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死者同士の会話は、聞いてはいけない ―午前零時十三分の町内放送―  作者: たむ
第二部 未来から来た死者

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第17話 死者が踊る夜

盆踊りは、亡くなった人を迎え、そして送り出すための踊りだといわれています。


同じ輪を回り、同じ手順を繰り返す。


けれど、名前を奪われた死者たちが踊るとき、その足音は供養ではありません。


自分はここにいると知らせる、声の代わりです。

 透真の喉から、声が消えた。


「……っ」


 息は出る。


 舌も動く。


 けれど、どれだけ力を込めても音にならない。


 音返神社の社殿。


 閉ざされた扉の隙間から、小さな白い手が伸びている。


 その奥で、幼い少女が透真の声を使って笑った。


『やっと見つけた』


『私の声を持っている人』


「音無くん!」


 澪が透真の肩を掴む。


「聞こえてる?」


 透真は頷いた。


 言葉の代わりに、澪の手のひらを叩く。


 とん。


 とん。


 とん、とん。


 ここにいる。


 澪はすぐに同じ合図を返した。


「よかった。意識はあるんだね」


 祭り櫓の前では、御影冬子が胸を押さえて苦しんでいる。


 せっかく取り戻した声が、呼名女の放送へ変えられようとしていた。


 冬子の口が、本人の意思に反して開く。


『午前零時十三分に、こちらへ来る方のお名前を――』


 冬子は自分の喉を両手で押さえた。


「言わ……ない」


 擦れた声。


「もう、誰の名前も……呼ばない」


 赤い傘を持つ呼名女が、櫓の上から冬子を見下ろす。


『名前を呼ばなければ、声を持つ意味がありません』


「声は……名前を呼ぶためだけのものじゃない」


『では、何に使うのですか』


 冬子は答えようとした。


 だが、喉から黒い糸が伸び、口を縫い合わせていく。


「御影さん!」


 澪が駆け寄ろうとする。


 透真はその腕を掴み、首を横に振った。


 先に社殿の中を確かめなければならない。


 呼名女が恐れているもの。


 御影冬子が「開けて」と願った扉。


 そこに、すべての始まりがある。


 社殿の奥から、透真の声が聞こえた。


『早く開けて』


『あの女が来る前に』


 扉の隙間から伸びた手が、床を引っかく。


 かり。


 かり。


 かり。


 白い爪の間から黒い血が滲んでいる。


 澪が扉へ手を伸ばした。


「開けるよ」


 呼名女が初めて声を荒らげた。


『開けてはいけません!』


「どうして?」


『中にいるものは、人間ではありません』


 社殿の中の少女が、透真の声で答える。


『私は人間だったよ』


『あの女が生まれるまでは』


「呼名女を作ったの?」


『声をあげただけ』


 澪は透真を見る。


「どうする?」


 透真は扉を指差した。


 開ける。


 呼名女が嘘をついている可能性がある。


 中の少女も嘘をついている可能性がある。


 どちらも信用できない。


 それでも、閉じ込められた声を無視することはできなかった。


「音無くんなら、そうすると思った」


 澪が扉の取っ手を掴む。


 鍵はかかっていない。


 しかし、内側から無数の手が押さえているように重かった。


「一緒に!」


 透真も取っ手を握る。


 二人で引く。


 ぎい。


 わずかな隙間。


 中から冷たい風が噴き出した。


 風の中に、名前を呼ぶ声が混ざっている。


『春江』


『清一』


『和子』


『正夫』


『お母さん』


『お父さん』


 古い時代の名前。


 知らない人々。


 呼ばれた死者たちの声。


 呼名女の赤い傘から黒い糸が飛び出し、扉へ絡みついた。


『閉めなさい』


 扉が戻ろうとする。


 澪が歯を食いしばる。


「負けないで!」


 境内を囲んでいた死者たちが、一人ずつ動き始めた。


 老人が足を踏み鳴らす。


 どん。


 子どもが手を叩く。


 ぱん。


 浴衣姿の女性が、指を鳴らす。


 ぱちん。


 一人ひとりが、自分だけの音を鳴らしながら踊り始めた。


 同じ振り付けではない。


 同じリズムでもない。


 それでも、音は少しずつ重なっていく。


『ここにいる』


『私もいる』


『名前を忘れられても』


『声を奪われても』


『ここにいる』


 死者の踊りが、黒い糸を震わせた。


 呼名女の力が緩む。


「今!」


 澪と透真が同時に扉を引いた。


 社殿の扉が開いた。


     ◇


 社殿の中には、神棚も祭壇もなかった。


 床の中央に、地下へ続く階段がある。


 石造りの狭い階段。


 壁には古い銅線や新しい電気ケーブルが這っている。


 木と石で造られた神社の下へ、後世の放送設備が無理やり接続されていた。


 奥から透真の声が聞こえる。


『下まで来て』


 澪が携帯電話のライトをつける。


「足元、気をつけて」


 透真は頷き、先に階段を下りた。


 声が出ないため、何かを見つけても澪へ伝えにくい。


 手だけは離さないようにする。


 階段を一段下りるたび、外の祭囃子が遠くなる。


 代わりに、別の音が聞こえ始めた。


 大勢の人が、同じ名前を繰り返す声。


『呼んで』


『呼んで』


『呼んで』


『帰れるように』


 階段は地下深くまで続いていた。


 神社の建物から考えれば、あり得ない深さだ。


 十段。


 二十段。


 五十段。


 やがて石壁に、文字が刻まれていることに気づく。


 人の名前。


 何百人分もある。


 古いものは、文字が崩れて読めない。


 新しいものには、透真の知る姓もあった。


 白石。


 三谷。


 水上。


 篠崎。


 これまで出会った死者たちの姓。


「ここに刻まれた人が、呼ばれた人?」


 澪が尋ねる。


 透真は首を横に振った。


 名前の横に、小さな記号がある。


 丸。


 線。


 黒い傷。


 意味は分からない。


 階段の最下部に、古い木製の扉があった。


 扉の上に、板が掛けられている。


 呼声所。


「放送室じゃない」


 澪が文字を読む。


「声を呼ぶ場所?」


 透真が扉へ手を掛ける。


 中から、少女が一度だけ叩いた。


 こん。


 透真も返す。


 こん。


 扉が内側へ開いた。


     ◇


 地下の部屋は、円形だった。


 中央に一脚の石椅子。


 周囲の壁には、朝顔の花のような形をした木製の筒が並んでいる。


 昔の拡声器。


 音を集め、外へ流すための装置。


 その筒へ、町内放送のケーブルが接続されていた。


 石椅子には、一人の少女が座っている。


 十歳ほど。


 色の褪せた着物。


 裸足。


 長い髪。


 口元には白い布が巻かれていた。


 少女の胸から一本の黒い糸が伸び、天井の太いケーブルへつながっている。


 透真たちが近づくと、少女は顔を上げた。


 目も。


 鼻も。


 輪郭もある。


 呼名女のような平らな顔ではない。


 ただし、口だけが見えない。


『待ってたよ』


 声は部屋中の木製筒から聞こえた。


 透真の声だ。


「あなたが、音無くんの声を取ったの?」


 澪が尋ねる。


 少女は首を横に振る。


『返してもらったの』


「もともと、あなたの声だった?」


『全部じゃない』


 少女は透真を見る。


『半分くらい』


 透真は自分の喉へ触れた。


 四歳のとき、死から戻された。


 その際、命だけではなく、失われた声も何かから補われた。


「音無くんの声は、お母さんがこの子から借りたの?」


 少女が頷く。


『小夜子さんは、死者にも生者にも属していない声を探した』


『誰の名前にも結びついていない声』


『それが私の声だった』


 名前を持たない者の声。


 呼ばれることのない声。


 だから、生者へ戻る透真の声として使うことができた。


『透真が死者の言葉を届けるたび』


 少女の胸につながる糸が脈打つ。


『借りていた声が、少しずつ戻ってきた』


「あなたが奪っていたわけではない?」


『私は何もしてない』


『あの女が返してる』


 天井。


 地上の境内。


 呼名女がいる方角を見上げる。


『全部戻ったら、私は話せる』


「音無くんは?」


『話せなくなる』


 澪が透真の手を強く握った。


「それを望んでるの?」


 少女はすぐには答えなかった。


『自分の声がほしい』


『でも』


 石椅子の上で膝を抱える。


『この人の声を全部取ったら、小夜子さんが悲しむ』


 透真は少女の前へ屈んだ。


 声は出ない。


 床を指で叩く。


 とん。


 とん。


 とん、とん。


 ここにいる。


 少女が驚いたように目を開く。


『私に言ってるの?』


 とん。


 一回。


 肯定。


『名前も知らないのに?』


 透真はもう一度叩いた。


 とん。


 とん。


 とん、とん。


『変な人』


 少女は少し笑った。


 透真の声で。


「あなたは、呼名女を生み出した最初の少女なんだよね」


 澪が尋ねる。


『うん』


「どうして声を渡したの?」


 少女の目が、遠い過去を見るように細められた。


 部屋の木製筒から、古い祭囃子が流れ始める。


 太鼓。


 笛。


 手拍子。


 現在のものより遅く、単調な曲。


 円形の部屋が揺らぎ、昔の神社の姿が浮かび上がった。


     ◇


 まだ町内放送も電気もなかった時代。


 夕名町は、夕名村と呼ばれていた。


 山の崩落と川の氾濫が重なり、多くの人が行方不明になった。


 遺体が見つからない者も多かった。


 家へ帰れない死者は、夜になると村の道を歩いた。


 戸を叩く。


 家族の名前を呼ぶ。


 返事をした者を、山や川へ連れていく。


 村人たちは、死者を正しい家へ返すための儀式を始めた。


 音返神社の櫓から、行方不明者の名前を一人ずつ呼ぶ。


 家族が返事をする。


 その声を目印に、死者は迷わず帰る。


 名前を呼ぶ役目には、よく通る声が必要だった。


 選ばれたのが、石椅子の少女だった。


 身寄りのない子。


 村へ流れ着いた子。


 誰も、彼女の生まれた家を知らない。


 村人は少女を「呼び子」とだけ呼んだ。


『次の名前』


 神主が紙を渡す。


 少女は一晩中、死者の名前を呼んだ。


『山下清吉』


『渡辺フミ』


『河野太一』


 家族が返事をする。


『ここにいます!』


『帰っておいで!』


『待っているよ!』


 名前を呼ばれた死者は、家族の元へ向かう。


 夜が明ける頃には、多くの怪異が消えた。


 村人は少女を褒めた。


『よくやった』


『これで皆、帰れる』


 少女は尋ねた。


『最後に、私の名前も呼んでくれる?』


 村人たちは顔を見合わせた。


『お前の名前は何だ』


『分からない』


『なら呼べない』


『新しい名前をつけて』


 神主は首を横に振った。


『呼び子に名前をつけてはいけない』


『なぜ?』


『誰か一人の名前を持てば、その家の死者しか呼べなくなる』


 名を持たない声だからこそ、すべての死者を呼べる。


 村人はそう信じた。


『儀式が終わったら、名前をくれるって言った』


『まだ終わっていない』


 災害。


 病。


 事故。


 死者が出るたび、少女は櫓へ座らされた。


 何年も。


 何年も。


 少女の声は少しずつ枯れていった。


『次の名前』


『次の名前』


『次の名前』


 自分の名前を呼ばれる日は来なかった。


 ある夏の夜。


 祭りの最中、少女は石椅子の上で倒れた。


 それでも村人は、紙に書かれた名前を少女の前へ置いた。


『あと十三人いる』


『呼んでくれ』


 少女はもう声を出せない。


 血を吐きながら、口だけを動かす。


『私の名前は?』


 誰も答えない。


『最初に、私を呼んで』


 村人たちは困ったように顔を見合わせる。


『お前には名前がない』


 少女は、最後に笑った。


『じゃあ』


『私が、みんなの名前をもらう』


 その瞬間。


 石椅子の下から黒い糸が伸びた。


 少女がこれまで呼んだ死者。


 返事をした生者。


 届かなかった最後の言葉。


 すべての声が、少女の体へ流れ込んだ。


 顔から口が消える。


 代わりに、神社中の筒や鈴や太鼓が少女の声で鳴り始めた。


『次にこちらへ来る方のお名前をお知らせします』


 最初の呼名放送。


 少女自身が話したのか。


 集まった声が勝手に話したのか。


 誰にも分からなかった。


 村人たちは恐れ、少女を地下へ閉じ込めた。


 石椅子。


 木製の筒。


 声を外へ逃がさないための封印。


 しかし、閉じ込められた声は消えなかった。


 電話が作られれば、電話へ。


 ラジオが作られれば、ラジオへ。


 町内放送が整備されれば、放送設備へ。


 新しい音の道が生まれるたび、呼名女は広がっていった。


     ◇


 過去の光景が消えた。


 石椅子の少女が俯いている。


『私は、声をあげた』


『みんなを帰すために』


『でも、戻ってこなかった』


「呼名女は、あなた自身なの?」


 澪が尋ねる。


 少女は首を横に振った。


『私から出たもの』


『でも、もう私じゃない』


「名前を呼ばれなかった悲しみから生まれた?」


『悲しみだけじゃない』


『私が呼んだ人たちの後悔』


『返事をしなかった人の罪悪感』


『最後の言葉を聞けなかった人の願い』


 無数の感情が混ざり、人格のない放送となった。


 それが呼名女。


 決められた人数をそろえ。


 空席を埋め。


 誰かに選択を迫り。


 名前を呼ぶ役割を次へ渡す。


 儀式だけが残った存在。


「止める方法は?」


 少女は石椅子の足元を見る。


『最初の名前を呼ぶ』


「あなたの名前?」


『うん』


「覚えていないの?」


『取られた』


「呼名女に?」


『違う』


 少女は壁を指差した。


 何百人もの名前が刻まれた石壁。


 その中央に、一か所だけ大きく削られた部分がある。


『村の人が消した』


『呼び子が人間だったと残らないように』


 澪が削られた場所へ近づく。


 指でなぞる。


「全部消えてる」


 透真も見る。


 表面は深く削られている。


 だが、傷の下。


 ほんのわずかに文字の跡が残っていた。


 曲線。


 縦の線。


 ひらがなか。


 漢字か。


 判別できない。


『名前を間違えて呼んだら』


 少女が言う。


『あの女に、新しい名前をあげることになる』


「呼名女が、その名前を自分のものにする?」


『うん』


「だから、確実な名前が分かるまで呼べない」


『誰の名前も呼ばないで』


 その言葉と同時に、地上から大きな音が響いた。


 どおん。


 祭り櫓が倒れたような音。


 冬子の悲鳴。


 呼名女が地下への扉を見つけた。


『ここにいたのですね』


 天井の木製筒すべてから、呼名女の声が流れた。


『最初の声』


 少女の体が震える。


『あなたの役目は終わっていません』


『次の名前を呼びなさい』


 石椅子の黒い糸が締まる。


 少女の胸が持ち上がる。


 透真の声で、誰かの名前を呼ぼうと口のない顔を動かす。


『はや――』


 澪の名前。


 透真は少女の前へ立ち、両手で木製筒を塞いだ。


 声は止まらない。


『早坂澪』


 名前が完成する直前。


 透真は石椅子を蹴った。


 椅子が揺れる。


 少女の声が途切れた。


 澪が壁から古い木板を外し、筒の口へ押し込む。


「音無くん、全部塞ぐ!」


 二人で木製筒を一つずつ塞いでいく。


 衣服。


 木片。


 石。


 使えるものは何でも詰める。


 呼名女の声が別の筒へ移る。


『無駄です』


『声は道があれば届きます』


 床下。


 壁。


 ケーブル。


 少女の胸。


 あらゆる場所から声が流れる。


 外の死者たちが踊る足音も聞こえる。


 どん。


 ぱん。


 どどん。


 自分たちの存在を示す音。


 透真は少女の手を掴んだ。


 冷たい。


 しかし、触れられる。


 少女が透真を見る。


『声を返して』


 透真は首を横に振らなかった。


 肯定もしない。


 自分の喉を指差す。


 次に少女。


 そして、二人の間を示す。


『分けるの?』


 透真は頷いた。


 全部を奪うか。


 全部を返さないか。


 その二つだけではない。


 声を分ける。


 同時に使う。


 名前を呼ぶためではなく、互いの存在を伝えるために。


 少女は不安そうに首を振る。


『できない』


 透真は床を叩いた。


 とん。


 とん。


 とん、とん。


 澪も少女の反対側で叩く。


 とん。


 とん。


 とん、とん。


「一人ではできなくても、三人ならできる」


 少女は二人を見る。


『また、私を使うの?』


「使わない」


 澪ははっきり答えた。


「あなたが嫌なら、やらない」


『声を返さないの?』


「音無くんの声も、今は音無くんのもの」


『最初は私のだった』


「そうだね」


 澪は少女の前へ座った。


「だから二人で決めて」


 少女の目が揺れる。


 これまで少女は、一度も選ぶ側ではなかった。


 名前を与えるかどうか。


 声を使うかどうか。


 誰を呼ぶか。


 すべて、ほかの人間が決めた。


『私が決めていいの?』


「あなたの声だから」


 少女は長いあいだ黙っていた。


 呼名女の声が部屋中から響く。


『決める必要はありません』


『役目を果たしなさい』


『名前を呼びなさい』


 少女は黒い糸を見た。


 透真の喉を見る。


 最後に、澪を見る。


『半分』


 小さく言った。


『今は、半分だけ返して』


 透真は頷いた。


 少女が透真の喉へ手を当てる。


 胸から伸びる黒い糸が震えた。


 透真の中から、何かが引き抜かれる。


 痛み。


 冷気。


 自分の一部が失われる感覚。


 それでも手を離さなかった。


 少女の口元を覆う白い布が、少しずつほどけていく。


 唇が現れた。


 少女は大きく息を吸う。


 初めて、自分自身の喉から声を出した。


「ここにいる」


 透真と似ている。


 しかし、少し高く、幼い声。


 透真も息を吸う。


「僕も……ここにいます」


 声が戻った。


 以前より弱い。


 少女の声と重なったような、不思議な響き。


 だが、自分の意思で話せる。


 呼名女が絶叫する。


『一つの声を二人で使ってはいけません!』


「なぜですか」


『誰の名前に結びつければよいか分からなくなる!』


 透真は気づいた。


 呼名女は、声と名前を一対一で結びつけることで人を支配する。


 一つの声を二人が持てば。


 一人が複数の音で返事をすれば。


 名前と声の対応が崩れる。


 呼名女は、誰を呼んだのか判別できなくなる。


「それでいいんです」


 透真と少女が同時に言った。


 同じ声。


 重なる音。


 呼名女の放送が乱れる。


『音無透真』


『最初の声』


『音無――』


『誰ですか』


『どちらですか』


 地上の死者たちが、さらに激しく踊る。


 足音。


 手拍子。


 太鼓。


 笛。


 名前を持つ者も。


 名前を失った者も。


 それぞれ違う音を鳴らす。


 死者が踊る夜。


 呼名女の正しい数え方が、崩れていく。


 石椅子の黒い糸が一本切れた。


 少女が立ち上がる。


 何十年。


 あるいは百年以上。


 縛りつけられていた椅子から、初めて自分の足で降りた。


「歩ける」


 少女が呟く。


 自分の声を確かめるように。


「私、歩ける」


 澪が手を差し出す。


「外へ行こう」


 少女はその手を取ろうとした。


 だが、触れる直前に止まる。


「外へ出たら、あの女も来る」


「どうして?」


「私は、あの女の最初の声だから」


 少女の胸の糸は、まだ完全には切れていない。


「私が外へ出れば、呼名女も完全な体を持つ」


「では、ここに残るんですか」


 透真が尋ねる。


「今は」


 少女は削られた名前の跡を見る。


「名前が分かるまで」


「必ず探します」


「見つからなかったら?」


「あなたが自分で決めてもいい」


 アサとヨルへ伝えたのと同じ言葉。


 少女は少し笑った。


「名前を決めるの、難しいよ」


「一緒に考えます」


「変な名前は嫌」


「澪さんのほうが得意です」


「急に任せないで」


 澪が言い返す。


 少女は、二人のやり取りを見て笑った。


 初めて、透真の声ではなく、自分の声で笑った。


     ◇


 地下室の扉が激しく叩かれた。


 どん。


 どん。


 どん。


 呼名女が迫っている。


「戻って」


 少女が二人を階段へ押す。


「あなたは?」


「扉を閉める」


「一人で大丈夫ですか」


「一人じゃない」


 地上から死者たちの踊る音が聞こえる。


「みんないる」


 少女は透真の手のひらを叩いた。


 とん。


 とん。


 とん、とん。


「また来て」


「はい」


「でも、名前は呼ばないで」


「分かりました」


「誰の名前も」


 少女の表情が真剣になる。


「ここでは、正しい名前が分かるまで、一つも呼んじゃ駄目」


 透真と澪は階段を上った。


 背後で扉が閉まる。


 がちゃん。


 その直後、地下から呼名女の声が響いた。


『名前を呼んだ者が』


『次の私になります』


     ◇


 二人が社殿へ戻ると、境内の様子は一変していた。


 祭り櫓は半分崩れている。


 赤い傘は地面へ落ちていた。


 呼名女の姿はない。


 御影冬子は太鼓のそばに倒れている。


 顔は元へ戻っていた。


 透真と澪が駆け寄る。


「御影さん」


 透真は名前を口にした直後、地下の少女の警告を思い出した。


 誰の名前も呼ぶな。


 しかし、すでに遅かった。


 境内の死者たちが一斉に動きを止める。


 太鼓。


 笛。


 足音。


 すべてが消えた。


 冬子が目を開く。


 怯えた顔で透真を見る。


「今……名前を」


 地面に落ちていた赤い傘が、ゆっくり開く。


 誰も持っていない。


 傘の内側に、白い顔が浮かび上がる。


 今までの呼名女とは違う。


 目。


 鼻。


 口。


 少しずつ、一人の女性の顔が作られていく。


 その顔は。


 御影冬子と同じだった。


『お呼びいただき、ありがとうございます』


 二人の冬子。


 地面に倒れている生者。


 赤い傘の下に立つ呼名女。


 同じ顔。


 同じ声。


『これより』


 新しい呼名女が微笑む。


『御影冬子という名前を、私が使用いたします』


 生きている冬子の顔から、目と口が消え始めた。


「名前を……取られる」


 冬子は自分の顔を押さえる。


 透真は赤い傘へ手を伸ばした。


「返してください!」


『一度呼ばれた名前は、返却できません』


「僕が呼んだ相手は、この人です!」


『声は、私にも届きました』


 呼名女は透真の声で笑う。


『一つの声を二人で使えるなら』


 次に、少女の声。


『一つの名前を二人で使ってもよいのでしょう?』


 透真は言葉を失った。


 自分たちが作った抜け道を、呼名女も利用している。


 冬子の体が透明になり始める。


「私を……呼ばないで」


 冬子は透真と澪へ訴える。


「名前を呼ぶたび、あれが私になる」


「どうすれば」


「名前以外で……私を見つけて」


 冬子の声が薄くなる。


 死者たちが、再び踊り始めた。


 だが、今度の踊りは呼名女に操られている。


 全員が同じ動き。


 同じ足音。


 同じ角度で首を回す。


 そして、透真たちを囲む。


『名前を呼んで』


『誰かを呼んで』


『呼ばなければ』


『ここから出られない』


 澪が透真の手を握った。


「名前を使わずに、全員を見分けないといけない」


「はい」


「私のことも呼ばないで」


 透真は頷く。


 呼名女が赤い傘を回す。


『では、始めましょう』


 境内にいた死者たちの顔が、すべて澪と同じ顔へ変わった。


 何十人もの澪。


 同じ制服。


 同じ声。


 同じ表情。


『本物を見つけてください』


 透真の隣にいたはずの澪が、死者の群れへ引き込まれる。


「待っ――」


 名前を呼びかけ、止める。


 呼べば、呼名女に名前を渡してしまう。


 何十人もの澪が、一斉に笑った。


『私はここだよ』


『こっち』


『早く見つけて』


 透真は声ではなく、手のひらを差し出した。


 とん。


 とん。


 とん、とん。


 ここにいる。


 群れの中。


 一人だけが、同じ合図を返した。


 とん。


 とん。


 とん、とん。


 透真はその手へ向かって走った。


 しかし、直前。


 別の澪も同じ合図を叩いた。


 さらに一人。


 また一人。


 呼名女が、二人だけの合図まで覚え始めている。


 何十人もの澪が同時に手を叩く。


 とん。


 とん。


 とん、とん。


『ここにいる』


 死者の踊りが、再び始まった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


呼名女の始まりは、災害で亡くなった者を家族の元へ返すため、名前を呼び続けた一人の少女でした。


少女には名前が与えられず、「呼び子」として声だけを使われ続けました。


透真の声の一部は、十三年前にこの少女から借りられたものです。


二人は一つの声を分けて使うことで、名前と声を一対一で結びつける呼名女の仕組みを崩しました。


しかし、透真が御影冬子の名前を呼んだことで、呼名女は彼女の名前と姿を奪い始めます。


第18話「名前を呼んではいけない」では、すべての死者が澪と同じ姿へ変わります。


声も、記憶も、二人だけの合図も同じ。


透真は名前を使わず、本物の澪を見つけなければなりません。

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