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死者同士の会話は、聞いてはいけない ―午前零時十三分の町内放送―  作者: たむ
第二部 未来から来た死者

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第16話 祭囃子についていくな

祭囃子は、人を祭りの場所へ集めるための音です。


太鼓が鳴れば足を止め、笛が聞こえれば、その方向を振り返る。


けれど、山へ向かう祭りの列に、顔を隠した人しか並んでいなかったなら。


その音が止まっても、決して立ち止まってはいけません。

 どん。


 どどん。


 太鼓の音が、夕暮れの町を進んでいく。


 笛。


 鉦。


 足音。


 笑い声。


 音だけを聞けば、夏祭りへ向かう人々の列と変わらない。


 しかし、学校の門前を通り過ぎる行列には、生きている人間が一人もいなかった。


 男も。


 女も。


 子どもも。


 浴衣姿の全員が、顔へ白い布を掛けている。


 風が吹いても布は揺れない。


 足元に影もない。


 透真と澪は、行列から距離を取りながら後を追っていた。


「学校の外から見ても、やっぱりいるんだね」


 澪が声を落とす。


「見えるんですか」


「人の形は見える。でも、顔は分からない」


「僕にも顔は見えません。布の下から声だけが聞こえます」


『久しぶりのお祭りだ』


『今年は足がある』


『歩けるね』


『家へ帰れるかな』


 楽しそうな声。


 悲しそうな声。


 何十人もの死者が、祭囃子に合わせて話している。


 列の先頭には赤い傘を持つ女。


 呼名女。


 最後尾近くでは、御影冬子が大きな太鼓を背負っている。


 冬子は死んでいない。


 十三年前から声を失い、呼名女の「受話器」とされてきた生者だ。


 だが、今の彼女の足元にも影はない。


「御影さん本人でしょうか」


「電話では学校のプールにいると言ってたよね」


「体がそこにいるとは限らないと考えていました」


「今歩いてるのは?」


「声か、意識かもしれません」


 冬子が太鼓を叩く。


 どん。


 少し間を空けて。


 どどん。


 短く一回。


 続いて二回。


 透真には、言葉として届いた。


『離れて』


「近づくなと言っています」


「助けてとも言ってた」


「はい」


「どっちを信じる?」


 透真は答えられなかった。


 助けてほしい。


 だが、来てほしくない。


 小夜子も同じことを言っていた。


 透真が来れば、再会できて嬉しい。


 しかし、その場所は死者側に近すぎる。


 母も冬子も、助けを求めながら、透真を危険から遠ざけようとしている。


「どちらも本当だと思います」


「矛盾してるよ」


「人の気持ちは、一つだけではありません」


 澪は少し考え、頷いた。


「助けたいけど、危ないことはしてほしくない。私も音無くんに対してそう思う」


「僕もです」


「じゃあ、同じだね」


「お互いに言うことを聞かないところまで似ています」


「それは音無くんのほうがひどい」


「澪さんも水へ飛び込みました」


「あれは二人沈んでたから」


「僕も同じような理由です」


「言い返すようになったね」


 澪が小さく笑う。


 その瞬間、祭囃子の太鼓が一度止まった。


 澪の笑顔が消える。


「今、音が……」


 すぐに太鼓が鳴り直す。


 どん。


「聞こえましたか」


「うん」


「止まっている間、何か見えましたか」


「一瞬だけ」


 澪は道の反対側を見る。


 そこには閉店した商店が並んでいるだけだった。


「屋台が見えた」


「祭りの?」


「たぶん。金魚すくいと、綿あめ」


「いつの記憶ですか」


「分からない」


 だが、澪の声には心当たりがあるように聞こえた。


 透真は歩調を速め、澪の横へ並ぶ。


「手を出してください」


「え?」


「音が止まったときのためです」


 透真は澪の手のひらへ指を当てる。


 とん。


 とん。


 とん、とん。


「この合図を続けます」


「ここにいる、だよね」


「はい」


「歩きながら、ずっと?」


「僕が止まったら、澪さんが叩いてください。澪さんが止まったら、僕が叩きます」


 澪も透真の手のひらへ同じ合図を返す。


 とん。


 とん。


 とん、とん。


「音が聞こえなくなっても、振動なら届くかもしれない」


「水の底では届きました」


「手をつないで歩くってこと?」


「嫌なら服の袖でも」


「別に嫌とは言ってない」


 澪は透真の手を握った。


「途中で離さないでね」


「はい」


 透真の返事が少し遅れた。


「何で今、間があったの?」


「ありません」


「嘘」


「祭囃子を聞いていました」


「顔、赤くない?」


「夕日のせいです」


 澪は何か言おうとしたが、行列の死者が一斉に振り返ったため、口を閉じた。


 白い布。


 顔のない人々。


 全員が、つないだ二人の手を見ている。


『二人』


『一緒に来るの?』


『一緒に死ぬの?』


『席も隣にしてもらおう』


「聞かないでください」


「何て言ってるの?」


「説明しないほうがいい内容です」


 死者たちは、前へ向き直った。


 祭囃子が再び進み始める。


     ◇


 行列は、夏祭りが行われる夕名神社へ向かっていなかった。


 住宅街を抜け、町外れの旧道へ入っていく。


 雑草に埋もれた道。


 使われていないバス停。


 錆びた道路標識。


 山の方角には、旧町内放送局がある。


 だが、行列は放送局へ続く道の手前で、さらに細い脇道へ曲がった。


「こんな道、ありましたか」


 透真が尋ねる。


「地図にはないと思う」


 澪が携帯電話を見る。


 地図上では、二人は山の斜面をまっすぐ進んでいることになっている。


 道路の表示はない。


 位置を示す青い点も、細かく震えている。


「圏外になった」


「録音はできますか」


「やってみる」


 澪は祭囃子を録音し始めた。


 画面には音声の波形が表示される。


 太鼓が鳴るたび、大きな山ができる。


 笛。


 鉦。


 死者たちの足音。


 しかし、録音時間は零秒のまま進まなかった。


「記録できてない」


「現在の音ではないからでしょう」


「十三年前の祭り?」


「もっと古い音も混ざっています」


 透真には、異なる時代の会話が聞こえていた。


『空襲の年は、祭りがなかった』


『川が溢れた年も』


『息子が帰らなかった年も』


『今年こそ踊ろう』


 死者たちは、自分が亡くなった年の祭りを探している。


 行列の中にいる者たちは、同じ時代の死者ではない。


 町で祭囃子を聞きながら亡くなった人。


 祭りを待ちながら亡くなった人。


 最後の夏を後悔している人。


 さまざまな時代の死者が、一つの行列へ集められている。


「死者は、祭りへ行きたいわけではありません」


「じゃあ、どこへ?」


「やり直したい夏の日へ戻ろうとしています」


 澪の指がわずかに震えた。


「澪さん」


「何?」


「心当たりがありますか」


「ないよ」


 返事が早すぎた。


 透真にも分かるほどの嘘だった。


「言いたくなければ、聞きません」


「心当たりなんてない」


「分かりました」


「本当に信じた?」


「信じてはいませんが、聞かないことにしました」


「それ、分かったって言わないから」


 前方の死者が盆踊りのように両手を上げた。


 一人。


 二人。


 列全体へ動きが広がっていく。


『曲がるよ』


『次は左』


『戻れない道』


 死者たちの会話。


「次の角を曲がると、戻れなくなるようです」


「どうする?」


 透真は御影冬子を見る。


 冬子が太鼓を叩いた。


 どん。


 どどん。


『来ないで』


 そのあと、小さく。


 どん、どん。


『でも聞いて』


「進みます」


「うん」


 二人は行列に続いて左へ曲がった。


 周囲の景色が変わる。


 夕暮れだった空が、一瞬で夜になった。


 道の両側に屋台が並んでいる。


 りんご飴。


 焼きそば。


 射的。


 金魚すくい。


 明かりはついている。


 しかし、店番は全員死者だった。


 顔のない店主が、無言で品物を差し出してくる。


「何も受け取らないでください」


「食べたら帰れなくなる?」


「おそらく」


「昔話みたい」


「昔話には、怪異から帰るための注意が多く残っています」


 子どもの幽霊が、澪へ赤い綿あめを差し出した。


『お姉ちゃん』


 澪には言葉として聞こえない。


 それでも、手を伸ばしかける。


 透真が手を引いた。


「受け取ってはいけません」


「ごめん。何か、懐かしくて」


 綿あめの表面に、人の顔が浮かんでいた。


 十七歳ほどの少女。


 澪を見て、笑っている。


『澪』


 透真は足を止めそうになった。


 死者が呼んだ名前。


「知っている人ですか」


 澪の顔から色が消えた。


「琴音……」


 屋台の奥から、一人の少女が出てくる。


 紺色の浴衣。


 白い花の髪飾り。


 右手に、画面の割れた携帯電話。


 澪と同じ年頃。


「どうして、ここに」


『待ってた』


 少女は笑った。


 澪には、その姿が完全に見えているらしい。


「透真くん」


「はい」


「祭囃子、聞こえてる?」


 太鼓。


 笛。


 鉦。


 透真には変わらず聞こえている。


「聞こえています」


「私には聞こえない」


 澪の周囲だけ、音が消えていた。


「手を離さないでください!」


 透真は澪の手のひらを叩く。


 とん。


 とん。


 とん、とん。


 ここにいる。


 だが、澪は少女だけを見つめている。


「琴音」


『久しぶり』


 少女が背を向ける。


『祭り、まだ終わってないよ』


 澪の手が、透真の手から滑り始める。


「澪さん!」


 声が届かない。


 透真は両手で強く握る。


 しかし、澪の姿が半透明になった。


 紺色の浴衣の少女とともに、屋台の奥へ消えていく。


     ◇


 早坂澪は、二年前の夏祭りに立っていた。


 祭囃子が聞こえる。


 先ほどまで聞こえなくなっていた音が、今度は近すぎるほど大きい。


 人々の笑い声。


 屋台の呼び込み。


 子どもの泣き声。


 すべて、記憶どおりだった。


「二年前……」


 自分の服を見る。


 白い浴衣。


 青い帯。


 高校一年生だった夏。


 隣にいるのは、高瀬琴音。


 中学からの親友。


 紺色の浴衣。


 白い花の髪飾り。


「澪、聞いてる?」


 琴音が不満そうに言う。


 今度の声は、透真が翻訳する必要もない。


 生きていた頃と同じ声。


「何を?」


「だから、今日一緒に帰れないかもって」


「また?」


 澪の口から、二年前と同じ言葉が出る。


 自分で止められない。


「最近、ずっとそうじゃん」


「家のことで」


「私には言えないこと?」


「そうじゃないけど」


「じゃあ何?」


 琴音は家庭の事情で、祭りの途中に帰ろうとしていた。


 当時の澪は、その理由を詳しく知らなかった。


 あとから知った。


 琴音の両親が離婚を巡って激しく争っていたこと。


 琴音が家に帰りたくなかったこと。


 澪へ何度も相談しようとしていたこと。


「澪には関係ない」


 琴音はそう言った。


 本心ではない。


 助けてと言えない人の言葉。


 今の澪なら分かる。


 だが、当時の澪は怒った。


「じゃあ、もういい」


「澪」


「帰れば?」


 琴音が悲しそうに目を伏せる。


 そのまま人混みの中へ消えた。


 これが最後の会話だった。


 祭りの帰り道。


 琴音は自転車で交差点を渡り、事故に遭った。


 死因は事故。


 澪の言葉が直接、事故を起こしたわけではない。


 それでも澪は考え続けた。


 一緒に帰っていれば。


 怒らずに話を聞いていれば。


 あのとき、手を掴んでいれば。


 琴音は死ななかったかもしれない。


「待って!」


 澪は人混みを追う。


 記憶の中では追わなかった。


 今度は追いつく。


 琴音の腕を掴む。


「帰らないで」


 琴音が振り返る。


「何で?」


「話を聞く」


「今さら?」


「今さらでも」


「二年遅いよ」


 琴音の顔が青白く変わる。


 額から血が流れる。


 浴衣の袖が裂け、片足が不自然な方向へ曲がる。


「私、死んだよ」


 澪の喉が締まる。


「分かってる」


「澪が帰れって言ったから」


「……分かってる」


「一緒に帰ってくれなかった」


「ごめん」


「澪のせいだよ」


「ごめんなさい」


「だったら」


 琴音が澪の手を握る。


 氷のように冷たい。


「今度は一緒に来て」


 周囲の祭囃子が止まった。


 人々も。


 屋台も。


 明かりも消える。


 暗闇の中に、琴音と澪だけが立っている。


「私、一人で死んだ」


 琴音が笑う。


「澪も一人で来て」


 澪の背後に、歩道橋が現れた。


 琴音が亡くなったあと。


 澪が何度も立ち止まった場所。


 死にたいと、はっきり願ったわけではない。


 ただ、自分がいなくなれば、この罪悪感も消えるのではないかと思った夜。


 未来の澪が知っていた「死にたいと思った日」。


「琴音」


「何?」


「私、ずっと謝りたかった」


「じゃあ、来て」


「ごめんなさい」


 澪は泣きながら言った。


「でも、行かない」


 琴音の笑顔が消える。


「どうして?」


「私が行っても、あの日は変わらない」


「私を一人にするの?」


「違う」


 澪は琴音の手を握り返す。


「あなたのことを忘れない」


「そんなのいらない」


「一緒に帰れなかったことも」


「やめて」


「話を聞かなかったことも」


「聞きたくない!」


「自分を責めたことも、全部覚えて生きる」


 琴音の顔が歪む。


「それが一番つらいのに?」


「うん」


「死んだほうが楽だよ」


「そう思った日もあった」


 澪は認めた。


「でも、今は帰る場所がある」


「どこ?」


 手のひらに、小さな振動。


 とん。


 とん。


 とん、とん。


 祭囃子は聞こえない。


 透真の声も聞こえない。


 それでも、握られている感覚だけが届く。


「今、私の手を離さない人のところ」


 澪は同じ合図を返した。


 とん。


 とん。


 とん、とん。


「私は、ここにいる」


 琴音の姿に亀裂が入る。


「死者の私より、生きてる人を選ぶの?」


「選ぶっていう言い方は嫌い」


「じゃあ何?」


「どっちも大事にする」


「ずるい」


「うん」


 澪は涙を拭った。


「今度からは、ずるく生きる」


 琴音の青白い顔が、少しずつ元へ戻る。


 二年前の笑顔。


 浴衣姿の親友。


「本物の琴音なら、そんなこと言わない」


「何を?」


「私にも死んでなんて言わない」


 琴音はしばらく澪を見つめていた。


 やがて、寂しそうに笑う。


「分かってた?」


「途中から」


「遅いよ」


「ごめん」


「本当に謝ってばかり」


 琴音は白い髪飾りを外し、澪へ渡した。


「本物の私は、これを持っていなかった」


「え?」


「事故の前に、落としたから」


 澪の手の中で、髪飾りが黒い糸へ変わる。


 偽物の記憶を作った呼名女の糸。


 澪は糸を地面へ落とした。


「じゃあ、あなたは琴音じゃない」


「あなたが覚えている後悔」


「それでも、話してくれてありがとう」


 偽物の琴音が目を見開く。


「どうしてお礼を言うの?」


「言えなかったことを言えたから」


 少女は少し笑った。


「変な人」


「最近、変な人と一緒にいるから」


 暗闇が割れる。


 祭囃子が戻ってくる。


 太鼓。


 笛。


 鉦。


 澪は現在へ引き戻された。


     ◇


「澪さん!」


 透真の目の前に澪の姿が戻る。


 握った手。


 涙の跡。


 それでも立っている。


「戻りましたか」


「うん」


「怪我は?」


「ない」


「何が見えましたか」


「あとで話す」


「分かりました」


「聞かないの?」


「言いたくないことまで聞くつもりはありません」


 澪は透真の手を強く握り直す。


「でも、いつか話す」


「はい」


 二人が再び行列を追い始める。


 その直後。


 祭囃子が、透真の耳から消えた。


 澪は歩き続けている。


 口を動かしている。


 しかし、何も聞こえない。


「澪さん?」


 自分の声さえ聞こえない。


 握っていた澪の手が遠ざかる。


 周囲の屋台が変わっていく。


 現在の町。


 夕暮れ。


 死者の行列。


 すべてが消える。


 透真は、小学生の頃の夏祭りに立っていた。


     ◇


 十年前。


 夕名神社。


 小学二年生の透真は、父・誠一に手を引かれて歩いている。


「離れるな」


 父の声。


「うん」


「名前を呼ばれても返事をするな」


「知ってる」


「誰の声でもだ」


「お父さんでも?」


「俺が隣にいるなら、返事をする必要はない」


 幼い透真は、父の手を強く握った。


 母が亡くなって三年。


 透真はすでに幽霊が見えていた。


 祭りには、死者が多い。


 生きていた頃の家族と同じ祭りへ来る者。


 屋台の食べ物を見つめる者。


 音楽に合わせ、誰にも見えない踊りを続ける者。


「透真」


 母の声がした。


 幼い透真が振り返る。


 人混みの中。


 白い浴衣を着た小夜子が立っている。


「お母さん!」


 父の手を離そうとする。


 誠一が強く引き止めた。


「見るな!」


「お母さんがいる!」


「違う!」


「本物だよ!」


「声に返事をするな!」


 小夜子が寂しそうに手を伸ばす。


『透真』


「お母さん!」


 誠一は息子を抱き上げ、人混みを抜けようとする。


 幼い透真は暴れた。


「離して!」


「帰るぞ!」


「お母さんが待ってる!」


「あれは小夜子じゃない!」


「嘘つき!」


 透真は父の肩越しに母を見る。


 小夜子の唇が動いている。


 だが、祭囃子が大きく、言葉を聞き取れない。


「お父さんなんか嫌い!」


 父は何も言わなかった。


「お母さんを置いて逃げた!」


 誠一の足が一瞬止まる。


「お母さんを助けなかった!」


 父の腕が震えた。


 幼い透真は、さらに叫んだ。


「お母さんなんか死ななければよかった!」


 言いたかったのは、死んでほしくなかった。


 しかし、幼い透真の口から出た言葉は違った。


「死んだお母さんなんか、もう知らない!」


 小夜子の姿が人混みの中で止まる。


 その顔が悲しそうに見えた。


 父は透真を抱えたまま、祭りを離れた。


 それが、透真が母の姿をはっきり見た最後の夜だった。


     ◇


 現在の透真は、記憶の中の自分と父を見ていた。


「この日……」


 ずっと後悔してきた。


 母へひどい言葉を言ったこと。


 父を責めたこと。


 母の最後の言葉を聞かなかったこと。


「透真」


 背後に小夜子が立っている。


 白い浴衣。


 十年前と同じ姿。


「母さん」


「やっと、二人になれたね」


 透真は振り返る。


「聞きたかった」


「何を?」


「あの日、何を言おうとしていたの」


 小夜子は微笑む。


「一緒に帰ろうって」


 透真の胸が締めつけられる。


「やっぱり、僕を呼んでいたの?」


「そうよ」


「父さんは、偽物だと言った」


「お父さんは間違えたの」


 小夜子が手を差し出す。


「今度は、お母さんを選んで」


 その言葉。


 旧放送局でも聞いた。


 呼名女が母の姿を使って言わせた言葉。


「母さん」


「何?」


「本当に、一緒に帰ろうと言ったの?」


「ええ」


「どこへ?」


「お母さんがいる場所」


「死者の側ですか」


 小夜子は答えない。


「母さんは、僕に死んでほしいの?」


「死ぬんじゃない」


 母の手が透真の頬へ近づく。


「元へ戻るだけ」


 透真は一歩後ろへ下がった。


「あなたは母さんではありません」


 小夜子の笑顔が固まる。


「どうして?」


「母さんは、僕に来てほしくないと言いました」


「それは今の小夜子でしょう」


「同じ人です」


「十年前は寂しかった」


「それでも、僕を連れていこうとはしない」


「どうして言い切れるの?」


 透真は十年前の場面を見る。


 幼い自分。


 父に抱えられ、泣き叫んでいる。


 祭囃子。


 小夜子の唇。


 聞き取れなかった言葉。


 透真は音を聞こうとするのをやめた。


 代わりに、母の手を見る。


 小夜子は透真を呼ぶように、手のひらを上へ向けているのではない。


 手を横に振っている。


 来て。


 ではない。


 行って。


 父と一緒に行って。


「母さんは、父さんの手を離さないでと言っていた」


 偽物の小夜子の顔が歪む。


「違う」


「祭囃子で声は聞こえなかった」


 透真は言った。


「でも、動きは残っています」


「記憶は変わる」


「だから、後悔が話す言葉より、母さんが選んだ行動を信じます」


 小夜子は透真を生者へ戻した。


 旧放送局でも。


 空き家でも。


 水の底でも。


 母は一度も、透真を死者側へ呼んでいない。


「死んだお母さんなんか知らないと言った」


 透真は目の前の母へ言う。


「謝りたいです」


「なら、一緒に来て」


「それは謝罪ではありません」


「置いていくの?」


「母さんの言葉を探します」


「私がここにいるのに?」


「あなたは、僕の後悔です」


 小夜子の顔が、呼名女の平らな顔へ変わり始める。


「一番聞きたい言葉を使って、僕を止めようとしている」


『では、本物の母親に謝れると思いますか』


 複数の声。


『音無小夜子は、あなたのために十三年間苦しんでいる』


「はい」


『あなたが死者の声を届けるたび、母親の声も削られていく』


「それでも」


『母親を救うためには、あなたが戻るしかない』


「違う方法を探します」


『またそれですか』


 呼名女が赤い傘を開く。


『すべてを助ける』


『誰も選ばない』


『そんな都合のよい方法はありません』


「まだ見つかっていないだけです」


『見つかりません』


「あなたが決めることではありません」


 透真の手のひらに振動が届く。


 とん。


 とん。


 とん、とん。


 澪。


 現在から送られてくる合図。


 ここにいる。


 呼名女が透真の腕を掴む。


『返事をしてはいけません』


 透真は空いている手で、自分の胸を叩いた。


 とん。


 とん。


 とん、とん。


 ここにいる。


 現在へ返す。


 祭囃子が遠くから聞こえ始める。


 どん。


 どどん。


 笛。


 鉦。


 記憶の夏祭りに亀裂が入る。


 呼名女が手を伸ばす。


『次に音が止まったら、戻れません』


「止めさせません」


『祭囃子を鳴らしているのは御影冬子です』


「だから助けます」


『あの女を救えば、音は止まります』


 透真の体が現在へ引き戻される。


 最後に、十年前の小夜子が人混みの中から透真を見た。


 今度は声が聞こえた。


『お父さんの手を離さないで』


 透真の記憶が、正しい言葉を取り戻した。


     ◇


「音無くん!」


 澪が透真の手を握っていた。


 死者の行列。


 山道。


 祭囃子。


 すべてが戻ってくる。


「聞こえますか」


「はい」


「急に止まったから」


「澪さんの合図が届きました」


「私のときも届いた」


 二人は互いの手を握ったまま、しばらく動けなかった。


 祭囃子は鳴り続けている。


 行列は少し先まで進んでいた。


 冬子が太鼓を叩く。


 どん。


 どどん。


『早く』


「何を見たの?」


 澪が尋ねる。


「母と父です」


「話せた?」


「本物ではありませんでした」


「そっか」


「でも、忘れていた母の言葉を思い出しました」


「何て?」


「父の手を離さないで」


 透真は、あの日の父の顔を思い出す。


 息子から責められながら、それでも手を離さなかった父。


「帰ったら、父に謝ります」


「言えるうちに言ったほうがいいね」


「澪さんも、誰かに謝りたいんですか」


 澪は少し黙った。


「謝りたい人は、もういない」


「死者ですか」


「うん」


「聞こえるかもしれません」


「今度、話す」


「分かりました」


「音無くん」


「はい」


「言葉を届けるとき、私も一緒にいていい?」


 透真は澪を見る。


「危険です」


「それ以外の返事は?」


「僕だけでは、戻れなかったことが何度もあります」


「うん」


「だから」


 言葉を選ぶ。


「一緒にいてください」


 澪は少し驚き、そのあと笑った。


「はい」


 今度は澪が丁寧に返事をした。


     ◇


 山道の先に、古い石段が現れた。


 行列は一人ずつ石段を上っていく。


 鳥居。


 提灯。


 朽ちた社殿。


 地図にも、町の記録にもない小さな神社。


 鳥居の額には、かすれた文字が残っている。


 音返神社。


「音返し……」


 透真が読み上げる。


 境内の中央には、大きな祭り櫓が組まれていた。


 死者たちが櫓を囲む。


 輪になる。


 顔の白い布を外さないまま、盆踊りを始めた。


 右。


 左。


 手を上げる。


 下ろす。


 全員が同じ動きを繰り返す。


 呼名女は櫓の上へ立った。


 赤い傘を開く。


『お集まりいただき、ありがとうございます』


 祭囃子へ声を重ねる。


『これより、声納めの儀を始めます』


 御影冬子が櫓の下で太鼓を叩く。


 どん。


 死者たちが一歩進む。


 どどん。


 一歩戻る。


『皆様の最後の言葉を』


 呼名女が両腕を広げる。


『御影冬子の太鼓へお納めください』


 死者たちの白い布が、口元だけ開いた。


 最後の言葉が一斉に流れ込む。


『ありがとう』


『ごめんなさい』


『帰りたい』


『助けて』


『大好き』


『一人にしないで』


 無数の声が太鼓へ吸い込まれていく。


 冬子の体が大きく震えた。


 太鼓の皮の下から、人の顔が次々と浮かぶ。


「御影さんが、死者の声を集めている」


「呼名女に渡すため?」


「違います」


 冬子が太鼓を叩く。


 どん。


 どどん。


『逃がしている』


「祭囃子の中へ声を混ぜ、呼名女が誰の言葉か判別できないようにしています」


 個人の名前と結びついた最後の言葉を、太鼓や笛の音へ変える。


 誰の声か分からなくなれば、呼名女は席へ座らせられない。


 冬子は十三年間、死者の声を守っていた。


 呼名女のすぐそばで。


「だから、呼名女が列に加わるなと警告した」


「御影さんのしてることを、知られたくなかった?」


「おそらく、今気づいたんです」


 呼名女の顔が冬子へ向く。


『御影冬子さん』


 太鼓が止まりかける。


『何を隠しているのですか』


 冬子は答えられない。


 声を失っている。


 それでも、太鼓を叩き続ける。


 どん。


 どどん。


『太鼓を止めなさい』


 どん。


 どどん。


『止めなさい』


 呼名女の赤い傘から黒い糸が伸びる。


 冬子の両腕へ絡みつく。


 太鼓の撥を奪おうとする。


 透真が境内へ駆け込んだ。


「御影さん!」


 死者たちが一斉に動きを止める。


 呼名女が透真を見る。


『来てはいけないと、お伝えしました』


「あなたの言葉へ従う理由はありません」


『御影冬子を助ければ、祭囃子は止まります』


 呼名女は赤い傘を傾けた。


『音が止まれば、ここにいる死者は全員、自分が死んだ日へ戻ります』


「別の人が太鼓を叩けばいい」


『生者には叩けません』


「なぜですか」


『この太鼓は、声を失った者にしか鳴らせないからです』


 透真の喉が冷たくなる。


 死者の想いを届けるたび、声を奪われている。


 今の透真なら、太鼓を鳴らせる可能性がある。


 呼名女は、それを分かったうえで言っている。


『御影冬子を解放したいのでしょう』


 冬子が激しく首を横に振る。


 太鼓を叩く。


 どん。


 どどん。


『駄目』


「代われば、御影さんは声を取り戻せますか」


『はい』


 呼名女が即答する。


『音無透真が、次の受話器になります』


「音無くん」


 澪が透真の腕を掴む。


「考えないで」


「御影さんは十三年間、ここで」


「だからって、音無くんが代わる必要はない」


『ほかに方法はありません』


「またその言葉」


 澪が呼名女を睨む。


「選択肢を二つしか出さない」


『事実です』


「御影さんを見捨てるか、音無くんが代わるか」


『はい』


「どっちも選ばない」


『早坂澪さんには、太鼓を鳴らすことができません』


「声があるから?」


『そうです』


 澪は透真の手を離した。


 櫓へ歩き出す。


「澪さん?」


「声がある人には鳴らせないなら」


 冬子の前へ立つ。


「声を出さなければいい」


 澪は太鼓の反対側へ回り、手のひらを太鼓の皮へ当てた。


 撥は持たない。


 声も出さない。


 手のひらで叩く。


 とん。


 音は鳴らない。


 呼名女が笑う。


『無駄です』


 澪はもう一度叩く。


 とん。


 とん。


 とん、とん。


 ここにいる。


 音としては聞こえない。


 だが、太鼓の皮を通じ、振動が冬子へ届く。


 冬子の目が見開かれる。


 透真にも、言葉が聞こえた。


『一人で鳴らさなくていい』


 澪は太鼓の反対側から、同じ合図を繰り返す。


 冬子が撥で返す。


 どん。


 どん。


 どん、どん。


 二人分のリズム。


 呼名女の赤い傘が揺れる。


『やめなさい』


「声がなくても、二人なら返事ができます」


 透真も太鼓へ手を当てる。


 澪の隣。


 撥を使わず、手のひらで叩く。


 とん。


 とん。


 とん、とん。


 三人の振動が重なる。


 冬子が太鼓を鳴らす。


 どん。


 どどん。


 祭囃子が変化した。


 決められた曲ではない。


 三人の合図。


 ここにいる。


 ここにいる。


 ここにいる。


 死者たちが踊りを止める。


 一人の老人が、白い布を外した。


 穏やかな顔。


『私もいる』


 足を踏み鳴らす。


 どん。


 子どもの幽霊も布を外す。


『僕も』


 手を叩く。


 ぱん。


 女性。


 男性。


 死者たちが一人ずつ、自分の音を鳴らし始める。


 足音。


 拍手。


 指を鳴らす音。


 服を叩く音。


 誰かに与えられた祭囃子ではない。


 一人ひとりが、自分がここにいることを示す音。


『名前がなくても』


『声がなくても』


『私たちはいる』


 無数の音が境内へ広がる。


 呼名女が耳を塞いだ。


『やめなさい!』


 冬子の太鼓から、閉じ込められていた声が光となって飛び出す。


 夜空へ。


 山へ。


 町へ。


 それぞれの帰る場所へ散っていく。


 赤い傘に亀裂が入った。


『言葉を返してはいけません!』


「あなたのものではありません!」


 透真は叫ぶ。


 冬子の首から、一本の黒い糸が抜けた。


 喉。


 胸。


 太鼓。


 十三年間つながっていた糸。


 冬子が大きく息を吸う。


 唇が震える。


「と……」


 擦れた音。


 透真が冬子を見る。


「無理に話さないでください」


 冬子は首を横に振った。


 今、言わなければならない。


 そんな表情だった。


「とう、ま……くん」


 十三年間失っていた本人の声。


 呼名女ではない。


 電話の向こうのかすかな音でもない。


 御影冬子自身が、透真の名前を呼んだ。


 その瞬間。


 境内にいたすべての死者が、透真を見た。


 呼名女の赤い傘が完全に裂ける。


 だが、女は笑っていた。


『名前を呼びましたね』


 冬子の顔から血の気が引く。


『十三人目の役割を』


 呼名女の平らな顔に、冬子の口が浮かぶ。


『御影冬子が、再び引き受けました』


「違います!」


 透真が叫ぶ。


『死者の列の中で、生者の名前を呼んだ』


 太鼓の中から黒い腕が伸びる。


 冬子の体を掴む。


『新しい呼名女の完成です』


 冬子が透真へ手を伸ばす。


「逃げ……て」


 声を取り戻したばかりの喉で、必死に叫ぶ。


「私の声を、聞かないで!」


 赤い傘の破片が冬子の体へ突き刺さる。


 白い浴衣が赤く染まる。


 顔が少しずつ平らになっていく。


 冬子の声が、町中のスピーカーから流れ始めた。


『午前零時十三分に、こちらへ来る方のお名前をお知らせします』


 透真は時計を見る。


 まだ午後七時四十六分。


 だが、神社の上にある月が高速で空を移動する。


 時間が進んでいる。


 午後八時。


 九時。


 十時。


 祭りの境内だけが、午前零時十三分へ近づいていく。


 冬子の口が、自分の意思に反して動く。


『一人目』


「やめて!」


 澪が冬子の肩を掴む。


 黒い糸が澪の腕へ移る。


 冬子が最初に呼ぶ名前。


 その相手が、次の死者として選ばれる。


『早坂――』


 透真は太鼓を両手で強く叩いた。


 どん。


 大きな音が冬子の声を遮る。


 冬子の口が止まった。


 呼名女が透真を見る。


『邪魔をするなら』


 境内のすべての死者が、一斉に透真へ顔を向ける。


『あなたから呼びましょう』


 冬子の声が、透真の名前を告げようとする。


『音無――』


 再び太鼓。


 どん。


 澪も反対側から叩く。


 どん。


 二人で、名前をかき消す。


 呼名女の声。


 太鼓。


 死者たちの足音。


 祭囃子が激しく入り乱れる。


 その中で、冬子が自分の声を取り戻そうと唇を動かした。


「神社の……下」


「何ですか!」


「本当の……放送室」


 冬子が境内の奥を指差す。


 古い社殿。


 床下。


「呼名女の本体がいるんですか」


 冬子は首を横に振る。


「最初の……声」


 社殿の床下から、子どもの泣き声が聞こえた。


『お母さん』


 アサとヨルの声ではない。


 透真の声でもない。


 呼名女が初めて名前を呼ぶより、さらに前。


 すべての怪異の始まりとなった子どもの声。


『誰か、私の名前を呼んで』


 社殿の扉が内側から三回叩かれた。


 こん。


 こん。


 こん。


 呼名女が初めて恐怖を見せた。


『開けてはいけません』


 冬子が透真の腕を掴む。


「開けて」


 呼名女と冬子。


 二人が反対の言葉を発する。


 社殿の奥から、さらに声が聞こえた。


『私は、呼名女に名前を取られたんじゃない』


 幼い少女の声。


『私が、あの女に最初の声をあげたの』


 扉の隙間から、小さな白い手が伸びた。


『返して』


 透真の喉から、突然声が消えた。


 澪が何かを叫ぶ。


 冬子も手を伸ばす。


 しかし何も聞こえない。


 社殿の中の少女だけが、透真の声で笑った。


『やっと見つけた』


『私の声を持っている人』

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


祭囃子が止まったことで、澪は親友・琴音と最後に会話した夏へ、透真は母と再会した十年前の祭りへ戻されました。


二人は後悔を消すのではなく、抱えたまま現在へ戻ることを選びます。


御影冬子は、死者の最後の言葉を祭囃子へ混ぜ、呼名女から守り続けていました。


しかし、透真の名前を呼んだことで、再び「呼ぶ者」の役割へ結びつけられてしまいます。


第17話「死者が踊る夜」では、音返神社の地下に隠された本当の放送室へ入ります。


そこに閉じ込められているのは、呼名女の最初の犠牲者ではありません。


自分の声を差し出し、呼名女を生み出した最初の少女です。

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