↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
死者同士の会話は、聞いてはいけない ―午前零時十三分の町内放送―  作者: たむ
第二部 未来から来た死者

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
20/30

第20話 閉館後の歌声

古い歌には、文字に残されなかった名前が隠れていることがあります。


歌詞の最初の音。


息を吸う間。


誰かが返した手拍子。


けれど、あとから偽物の一節を加えられたなら、その歌は人を帰すものではなく、死者を呼び集める放送へ変わります。

 夕名町郷土資料館の門は、午後十一時になっても閉ざされたままだった。


 木造二階建ての古い建物。


 かつて使われていた村役場を改装した施設で、昼間なら農具や祭具、災害記録などが展示されている。


 今は照明も消え、窓の奥には深い闇しかない。


 正門には、閉館中と書かれた札が掛かっていた。


「本当に入るのか」


 誠一が門の前で足を止めた。


「入館券があるから来たんでしょう」


 透真は三枚の券を取り出した。


 音無透真。


 早坂澪。


 音無誠一。


 入館時刻は午後十一時十三分。


 退館時刻。


 死亡確認後。


「来たからといって、入るとは限らない」


「父さんも同じようなことを言うんですね」


「誰と同じだ」


「僕です」


 澪が二人の間へ入る。


「親子で言い合っている場合じゃないよ」


「言い合ってはいません」


「俺もそのつもりはない」


「同時に答えるところも親子だね」


 澪は門の向こうにある建物を見た。


「今、窓に誰かいなかった?」


 透真も二階を見る。


 展示室の窓。


 白い着物を着た少女が立っている。


 音返神社の地下に閉じ込められた、名前のない呼び子。


 透真と声を半分ずつ分けた少女。


 少女は窓ガラスへ手をつき、口を動かしていた。


『来ないで』


 次の瞬間。


『見つけて』


 二つの言葉が、透真の声で重なった。


「います」


「呼び子?」


「はい」


「何て言ってる?」


「来るなと、見つけてが同時に聞こえました」


「また矛盾してる」


「助けてほしくても、危険には近づいてほしくないんだと思います」


 誠一が腕時計を見る。


 午後十一時十二分。


「時間だ」


 門の錠前から、金属音がした。


 がちゃん。


 誰も触れていないのに、鎖が地面へ落ちる。


 正面玄関の上にある時計が動き始めた。


 長針。


 短針。


 どちらも逆方向へ回っている。


 午後十一時十三分。


 玄関の灯りがついた。


 黄色く弱い光。


 館内放送が流れる。


『夜間特別展示へお越しいただき、ありがとうございます』


 落ち着いた老人の声。


 音無家の留守番電話へ入っていた警告と同じ声だった。


『入館券をお持ちの方は、受付へお進みください』


 三人は門を通った。


 背後で鎖が持ち上がり、再び門を閉じる。


 がしゃん。


「退路がなくなりました」


 透真が言う。


「入る前から分かっていたことだ」


 誠一は前を向いたまま答えた。


「本当に全部話してくれるんですよね」


「ああ」


「十三年前のことを」


「館内へ入ってからだ」


「どうして今では駄目なんですか」


「外で話せば、町内放送に拾われる」


 誠一は資料館の屋根を見上げた。


 古い避雷針の横に、小型のスピーカーが取りつけられている。


「この町では、壁のない場所ほど声が広がる」


     ◇


 資料館の受付には、誰もいなかった。


 木製のカウンター。


 入館者名簿。


 古いパンフレット。


 その中央に、三つの細長い穴が開いた機械が置かれている。


 入館券を入れろということだろう。


「三枚とも必要かな」


 澪が券を見る。


「一枚だけ入れて試しますか」


「誰の券を?」


「僕のものを」


「すぐ自分を選ぶ」


 澪が透真の券を取り上げた。


「三枚同時」


「危険も三人分になるかもしれません」


「一人だけ危険になるよりいい」


 誠一が二人から券を受け取った。


「俺が入れる」


「父さんまで」


「お前たちに言える立場ではないが」


 誠一は三枚を重ねる。


「親は、子どもより先に手を出すものだ」


 三枚の入館券を機械へ入れた。


 じじじじ。


 券が内部へ吸い込まれる。


 受付の奥から、押印する音が三回鳴った。


 がしゃん。


 がしゃん。


 がしゃん。


 機械の下から券が戻ってくる。


 退館時刻の欄が変わっていた。


 展示終了後。


「死亡確認後ではなくなっています」


 透真が言う。


「少しは安全になった?」


「展示が終わるまでは出られないという意味かもしれません」


「やっぱり安心できないね」


 玄関の扉が閉まった。


 館内のすべての窓へ、内側から黒い板が下りる。


 外の光が完全に消えた。


 廊下の先にある展示室が、一つずつ点灯する。


 第一展示室。


 祭りの道具。


 第二展示室。


 村の暮らし。


 第三展示室。


 災害と復興。


 最も奥。


 普段は関係者以外立入禁止となっている収蔵庫にも、赤い灯りがついた。


『夜間特別展示』


 館内放送。


『呼び子の歌』


 展示室の扉が一斉に開いた。


     ◇


 第一展示室には、音返神社で使われていた祭具が並んでいた。


 太鼓。


 笛。


 鉦。


 鈴。


 透真が冬子から受け取った木札と同じ形の札も、ガラスケースへ収められている。


 展示説明には、呼び子という言葉が書かれていなかった。


 代わりに。


 名なき歌い手。


 災害で行方不明となった者の名を呼び、家族の元へ導いた少女。


 その程度しか記録されていない。


「名前の記録はないんですね」


 澪が説明文を読む。


「意図的に消したんだ」


 誠一が答えた。


「誰が?」


「村の人間だ」


「昔の話ではなく、十三年前の記録もです」


 透真が父を見る。


 誠一は展示ケースに映る自分の顔を見つめていた。


「俺が消した」


 澪が振り返る。


「お父さんが?」


「当時、俺は町の防災設備を管理する会社にいた」


 十三年前。


 誠一は、旧町内放送局の設備更新を担当していた。


 御影冬子は町側の主任技師。


 小夜子は町内放送のアナウンスと、避難所との連絡を担当していた。


「音返神社の古い祭り歌をデジタル保存する事業があった」


 町の消えつつある音を記録する。


 祭り歌。


 鐘。


 古い商店街の呼び込み。


 学校のチャイム。


 それらを郷土資料館へ保存する計画。


「俺が資料館の音源を、放送局の保存サーバーへ移した」


「それで呼名女が町内放送へ?」


「ああ」


 古い歌は、音返神社の地下にある呼声所とつながっていた。


 録音された声を電子信号へ変換し、放送設備へ入れたことで、神社に封じられていた呼名放送が、町中のスピーカーへ流れる道を得た。


「呼名女が町内放送へ広がった道を作ったのは、俺だ」


 誠一の声が低くなる。


「知らなかったんでしょう」


 澪が言う。


「知らなかったでは済まない」


「それでも、わざとではありません」


「結果は変わらない」


 透真は父の横顔を見た。


 篠崎。


 御影冬子。


 小夜子。


 誠一。


 十三年前に関わった大人たちは、全員が自分の選択を今も抱えている。


「名前の記録を消したのは、そのあとですか」


「ああ」


 最初の異常放送が流れた。


 名前を呼ばれた者が、放送局へ向かい始めた。


 冬子は古い祭り歌の中に、呼び子の名前を完成させる仕組みがあることを突き止めた。


「名前が完成すれば、地下の少女が解放される」


「でも同時に、最初の呼名放送も完成する」


「そう聞かされた」


「誰に?」


「冬子さんだ」


 冬子は娘とともに、呼び子の名前へつながる記録を消そうとした。


 誠一も協力した。


 音源の題名。


 歌い手の情報。


 古文書の記述。


 デジタル化したファイルのメタデータ。


「消してはいけないものまで消した」


 誠一はガラスケースへ手を置く。


「一人の人間が存在した記録を」


 透真は木札を取り出した。


 呼び子。


「守るためだったんですよね」


「守ったのか、閉じ込め続けただけなのか、今でも分からない」


『そのとおりです』


 展示室の奥から老人の声がした。


 三人が振り返る。


 白髪の男性が立っていた。


 灰色の作務衣。


 手には古い蓄音機のハンドルを持っている。


「電話の声」


 澪が呟く。


「警告を残したのは、あなたですか」


「ここでは、名前を聞かないでください」


 老人は答えた。


「呼び方が必要なら、管理人で結構です」


「閉館後も一人で祭り歌を聞いている人」


 透真が言う。


「御影冬子さんから聞きました」


 管理人の目がわずかに細くなる。


「まだ生きていましたか」


「はい」


「そうですか」


 短い言葉。


 だが、長い安堵が含まれていた。


「あなたは、呼び子の名前を知っていますか」


「知っていた者は、もういません」


「歌を聞けば分かる?」


「正しい歌なら」


 管理人は展示室の奥にある小さな扉を開けた。


「しかし、今夜流れる歌には、偽物の一節が混ざっています」


     ◇


 扉の先には、細長い視聴覚室があった。


 中央に四脚の椅子。


 正面に古い映写機。


 左右の棚には、蝋管、レコード、カセットテープ、磁気テープ、CDが年代順に並べられている。


 一つの歌が、時代ごとに異なる媒体へ録音されてきた。


「呼び子の歌は、何節あるんですか」


 澪が尋ねる。


「資料上は七節」


 管理人が答える。


「本当は?」


「三節です」


「四節も増えてる」


「呼名女が、時代ごとに一節ずつ加えました」


「なぜ?」


「少女の個人名を、誰の名前でもない言葉へ変えるためです」


 管理人は最も古い蝋管を手に取った。


「歌詞の最初の音をつなげてください」


「それが名前になる」


「そう伝えられています」


「口に出してはいけないんですよね」


「確実になるまでは」


 映写機が勝手に動き始めた。


 かたかたかた。


 白い幕に、古い祭りの映像が映る。


 白黒。


 音返神社。


 櫓の上に座る、小さな少女。


 地下の呼び子と同じ姿。


 少女の口元は映像でも黒く塗り潰されていた。


『第一節を再生します』


 館内放送。


 蝋管蓄音機が回り始める。


 雑音。


 針。


 古い女性たちの歌声。


『いとを結んで 山へ返せ』


『いなくなった子の 足を返せ』


 歌のあと。


 遠くで人々が手を叩く。


 ぱん。


 ぱん。


 不揃いな返し音。


 透真は最初の音を考える。


 い。


 管理人が紙へ何も書かず、次の蝋管を置く。


『第二節を再生します』


『ろばたの火へと 声を返せ』


『路地をさまよう 影を返せ』


 歌のあと。


 今度は下駄を鳴らす音。


 からん。


 からん。


 ろ。


『第三節を再生します』


『はかの向こうに 明かりをともせ』


『はぐれた魂 家へ返せ』


 歌のあと。


 鈴。


 太鼓。


 子どもの笑い声。


 は。


 最初の三音。


 い。


 ろ。


 は。


 澪が透真を見る。


 透真は声にしなかった。


 ひらがなで書くことも避ける。


 まだ確実ではない。


『第四節を再生します』


 媒体が変わる。


 蝋管ではない。


 新しいレコード。


 雑音が少なく、歌声が鮮明だった。


『にげた者には 鈴をつけよ』


『二度と列から 離れぬように』


 歌のあと。


 返し音がない。


 静かすぎる。


 歌声だけが完璧に残っている。


 に。


 四つをつなげれば、誰もが知る言葉の始まりになる。


 いろはに。


 続く第五節。


『ほ――』


「止めてください!」


 透真が叫ぶ。


 管理人が蓄音機の針を上げた。


 音が途切れる。


 視聴覚室の照明が明滅した。


『夜間展示を中断しないでください』


 館内放送が告げる。


「四節目から偽物です」


 透真は言った。


「どうして分かった?」


 誠一が尋ねる。


「返事がありません」


 最初の三節には、歌のあとに必ず音が返っていた。


 手拍子。


 下駄。


 鈴。


 名前を呼ぶ者だけでなく、呼ばれた死者を待つ生者が返事をしていた。


 祭り歌は、一方的な放送ではない。


 呼びかけと返事で成立するものだった。


「四節目は、呼ぶ声しかありません」


 澪が頷く。


「歌もきれいすぎる」


「きれい?」


「最初の三つは、途中で速さが変わってた。誰かが咳をしたり、子どもが笑ったりしてる」


 澪は携帯電話で録音した波形を見せる。


「四節目は、十三秒ごとに同じ形を繰り返してる」


 呼名女が作る音。


 十三回。


 十三秒。


 必ず同じ形へ戻る。


「生きた人が歌った音ではありません」


 透真は言った。


 管理人がゆっくり頷く。


「あなたたちは、正しく聞き分けました」


 幕に映る白黒映像。


 少女の背後にいる村人たちが、手を叩いている。


 一人の声ではない。


 大勢が返す音。


「本当の歌は三節」


 管理人は木箱を開けた。


 中から、古びた赤い布を取り出す。


 子どもの着物の襟に縫いつけられていたような小さな布。


 裏側に、薄い墨で三文字が書かれている。


 最初の文字。


 い。


 二つ目。


 ろ。


 三つ目。


 は。


 澪が息を呑む。


「これが、名前の証拠?」


「神社の地下を封じる前、呼び子が身につけていた布だと伝えられています」


 透真は布へ触れなかった。


 声に出すこともしない。


「なぜ、これを隠していたんですか」


「名前を戻せば、少女は救われる」


 管理人は映写機を見る。


「しかし、呼名女も初めて完全な名前を得る」


「同じ名前を使うから?」


「呼名女は少女から生まれました。少女の声、悲しみ、役目を材料にしている」


 名前が戻れば。


 少女は人間として呼ばれる。


 同時に、呼名女もその名前を自分のものだと主張できる。


「また、どちらが本物かを選ばされる」


 澪が言った。


「そうです」


「選ばなければ?」


「二つの存在が、一つの名前を奪い合います」


「名前を二人で使うことは?」


 透真が尋ねる。


「あなたが声を分けたように?」


「はい」


 管理人は首を横に振る。


「声は、話すたびに新しく生まれます。名前は、一度定めれば残る」


「だから難しい」


「名前を呼ぶということは、その存在を一つに定めることです」


 呼名女か。


 地下の少女か。


 同じ起源を持つ二人へ同じ名前を渡せば、境界が消える可能性がある。


「それでも、あの子は名前を捜してほしいと言っています」


 透真は赤い布を見る。


「百年以上、呼び子としか呼ばれていない」


「だからこそ危険です」


「危険だから、また閉じ込め続けるんですか」


 管理人の顔が苦しそうに歪む。


「私は、そうしてきました」


「あなたも、昔の神主の関係者ですか」


「はいとも、いいえとも答えられません」


「名前を聞いていないから?」


「名前を話せば、私が誰の子孫か分かる」


 管理人は視線を落とす。


「少女を地下へ閉じ込めた者の血を引いています」


 長い年月。


 管理人の家では、呼び子の歌と封印を守り続けてきた。


 名前が完成しないように。


 最初の三節へ、偽の四節以降を加え。


 個人の名前を「いろはにほへと」という、誰のものでもない並びへ変えた。


「偽物の一節を作ったのは、呼名女ではないんですか」


 澪が尋ねる。


「最初に加えたのは、私の先祖です」


 三人は言葉を失った。


「少女の名前を隠すために」


「はい」


「では、呼名女は?」


「その偽歌を利用した」


 個人の名前を消すために加えられた音。


 呼名女はそれを、すべての名前を呼ぶための順序へ変えた。


 に。


 ほ。


 へ。


 と。


 さらに歌を続ければ、仮名のすべてへつながっていく。


 少女一人の名前が、あらゆる名前を読み上げるための表へ変えられる。


「呼名女は、偽物の歌を人間から受け取った」


 透真が呟く。


「怪異だけが悪いわけではないんですね」


「いつも、人間が道を作った」


 誠一の声だった。


「俺もだ」


 資料館の保存音源を放送設備へ接続した。


 管理人の先祖は、少女の名を隠すため偽歌を加えた。


 冬子と小夜子は、透真を助けるため別の少女の名前と声を分けた。


 守ろうとした選択が、別の怪異を生む。


「でも」


 澪が言った。


「間違えた人が、ずっと同じ間違いを続ける必要はない」


 管理人が澪を見る。


「名前を返すべきだと?」


「返すかどうかは、本人に聞きたいです」


「地下の少女に?」


「はい」


「ここから声を届ければ、呼名女にも聞かれます」


「なら、声を使わない」


 澪は木札を取り出し、赤い布の隣へ置いた。


 とん。


 とん。


 とん、とん。


 指で木札を叩く。


 ここにいる。


 資料館の床下から、返事が届いた。


 とん。


 とん。


 とん、とん。


 呼び子。


 音返神社から離れているはずなのに、木札を通じてつながっている。


「見つけました」


 透真は名前を口にせず、木札へ伝える。


 床下の少女が、透真と同じ声で答えた。


『本当に?』


「はい」


『私の名前?』


「おそらく」


『呼んで』


 管理人が首を横に振る。


「まだ駄目です」


『どうして?』


「名前を呼べば、あの女も同じ名前を得ます」


『それでもいい』


「本当に?」


『名前がないよりいい』


 少女の声が震える。


『一度だけでいい』


『私を、呼び子じゃなく呼んで』


 透真の胸が痛む。


 長いあいだ望み続けた言葉。


 それを拒むことが、本当に少女を守ることなのか。


「呼んだあと、呼名女と一つになるかもしれません」


『怖い』


「戻れなくなるかもしれない」


『怖い』


「それでも?」


 長い沈黙。


 木札が一度鳴る。


 とん。


『呼んでほしい』


 少女自身が選んだ答え。


 管理人は目を閉じた。


「私は、止める資格がありません」


 誠一が透真の肩へ手を置く。


「お前が決めるな」


「父さん?」


「名前を返すかどうかは、あの子が決めた」


「では」


「だが、呼ぶ人間までお前が一人で引き受けるな」


 誠一は赤い布を見る。


「十三年前も、俺たちは一人ずつ何かを背負おうとした」


「父さんが呼ぶんですか」


「違う」


 誠一は澪。


 管理人。


 そして透真を見る。


「全員で呼ぶ」


 管理人が息を呑む。


「一つの名前を複数人で?」


「呼名女は、名前を呼んだ一人を次の受話器へ結びつける」


 冬子が透真の名を呼んだとき、役割を押しつけられた。


「一人で呼ばなければいい」


「声を重ねるんですね」


 透真の声には、すでに地下の少女の声が半分混ざっている。


 さらに複数人で呼べば、呼名女は誰が最初に呼んだのか判別できない。


「やってみる価値はあります」


 澪が頷く。


 管理人は不安そうだった。


「失敗すれば、全員が呼ぶ者として数えられる」


「そのときは、全員で拒否します」


 透真は答えた。


 管理人が蓄音機へ手を置く。


「では、最後に確認します」


 最初の三節を、もう一度再生する。


 い。


 ろ。


 は。


 返し音。


 手拍子。


 下駄。


 鈴。


 赤い布。


 木札の傷。


 すべてが同じ三つの音を示している。


「間違いありません」


 管理人が言った。


「この名です」


 三人は息を吸った。


 木札の向こう。


 少女が待っている。


 呼名女も、どこかで耳を澄ませている。


「せーので言う?」


 澪が尋ねる。


「掛け声まで録音されるかもしれません」


「じゃあ、目で合わせる」


 三人が互いを見る。


 管理人も加わる。


 透真。


 澪。


 誠一。


 名を消した者の子孫である管理人。


 四人が同時に口を開こうとした。


 その直前。


 映写機が激しく回転した。


 かたかたかたかた。


 白い幕に、十三年前の映像が映る。


 若い誠一。


 資料館の音源を機械へ入力している。


『録音資料の確認を開始します』


 十三年前の誠一の声。


 現在の誠一が青ざめる。


「止めろ」


 映像の中の誠一は、資料名を読み上げる。


『音返神社祭礼歌』


「止めろ!」


 現在の誠一が映写機へ駆け寄る。


 電源を切る。


 映像は止まらない。


『歌い手』


 透真たちは息を止める。


 誠一は十三年前。


 記録を消す前に、一度だけ元の台帳を声に出して読んでいた。


『伊呂波』


 名前が、完成した。


 資料館全体が大きく揺れた。


 ガラスケースが割れる。


 展示された太鼓。


 笛。


 鈴。


 すべてが一斉に鳴り始めた。


 どん。


 ぴいっ。


 ちりん。


 館内放送から、少女の息を吸う音。


 そして。


『はい』


 透真と半分同じ声。


 名前を呼ばれた少女が、初めて返事をした。


『私が、伊呂波です』


 赤い布の三文字が黒く浮かび上がる。


 伊。


 呂。


 波。


 木札の「呼び子」という文字が剥がれ落ち、その下から同じ名前が現れた。


「名前が戻った」


 澪が呟く。


 だが、管理人は喜ばなかった。


 顔を青ざめさせ、展示室の天井を見ている。


「まだです」


「何が?」


「返し音がありません」


 歌は、呼ぶ声だけでは完成しない。


 呼ばれた死者を待つ者が、返事をしなければならない。


 しかし伊呂波には、帰りを待つ家族がいない。


 名前は呼ばれた。


 本人も返事をした。


 それでも、帰る場所を示す音がない。


 館内放送へ、呼名女の声が入った。


『お名前を確認しました』


 赤い傘が、白い幕の中に映る。


『伊呂波さん』


 少女と同じ名を、呼名女が使用する。


『お帰りになる場所をご案内します』


 白い幕の中。


 音返神社の地下へ、一本の黒い道が現れる。


 その先には家ではなく、旧町内放送局が立っていた。


『こちらが、あなたのお住まいです』


「違います!」


 透真が叫ぶ。


『誰も待っていない方には』


 呼名女が伊呂波の声で笑う。


『私が帰る場所を差し上げます』


 資料館の床が割れた。


 地下から無数の黒いケーブルが伸びてくる。


 透真。


 澪。


 誠一。


 管理人。


 四人の足首へ絡みつく。


 スピーカーから、伊呂波の声。


『透真』


 透真の喉が締まる。


『私の名前を見つけてくれて、ありがとう』


 少女自身の声なのか。


 呼名女が使っているのか。


 区別できない。


『今度は』


 展示室のすべての人形が顔を上げる。


『私が、あなたの帰る場所を決めてあげる』


 正面玄関の案内表示が変わった。


 出口。


 ではなく。


 死者入口。


 館内時計が午前零時十三分を示す。


 太鼓が十三回鳴った。


 一。


 二。


 三。


 十三。


 最後の音とともに、資料館のすべての展示室が消えた。


 四人は、巨大な放送スタジオの中央に立っていた。


 客席には、名前を失った死者たちが座っている。


 舞台の上。


 赤い傘を持つ女と、着物姿の伊呂波が並んでいた。


 同じ顔。


 同じ声。


 同じ名前。


 二人が同時に微笑む。


『どちらが本当の伊呂波か』


『選んでください』

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


本物の祭り歌は三節だけでした。


最初の音をつなげると、少女の名前は「伊呂波」。


「に・ほ・へ・と」以降の歌詞は、少女個人の名前を消すため、人間があとから加えた偽物でした。


しかし、その偽歌を呼名女が利用し、一人の名前から、あらゆる名前を呼ぶための仕組みを作っていました。


誠一が十三年前に読み上げた記録によって、伊呂波の名前は完成しました。


けれど、名前を取り戻したのは地下の少女だけではありません。


呼名女もまた、伊呂波という名前と姿を手に入れます。


第21話「最初に呼ばれた名前」では、二人の伊呂波が透真へ選択を迫ります。


一人は名前を待ち続けた少女。


もう一人は、無数の死者の声から生まれた呼名女。


見分ける方法は、顔でも声でも記憶でもありません。


伊呂波が生まれて初めて、自分のために選ぶ言葉だけが、本物を示します。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。