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死者同士の会話は、聞いてはいけない ―午前零時十三分の町内放送―  作者: たむ
第二部 未来から来た死者

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第18話 名前を呼んではいけない

顔を真似されても、声を真似されても、記憶まで知られても。


生きている人にしか出せない音があります。


それは、次の瞬間にどう鳴るか、本人にも分からない音。


名前を呼べない場所では、その音だけが本物へ続く道になります。

 何十人もの早坂澪が、死者の輪の中で踊っていた。


 同じ制服。


 同じ髪。


 同じ顔。


 同じ声。


 全員が透真へ手のひらを向け、二人だけの合図を繰り返している。


 とん。


 とん。


 とん、とん。


『ここにいる』


『私はここだよ』


『早く見つけて』


 どれが生きている澪なのか、見分けられない。


 透真は名前を呼びそうになる口を強く閉じた。


 音返神社の地下にいた少女は言った。


 正しい名前が分かるまで、誰の名前も呼んではいけない。


 先ほど、透真が御影冬子の名前を呼んだことで、呼名女はその名前と姿を奪い始めた。


 ここで澪の名前を口にすれば、目の前にいる偽物たちすべてが、その名前へ結びつくかもしれない。


『どうしたの?』


 一人の澪が首を傾ける。


『私が分からない?』


 別の澪が悲しそうに目を伏せた。


『一緒にいてって言ったのに』


『二人でカレーを食べるんでしょう?』


『琴音のことも話すって言った』


 透真の胸が痛んだ。


 死者たちは、澪の記憶まで知っている。


 透真と交わした言葉。


 夏祭りで見た後悔。


 澪が誰にも話していなかった親友の名前。


 すべてを使い、本物らしく振る舞っている。


「名前を呼ばなくても」


 何十人もの澪が同時に話す。


「手を取れば分かるよ」


 一斉に手を伸ばす。


「選んで」


「私を選んで」


「間違えても怒らないから」


 呼名女が赤い傘の下で笑っていた。


 その顔は御影冬子と同じになっている。


『一人をお選びください』


「選びません」


 透真は答えた。


 自分の声に、地下の少女の声が薄く重なっている。


 半分ずつ分けた声。


 呼名女が顔を傾けた。


『一人だけが生者です』


「それでも、あなたが用意した方法では選びません」


『では、本物は死者の列に加わります』


 何十人もの澪が、少しずつ透真から遠ざかっていく。


 死者の踊りの輪へ飲み込まれる。


 右へ。


 左へ。


 一歩進み。


 一歩戻る。


 全員が同じ動きを繰り返す。


 透真は目で追おうとした。


 すぐに位置が入れ替わる。


 白い布を掛けた死者たちまで澪の姿へ変わり、輪はさらに大きくなった。


「どうすれば……」


 声。


 顔。


 記憶。


 合図。


 呼名女は、人を見分けるための情報を次々と奪っていく。


 透真は目を閉じた。


『見なければ、もっと分からなくなりますよ』


 呼名女の声がする。


「見るから迷うんです」


 死者には、それぞれ最後の音がある。


 事故の音。


 水に沈む音。


 切れた電話。


 踏切。


 風鈴。


 死者の姿が同じでも、死の瞬間に残った音までは完全に同じではない。


 透真は耳を澄ませた。


 何十人もの澪から、無数の音が聞こえる。


 縄が軋む。


 水が肺へ入る。


 車のブレーキ。


 高い場所から風を切って落ちる。


 炎が服を焼く。


 未来の幽霊たちが持っていた、さまざまな死の候補。


 その中に、生きている人間の音があるはずだ。


 どくん。


 心臓。


 右側から聞こえた。


 透真が一歩近づく。


 どくん。


 どくん。


 規則的な心音。


 だが、十三回鳴ると、最初の音へ戻った。


 一。


 二。


 三。


 十三。


 また一。


 録音された心音。


「違う」


『どうして?』


 心音を鳴らしていた澪が尋ねる。


「生きている心臓は、同じようには繰り返しません」


 別の場所から心音。


 どくん。


 どくん。


 今度は少し速い。


 しかし、やはり十三回で同じ間隔へ戻る。


 呼名女は生きている音も記録し、繰り返すことはできる。


 だが、次の瞬間に生まれる変化までは知らない。


「聞こえていますか」


 透真は名前を使わず、輪へ問いかけた。


 何十人もの澪が同時に答える。


「聞こえてるよ」


「質問をします」


「何?」


「答えないでください」


 偽物たちが一瞬、黙る。


「僕が近づいても、声を出さないでください」


『なぜ?』


「本物なら、理由が分かるはずです」


 輪の中にいる澪たちが、一斉に笑う。


「分かった」


「声を出さない」


「こっちへ来て」


 透真は一人ずつ近づいていく。


 一人目。


 心音は変わらない。


 二人目。


 十三回の同じ繰り返し。


 三人目。


 透真が近づくと心音が速くなる。


 しかし速くなった音も、すぐに同じ形で繰り返される。


「学習している」


 呼名女は、透真が探しているものを理解し始めている。


『急いだほうがよいですよ』


 赤い傘の女が告げる。


『生者の音が、死者の音へ変わる前に』


 輪が回る速度が上がる。


 足音が激しくなる。


 何十人もの心音が、境内を埋め尽くした。


 どくん。


 どくん。


 どくん。


 どれも同じに聞こえ始める。


 透真は焦りを抑えた。


 恐怖を感じるほど、呼名女が作る未来の幽霊は増える。


 迷えば迷うほど、本物を見失う。


 透真は歩きながら言った。


「僕は今、かなり怖いです」


 澪たちは答えない。


「間違えるのが怖い」


 心音が重なる。


「あなたを助けられないのが怖い」


 いくつかの心音が速くなる。


 すべて呼名女が作った反応かもしれない。


「それでも、一つだけ約束します」


 透真は輪の中央で立ち止まった。


「見つけられなくても、誰かを代わりには選びません」


 その瞬間。


 左後方。


 一つの心臓が、大きく跳ねた。


 どくん。


 次の音が少し遅れる。


 ど、くん。


 さらに一度、細かく震える。


 どく、どくん。


 完全に不規則。


 驚き。


 安堵。


 恐怖。


 いくつもの感情によって、その場で変化した心音。


 透真は振り返らない。


 すぐに近づけば、呼名女が位置を知る。


 呼名女も心音の変化に気づいたらしい。


 周囲の偽物たちが、同じ不規則な鼓動を再現し始める。


 どくん。


 ど、くん。


 どく、どくん。


 だが、遅い。


 最初に変化した場所を、透真は覚えている。


 左へ三歩。


 前へ二歩。


 透真は目を閉じたまま手を伸ばした。


 冷たい指が触れる。


 偽物かもしれない。


 手を掴まず、手のひらへ自分の指を置く。


 これまでの合図は使わない。


 呼名女に覚えられている。


 透真は、その場で新しいリズムを作った。


 とん。


 とん、とん。


 少し間を空けて。


 とん。


 意味はない。


 決めた言葉もない。


 相手がどのように返すかも分からない。


 触れた手が動く。


 同じ音を返さなかった。


 とん、とん。


 長い間。


 とん。


 さらに、透真の指を一度だけ強く握る。


 決められていない返事。


 今、この瞬間に本人が選んだ音。


 透真はその手を掴んだ。


「見つけました」


 目を開ける。


 目の前に澪が立っていた。


 涙を浮かべながら、それでも声を出さずに笑っている。


 周囲の偽物たちが一斉に叫んだ。


『違う!』


『私が本物!』


『間違えてる!』


 澪は名前を使わずに言った。


「遅い」


「すみません」


「本当に遅い」


「見つけられてよかったです」


「心臓、止まりそうだった」


「止まらなくてよかった」


 澪の手は温かい。


 生者の温度。


 未来の幽霊にはない熱。


 呼名女が赤い傘を強く閉じた。


『温度も複製できます』


「できるかもしれません」


 透真は澪の手を離さない。


「でも、今の返事は複製できませんでした」


『すでに記録しました』


「記録したものは、次に使えます」


 澪が続ける。


「でも、次は別の返事をする」


『人間の反応には限界があります』


「同じことしか言わないあなたより多いよ」


 澪の言葉に、呼名女の顔が歪んだ。


 偽物の澪たちが一斉に崩れ始める。


 制服。


 髪。


 顔。


 形が溶け、元の死者たちの姿へ戻っていく。


 名前を与えられていた間、彼ら自身の姿を失っていた。


 老人。


 子ども。


 浴衣の女性。


 怪我をした男。


 死者たちは自分の体を見下ろす。


『戻った』


『私の手』


『私の顔』


『名前は思い出せないけど』


『私は私だ』


 一人ずつ、自分の音を鳴らし始める。


 足音。


 拍手。


 指笛。


 服の袖を振る音。


 死者の踊りは、再びばらばらになる。


 その不揃いな音が、呼名女の放送を乱した。


     ◇


「次は、声を取り戻した人を助けます」


 澪が言った。


 御影冬子は太鼓のそばに倒れている。


 顔の輪郭が薄くなり、透明な皮膚の向こうに境内の地面が見えていた。


 赤い傘の下にいる呼名女は、冬子とまったく同じ顔をしている。


 二人の冬子。


 一人は生者。


 一人は怪異。


「どうやって見分けますか」


 透真は名前を使わずに尋ねた。


「心臓?」


「先ほどの方法は、もう知られています」


『そのとおりです』


 呼名女が冬子と同じ声で答える。


 地面へ倒れていた冬子も、同じ声で言った。


「私は……ここ」


 声まで同じ。


 呼名女は呼吸音も、心音も再現する。


 どちらからも弱い鼓動が聞こえていた。


『私を助けてください』


「私を……」


 同時に手を伸ばす。


 透真は近づかなかった。


 呼名女が微笑む。


『選ばなければ、本物は消えます』


「その言葉は、何度も聞きました」


『今回は事実です』


 生きている冬子の輪郭が、さらに薄くなる。


 冬子という名前が、怪異の側へ移っている。


 名前を呼ばずに、彼女を生者の側へつなぎ止めなければならない。


 透真は太鼓を見た。


 冬子が十三年間叩き続けた太鼓。


 死者の最後の言葉を祭囃子へ隠していた音。


「太鼓を叩いてください」


 二人の冬子が太鼓へ手を伸ばす。


 呼名女も叩ける。


 どん。


 同時。


 同じ音。


「駄目です」


『何が違うのですか』


「同じ音を出してほしいわけではありません」


 透真は、生きている冬子へ向けて話す。


「あなたが、今まで一度も叩いたことのない音を鳴らしてください」


 呼名女の顔から笑みが消えた。


「決められた祭囃子でも」


「母から教わった合図でも」


「呼名女に聞かせるための音でもない」


「今のあなたが、自分で決めた音です」


 呼名女が先に太鼓を叩く。


 どどん。


 どん。


 複雑なリズム。


『新しい音です』


「違います」


『なぜですか』


「僕に聞かせるために作った音です」


 透真は倒れている冬子を見る。


「誰にも伝える必要はありません」


「自分が鳴らしたい音を、鳴らしてください」


 冬子の指が太鼓の皮へ触れる。


 長い沈黙。


 死者たちの踊る音も、少しずつ静かになる。


 冬子は目を閉じた。


 十三年間。


 誰かの最後の言葉を隠すため。


 呼名女へ悟られないため。


 透真へ警告するため。


 常に誰かへ伝える目的で、音を鳴らしてきた。


 自分だけのために、音を出したことがない。


 冬子の手が動く。


 太鼓ではなく、木製の縁を指で擦った。


 ざら。


 小さな音。


 もう一度。


 ざら。


 子どもが砂の上へ文字を書くような音だった。


 呼名女は太鼓を叩いて真似をする。


 ざら。


 だが、冬子は途中で音を変えた。


 爪で縁を二回弾く。


 こつ。


 こつ。


 次に手のひらで皮を撫でる。


 さあ。


 決まった形がない。


 意味もない。


 本人にも次の音が分からない。


 呼名女は一拍遅れて同じ音を繰り返す。


 ざら。


 こつ。


 こつ。


 さあ。


「後ろが偽物です」


 澪が気づいた。


 新しい音を作る者。


 そのあとを追い、記録した音を再生する者。


 透真と澪は、最初に鳴る音だけを追った。


 冬子の体へ近づく。


 呼名女が赤い傘を広げる。


『間違えています』


 冬子が木の縁を叩く。


 こつ。


 今度は透真が、同じ音へ返事をした。


 とん。


 澪も。


 ぱん。


 異なる音。


 それでも、同じ相手へ向けた返事。


「名前は呼びません」


 透真は冬子の手を取る。


「でも、あなたが誰か分かっています」


 澪が反対の手を握る。


「太鼓を叩いていた人」


「死者の声を守った人」


「アサとヨルのお母さん」


「十三年間、電話を受け続けた人」


 名前ではなく、彼女が選んできた行動を一つずつ言葉にする。


 冬子の顔に、少しずつ目と口が戻る。


 呼名女の顔から、同じ部分が剥がれ落ちていく。


『やめなさい』


「名前は、あなたが奪えるかもしれません」


 透真は言った。


「でも、この人がしてきたことまでは奪えない」


『記憶も複製できます』


「記憶するだけでは、その人にはなれません」


 澪が冬子の手を握り直す。


「あなたは、誰かを守った理由を知らない」


『知っています』


「知っているなら、答えて」


 澪は呼名女を見る。


「どうして、自分の娘を二人に分けたの?」


『音無透真を生かすためです』


「それだけ?」


『それ以外に理由はありません』


 生きている冬子の唇が動く。


「違う」


 弱い声。


「娘が……自分で決めたから」


 透真と澪が冬子を見る。


「あの子が、助けるって……言った」


 冬子の目から涙が流れる。


「怖いのに」


「二人に分かれる意味も、分からないのに」


「自分で、決めた」


 母親は娘の意思を利用したのではない。


 娘が選んだことを、恐怖と罪悪感を抱えながら受け入れた。


「私は、止めたかった」


 冬子の声が少しずつ強くなる。


「でも、あの子の選択まで奪ったら」


「私も、あの女と同じになると思った」


 呼名女には、その感情が理解できない。


 選択を与えると言いながら、必ず誰かを犠牲にする二択しか提示しない怪異。


 他者が自分で選んだ答えを恐れ、受け止めた冬子。


 二人は同じ記憶を持っていても、同じ存在ではなかった。


「見つけました」


 透真は冬子を立たせる。


「あなたを」


 名前は呼ばない。


 それでも、冬子は返事をした。


「はい」


 その一言が境内へ響いた。


 呼名女の赤い傘に、大きな亀裂が走る。


 冬子から奪われていた名前が、黒い文字となって空中へ現れた。


 御。


 影。


 冬。


 子。


 四つの文字が、呼名女と冬子の間で揺れている。


『名前を呼べば』


 呼名女が告げる。


『所有者が確定します』


「呼ばないで」


 冬子が言う。


「今は、名前がなくてもいい」


「でも」


「私が私だと、あなたたちが分かってくれた」


 冬子は自分の胸へ手を当てる。


「それで、今は十分」


 四つの文字が砕ける。


 光の粒になり、冬子の胸へ入っていく。


 呼名女が絶叫した。


『名前を使わずに返事をしてはいけません!』


「返事は、名前に対してだけするものではありません」


 透真は答える。


「想いにも」


「行動にも」


「今ここにいる人にも、返すことができます」


 死者たちが一斉に足を踏み鳴らす。


 どん。


 どん。


 どん。


『ここにいる』


 呼名女の顔から、御影冬子の姿が剥がれ落ちた。


 再び、目も鼻も口もない白い顔へ戻る。


 赤い傘が裂け、地面へ落ちた。


     ◇


 祭囃子が止まった。


 透真の体が強張る。


「歩いて!」


 澪が叫ぶ。


 音が止まった者は、自分が最も後悔した夏へ引き戻される。


 境内にいる死者たちも、立ち止まれば死んだ日の時間へ戻される。


「全員、動いてください!」


 透真は名前を使わず叫んだ。


「足を止めないで!」


 しかし、太鼓を叩いていた冬子は力を使い果たしている。


 祭囃子を再開できない。


 死者の動きが一人ずつ止まる。


 老人の姿が薄くなる。


 浴衣の女性が、自分の死んだ夏を見て泣き始める。


 子どもが母親を呼びながら消えかける。


「音が必要です」


 透真は太鼓へ向かう。


 冬子が腕を掴んだ。


「叩けば、あなたが受話器になる」


「声を失った人しか鳴らせない太鼓なんですよね」


「今のあなたは、半分だけ声がある」


「なら、半分なら鳴らせるかもしれません」


「駄目」


「でも、このままでは」


 澪が太鼓の反対側へ回った。


「一人で叩くから受話器になるんでしょう?」


「何をするつもりですか」


「全員で鳴らす」


 澪は手のひらで太鼓を叩く。


 とん。


 小さな音。


 冬子も縁を擦る。


 ざら。


 透真は指で皮を弾く。


 ぱん。


 三人の音は、祭囃子にはならない。


 それでも、止まりかけていた死者の足が動いた。


 老人が杖で地面を叩く。


 こつ。


 子どもが手拍子をする。


 ぱん。


 浴衣の女性が下駄を鳴らす。


 からん。


 何十人もの死者が、自分の音を加えていく。


 曲ではない。


 決まったリズムもない。


 太鼓を鳴らす一人の受話器もいない。


 全員が、自分のために音を鳴らしている。


 祭囃子ではなく。


 存在そのものの音。


 死者たちは、後悔した夏へ戻らず、現在の夜を歩き続けた。


 呼名女の姿が薄くなる。


『一つの音へ、まとめなさい』


「まとめません」


 透真が答える。


『数えられません』


「数えなくていいんです」


『誰がいるか分かりません』


「全員、自分で分かっています」


『名前がなければ、帰れません』


 死者の一人が答えた。


『帰る場所がなくても』


 別の死者。


『歩いていける』


『一人じゃないから』


 呼名女の白い体が、赤い傘の破片へ吸い込まれていく。


『私は、また名前を呼びます』


「そのたびに止めます」


『あなたの声がなくなるまで』


 透真の喉に痛みが走る。


 声の半分を地下の少女へ返した。


 今の声は弱い。


 死者の想いを届け続ければ、いずれ完全に失う。


「それでも」


 透真が答えようとしたとき。


 澪が先に言った。


「この人の声がなくなったら、私が話す」


 冬子も続ける。


「私も」


 死者たちが足音を鳴らす。


『私たちも』


 一人の声がなくなっても、ほかの音がある。


 呼名女の白い顔に、初めて怯えが浮かんだ。


『声は、一人に一つでなければなりません』


「誰が決めたんですか」


 透真が尋ねる。


 呼名女は答えなかった。


 赤い傘が完全に閉じる。


 女の姿が消えた。


     ◇


 境内に朝の光が差し込んでいた。


 山へ入ったときは、まだ夕方だった。


 怪異の中で何時間過ごしたのか分からない。


 死者の祭列は、山道へ戻らなかった。


 一人ずつ、自分が行きたい方向へ歩き始める。


 家。


 墓。


 海。


 知らない土地。


 誰かのもと。


 透真の耳には、別れの言葉が聞こえていた。


『ありがとう』


『今度は、自分で帰る』


『名前を思い出したら、また教える』


『忘れてもいいよ』


 死者たちの姿が朝日に溶けていく。


 全員が成仏したわけではない。


 それでも、呼名女の列からは外れた。


 御影冬子は太鼓へ寄りかかり、座り込んでいた。


「体はどこにあるんですか」


 透真が尋ねる。


 名前は使わない。


 冬子はそれに気づき、少し笑った。


「学校のプールの地下」


「本当に?」


「古い監視室が残っている」


「十三年間、そこに?」


 冬子は頷いた。


「体は眠っている」


「今ここにいるのは?」


「声と意識だけ」


「戻れるんですか」


「祭囃子が消える前に戻れば」


 朝日が強くなる。


 冬子の姿が透け始めた。


「急いでください」


「その前に」


 冬子は透真へ、小さな木札を渡した。


 古く黒ずんだ札。


 片面には「呼び子」と刻まれている。


 裏側には、細い傷が何本もある。


「地下の子の名前につながるものですか」


「祭りの古い歌」


 冬子は擦れた声で言う。


「歌詞の最初の音を、順番に」


「どこに記録がありますか」


「町の郷土資料館」


「この木札を見せれば?」


「管理人が知っている」


「名前は?」


 尋ねた直後、透真は口を閉じた。


 今は名前を聞くこと自体が危険かもしれない。


 冬子が首を横に振る。


「名前を聞かないで」


「では、どうやって探せば」


「閉館後も、一人で祭りの歌を聞いている人」


 冬子の足元が光へ変わる。


「その人だけが、呼び子の最後の歌を覚えている」


「待ってください」


 澪が尋ねる。


「アサとヨルには会えますか」


 冬子の表情が揺れた。


「会いたい」


「二人も会いたがっています」


「そう」


 冬子は泣きそうに笑った。


「でも、すぐには呼ばないで」


「どうして?」


「あの子たちが、今の自分の名前を選んだのなら」


 冬子は胸へ手を当てる。


「母親の私が、昔の名前へ戻してはいけない」


「分かりました」


「いつか、二人が会いたいと言ったら」


「伝えます」


「ありがとう」


 冬子は透真を見る。


「あなたのお母さんにも、伝えて」


「何を?」


「私は、あの選択を後悔している」


 少し間を置く。


「でも、あなたが生きていることは後悔していない」


 透真は言葉を失った。


 二つの感情は矛盾している。


 娘を二つに分けたことへの後悔。


 透真を助けたことへの肯定。


 どちらも冬子の本当の想いだった。


「必ず伝えます」


 冬子は頷き、朝日の中へ消えた。


     ◇


 境内には、透真と澪だけが残った。


 太鼓も。


 祭り櫓も。


 社殿も消えている。


 気づけば二人は、山の中にある小さな空き地へ立っていた。


 地図にない神社は、跡形もない。


 透真の手には木札だけが残っている。


「終わったのかな」


 澪が尋ねる。


「呼名女は消えていません」


「だよね」


「でも、御影さんの名前は取り戻せたと思います」


「名前を呼ばなくても?」


「本人が自分として返事をしましたから」


 澪は自分の胸へ手を当てる。


「私を見つけた方法、本当に心臓だったの?」


「はい」


「どんな音だった?」


「かなり速かったです」


「怖かったから」


「途中で一度、大きく跳ねました」


「音無くんが、誰も代わりに選ばないって言ったとき」


「はい」


 澪は少し恥ずかしそうに目を逸らした。


「見つけてくれると思った」


「確信はありませんでした」


「そこは嘘でも、絶対見つけると思ってたって言ってよ」


「嘘は苦手です」


「幽霊の声は訳すのに」


「今後は努力します」


 二人は山道を下り始めた。


 名前を使わない会話に慣れてしまい、しばらく互いを呼べない。


 澪が先に笑う。


「もう呼んでも大丈夫かな」


「神社の外なら、おそらく」


「おそらく?」


「怪異に確実なことは少ないです」


「じゃあ、試してみる」


 澪が足を止める。


「音無くん」


「はい」


 普通に返事ができた。


 赤い傘も。


 呼名女も現れない。


「大丈夫そう」


「今度は僕が」


 透真は澪の名前を呼ぼうとした。


 その直前。


 耳の奥で、二つの心音が聞こえた。


 どくん。


 どくん。


 一つは、目の前にいる澪の胸から。


 もう一つは。


 澪の影の中から聞こえている。


「動かないでください」


 透真の声に、澪が体を固くする。


「何かいる?」


「影の中に」


 朝日を受け、澪の影が地面へ長く伸びている。


 その影の胸の位置が、心臓のように脈打っていた。


 どくん。


 どくん。


 影の中から、澪と同じ手が伸びる。


 黒い指が、澪の足首を掴んだ。


『見つけてもらえなかった私』


 影の中の声。


『まだ、ここにいるよ』


 透真が助けようと手を伸ばす。


 影の澪が笑った。


『本物を選んだなら』


 地面が黒く裂ける。


『選ばれなかった私は、どうすればいいの?』


 澪の体が影の中へ引かれた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


顔、声、記憶、合図まで複製された中で、透真が本物の澪を見つけた手がかりは、今この瞬間に変化する心音でした。


呼名女は過去の音を記録して再生できます。


しかし、生きている人が次にどんな反応を選ぶかまでは、完全には予測できません。


また、名前を奪われかけた御影冬子も、名前ではなく、十三年間積み重ねてきた行動と新しく作った音によって自分を取り戻しました。


第19話「選ばれなかった私」では、本物ではないと判断された未来の澪が、影の中から現れます。


彼女は単なる偽物ではありません。


透真が本物を選んだ瞬間に捨てられた、澪が死んだ可能性の一つです。


その存在を消せば澪は助かります。


しかし、消された未来の死者にも、届けたい言葉が残っていました。

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