘の伊呂波へ向き直る。
『その名前がほしいなら、使っていいよ』
「駄目です!」
管理人が声を上げた。
「あなたのために残された名前です!」
『でも、この人を消してまで持ちたくない』
「その存在は、あなたの声を奪った怪異です!」
『それでも』
少女は管理人を見る。
『私が消すって決めたら』
『昔、私を地下へ閉じ込めた人たちと同じになる』
管理人の顔が歪んだ。
少女は赤い傘の伊呂波へ歩み寄る。
『あなたも、私から生まれたんでしょう?』
呼名女は答えない。
『私が呼んだ死者の声』
『返事をしなかった人の後悔』
『名前を忘れられた人の寂しさ』
『全部、あなたの中にある』
「近づいてはいけません!」
透真が止める。
少女は振り返る。
『大丈夫』
「でも」
『名前を渡すんじゃない』
少女は赤い傘の前で立ち止まった。
『選ぶのをやめるだけ』
呼名女の顔に、初めてはっきりと怒りが浮かんだ。
『名前を手放してはいけません』
『名前がなければ、人は存在できません』
『誰にも呼ばれなければ、消えます』
『役割がなければ、残る意味がありません』
少女は静かに尋ねた。
『あなたは、名前がないと怖いの?』
呼名女が黙る。
『誰にも呼ばれないのが怖い?』
『違います』
『私と同じなんだね』
『違う!』
赤い傘が大きく開いた。
無数の黒い糸が、着物の少女へ伸びる。
『私はすべての名前を持っています!』
少女は逃げなかった。
『それなのに、自分が誰か分からないんだ』
黒い糸が少女の首へ巻きつく。
『黙りなさい!』
『だから、呼び続ける』
『黙れ!』
『誰かが返事をしてくれれば、自分がここにいると思えるから』
呼名女の白い顔へ亀裂が入る。
透真は理解した。
呼名女が名前を集める理由。
死者を支配するためだけではない。
最初の少女が、誰にも名前を呼ばれなかった孤独。
その空白を埋めるため。
呼び続ける。
返事を求め続ける。
名前と人数を数え続ける。
誰かが返事をするたび、自分が存在していることを確かめている。
しかし、返事が止まれば再び不安になる。
だから終われない。
「本物が分かりました」
透真が言った。
舞台上の二人が透真を見る。
『どちらですか』
赤い傘の伊呂波が尋ねる。
「選びません」
『また、その答えですか』
「選ばなくても、分かります」
透真は着物の少女を見る。
「自分で自分を伊呂波と知っている人」
次に、赤い傘の少女。
「誰かに選ばれなければ伊呂波でいられない人」
『言葉だけの違いです』
「いいえ」
「一人は名前を持つために、相手を消すことを拒みました」
「もう一人は、名前を持つために全員へ選択を迫っています」
『私には、客席の皆様を救う義務があります』
「義務ではありません」
透真は言った。
「自分が消えるのが怖いんです」
呼名女の傘が震える。
『私には恐怖などありません』
「なら、名前を譲れますか」
『必要がありません』
「伊呂波と呼ばれなくても、自分が自分だと言えますか」
『私は伊呂波です!』
大声。
資料館全体を揺らすほどの声。
『私を伊呂波と呼びなさい!』
客席の死者たちが耳を塞ぐ。
呼名女は命令する。
着物の少女は、誰にも呼ぶことを求めない。
その違いは、顔や声より明確だった。
「あなたが本物だと、僕が決める必要はありません」
透真は着物の少女へ言う。
「あなたが、自分で決めました」
少女の目から涙が流れた。
『うん』
「あなたは?」
『私は』
少女は少し迷った。
それから、自分の名前を口にする。
『伊呂波』
誰にも返事を求めない。
客席を見ない。
透真にも確認しない。
ただ、自分へ聞かせるために。
『私は、伊呂波』
その声は、呼名女のものと同じだった。
それでも、透真には違って聞こえた。
誰かを呼び出すためではない声。
自分をここへ留めるための声。
「はい」
透真は返事をしなかった。
代わりに、床を叩く。
とん。
とん。
とん、とん。
ここにいる。
澪も。
誠一も。
管理人も。
同じ音を返す。
少女の名前ではなく、存在そのものへ返す音。
伊呂波は泣きながら笑った。
◇
『投票を続行します』
呼名女が叫んだ。
舞台上の数字。
赤、四十八。
白、ゼロ。
『赤が過半数へ到達しました』
「白い札は折られました」
澪が言う。
「本人が競争から降りたのに、投票する意味はない」
『選択は開始されています』
「だったら、私たちも降ります」
澪は足首の黒いケーブルを掴む。
「この展示から」
『退館は認められません』
「入館券には展示終了後と書いてあります」
「展示は終わりました」
『終わっていません!』
管理人が客席へ向かって声を上げた。
「皆さんも、ボタンから手を離してください!」
死者たちは迷っている。
「この赤い存在は、名前を返すと言いました」
「ですが、返された方は舞台へ連れていかれました!」
最前列。
山岸翔太と呼ばれた少年が、黒い糸に縛られている。
「皆さんが欲しいのは、誰かの列に加わるための名前ですか!」
客席の女性が答える。
『名前がないよりはいい』
「名前がなくても、あなたがしてきたことは残っています!」
『誰も覚えてない』
「今、私たちが見ています!」
『すぐ忘れる』
「記録します!」
管理人の声が震える。
「今度は消しません!」
彼の家系は、長い年月をかけて呼び子の記録を消した。
怪異を封じるため。
町を守るため。
それでも、一人の少女の存在を奪った。
「皆さんの名前が分からなくても」
「顔」
「服」
「座っていた席」
「話した言葉」
「すべて記録します」
「名前を思い出したとき、あとから書き加えます」
管理人は深く頭を下げた。
「だから、今は偽物の名前に応答しないでください」
客席の死者たちが、自分の肘掛けを見る。
赤と白。
二つのボタン。
どちらかを選べという装置。
一人の老人が、拳を上げた。
ボタンではなく、肘掛けそのものを叩く。
どん。
『選ばない』
隣の女性も。
どん。
『私も』
子どもが両方のボタンを同時に押す。
赤と白のランプが壊れる。
『どっちも嫌』
死者たちが次々と投票装置を壊し始める。
どん。
がしゃん。
ばき。
不揃いな音。
『投票を中止してはいけません!』
呼名女が赤い傘を振る。
黒いケーブルが客席へ伸びる。
透真は舞台へ駆け出した。
足首のケーブルが強く締まる。
誠一が透真の体を支える。
「行け!」
「父さん」
「一人で背負うなと言った」
誠一は自分の足首のケーブルを両手で掴む。
「だが、一人で行くなとは言っていない」
澪も透真の隣へ並ぶ。
「私も行く」
「危険です」
「一緒にいてって言ったのは誰?」
透真は反論せず、頷いた。
二人で舞台へ上がる。
呼名女が伊呂波の首を掴んでいた。
『名前を手放す者に、存在する資格はありません』
『手放してない』
少女は苦しみながら答える。
『あなたに決めさせないだけ』
『私があなたです!』
『違う』
『同じ声!』
『うん』
『同じ記憶!』
『うん』
『同じ名前!』
『それでも違う』
『何が違う!』
伊呂波は呼名女の手へ、自分の手を重ねた。
『私は、あなたを消したくない』
呼名女の動きが止まった。
『あなたは、私を消したい』
『当然です!』
『それが違うところ』
伊呂波は微笑んだ。
『だから、私はあなたじゃない』
赤い傘へ大きな亀裂が走る。
透真と澪は同時に伊呂波の腕を掴んだ。
「こちらへ!」
二人で引く。
呼名女も離さない。
『伊呂波!』
呼名女が少女の名前を叫ぶ。
名前に黒い糸が結びつく。
少女の体が呼名女側へ引かれる。
『伊呂波!』
二回。
『伊呂波!』
三回。
少女の口が開く。
返事をしてしまえば、呼名女の列へ加わる。
透真は叫んだ。
「返事をしなくていい!」
伊呂波の唇が止まる。
「名前を呼ばれても、必ず返す必要はありません!」
『でも』
「あなたが返したい相手を選んでください!」
伊呂波は呼名女を見る。
首を横に振る。
呼名女が再び叫ぶ。
『伊呂波!』
少女は答えない。
代わりに、透真と澪の手を握った。
とん。
指先で一度。
とん、とん。
さらに二度。
これまでにない合図。
透真も、同じ音を返さなかった。
一度強く握り。
手の甲を二回叩く。
澪は少女の指を三回軽く弾いた。
三人が、それぞれ異なる返事をする。
名前と返事が一対一で結びつかない。
黒い糸が混乱する。
『どの返事ですか』
『誰が応答しましたか』
『誰が伊呂波ですか』
「本人です!」
透真は答えた。
「あなたが決める必要はありません!」
伊呂波が自分の胸を叩く。
とん。
「私」
もう一度。
とん。
「ここ」
最後に。
とん。
「いる」
石椅子へ座らされていた少女。
名前を持たず、声だけを使われていた呼び子。
彼女が初めて、自分のために作った三つの音。
「私、ここにいる」
その言葉が放送スタジオへ響いた。
客席の死者たちも、自分の胸や椅子を叩き始める。
『私も』
『ここにいる』
『名前は分からない』
『でも、いる』
何百もの返事。
名前に対してではない。
存在そのものへ向けた音。
放送スタジオの壁が崩れ始めた。
マイク。
照明。
客席。
黒いケーブル。
すべてが紙の展示物のように裂けていく。
呼名女が赤い傘を広げる。
『名前のない者は帰れません!』
「帰る場所は、自分で探します!」
伊呂波が叫ぶ。
『あなたには家族がいません!』
少女の顔が曇る。
『待っている者もいない!』
透真は伊呂波の手を握る。
「今は一人ではありません」
『あなたが家族になるのですか』
呼名女の問いに、透真はすぐには答えなかった。
簡単な約束をしてよい問題ではない。
死者を自宅へ連れて帰れば、新しい怪異を生む可能性もある。
それでも。
「帰る場所を一緒に探します」
『曖昧な言葉です』
「できないことを約束するよりいい」
伊呂波が少し笑う。
「私は、その言い方が好き」
呼名女の赤い傘が砕けた。
白い顔と伊呂波の姿が、黒い雑音へ変わっていく。
『名前を得たことを、必ず後悔します』
「後悔しても」
伊呂波が答える。
「私が選んだことだから」
雑音が消えた。
◇
透真たちは、郷土資料館の視聴覚室へ戻っていた。
古い映写機。
蝋管。
赤い布。
木札。
すべて元の場所にある。
時計は午前零時十四分。
異空間で長く過ごしたはずだが、現実では一分しか経っていなかった。
四人の足元に、入館券が落ちている。
退館時刻。
展示終了後。
その文字が消え、代わりに新しい表示が浮かんでいた。
帰る場所確認後。
「まだ出られない?」
澪が受付側の扉を押す。
動かない。
窓の黒い板も下りたまま。
視聴覚室の隅に、伊呂波が立っている。
今度は二人ではない。
一人だけ。
色褪せた着物。
口元を隠す布はない。
「本物ですか」
透真が尋ねる。
伊呂波は少し不満そうな顔をした。
「さっき、自分で本物だって決めなくていいと言った」
「すみません」
「疑うことは大事だけど」
「今のあなたが、あなたですか」
「うん」
「呼名女は?」
伊呂波は自分の胸へ手を当てる。
「消えてない」
「中にいるんですか」
「少しだけ」
呼名女は伊呂波から生まれた。
完全に切り離すことはできないのかもしれない。
「でも、私の名前は取られなかった」
「よかった」
「あなたの声も、まだ半分借りてる」
透真は自分の喉へ触れる。
「今は問題ありません」
「全部返したくなったら?」
「そのとき、話し合いましょう」
「怖くない?」
「怖いです」
伊呂波が目を丸くする。
「でも、怖いことと、話し合えないことは別です」
「本当に変な人」
誠一が視聴覚室の出口を調べる。
「帰る場所を確認しなければ、扉は開かないらしい」
管理人が伊呂波へ尋ねた。
「あなたが最後にいた場所は、音返神社の地下です」
「戻りたいですか」
伊呂波は首を横に振った。
「嫌」
「では、資料館は?」
「ここも、私の歌を隠していた場所」
管理人の顔が曇る。
「申し訳ありません」
「あなたが閉じ込めたんじゃない」
「私の家が続けてきたことです」
「でも、あなたは歌を聞いてた」
伊呂波が管理人を見る。
「閉館しても、一人で」
「忘れないためです」
「私を?」
「名なき歌い手を」
管理人は深く頭を下げた。
「名前を知ることはできませんでしたが」
「忘れたくありませんでした」
伊呂波は少し考える。
「それは、待ってたことになる?」
管理人は答えに迷った。
「私に、その資格があるかは」
「資格じゃなくて」
伊呂波は尋ねる。
「私が帰ったら、いてもいい?」
管理人の目に涙が浮かぶ。
「もちろんです」
その瞬間。
視聴覚室の扉の上にある表示が変わった。
帰る場所確認中。
しかし、扉はまだ開かない。
「足りないようです」
透真が言った。
「何が?」
「祭り歌では、呼ばれた死者を待つ人の返し音が必要でした」
名前を呼ぶ声。
本人の返事。
帰る方向を示す、生者側からの音。
「管理人さんの言葉だけでは駄目なんですか」
「この人は伊呂波さんを直接知りません」
誠一が答える。
「帰る場所として受け入れることはできても、帰ってくる相手として待っていたわけではない」
伊呂波の表情が沈む。
「私を待ってた人は、もう誰もいない」
百年以上前。
身寄りのない少女。
名前さえ与えられなかった呼び子。
家族も。
家も。
帰りを待つ者も、とうにいない。
館内放送が流れる。
『返し音が確認できません』
『伊呂波さんの退館は認められません』
玄関側から鍵が閉まる音。
がちゃん。
『帰る場所が存在しない場合』
『伊呂波さんは、館内収蔵品として登録されます』
展示室のガラスケースが開く。
少女を収めるための空の展示台が、床を滑ってくる。
説明札。
名なき呼び子。
赤い文字で修正される。
伊呂波。
「展示物に戻すつもりです!」
澪が伊呂波を背へ庇う。
「せっかく名前を取り戻したのに!」
『帰る場所のない歴史資料は、館内へ収蔵します』
「この放送も呼名女ですか」
透真は耳を澄ませた。
声には感情がない。
呼名女のようにも聞こえる。
しかし、機械的な館内案内にも聞こえる。
人間が作った規則へ、怪異が入り込んでいる。
伊呂波の足元から、展示台へ向かって黒い線が伸びる。
「私、また閉じ込められるの?」
「させません」
透真は答えた。
「でも、帰る場所はどうするの?」
すぐには答えられない。
音無家へ連れて帰る。
管理人の家へ迎える。
新しい神社を作る。
どれも、本人を収める場所にしてしまう危険がある。
家と檻は、外から見れば似ている。
「伊呂波さん自身は、どこへ行きたいですか」
「分からない」
「すぐに決めなくても」
『決定時間は午前零時十三分までです』
館内放送。
時計を見る。
午前零時十四分だったはずの針が、逆回転を始めている。
零時十三分へ戻ろうとしている。
「時間を戻して、選択をやり直すつもりです」
澪が時計を見上げる。
「零時十三分になったら?」
「伊呂波さんの名前が、もう一度呼名女へ渡るかもしれません」
伊呂波が腕を抱きしめる。
「私を待ってる人なんていない」
そのとき。
資料館の外から、歌が聞こえた。
小さな子守歌。
透真が幼い頃、何度も聞いた旋律。
「母さん……」
館内の照明が明滅する。
玄関の向こう。
閉ざされた扉の外から、小夜子の声がした。
『伊呂波』
少女が顔を上げる。
『ずっと待っていたよ』
「小夜子さん?」
『おかえり』
帰る者を待つ声。
返し音。
視聴覚室の扉が、大きく震えた。
退館券の表示が変わる。
帰る場所確認済み。
行き先。
音無小夜子のいる場所。
「待ってください!」
透真は伊呂波の手を掴んだ。
小夜子の声が本物なら。
母は伊呂波を待っている。
しかし、その行き先は生者の世界ではない。
母が十三年間閉じ込められている、死者側の放送室。
伊呂波が扉を見つめる。
「小夜子さんが、待ってる」
「今出れば、母のいる場所へ連れていかれます」
「会いたい」
「危険です」
「でも、私を待ってるって」
玄関の扉がゆっくり開き始める。
その向こうには、夜の町ではなく。
十三年前の旧町内放送局が見えていた。
入口に、小夜子が立っている。
白いワンピース。
胸に開いた穴。
優しい笑顔。
『伊呂波』
母はもう一度、少女の名を呼ぶ。
『一緒に帰ろう』
伊呂波が透真の手を離しかける。
小夜子の背後。
放送局の暗闇で、赤い傘がゆっくり開いた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
二人の伊呂波を見分けたのは、過去の記憶や声ではありませんでした。
本物の少女は、名前を得るために相手を消すことを拒み、誰かに呼ばれなくても、自分が伊呂波だと自分で決めました。
一方の呼名女は、名前を集め、返事を求め続けなければ、自分の存在を保てません。
しかし、名前を取り戻した伊呂波には、帰りを待つ家族も家もありませんでした。
帰る場所を持たない少女へ、透真の母・小夜子が「おかえり」と返します。
第22話「帰る場所のない子」では、小夜子の声を信じて扉を進もうとする伊呂波を、透真が止めます。
本物の小夜子なのか。
呼名女が作った偽物なのか。
見分ける鍵は、小夜子が十三年前、伊呂波へ決して言えなかった言葉にあります。




